東條英機政権打倒工作
「宇垣内閣実現の暁にはお約束を命にかけても実行して下さい。皆までやらぬうちに反宇坦派の将校から首を狙われるでしょうが、私も命にかけて閣下を守りましょう。ただ、もし貴方が我々を裏切って違約をした場合、私は必ず閣下の命を貰う積りですから、そのこともよく覚えていて下さい」
東條英機内閣を打倒し、宇垣一成を首班とする内閣を実現するために中野正剛が、民族派の天野辰夫、逓信省工務局長の松前重義らと動いていた昭和十八年八月、天野の盟友片岡駿は宇垣にこう決意を質した。
宇垣は片岡に対して「当然のことだ。私も今度は初めから命をかけております。まず命のあるうちに命がけの大掃除をするという決意です」と答えた(片岡駿「天野辰夫大人を偲ぶ」『新勢力』昭和四十九年四月)。
後に中野の腹心三田村武夫から押収された組閣案には、「総理大臣・宇垣一成、内務大臣・中野正剛、内閣書記官長・天野辰夫」と記されていたという。
また、中野は、外務大臣・広田弘毅、情報局総裁・緒方竹虎、商工相兼企画院総裁・梶井剛という陣容を考えていたともいう。
中野の長男泰雄は、この組閣案は東方会員が戯れに書いたものだと指摘しているが、片岡の証言によれば宇垣政権の陸海軍大臣をも想定して、軍に対する交渉も進展していた。
問題は重臣工作だった。重臣たちは東條から強く牽制されていたが、八月になると中野は天野や松前らとともに近衛文麿や宇垣らの間を行き来するようになった。
企画院調査官だった日下藤吾が、宇垣、近衛を訪問し、日本経済の実態と再建の方向についてレクチャーしていた。
当初、中野は近衛が陛下に拝謁し、直接戦局の現状と将来の展望についてご説明申し上げ、陛下に戦争に対する正しい認識を持っていただき、ご聖断を仰ごうとした。
しかし陛下に拝謁するには木戸幸一内大臣の同意と陛下への取り次ぎが必要だった。
木戸と東條との間には、東條の承認を得たものでなければ、絶対に陛下に拝謁させないという約束ができていたともいう。
そこで、中野は重臣会議の場で東條に直接引導をわたす戦略に切り替え、八月二十三日の近衛・宇垣会談でその合意ができた。
こうして、近衛、岡田啓介、平沼麒一郎の三人が発起人になって、東條を招待することになった。
岡田が幹事役として、政局、戦局の重大性を指摘し、それに関する資料を米内光政が示して、東條を批判し、近衛が辞任を勧告するという作戦も立てられた。
八月三十日、東條に退陣を勧告するときが訪れた。
反東條派の重臣岡田・米内、近衛らが東條を招いた。
東條は重光葵外相、賀屋興宣蔵相、島田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁を引き連れて、重臣の待つ華族会館に乗り込んできた。
重臣は戦況に対する不満の意を表して、暗に引責辞職を期待する態度を示した。
しかし、中野の秘書を務めていた永田正義によると、東條は「重臣達はこういう会議をやって内閥転覆の陰謀をやっている。……重臣諸公と難も容赦しませんよ」とたんかを切り、「忙しい」と言って出ていってしまった。
東條は十月二十五日に開会される衆議院に中野が出席することを恐れ、その前に手を打ってきた。
同月二十一日午前六時、警視庁の特高約百名を動員して、中野検挙に踏み切ったのである。
同日、勤皇まことむすびの天野辰夫、片岡駿、中村武彦ら、さらに勤皇同志会の幹部も検挙された。獄中で中野は、自らの理想を振り返っていた。
欧米列強の植民地支配の打破とアジアの復興
中野は明治十九年二月十二日、旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現中央区荒戸)に生まれ、甚太郎と名付けられた。
中野家は代々黒田藩の御船方で、父泰次郎の代に分家し、福岡市西町(現中央区今川)で質屋を家業としていた。
尋常科四年を済ませた甚太郎は、明治二十八年に福岡県立師範付属小学校の高等科に進み、頭山満の甥の柴田文次郎(文城)から漢学を学んだ。
十四歳になった甚太郎は修猷館に進学、在学中の明治三十六年に自ら正剛と改名した。
同じ町内にいた中野甚太郎という同姓同名の不良が悪事をして捕まったのがきっかけだ。トラは「まさかた」と読むつもりだったが、「せいごう」で通ってしまった。
修猷館時代に中野は左の大腿部を痛め、それがそのまま固まってしまった。
後に柔道の稽古の際に強打してさらに悪化させ、手術を受けたものの、足がほんの少しだけ不自由になってしまった。
それでも彼は柔道を続け、仲間たちと道場「振武館」を開いた。
明治三十八年に修猷館を卒業後、中野は早稲田大学政治経済学科に進学した。
修猷館の同窓緒方竹虎は中国貿易を志して一旦高商に入ったが、中野の勧めもあって早稲田に転じた。二人は、茗荷谷に一軒を借りて自炊生活を始めた。
明治四十二年七月、早稲田を卒業した中野は同級生の風見章とともに、『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)を発行していた日報社に入社した。
ところが、同社の経営状態は芳しくなく、同年十一月には朝日新聞社に移る。
当時の様子を、桐生悠々は「つねに紋付袴姿で出社、国士をもって任じ、肩を怒らして書生気質を現わし、覇気横溢、犬養の崇拝家で儕輩を見下ろしていた」と振り返る(猪俣敬太郎『中野正剛』吉川弘文館、昭和六十三年、三十頁)。
中野は「戎蛮馬」のペンネームで「朝野の政治家」と題する人物論を連載し、藩閥、軍閥に対する政党政治家の奮起を促した。
この連載は『八面鋒─朝野の政治家』として刊行されている。
明治四十四年夏には、『明治民権史論』の著述に取り掛かり、大正元年十月から『朝日新聞』紙上に連載した。
ここで中野は、藩閥の巨魁である伊藤博文を、みだりにビスマルクを気取る「柔弱なる鉄血宰相」と揶揄するなど、反藩閥の立場を鮮明にし、自由民権運動の敗北原因を考究、次のように結論づけた。
「閥族を掃蕩せば、同時に政党を改善するを閑却すべからず。もしそれ藩閥の毒血を洗うに、党閥の汚血を以てするが如きは、吾人のもっとも戒めざるべからざる所なり。かくの如きは、明治年代において未だ完成せられざる維新の大業を継承して、その精神を拡充する所以にあらず」
中野は、自由民権運動の原点を、維新の貫徹を目指して斃れた西郷南洲の精神に見ていたのである。
彼はその文名を謳われるようになったが、護憲運動へ肩入れして社内で孤立していった。
早稲田の同窓梅沢慎六は、そんな中野について、「学生時代から孤高の風があった」と振り返っている。
修猷館時代から中野は玄洋社に出入していた。
「振武館」を作る際に資金を出したのも、玄洋社の平岡浩太郎であった。早稲田在学中に大陸への関心をさらに強めた中野は、頭山満を訪れ、やがて孫文、黄興、宋教仁らと出会う。また、早稲田時代には、後に満洲国交通部総長などを務める丁鑑修と交流していた。中野は丁のために授業のノートをとってやるなどの心遣いを見せたという。明治四十一年夏には丁とともに満洲を訪問している。このとき中野らが訪れたのが、大連で活躍していた金子雪斎(平吉)であった。
雪斎は私塾「振東学社」で現地の青年や日本人青年三十余名を養っていた。
日露戦争に通訳として従軍した後、明治三十九年に遼東新報社に入り、以来満洲を拠点に活動していた。
明治四十一年に大連に『泰東日報』を創刊、大正五年に興亜の人材養成を願って設立したのが振東学社である。
この出会い以来、中野は大正十四年に雪斎が亡くなるまで、私淑し続けることになった。
あるとき、中野が雪斎と朝鮮問題について議論した時、雪斎は「朝鮮は独立させてやるべきだ」と語ったという。
雪斎は「人間が人間に対して『お前は独立してはいけない』など、どうして曰へるか。そんな馬鹿な説法は、如何に巧妙に潤色しても、朝鮮人は誰も耳を傾けない」と言い切った。
中野は雪斎流の独立論をとることはなかったが、朝鮮統治の現状を正面から批判し、「一視同仁の同化政策」を徹底せよと次のように説いた。
「余は人類なるものの性情より推して、圧制の決して新附の民を御する所以に非ざるを説きたり。……鮮人に参政権を与ふるの準備をなすと同時に、皇室の連枝を新領土に迎へ奉りて、威厳と思愛の源泉となすにあり」
中野は、大正四年三月にはヨーロッパ視察に赴いた。そのとき目撃した列強のアジア支配の惨状が、彼の興亜への思いをますます強めさせることになった。
彼は、視察の紀行「亡国の山河」冒頭で次のように書いている。
「国亡びて山河あり、城春にして草木深し、鳴呼これ何ら悽愴の言ぞや。神戸を解繿してよりマルセイユに着するまで、その経る所はみな亡国もしくは半亡国なり、しかしてこれら亡国の民はみな吾人と思想感情文明の系統を同じうする有色人種にして、これらを征服しこれらを利用する優勝者は、みな吾人と祖先を異にし文教を異にする白人なり。吾人は白人に対して怨なく、白人の教を受くるに吝ならず。されど彼ヒューマニティを叫べば、我にも人道主義の声あり、彼我の揚言するところを実行せんとならば、世界の人種的不公平あるを許すべからず。かくて余が渡欧の旅行記は、期せずして人種的偏見を呪う無韻の叙情詩となれり」
大正五年七月に視察を終えて帰国した中野は、興亜の立場から政府の対外政策を厳しく批判した。
頭山満、三浦梧楼に宛てた書簡では、大正四年一月に加藤高明外務大臣が行った対支二十一カ条要求を失敗だったと批判している。
同年九月、早稲田の先輩で『時事新報』の記者を務めていた東則正が『東方時論』を創刊、まもなく同誌主幹に就くことが決まり、中野は朝日新聞を退社する。
政治家を志した中野は大正六年四月の総選挙に出馬、このときは落選という結果に終わったが、大正九年に再度出馬し初当選を果たす。
欧米列強の植民地支配の打破とアジアの復興を目指す中野は、主体性なき外交、列強追随の外交を激しく批判した。
第一次世界大戦末期の大正七年春に連合国がレーニン新政府を打倒するためシベリアへ出兵、日本もこれに追随した。
大正九年一月にアメリカが撤退した後も日本軍は退かなかった。
その結果、同年三月から五月にかけて、ロシア領サガレン州の首府ニコライエフスクで、七百余名の日本軍守備隊および居留民が殺害された。尼港事件である。
こうした結果を招くことになった日本政府の姿勢を、中野は「無方針」、「ご都合主義」、「非日本的」、「外国本位」だと痛烈に批判している。
議員としての中野の最初の演説が尼港問題審査会設置決議案に関するものだったのは、決して偶然ではない。
独伊への接近の真意
大正九年五月の総選挙で初当選を果たした中野は、以後、八回にわたり当選を重ねた。
大正十一年には革新倶楽部を結成、大正十三年には憲政会に入会、同党は昭和二年に立憲民政党に改編される。
昭和三年には陸軍機密費横領問題や張作霖爆殺事件で田中儀一内閣を激しく追及した。
この間、四十二歳の前厄にあたる大正十五年は、中野にとって最悪の年であった。
周囲の反対を押し切って足の傷跡を整形する手術に踏み切ったが、術後に異変が起こった。
血管の処置にミスがあったためか、左足の爪先から枯死が始まったのである。
医者はついに足首を切断する決心をして手術を開始したが、結局膝の上まで切り落とされることになった。片足を失った後も、中野は政治家としての活動を続けた。
満洲事変勃発、国際連盟脱退という激動の中で、中野の政治活動は新たな展開を見せる。
昭和七年に立憲民政党を離党し、安達謙蔵と共に国民同盟を結成、綱領として「立国の精神を拡充し、国際正義の再建を期す」と謳った。
翌昭和八年には「国家改造計画綱領」を発表、強力内閣を組織せよと唱えた。
国民同盟が日本の政党として初めて黒サージの制服を用いたこともあり、新聞は「ファショ・ユニホーム」と揶揄した。
やがて昭和十二年十一月に、中野はイタリア、ドイツを訪問し、ムッソリーニとヒトラーと会見する。
こうした独伊への傾斜について、栄沢幸二氏は「大正デモクラットからファシストへと自己の立場を一変させた」と断じる(栄沢幸二『「大東亜共栄圏」の思想』講談社、平成七年、四十八頁)。
親友の緒方でさえ、
「彼の平生を知る私には、彼のファッショ擬いの黒いユニフォーム、ナチのハーケンクロイツに似た徽章、それからその独伊巡礼等々、すべて憑きものがしたとしか思えなかった」と回想している。
しかし、室潔氏が指摘する通り、ヴェルサイユ体制批判は満洲問題に乗じて突如出てきたものではない(室潔『東條討つべし』朝日新聞社、平成七年、三十一頁)。
また室氏は、中野がナチスに注目したのは、その活動形態の効果への期待であったと指摘している。
「日本型ファシズムに対して、体を張って抵抗した」のは中野ただ一人だと喝破した日下藤吾の説に、筆者は同意する(江口敏『志に生きる!』清流出版、平成十五年、二十頁)。
内外の激動に翻弄されつつも、中野は英米支配の国際秩序の打破とアジアの復興を目指し続けていた。
昭和十一年一月には南京で蒋介石と会談している。
支那事変勃発後にも「日本が支那において排撃しつつあるものは欧米的外来支配原理であって、断じて支那民衆ではない。……日本が支那において戦い取らんとしつつあるものは、日本的東亜共存原理であって、断じて領土でもなければ資源でもない。そこで終局の結果として日本は極東において欧米的外来支配原理を一掃して、日本的東亜共存原理の下、日支の根本的融合を企図するものである」という立場を貫いた(中野泰雄『政治家中野正剛 下』新光閣書店、昭和四十六、二百六十五頁)。
この間、中野は昭和十年末に国民同盟から脱退、昭和十一年五月、東方会を政治団体とし、自ら総裁に就いた。
機関誌『我観』は『東大陸』と改題された。改題の趣旨で雪嶺は「東大陸幾億の民が立国すべきに立国し、地の利に応じて、文明を発揚し、世界の進化をこいねがうようにと思い立った」と書いている。
中野は、昭和十四年以降、排英・南進を声高に叫んでいく。
昭和十五年八月に第二次近衛内閣のもとで新体制準備会ができると、中野は準備委員の一人に選出された。
同年十月には大政翼賛会の総務に就き、東方会を解党、振東社を創設する。だが、昭和十六年二月に、平沼内相が翼賛会を政治結社ではなく公事結社であると規定すると、中野は翼賛会脱退に踏み切る。
昭和十六年十月に総理に就いた東條英機は、同年十二月八日対英米開戦に踏み切った。
この時中野は「何たる痛快事であるか」、「この一撃、全日本人に対して日本晴れの気分を満喫させた」と開戦に歓喜していた。
だが、まもなく東條の方針に違和感を感じ始める。
中野は『東大陸』昭和十七年一月号で「戦時下の国民運動は権力によりて命令し、法律制度罰則によりて民衆を強制することにのみよりて、その目的を達成することは覚束ない。国家総力を積極的に発揮せんと欲せば、国民の自発的協力を誘い出さねばならぬ」と書いた。だが、一方で彼は「日本政府はすでに日本的信念に基きて、大東亜経綸の大綱を闡明して居る」とも評価していた(『東大陸』昭和十七年二月)。
中野は戦時の要請を十分に承知していた。
ただ、彼は上から強制されることなく、国民がそれぞれの使命に向かって自発的に献身する日本社会の理想の実現を願っていた。
同時に、彼が求めたものは、物質にも精神にも偏らず、両者を一体のものとしてとらえる日本人の精神であった。
昭和十七年十月十日、帝都日日新聞社主催の長期戦完遂演説会で、ともに講演を務めた商工大臣岸信介の講演を聞いたとき、中野は物質的裏付けを欠いたまま精神力の発揚を強要する戦争指導に決定的な違和感を抱いた。
岸の思想を独占的官僚制資本主義のイデオロギーだと捉えたのである。
また、室氏は、上意下達、命令と服従という軍事の発想をすべてとする東條の戦争指導は中野とは正反対のものだったと指摘している。
中野は孟子の「豪傑の士文王なしと雖も猶興る」の精神に回帰するとともに、世田谷の振東塾道場での講義の題材に、頼山陽の『日本外史』を用いるようになる。
彼が天皇親政の理想に立ち返ったとき、北条、足利、藤原、蘇我等、特殊な権力階級が分を乱すことへの憤りが、国体の問題として把握されていたに違いない。
自決によって中野が示したものとは
中野は昭和十七年十一月十日に早稲田大学大隈講堂で二時間半にわたって演説し、魂の叫びを吐き出した。「天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ」
朝日の大西斎が「早稲田大学創立以来の名講演」と評したこの演説の一部は『東大陸』十二月号に掲載されたが、すぐに発禁処分となった。
数日後、内務省、警視庁などは東方会の演説会に対しては一切許可を与えないことを決めた。
『朝日新聞』昭和十八年正月号に載せた「戦時宰相論」では諸葛孔明を引き合いに出し「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんが為には、誠忠に、謹慎に、廉潔にして気宇広大でなければならぬ」と書いた。
情報局はこの原稿を問題なしとして通したにもかかわらず、東條の手によって発禁となった。
そして、同年十二月二十一日の日比谷公会堂での講演を最後に、中野の演説は一切禁止された。
もはや字句ではなく、中野の存在自体を東條は許さなくなっていたのである。
ここに至り中野の選択肢には東條政権打倒以外にはなくなった。
こうして、彼は工作を開始したのである。
翌昭和十八年二月の第八十一議会の貴族院本会議では、「内閣不可侵法」とも呼ばれる戦時刑事特別法改正案が成立し、倒閣運動も大臣の不信任も政府批判も、すべて「国政変乱」の罪に問われる恐れが出てきた。
中野は、昭和十八年十月二十一日に逮捕された。
戦時刑事特別法による「国政変乱のための協議、煽動、宣伝」の罪に該当するとの見込みであったが、確証はなく行政処分での拘束だった。明確な容疑は、ある青年に「日本は負ける」と話したことだけであった。
二十五日午前四時半、中野は、警視庁の独房十号から、憲兵隊に移された。東條は中野の起訴を主張したが、結局中野は釈放され、二十六日午後二時代々木の自宅に戻った。
中野は、二十七日午前零時、蔭地紙の橘紋入りで郡山紬の羽織りの紐をほどき、最期の時を迎えた。五十八歳だった。
正座できない中野は椅子に腰かけ、古式に従って腹を形式的に切った上で、右頚動脈を思い切り切断した。
勢いよく噴き出す血潮の音を気遣って左手で切り口を押さえたのか、椅子の右側は血に染まっておらず、腰かけ部に大量の血痕がついていたという。一昨年閉鎖された玄洋社記念館を十五年ほど前に訪れたときに見た、自刃時に着用されていた衣服が壮絶な最期を物語っていた。
中野は何を思って自決したのであろうか。取調べの最中に何が起こったかは闇の中である。
渡邊行男氏はスパイ容疑を突きつけられた可能性を指摘しているが、どうであろうか。憲兵隊で中野を取り調べた大西敬二郎中尉は、中野が「この戦争遂行のために軍に協力していこうと思う」と述べたとし、それが「軍に対する終戦宣言」ではなかったかと思うと振り返っている。大西によれば、中野は翌日からの議会にも出席しないことに同意していたという。
中野が追いつめられていたことは間違いない。
取調べがさらに継続し、工作に関与した皇族や重臣に迷惑を及ぼすことを避けたかったに違いないし、世田谷の部隊に在隊していた二男が肩身の狭い思いをするようになることも避けたかったようである。
妻と二人の息子とに先立たれた中野は、死について特別の境地に達していたのだろうか、友人の中山優に「国家の問題さえ気にかかるものがなければ、死というものは、実は僕には大した問題ではない」と語っていたともいう。
対英米開戦の責任を痛感していたという説もある。
だからこそ、中野は自らの死によって、残される者たちの記憶に東條の間違いを刻みつけたかったのではなかろうか。
自刃の部屋には、雑賀博愛による『大西郷全伝』第二巻が置かれ、楠正成の湊川出陣の馬上銅像の模像が運ばれていた。
彼は『日本外史』の講義で「よく妥協する者はこんなことをいう、自分が死んだら、あとに人がいないから…と。そんなことをいうからいないのだ。自分が死ねば、その壮烈なる死に刺激せられて、後継者はかならず出てくる」とも語っていた。
長男泰雄は、「死によって、さらに祖国のためにこの不当な権力に対する戦いにさらに目覚めるであろうことを期待した」と、父の死を理解していた。
昭和十六年七月、全ての興亜団体は大日本興亜同盟に吸収され、政治団体としての個別の活動を停止した。
この事態について、竹内好は「アジア主義的な思想を弾圧することによって共栄圏思想は成立したのであるから、それは見方によってはアジア主義の無思想化の極限状態ともいえる」と書いた。
それでもなお、開戦から三カ月後の昭和十七年二月、中野は『東大陸』に「大東亜戦争下の東方会運動」と題して次のように書いていた。
「我等が現地人に対して高揚すべきものは人種的優越感でなくて、道義的矜持である。随て我等は英米人の如く、特権的に君臨支配せんとするものでなく、友情と権威によりて、本質的に指導誘掖せんとするものである」
いま私たちは、中野の死から、東條政権下の大東亜共栄圏とは異なる、もう一つの「大東亜共栄圏」構想があったことを確かに知ることができる。