嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

前提とは一体なんの事なのか。

2004年12月17日 19時04分04秒 | 駄文(詩とは呼べない)
「君は自分の欲を疑うのかい?」

「すると君は、ゴーストさえも信じる事はないということか。」

そんなフレーズで始まる歌は、聞いた事がないよ

聞いた事が無いのは当然だろう
まだ誰も、歌ってないんだよ

ちょっと待てよ、さっきから一体、君は何の話をしてるんだい?

僕はさっきから、君にわからないだろう話をしているつもりだよ
どうだい、わからないだろう?

何いってんのさ。
僕にだってわかることはあるよ。
君は僕を、バカにしてるんだろう?

いや、違うね。

何が違うんだよ
さっきから、まるで話が見えないじゃないか

そう、思わされてるんだよ

は?誰に?

だから、君自身の中に住む誰かに、だよ。

それはどう考えても僕の事だろう。

話にならないな、さっきから君は、全く考えてもいないじゃないか。

ちょっとまてよ、なんだそれ考えてないってなんだよ。考えてないのはお前だろう。

よし解った。君にわかりやすいように説明を頑張ってみようじゃないか。

そもそも俺たちは誰だ?

そしてここはどこだ?

何いってんのさ俺たちはさっきから、三人じゃないか。

俺、君、作者。

だから君の書く文章はアホっぽいんだよ。
読者が居るはずだろ、だから4人だよ

ちょっとまてよ、なら神様が居るから⑤人だ。

神様なんか居るわけ無いだろ

じゃぁお前だって居るわけ無いだろ

いや、読者こそが居ないのがこの文章だ。

いや、そもそも作者なんか居ないんだよ、ただここに記録があるだけさ。

「さっきから聞いてれば、いったいぜんたい君らは何をそんなに怒ってるんだい?」

誰も怒っちゃいないさ、最初から、誰も居ないんだよ。

自殺肯定論の根底にあるものは何?

2004年12月17日 16時40分13秒 | 駄文(詩とは呼べない)
一応、断っておきますが
僕は自殺肯定派っすね。
自殺自由論推進派ってほどではないと思うけど。
もっと自殺について前向きに考えたいというか、なんというか。

とりあえず今回は
「全ての生を手に入れるための自殺」
ってのを考えた。

自殺とは可能性の冒険であると共に、
自分という枠組みを棄て、
現状の自分以外のものになろうとする最も効率よい方法であると考える。

自分を構成している土は決して消滅するわけではなく、
なおかつ自分だった土は死というシステムのおかげで
自分以外の形に分散してちりぢりになるからである。

自分という形を完全に否定する事によって
それは他人に生まれ変わらなくとも
必ず ”自分以外のもの”になることが出来る。

これは最も革命的な奇蹟のような方法である。

死とはシステムの完全に近い崩壊だが消滅ではない。
死んだ瞬間にこの世界から忽然と消えてしまった人間を
僕は見た事が無い。

死とは概念であって名前でも観念でも無いと考える。

すなわち死とは理解という知覚の前提に成り立ってはならない。
死とは死によってのみ得る事が出来るかもしれない、
ほんの少しの可能性のようなものであって欲しい。

死を理解する事は思い込みの知ったかぶりである。
だから、死を考えようとする。
死を知ろうとする事には違和感をおぼえる。
死を考えようとする。

死について考えた時、活性化する細胞は
脳幹にあるのだろうか?大脳新皮質にあるのだろうか?
それとも大脳旧皮質にあるのだろうか?
死について考えるメカニズムの解析は興味深い。
だが、それで死を理解したとする事には反対である。

人は死なないと言う事だって出来る。
誰も死んでから科学を唱えない。
死によって証明される科学はあるかもしれない。

死は恐れるものでも理解するものでもない。
結果から連想される状態のようなものだ。

彼は壊れた、だから、多分死んだ。

今生きている誰もが
まだ死んだ事が無いはずなのに
死という言葉によって通じるイメージは
異常とも言えるほどに固定化されている

誰もが死を体験していないのであれば
死のイメージはもっと自由に幅広くないとおかしいのではないか?

おそらくは今僕らが共通にしている死の価値観というのは
既成概念の枠から出ていない。

色々な層の人に幅広く死のイメージを聞いてみたら
だいぶハッキリしてくるだろう。
今、伝わっている死のイメージと
真実の死は別物なのではないかと考える。

世界の崩壊、宇宙の消滅ははたして死なのだろうか?
高次元への奇蹟ではないのか?

今日の邪推はこれくらいにしておこう。
僕はもっともっと死に憧れる。
僕はきっと、いつか死ぬ事が出来る…といいなぁ。