こんばんは、白黒茶々です。
電車旅の最終日……… とはいっても1泊2日の日程なので、初日と最終日しかないのですけど。 とにかく、その日の午前に和歌山城を散策した私は、小雨が降る中、和歌山市駅から南海電鉄に乗っていきました。
その頃台風7号が迫っていて、その情況によっては列車が遅れたり運休したりする恐れがあったので、気が抜けませんでした。
なので「雨足が強まったら、早めに切り上げる」ということを誓いつつ、この日最後……… から2番目の目的地の最寄り駅となる岸和田駅で列車を降りました。
そのようにして向かったところは………
岸和田城であります こちらは和歌山市よりも天気が快復していて、傘がなくても大丈夫なくらいの曇りでした。
岸和田城は、元弘4年(1334年)に楠木正成の一族の和田高家が築いた(岸和田古城)のが最初と云われています。 天正13年(1585年)には、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅により、秀吉の伯父・小出秀政がこの地に赴き、近代城郭の岸和田城を築城。
小出氏のあとは、松平氏、岡部氏が城主となりました。小出秀政によって築かれた黒板張りの5層の天守は、文政10年(1827年)に落雷で焼失。
明治以降は他の建物も取り壊されたのですけど………
昭和29年(1954年)にRC構造で3層の模擬天守が建てられました。
本丸跡に建ち並ぶ櫓なども模擬建築なのですけど、70年近くもの間、岸和田の風景としてすっかり馴染んでいます。 それらと合わせて、本丸内には「八陣の庭」なるものも造られたので、皆さまにご紹介しま………
えっ、まさかとは思いますけど、この展開は………
ええ、わかっていますとも。こんなことをしても開けてもらえないことぐらい。 その場で調べてみたら、これは臨時休業のようなものではなく、通常の月曜定休でした。
私がお盆休みに入っていたので、日本全国休日モードになっているものと思い込んで、休日ならこのような施設は営業しているものかと……… とにかく、事前の調査が甘かったです。
岸和田城は本丸の全エリアが有料ゾーンなので、締め出しを喰らった(?)私は、ン十年前に訪れた時にはまだ存在していなかった二の丸広場観光交流センターで、浮いた入場料と時間をアイスカフェオーレに費やすことにしました。
あとは岐路に就くだけですけど、せっかくこちら方面を通っていくので、私は南海電鉄の堺駅で途中下車しました。 その駅前には………
与謝野晶子さんの銅像があるのですよ 彼女は明治から昭和にかけて活躍した女流歌人・作家で、堺市の出身であります。
しかも、箔母さんと名前が同じなので、私はどうしても他人には思えないのですよ。 晶子さん、いや、箔母さんのお父様が名付けをする際に、新聞か何かにたまたま出ていた与謝野晶子さんの名前が目に飛び込んできたそうです。
こちらの晶子さんは、書くより読むほうが好きなのですけど。
それはさておき、私には堺に来たらもう1ヶ所行っておきたいスポットがあるのですよ それは、堺駅から歩いていけなくもないところにある………
呂宋(るそん)助左衛門の銅像であります 彼は、安土桃山時代に堺で活躍した貿易商人です。
巨万の富を築いたのですけど、豊臣秀吉に疎まれ、ルソン(現在のフィリピン)に亡命
活躍の場をその地に移しました。
昭和53年(1978年)の大河ドラマ「黄金の日々」で主人公となり、松本幸四郎さん(現在の白鸚さん)がその役を演じました。
なんか、たまたま港から出ていく舟を見送るような絵となってしまいました。 そんな助左衛門さんに別れを告げて、私は帰りの道を急ぎました。
列車に乗ってからは小雨が降る程度でしたけど、今回の電車旅では目的はほぼ達成することができたので、予定より前倒しにして帰ることにしました。
途中でゆっくり晩ご飯を食べていくことも諦め、大垣までは順調に乗り継ぎができたのですけど、そこから先は列車の減便や運休に遭ってしまいました。
見た感じでは悪天候ではなかったのですけど、運行する側にしかわからない事情があるのかも知れません。
その後、なんとかトイレ付き車両の座席に座れたのですけど、通路は人で溢れていたので、トイレに近付くことはできませんでした。 それでも、当初の計画より1時間ほど早い21時ちょっと過ぎには、無事に帰宅することができました。
あとは家族と一緒に近場で外食して、台風7号を迎え撃つ……… いや、やり過ごすだけです。
その翌日は、予報通りに大荒れの天候となりました。 半強制的に外出禁止となったので、私はかえってゆっくり身体を休めることができました。
その一方で、そのような状況の中でも波と狛は外でトイレをする主義なので、雨だけでもやんだスキを狙って、私は彼女らを連れ出しました。
せめて私にとってのお盆休み最終日の16日だけでも、波と狛をどこかに連れていけるといいですね。
それと、台風がこの暑さも一緒に連れ去ってくれることを願っています。
呂宋助左衛門が豊臣秀吉に献上した呂宋壺の正体が、現地人の便器だったということをご存知の方は、こちらに投票してやってください。