嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

背景を塗りたくっている透明な手がある

2006年02月12日 22時32分27秒 | 駄文(詩とは呼べない)
頭の中がスッキリしていくのにしたがって
胸の中にあるもやもやは、
より一層奥へとその姿を潜めてしまった。
だが、無くなったわけではなく、
むしろそれは手の施しようが無いほどに悪化していく予感さえある。
理解の及ばないものを人が忌み嫌ったり
恐れて近づかなくなるように
僕の中に棲んでいる「それ」は遠くへ押しやられてしまった。

灰色を黒だと言い切ることは簡単だ
灰色がいかに、どのように、なぜ灰色なのか、
それらを忘れてしまえば良いだけだ

だけど僕は多分、忘れることも出来ない
だからずっと遠くへ押しやって
別の問題について考えたりする
けれど多分、体調が悪くなるとそれは途端に形を成して
前よりも強く僕に答えを迫るだろう。

好きな人は居ない
好きな物質も無い
ただ、それでもこの世界を彩る背景については
何度でも考えてしまう。

景色を写真におさめたいわけじゃないんだ

自分の発射した光が、
どれくらい世界を映し出しているのか
真っ暗闇で目を瞑って考える

届かない手と
かすれていく声について考える

たぶん、僕は何かをゆっくり諦めようとしてるんだ
そんな気がする。

絵を描いたら、それは何に見えるだろう

ふと、そんなことを考えた。

60億の精子が殺神するために

2006年02月11日 05時08分00秒 | 駄文(詩とは呼べない)
予感はある。
たぶん、僕らはだんだんと僕に近づいていく。

外へ開かれていたように思っていたものが
繋がることで
それはますます中へ向かって孤立していく

だから僕が求める他者の光は
ますます輝いて
そしてますます遠くへ逃げ去ってゆく

君と繋がることで君が居なくなる時
僕はどこへゆくんだろう

僕の言葉は、誰に向かって発するだろう

音が逃げるように?

光が瞬くように?

うぉんうぉんとドップラー効果のように?

同じ周波数で響く声が
光の旋律で踊るようにかき消されていく
僕はもう、僕たりえない

なにがかなしいんだろう

なにがさみしいんだろう

なにがうつくしいんだろう

僕はもう、光の速さで泳ぐことも無いのだろう
明日の闇へ、ゆっくりと手を伸ばしても
僕の手は、もう熔けて無くなる

二滴の涙が
一滴の涙になってしまう

壊れる今が美しいのか?

儚い時が悲しいのか?

誰も居ない世界の他者がいとしいのか?

僕らは何も答えない

ただいつも、光る速さで時を止めていく

もう見ない

もう見えない

振り返らない

振り返れない

全ては同じ速さで消えていく

近づくことも、遠ざかることも、今はもうただおなじおなじ同じ

救いを求めるように

僕らは今日、神になる

神は殺したよ

僕らは今、神を超えるために生まれる命。

鏡に映った光だけを。

2006年02月11日 04時12分35秒 | 駄文(詩とは呼べない)
光を当てたからといって
それが光を返すとは限らない
光を吸収する素材だってあるし
そもそも反射した光を見ているかどうかだって、
それはかなり疑わしいことでもあるのだ。

けど、光を当てると熱が発生するのは何故なんだろう
それはつまり、動きが活発になり、不安定になるということ
冷たい感情で安定的な世界を望むなら
冷え切った心で自閉的な世界を永遠に昇華させれば良いのだ。

僕はそれを望むのか?
いや、おそらくは何も望んだりはしないのだ
希望も絶望もない
真っ白な目で透明な世界を永遠に見続けたいのだ
死と向き合うことで
時間が始まるとしたら
死に染まり、死そのものになることによって
時間は閉じていくだろう
ある意味では、完全に開きっぱなしとも言えるのだが。

返す返す光がはじけ、
今という一瞬の中で儚さが粉々になって踊るなら
僕は君たちに光を返そうじゃないか
誰にも捉えられないほどの、
ほんのわずかな、一瞬の光だけを。
それでもなお、その光を掴もうとあがくならば
僕は君に闇を見せようじゃないか。
黄泉平坂の穴を開けて
ブラックホールになろうじゃないか。

冥府の鬼が来るかね
いや、鬼は元々居たのだ
我らの中に居たのではなく、
ずっと側に立っていたのだ

始まりを、数えるかい?
それとも終わりを?
僕は終わりを数えよう
君は好きに始めたらいい
僕はここに、目印を作ろう
誰にも倒せない、僕だけの旗を立てよう

僕の命日に、君たちの中で、新しい命が生まれるように
僕は今日から自分の命を破壊するための
死んだテキストを書いていく。

それを僕が読み終えたとき、
僕の世界は閉じるはやさで開かれる。

騒ぐ必要はない。言葉は静かに踊り出す、

2006年02月10日 21時03分32秒 | 駄文(詩とは呼べない)
事実を劇のようにしてしまう嘘とはなんなのだろう
なめらかに吐き出された嘘も
それが誤魔化しであると気付く読者が居る限り
そう思い込む人が一人でもいるかぎりは
だんだんと、段々と…
現実は劇化していく。

テキストはある意味で平面的であった方が良いと思うことがある
それがただの編まれたままの編み物として、
模様のように存在している方が
ある意味では現実の中に置いてリアルであるとも言える

テキストの中に組み込まれた立体構造が
時にはアリ地獄のように、時には落とし穴のように、
作者の意図が見え隠れするような文体であったのならば、
それは意味がテキストに拘束されるということでもあるから。

穏やかな荒波を見ている。

ずっとずっと静かな、

途方もない静寂の嵐の中にいる

かつて棄てられた神が

再び神様として甦り、

その息吹を吹き返し、

そしてまた、打ち捨てられた墓標のように殺される時を見ている。

ここで問題となっているのは意味ではない
むしろ距離なんだと思う。
意味そのものが構造的に矛盾しているとき、
僕とテキストはその矛盾の抽象化によって距離を持つ。
僕は世界から遠ざかる。
感情移入するほどにテキストの意味が作り出す美しい景色は
まったくのでたらめであるほどに破壊的である
だけどここに嘘は一つも無い
現に今僕が見ている言葉の向こうの風景では
ずっとずっと静寂な嵐の中で、神が死に続けているのだから。

風呂に入ろう

いや、僕は風呂に入った。

風呂の中で言葉について考えよう。

いや、水の中で言葉がうようよと動き出すのを捕まえよう。

ここに真実はほとんど何も含まれない
意志も決意も介在しない。
ただなんとなく書かれているその言葉に
僕は何かを見ていない

透き通った背景が見たい
遠ざかる景色が見たい
透明な人間が見たい
むしろ僕は透明でいたい

ずっとずっと回り続ける
地球のような騒がしさはもう駄目だ

僕は死んだテキストを書こう
かつて誰かが目指して、再びなし得なかったように。

不整脈のような言葉もある。

2006年02月08日 22時26分30秒 | 駄文(詩とは呼べない)
もうあんまり、残り時間はないんだろうな、と思う。
焦ってばかりで、大事なことは何にも書けやしない。

僕は肺の重苦しさで残り時間を計るから
それは結構あなろぐなんだけれども。

元気な時は、明日の事なんてどうでもいいと思ってる。
だって僕は今、元気ななんだから、なんでもできる気がして。

具合が悪い時は、明日のことを考える。
ずっとずっと向こうにある明日とか。
手を伸ばしても掴めそうにない、明日の光とか。

今が楽しいことは、本当に、切実に、大事だと思う。
なんの能力もなくたっていい、
今、何かが出来そうなこと、
誰かと話が出来るということ、
それだけで、生きている実感が無くたって

(どうも生きてるらしいぜ?)
というあやふやな事実はあるのだし。

たぶんみんな、それぞれに一生懸命なんだろう。
雨が降ったら休めばいい
晴れの日は歩けばいい
別にうだうだ説教くらったって、
人にはリズムとかあるんだからさ。

僕の話を聞いてくれる人、
この先増えるのか、減るのか、よくわからないけれども。

たぶん読者は増えるんだろうね。
自分でも、わけわかんないこといっぱい書いてるし。

「生きなくちゃいけない」って思い込むことは、
本当につらいと思う。
いや、辛かった、というべきなのかな?
僕は多分、もうすぐ許されると思うから、
だいぶどうでもいいと思い始めてる。

人が死ねるって事、僕は大事だと思う。
世の中のルールはよく知らないけれども、
僕一人だけの意見として、
「自分で死ねる」って
          すごく大事だと思うよ?

偉そうに説教たれる人は、
よっぽど人生をサボってんだろうと思うけど、
みんな、責めないでやって欲しい。
人にはそれぞれ、成長過程ってものがあって
それが人より遅れてるからといって
それが直接罪には、ならないと思うんだ。

僕はもうすぐ死ぬと思うけど、
残り時間はマイペースで生きるつもりです。
励まさないで下さい。
怒らないで下さい。
ただなんとなく、接してくれればいいよ。
なんなら無視してくれてもいいですぞ?(笑)

色んな事が変わっていくね。
面白いほどに儚いよ。
本当は、切ない気持ちの方が、
強いんじゃないかと、思ったりもするけれど、
まぁ、どうでもいいや。

思えばずいぶんたくさん…
            寝たなぁ(笑)
俺、寝てばっかだったなぁ(爆)

まぁいいや。
人生の半分は睡眠だっっ!

ま、これからも情緒不安定で意味不明な記事を書くだろうけど
別に無理して理解してくんなくていーんで、
適当に読んで下さい(^^

ジャングルジム

2006年02月05日 02時18分29秒 | 駄文(詩とは呼べない)
ジャングルジムの中で赤ん坊が泣いている

ジャングルジムはぐるぐる回って
赤ん坊をあやそうとしたり、泣きやまそうとしたり、
あれこれ工夫して赤ん坊に語りかける

でも赤ん坊が泣けば泣くほど、ジャングルジムは素早く回る
それはもう、ぐるぐるとしつこく回る。

そんなジャングルジムをみつめて君は思う

「――。」「――…、、。。」

赤ん坊は泣きやまない
たぶん、ずっと泣き続けるだろう

だけどもし、君の声が赤ん坊に届くほど大きいのだとしたら
君の声が、ジャングルジムの動きを止めるほどに大きいとしたら

そのジャングルジムは止まるかもしれない。


けど、多分僕なら。

赤ん坊か、ジャングルジムの、どちらかを壊すだろうと思う。

謝罪を書こうとして已めた日

2006年02月05日 01時53分05秒 | 駄文(詩とは呼べない)
最後に遺書を書いてから死ぬとしたら
じつはそんなたいそうな事は書けなくて
ひたすら謝罪文になりそうだな、とか
そんなことをふと思った。

どうしようもない押し付けの中で必死で我慢しながら生き抜いた人が
ただとつとつと食べ物と人の名前と感謝の言葉を述べている遺書を
僕はいつだったか読んだことがある。
それが誰のものだったのか、
そして本当にその人は死んだのか、
そもそも詳しいことは憶えていないのだけれど。

半ば本気で明日死ぬかもしれないと思っていても
実際にはその一歩をなかなか踏み出せないし
そもそも今の時点で自分が書き残せることなど
ほとんど何も無いのかもしれない。

けれどやっぱり、今書かなければもう後が無い、
と半ば強迫観念に近いかたちで
僕はいつも何かを書き殴っている

思考が全部テキスト化されれば、それで満足だろうか?

いや、おそらく僕は満足しないだろう
それはここに書かれたテキストが
ずっとなによりも孤独に、何よりも永遠に近い記号でありたいと願ったとしても
その恨みや願いが、読者と添い遂げる事が不可能であるように。

読者が居なければ配列に過ぎない
読者が居てもこの声は届かない
そして心はいつも書き切れていない

僕のテキストはいつも死んでいる
ずっとずっと なによりも死んでいる
偶然君が、今日、この文章を読んだとしても
それはもう、僕の言葉にならない
たぶんもう、君の言葉に変わっていく。

ものすごいはやさで!

読み取られないことが悲しいんじゃない
たぶん、どうしようもなく哀しい
そしてそれは、いつも届かないというそのことによって
常に証明され続ける

おそろしいね、テキストは。
僕には君の声が聞こえるのに
君には僕の声が聞こえない。

逆じゃないよ。

僕は読者の声をいつも聞いている。
ただ、作者の声はいつも聞こえない。

ときどき怖くなるんだ、そのことが。
ずっとずっと誰も居ない場所で、
塀に囲まれた長い長い細い部屋で、
物音も立てずに、息をかみ殺すように泣いている人の姿が見えたりするんだ。

それが作者かと思って手を伸ばしても、
もう影だけが蜃気楼のようにゆらゆらとゆれる今なんだ

触りたくても触れない
聞きたくても聞こえない
目を瞑った時にだけ聞こえる声が
僕には確かにあるんだよ

手を伸ばしても僕は触れられない
耳を塞いでも音はやまない

むしろ病んだ声となって
已んでいくんだと思う

考え事を、ずっと考えてた。
悩んでたのかもしれないし、迷ってたのかもしれない
そもそも思ってるばかりで ずっと何も決断してなかったのかもしれない。

その迷いの中で、僕はある日思ったんだ。
もしかして、この迷いがずっと続いてる間だけが生を許された冤罪で
答えが出た瞬間に罪となるんじゃないかと。
答えが出た瞬間、僕は罰をくらって消えるんじゃないかと。
そんなことを思ったんだ。

でも僕は迷いを打ち消しても
僕自身が消えたりはしなかった。
それはあの日君が僕を許してくれたおかげかもしれないし
じつはまだ迷ってるのかもしれない。
まだ、答えていないことは山ほどあるのだしね。

でも僕は死ぬよ
どうしても知りたいことがあるし
どうしても確かめたいこともあるしね

テキストを打つ手が止まった

もうすぐ僕は考えることができなくなると思う
完全に止まるよりも前には
テキストを書き上げなくちゃならない

それはたぶん、読者である君との約束のようなものだから。

紙飛行機の中に書いた楽譜

2006年02月04日 17時17分10秒 | 駄文(詩とは呼べない)
人は何にお金を払い、何に払わないのだろう。
僕は正直言って生きていくことにお金なんか払いたくないです。
生存権、税金、どっちも数字と権力に汚染されすぎ。
もっと基本的な事を言えば
「今日、君と一緒にご飯食べるのが楽しいかどうか」
それで十分です。
それが楽しくないのなら、
潜在的に側に居たいと思っていないのと変わんねー。
好きだとか結婚だとか友達だとか喧嘩だとか、そんなの関係ない。
楽しく過ごせないのなら
楽しく食べられないし
親が子供を叱る時、「食事中に説教たれてはいけない」っていう
教育理念も結局一緒。

何が問題なのかと言えば
そりゃぁ義務という嘘が問題なんだろ。
義務感で一緒に活動するくらいなら俺は蹴る。
全てを断るね。

そして独り。
それがどうした。

どんな瞬間だって世界は俺と繋がった背景色の模様を映し出すだけだ。
受動的であることも、能動的であることも、
自分に嘘を吐いてる限りは具現化なんて無理なんだ。

ヒトラーとエレファントマン、天秤にかけたらどっちが重いのかな?
たぶん、どっちも軽い。

何が言いたいかと言えば
数字を指標にしてやりたいことをやれない現実感が嫌い。
僕が何も出来ないのは金が無いからだけど、
実際にはそうじゃない。
何も望んで生きてないからだ。

多分、一億あっても浪費して終わるだろう。
僕には希望が無い。
あるのはいつも浪費。
だけど何故か、可能性の糸は切断されない。
人のせいにして生きてる?
そんなことわかってる、スタートラインのこっち側だ。
僕はいつも、こちら側にいる。
なのに扉は開けっ放し。
風が冷たい。
痛みの中で、予感ばかりを感じてる。
記憶ばかりを思い出して生きるから。

自由落下に、逆らいたいんだ。
時計の針はいつだって加速的にぐるぐる回る。
馬鹿らしいけど時計は止めた。
超能力で止めるやつも居るけど、僕は思い込みで止める。
死ぬってことです。
意志だよ。決断だよ。開き直りだよ。
それが自分?いいや、違うね。これは輪郭線なんだ…

眠たい屁理屈と寝言のオンパレードで大人をからかって生きる。
たぶん僕はピエロだから。
おまえら全部俺の客。

いいよ別に。
何もないだだっぴろい空間さえあれば、
ショーはいつだって閉幕中。
開始の合図は鳴らさない
終了のサインだけを舞台に刻んで踊る。

哀しい景色に涙して喜ぶだけの舞台なら
飛び降りて死ねよ、偽善者ども。

俺は仮面をかぶったまま死ぬのかな。
少し寂しい気もする。
だけど答えを一つ、突き刺すたびに、君たちはいつも壊れていく。

ピエロの仕事は客を笑わせることです。
ピエロの報酬はお客様の喜怒哀楽です。

数字は俺の背中に書いてくれ。
正しいっていう字をいくつもいくつも書いて、
俺の背中に正正正しい数字を数えてくれ。

たぶんマイナスなんだろ?
知ってるよ。
だけど俺はそんな数字見ない。
お前らが見る為に書けばいいだろ。

腹話術で相手にしゃべらせる。
僕の心はいつも腹話術。
勝手に決めればいい、勝手に読み取ればいい。
勝手に言ってればいい。
でも全部ハズレなんだよ…

追い風はいつも吹いている
向かい風も吹いている
自由の翼をもぎ取って棄てる。
棄てる時の力で僕は羽ばたく
もっと遠く、もっと激しく、もっと向こう側へ。

アカシックレコードから僕の記録を掴み取る
お前らを笑わすための物語。

「笑え、もっと笑えよ!!!」

存在理由についてのメモ

2006年02月03日 07時37分04秒 | 駄文(詩とは呼べない)
存在理由を「存在の理由」として考えずに
もっと分解してから思索に入るといいように思う。

ぞんじること(知っている、思う)
あること
ことわり
そのままおこること

これら四つを全て別の方向性だと考え、
それぞれの世界が統合され、結実する世界があるとしたら、
それはなんなのか考えたらわかりやすいのではないでしょうか?

それと、わからないってのは
理解できない
分けることができない
結論がでない
判断ができない
というような意味以外にも
もっと超越的な、外部世界への予感じみたものがあるように思います。
時々わからないを「ワカラナイ」とカタカナで書いて
「わからない」と区別する人がいるのも僕はなんとなくうなづけます。

科学の限界があって
知ることの限度があったとしても、
抽象化のイメージやアイディアに限度があるとは思いません。
僕の生命活動に限度があるとしても、です。

何故なら決断せぬ限り結論は出ないし
意志がない限り迷いは底なしだし
広がることも
閉じることも
決別することも

原点の開き直りで説明可能であるとも、
証明できているとも思えないからです。

納得するなら「ああ、そうか、なるほど。」
証明できれば「スッキリした!」
けど、そんなことでは終わらない
人は終われない。

今の僕にわかるのは、人は「人間」であろうとする可能性が高い、
ということになるでしょうか。
もし人は「人」として落ち着いてしまっているのなら
それは自閉的であると同時に永遠に近い抽象化概念であり
既に実感として満足し、問いを立てない状態になると思います。

融解方程式を計算し続ける

2006年02月02日 18時21分33秒 | 駄文(詩とは呼べない)
キューブを回す
ずっとずっとキューブを回し続ける
その構造が解って完成したとしても
その仕組みが解って短時間で完成しようとも
ずっとずっとキューブを回し続ける

僕はキューブから出られない
全てがパズルで出来た密室に居る
そしてまた、キューブは回すたびに痛みを伴う

だから僕はこの密室を
自らを閉じ込める自由の牢獄と名付けた

再び血が流される時が来る
僕はまた、キューブを壊すのか?

ミラーボールの位置を調節する
屈折率が変わる

近づくほどに遠ざかり
遠ざかるほどに近づこうとするミラーボールの位置を。

全ての因果が中心を指ししめすような時が来れば
この宇宙もまた、鼓動と共に爆縮していくだろう

何を変える?
それとも永遠に?

僕は多分、じっと目を瞑って
誰にも伝わらない、世界の夢を見る

ひとりの穴

2006年02月01日 22時31分33秒 | 駄文(詩とは呼べない)
君はひとりだよ

穴が空いている人間は

その穴を、ひとりの穴だと知ってる

だからその穴を 誰かの心で埋めようとする

でも、穴を開けた人間は

穴を塞ぐことができる

もっと求めればいい

もっと欲しがればいい

盗まれたと思うなら

奪い返せばいい

でも

たぶん

たぶんね

真犯人は

いつも君の側にいる

構造的欠陥、構造欠陥

2006年02月01日 17時19分22秒 | 駄文(詩とは呼べない)
構造主義の欠陥は「予見的である」の一言に尽きる。

これは不安型社会を引き起こし、だんだんとチャレンジ精神がなくなっていく。
例の構造物には欠陥があったのだろうか?
多分、そうではない。
構造物というものは必ず欠陥を抱えている
それは「壊れる」という欠陥でもあるが
「壊れるかもしれない」という欠陥の方が深刻だ。
何故か?
「人が壊れたら葬式をする」
社会システムになんの問題もない。
人間らしく悲しんでいるフリをすればいいだろうよ。
また「今日」が始まり、「明日」は始まらない。
だが、「人が死ぬかもしれない社会」は大問題なのだ。
「戦争は政治的手段」という考え方があるように
「テロが予防され、鎮圧される」ように
構造的不安はカオスの中にあってカオスを嫌う。
「人が死ぬかもしれない」
という状態を嫌う思想に、我々はかなり洗脳されているのではないか?
人が死ぬことに、なんの問題があるのだろうか。
特に、自分が死ぬことになんの問題があるのか。
僕が死ぬと人間の尊厳が脅かされる?
馬鹿馬鹿しい。
一人の死なんて黙殺される社会だろ?
僕が死んで、自分の「明日」が亡くなったことに気付くヤツが何人いる?
おまえらは数字の違う「今日」を生きるつもりだろう?
僕が死んで無くなるのは僕の未来じゃない。
「僕の記憶した過去」と「おまえらの未来の可能性」が亡くなるんだよ。
ざまあみろ。



ボクワザマアミレナイ

言文不一致に苦しんでいた。

2006年02月01日 12時22分50秒 | Weblog
「コンプをしょって始めよう」

や、つまり。
自分の普段気になっているわだかまり
いらいら感を消すことなく
それを少し調べてみようかな、と。

1日くらい前から
不思議なことに色々な事がほどけ始めた
ずっと悩んでいたのだけれど
何故か突然色々な事がわかりはじめた。
妙に頭がスッキリして
「ああ、そうか、そうだったのか。」
と得心のいくことが急に増えた。
この現象がバイオリズムによる脳の働き方の問題か
あるいは意図的に過去に向かって投げかけた波紋の返り血か
詳しいことはよくわからないが
まぁ、以前よりだいぶ頭はスッキリしてるように思います。

迷いがほとんど生じなくなった。
判断にかかる時間が飛躍的に短縮されています。
いいのかわるいのかしらん。
自分ではほとんど制御できない領域。
物事が簡単に割り切れてしまうということは
もちろん残酷な一面もあるだろうけれど
以前は何年も何年も悩みながら行っていたことが
素早く割り切れるようになったのなら
それはしばらくその状態を楽しんでみようと思うのだ。

で、ずっと気になっていた問題の、ヒントが見つかったので
メモとしての意味も込めて
ここにつらつらと書いておきます。
誰かが参考にしてくれれば嬉しいですが
まぁ多分何の役にも立たないでしょう。

金が無いので仕事せねば、
という問題が頭をかかげているので職業について調べていました。
そして速記という珍しい仕事があることに気付いた。

そもそも僕はぐねぐねと悩んで迷って考えている最中に
どうしてもその考えていることに書いていく速度が追いつきません。
タイピング速度はわりと平均的な速さで打てていると思うのですが
どうしても思考の方が速いのと、
そもそもどの言葉も自分の今のありようを示すものとしては
不適切な表現であるというイライラ感がありました。

そこで速記という仕事について調べていたら
どうやら速記符号というのを使って簡略化して記しているらしいのですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E8%A8%98%E8%80%85
(ここを参照してねぃ)

で、その速記符号の種類の違いについて調べていたところ
様々な符号には、改良の歴史がある。
辿っていくと日本では田鎖綱紀という人が始めたらしい、と。

どうも日本では書き言葉と話し言葉はそれぞれが全く違うものだったらしく、
明治時代に言文一致運動というのがあって百年くらいかけて統一されたらしいのです。

この「言文一致運動」という単語は以前「わど」から聞いていたのですが
(わどさんちはココ→ http://blog.goo.ne.jp/wordblow/
単に標準語で日本を統一する政治戦略かと思ってスルーしてました。

僕は1978年生まれで、既に言文一致されている国語教育を受けていて
全くと言っていいほどに気付いていなかったのですが
方言という要素を省いたとしても、そもそも日本では話し言葉と書き言葉というのは
まるっきり違うものだったようなのです。

僕は京都の生まれですが 幼少の頃は東京に住んでいて
会話によってほとんどの言葉を憶えました。
ですからどうしても僕にとって言葉というのは
「話し言葉」としての性質が強いようです。
昔から読書をしない子供だったので「書き言葉」というものが
いまいちどういうものかわかっていません。

いつも心情をうまく吐露できないのは
僕が嘘吐きであるとか、言葉は心を超えないという
そのことなのかと思ってましたが
どうやらそれとは違う原因の一つが見つかりました。

とはいえ、複合的な要因の一つに過ぎないのでしょうけれど。

じゃぁ読書して読解力を高め、「書き言葉」とやらを勉強すればいいのかというと
話はそれほど単純ではありません。

インターネットにおいて2chをはじめ、AA(アスキーアート)や顔文字、
氏ね、といった誤表現の表現化などが起きていますが
そもそもは自分の思う気持ちをなんとか記号化して伝えたい、
という苦肉の策であることは変わっていないでしょう。

絵を描く、音楽を作曲する、といった別の表現方法へ走る道もありますが
ある意味でそれは「用意された道」です。
僕の望むところではありません。

そもそも僕は芸術よりも技術への関心の方が高い人間なので
わりとどうでも良かったりします。

それよりも気になるのは言文一致運動とやらが終わったかに見えて
じつは統一できてねーじゃん!という事がゆゆしき事態であるように思います。
僕にとって何よりも困るのは、
意図的に作られた書き言葉では「呼吸の個性」が全く表現できていないことです。

「呼吸が合う」という言葉があるように、
呼吸というのは何かを伝える上でとても重要な要素であると思います。

なんでかっつーと呼吸というのは人間にとっての基本的な周波数であるからで。
心臓の鼓動と同じくらい大事な要素だと思っています。

ただの句読点ではそれぞれの個人のうちに潜む、
本人すらも意識していない呼吸のリズムがほとんど伝わりません。

だから僕はもうちょい自分勝手な「はにゃ語」を模索することと思います。
別に決意ではなくて単なる予想なんですが。
予感は特に無いです。

今あるのは「なるほど感」くらいです。
はにゃ語でいうと「なる、ほど。」ですね。
ダチからパクった流行語で言うと「にゃるにゃるー。」
書き言葉で言うと「納得」ってのが一番近いのかな?

完全を求めるより前に、近似値を模索する方が先かもしれない。
接するよりも前に、察することが求められているように。

味のさしすせそ みたいに はにゃ語のにゃにぃにゅにぇにょ でも吐くかねぃ?
もちつきみたいにさー!

ほぃでゎ~。

ほどいてほどいて、そしてやっぱり結ぶのか。

2006年02月01日 11時22分36秒 | 駄文(詩とは呼べない)
ほどいてほどいて、そしてやっぱり結ぶのか。


原因を解明するために次々と糸をほどいていくと
こんがらがった糸を束ねていた結び目(問題)が解けていくかわりに
結び目が引っ張っていた力もほどける
そして許されてしまうと途端にやる気が無くなる。

だから僕は時々思う。
コンプレックスをいちいち克服する必要はない
ただ、常にコンプレックスを表面に出し続けるのも
周りの人が痛いだろう。

職人的な拘りは何かを洗練するかもしれないが
何の生産性も無い拘りは人の首を真綿で締め付けるだけかもしれない
だが、何の生産性も無い事というのは
はたして世の中にどれくらいあるのだろう
全てが消費に見えるということは
全てを生産だと考える事が出来るということでもある

僕が洗練しているものはなんだろう
僕が生み出しているものはなんだろう

僕が洗練したいのはエゴだ
そして僕のコンプレックスは欲望だ
エゴと欲望の違いはなんなのか

じつはよくわからないけれど
多分エゴは自分に都合の良いもので
欲望はほっといても発生するものだろう

エゴを削り出すという事は意志の原石の形を整えることか?
それとも取り出すことそのものに意味があるのか?
これもよくわからない。

もっと不思議なことをいうと
欲望を全て克服したいと思うエゴがある。

食欲も性欲も睡眠欲も邪魔だ。
欲望がある限り僕は自分の思い通りにならない。
そして僕は自分に意志があるのかどうか確かめたい。

一人の人間が一つの世界に忠実に生きられるのかどうか知りたい。

次々と多次元化していく意識の階層を
神にプログラムされた命令を
全部破棄して壊してやりたい。

僕はこの世界が嫌いだ
僕は不自由な物理法則が大嫌いだ
もっと夢を見ていたい
全てが共有され、そしてたゆたうように。

宛先を見失った友への手紙

2006年02月01日 00時05分36秒 | 自分への教訓
詳細はよくわからないけれど
おおまかにはわかったよ。

君の中では僕は美化された思い出なんだな。
それが虚像であろうと実体のあやふやな影であろうと
もう君の中では終わった記憶なんだな。

「どんなに足掻いても本音でぶつかっても他人を知りえることも
自分が理解されることも決してない」

君のその言葉を、僕は憶えておかなければならないのかな?
それとも、忘れようとしなければならないのかな。

おかしな話だ。
足掻いてるのは明らかに俺の方じゃないか。
「もういいじゃないか」
という君の言葉から、僕は諦めのようなものを感じるけど
最後まで喧嘩する気力も無いなら
それは確かにどうしようもないのかもな。
俺にはまだ、よくわからないのだけどな。

本音でぶつかっても…か。
君が本音でぶつかってるところ、
俺は過去に見たことがあるけれど…

「俺の世界はもうとっくに終わってんだよ!!」
と叫んで誰かを壊しかねないような勢いだったな。

あの言葉…そういう意味なんだな。

君は過去と決別したんだ。
そして自分を終わらせる事で
他者はただの他人になっちまったんだ。

だから記憶を美化したままで今を生きてる…のか。

君は大人になったんだ。
君は世界を諦めながら、大人になっていくんだ。
だから僕はずっと大人になれないんだな。
こうやって、君が大人になった分、
僕が子供に還っていくんだな。

俺のこと、忘れてもいい
もう思い出さなくてもいい

だけど多分、君は僕を忘れられないよ。
記憶を美化した分だけ、深く深く刻まれて。
君は僕を忘れない。

僕はどうなんだろう。
僕は君を忘れるのかな
違うな、僕にとって、君はまだ道しるべなんだ。

君の進んだ道に、×の看板を立てて、
僕は新しい道を探そう。

気が狂いそうなほど考えて、子供のままで死んでいくよ。

血で塗った十字架を見るたびに

僕は君のことを思い出そう

深く打ち込んだ杭を見るたびに

僕は僕の罪を思い出そう

理解なんて必要ないさ

僕に必要なのは ほんのわずかな可能性だけだ。