基本的に、外から見る人は
君のような意見を持っていて当然だと思うよ。
偏見としてはそんなに間違ってはいないだろうと思う。
彼が迷うことを決めていたのかどうか、
じつは僕にもよくわからない。
彼は迷うことが大事なんだと主張したけれど
僕にはその意味がよくわからなかった。
僕が自分で試してみたところ、
迷うということは多くの人を考える代わりに
より多くの人を巻き込んで自分の事を考えさせる、
ということでもあった。
僕が確信犯だということについてはその通り。
だからこそ、僕にはいつも居場所がないのだし
それは許されるようなものではないのでしょう。
また、僕を生命の実存世界で物質的に許しておく必要性が
それほどあるとも僕には思えません。
もし、僕を許す事が出来る人がいるとしたら
それは既に自分が死ぬことがハッキリわかってしまっている人や
死についての意味を既に掴んでいるような人だと思います。
「死を悟り、死に染まらずして 死を語る。」
例えばリスカをし続ける少年がいたとしても、
その行為が周りへの叫びとしての、
暴力行為の延長、演象としてあるのなら、
その少年は最終的な部分で僕の心に踏み込んではこれないでしょう。
また、その少年は僕の言葉を鏡として使えばいいように思う。
_なぜ僕が老人の死に涙を流さないのか_
|何故、姉が死んでも僕は泣かなかったのか。|
「何故、僕は自分の事でしか泣けないのか。」
僕は、他人の中に自分の物語を見つけない限り泣くことはない。
他人に心を動かされることがないからです。
他者は僕の心を呼び覚ます可能性の一つです。
だから亡くしたくなかった。
けど、たぶんそれも過去の思い出の一つへと変わっていく。
結局僕は彼自身を理解する事が出来なかった。
真似をして踏み込んだつもりになって
様々な似た体験を通して、「なるほど。」
と何度か小さく感じたに過ぎない。
大人か子供か、そのことについては
じつは優先度の高い問題ではありません。
僕がこの世界になんらかの証を残すためには、
例えば遺書を書く為には、
子供である方が書きやすいという程度に過ぎません。
亡くなる事実の前に、
人は僕の遺書から、どれくらい自分の物語を見つけるんでしょうか。
そして、どれくらい、僕に近づく?
たぶん、誰も僕をわからないままで終わるでしょう。
僕は肉体が動いている間に自意識と他意識の境界線を
もう少しハッキリと見極めておきたいと思います。
その線は確実に存在しているものなのか、
それとも、僕にはやっぱり自分の意志が無いのか。
あるいはまた、僕が生まれなおす事によってしか
意志を会得しないのか。
僕の考え、僕の思い、僕の声は
これから先、周りの人達に
どんどん伝わらなくなっていくと思います。
理由の一つは僕の視座が多くのものから遠ざかっていることです。
もう、僕はほとんど人と思いの幻想を共有しなくなっていく。
他者を諦めていく方向へ向かってるんですよ。
遺書を書き続ける間は、
「なにか」を何かを通して表現し続ける間は、
ほんの少しの可能性を残しておくでしょうけれど。
君の偏見は君が君であるために大切にしておけばいい。
「孤独がプライド」だという君の嘘、
その中に潜む「私」とやらを僕は壊したいとは思いません。
だけど、君の孤独はぬるいよ。
誰と比べてということはなく、
孤独の叫びそのものの質感、温度がぬるいです。
だから君は他人の側で人間を演じてしまう。
じっと口をつぐんで相手の目を見る。
そのやり方では、僕の声は聞けないね。
それを指摘する僕も、
まるで君を責めているようで申し訳ないのだけれど。
ただ、君はそのことに気付いてる。
だから君はそのまま自分を探したらいい。
君は自分を探すことはやめた方がいいと言うけれど。
それでも君は僕の中から自分の声を聞いてしまう。
それに触れそうになって、
そのたびに君の中で僕の声は悲しく響くんだ。
もっと笑えよ。
僕は君でいいよ。
そんなに一生懸命、僕を決めつけながら探さなくていい
死が何かわからなくても、
消えることくらいはわかるんだろ?
交流をやめたいわけじゃないんだ。
ただ、もう僕を捕まえようとするのはやめてほしい。
それはただの願いだから。
願うばかりの祈りだから。
「二つの糸で、寒空の下、機を織る」
君のような意見を持っていて当然だと思うよ。
偏見としてはそんなに間違ってはいないだろうと思う。
彼が迷うことを決めていたのかどうか、
じつは僕にもよくわからない。
彼は迷うことが大事なんだと主張したけれど
僕にはその意味がよくわからなかった。
僕が自分で試してみたところ、
迷うということは多くの人を考える代わりに
より多くの人を巻き込んで自分の事を考えさせる、
ということでもあった。
僕が確信犯だということについてはその通り。
だからこそ、僕にはいつも居場所がないのだし
それは許されるようなものではないのでしょう。
また、僕を生命の実存世界で物質的に許しておく必要性が
それほどあるとも僕には思えません。
もし、僕を許す事が出来る人がいるとしたら
それは既に自分が死ぬことがハッキリわかってしまっている人や
死についての意味を既に掴んでいるような人だと思います。
「死を悟り、死に染まらずして 死を語る。」
例えばリスカをし続ける少年がいたとしても、
その行為が周りへの叫びとしての、
暴力行為の延長、演象としてあるのなら、
その少年は最終的な部分で僕の心に踏み込んではこれないでしょう。
また、その少年は僕の言葉を鏡として使えばいいように思う。
_なぜ僕が老人の死に涙を流さないのか_
|何故、姉が死んでも僕は泣かなかったのか。|
「何故、僕は自分の事でしか泣けないのか。」
僕は、他人の中に自分の物語を見つけない限り泣くことはない。
他人に心を動かされることがないからです。
他者は僕の心を呼び覚ます可能性の一つです。
だから亡くしたくなかった。
けど、たぶんそれも過去の思い出の一つへと変わっていく。
結局僕は彼自身を理解する事が出来なかった。
真似をして踏み込んだつもりになって
様々な似た体験を通して、「なるほど。」
と何度か小さく感じたに過ぎない。
大人か子供か、そのことについては
じつは優先度の高い問題ではありません。
僕がこの世界になんらかの証を残すためには、
例えば遺書を書く為には、
子供である方が書きやすいという程度に過ぎません。
亡くなる事実の前に、
人は僕の遺書から、どれくらい自分の物語を見つけるんでしょうか。
そして、どれくらい、僕に近づく?
たぶん、誰も僕をわからないままで終わるでしょう。
僕は肉体が動いている間に自意識と他意識の境界線を
もう少しハッキリと見極めておきたいと思います。
その線は確実に存在しているものなのか、
それとも、僕にはやっぱり自分の意志が無いのか。
あるいはまた、僕が生まれなおす事によってしか
意志を会得しないのか。
僕の考え、僕の思い、僕の声は
これから先、周りの人達に
どんどん伝わらなくなっていくと思います。
理由の一つは僕の視座が多くのものから遠ざかっていることです。
もう、僕はほとんど人と思いの幻想を共有しなくなっていく。
他者を諦めていく方向へ向かってるんですよ。
遺書を書き続ける間は、
「なにか」を何かを通して表現し続ける間は、
ほんの少しの可能性を残しておくでしょうけれど。
君の偏見は君が君であるために大切にしておけばいい。
「孤独がプライド」だという君の嘘、
その中に潜む「私」とやらを僕は壊したいとは思いません。
だけど、君の孤独はぬるいよ。
誰と比べてということはなく、
孤独の叫びそのものの質感、温度がぬるいです。
だから君は他人の側で人間を演じてしまう。
じっと口をつぐんで相手の目を見る。
そのやり方では、僕の声は聞けないね。
それを指摘する僕も、
まるで君を責めているようで申し訳ないのだけれど。
ただ、君はそのことに気付いてる。
だから君はそのまま自分を探したらいい。
君は自分を探すことはやめた方がいいと言うけれど。
それでも君は僕の中から自分の声を聞いてしまう。
それに触れそうになって、
そのたびに君の中で僕の声は悲しく響くんだ。
もっと笑えよ。
僕は君でいいよ。
そんなに一生懸命、僕を決めつけながら探さなくていい
死が何かわからなくても、
消えることくらいはわかるんだろ?
交流をやめたいわけじゃないんだ。
ただ、もう僕を捕まえようとするのはやめてほしい。
それはただの願いだから。
願うばかりの祈りだから。
「二つの糸で、寒空の下、機を織る」