嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

騒ぐ必要はない。言葉は静かに踊り出す、

2006年02月10日 21時03分32秒 | 駄文(詩とは呼べない)
事実を劇のようにしてしまう嘘とはなんなのだろう
なめらかに吐き出された嘘も
それが誤魔化しであると気付く読者が居る限り
そう思い込む人が一人でもいるかぎりは
だんだんと、段々と…
現実は劇化していく。

テキストはある意味で平面的であった方が良いと思うことがある
それがただの編まれたままの編み物として、
模様のように存在している方が
ある意味では現実の中に置いてリアルであるとも言える

テキストの中に組み込まれた立体構造が
時にはアリ地獄のように、時には落とし穴のように、
作者の意図が見え隠れするような文体であったのならば、
それは意味がテキストに拘束されるということでもあるから。

穏やかな荒波を見ている。

ずっとずっと静かな、

途方もない静寂の嵐の中にいる

かつて棄てられた神が

再び神様として甦り、

その息吹を吹き返し、

そしてまた、打ち捨てられた墓標のように殺される時を見ている。

ここで問題となっているのは意味ではない
むしろ距離なんだと思う。
意味そのものが構造的に矛盾しているとき、
僕とテキストはその矛盾の抽象化によって距離を持つ。
僕は世界から遠ざかる。
感情移入するほどにテキストの意味が作り出す美しい景色は
まったくのでたらめであるほどに破壊的である
だけどここに嘘は一つも無い
現に今僕が見ている言葉の向こうの風景では
ずっとずっと静寂な嵐の中で、神が死に続けているのだから。

風呂に入ろう

いや、僕は風呂に入った。

風呂の中で言葉について考えよう。

いや、水の中で言葉がうようよと動き出すのを捕まえよう。

ここに真実はほとんど何も含まれない
意志も決意も介在しない。
ただなんとなく書かれているその言葉に
僕は何かを見ていない

透き通った背景が見たい
遠ざかる景色が見たい
透明な人間が見たい
むしろ僕は透明でいたい

ずっとずっと回り続ける
地球のような騒がしさはもう駄目だ

僕は死んだテキストを書こう
かつて誰かが目指して、再びなし得なかったように。