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受け取る時期を遅らせれば、自然と額が増える年金の「繰り下げ」制度。
長寿化を見据え、今年の改正で遅らせる期間が「75歳まで」に拡大されたが、夫婦で話し合って繰り下げに成功した社会保険労務士をはじめ年金専門家の間で評判が悪い。「一般の人には使いにくい」というのだ。
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「大きな安心を得ることができました」
ホッとした表情でこう話すのは、東京都内に住む澤木明さん。この8月に70歳になった澤木さんは、見事、5年間の年金繰り下げ“待機生活”を満了した。
「老齢基礎年金と老齢厚生年金をともに繰り下げたので、私の年金額は年間300万円に迫る水準まで増えました。
1歳下の妻も話し合って老齢基礎年金を繰り下げていて、来春、満了します。年金だけで生活費を賄えるようになれそうです」
澤木さんは大手精密機器メーカーの人事マンだった。
社会保険労務士とファイナンシャルプランナー(FP)の資格をとって51歳で独立し、いまやセミナー講師やマネー相談で各地を飛び回る日々だ。
いわば、年金とマネーの専門家が、私生活でも「勝ち組老後」を実践した格好。
「最低80歳までは現役を続けたい」と思っているだけに、繰り下げ制度の広がりを歓迎する。
「もし私が拡大された制度を使えるのなら、当然、75歳までの繰り下げに挑戦しますよ」と、自らのチャレンジには意欲満々だ。
ところが、「普通の相談者にはどうアドバイスしますか」と問うと、正反対のことを言い始めた。
「そうですね……繰り下げするにしても70歳までがいいところですよ、と言うでしょうね」
拡大された部分は勧めない!? いったい、どういうことなのか……。
生きていくためにはお金がいる。
働ける間はいいが、高齢で働けなくなっても生活費はかかる。
総務省の家計調査(2019年)によると、高齢夫婦無職世帯の毎月の支出約27万円に対し、収入は約23万7千円で、このうち大半の約21万7千円を年金が占める。
収入と支出の差は貯蓄を取り崩すしかなく、つまり年金だけでは暮らしていけない家計が大半だ。
そこで注目されるのが、高齢になってもお金を増やせる年金の繰り下げ制度である。
年金の受給開始は「65歳から」が基本だが、開始時期を遅らせれば遅らせるほど年金額が増えていく。
しかも、増え方が半端ではない。
1カ月遅らせるごとに「0.7%」ずつ増えるのだ。
1年で8.4%増。かりに年金額が年100万円だと、1年繰り下げれば108.4万円になる。
年金は金融商品ではないものの、メガバンクのスーパー定期の預金金利「年0.002%」と比べると、実に4200倍である。
年金は夫婦で考える時代。澤木さんのように、2人そろって繰り下げれば効果はダブルだ。
折しも超高齢化が進むなか、国は「長く働いて、年金は遅くもらう」生き方を奨励し始めている。
実際、高齢で働く人が増えているため、国は繰り下げ制度の拡大でこうした人たちに選択肢を増やした。上限年齢を「70歳まで」から「75歳まで」に引き上げたのだ(施行は22年4月予定)。
増額率は変えなかったが、それでも70歳までの「42%増」(0.7%×12カ月×5年)が、75歳だ「84%増」まで増やせる。
しかし、年金実務に詳しい社会保険労務士の三宅明彦氏は首を横に振る。
「国は改正で、繰り下げを『より柔軟で使いやすくした』と言っていますが、全然そうなっていないのです。柔軟どころか、使いにくい面が多いと言ってもいい」
広がった「70歳以上75歳未満」の部分に、一般の人を“その気”にさせる魅力が薄いというのだ。
「まず挙げなければならないのは、『追いつくのが遅い』点です。
75歳まで10年繰り下げると、65歳から年金をもらい始めた人と累計受給額で同じになるのは約12年後の87歳。
年金が増えると税金も増えるので、手取りだと、90歳くらいまで生きないと割に合いません」
受給開始時期の違いで、累計受給額がどう変化するかを比べた。
年金を年間100万円受給できる人がいたとして、本来の開始時期「65歳」と、繰り下げ制度の節目となる現行の上限年齢「70歳」と改正された上限年齢「75歳」、そして「70~75歳」の中間に近い「73歳」のそれぞれの年齢ごとの累計受給額が計算されている。
増額率が同じなので、どこからもらい始めても、65歳受給開始に追いつくには約12年、70歳より遅くもらい始めると70歳受給開始に追いつくのに約17年かかる。
確かに拡大された70歳以上の部分は、80歳代半ばにならないと元が取れないイメージだ。
上限の75歳まで遅らせると、「70歳から」に追いつくのが92歳、「73歳から」に追いつくには「95歳」になってしまう。
受給前に万が一のことがあっては元も子もない。
男性の平均寿命が「81歳」、60歳男性の平均余命が「24年」であることを考えると遅い気がする。三宅氏が言う。
「これは、増額率を70歳以前と以後で分けなかったことが大きいと思います。
繰り下げ受給者を増やしたいのなら、70歳以降は0.8%とか思い切って1%などにアップすればよかったのではないでしょうか」
何歳からもらっても平均寿命ぐらいまで生きれば累計受給額は変わらないという意味で、繰り下げ制度は「財政中立」になるように設計されている。
しかし、それでは不十分とする主張である。
「このほか、厚生年金の加入可能年齢を、現行の『70歳まで』から『75歳まで』に延ばさなかったことも、制度を使いにくいものにする一因になると思っています。繰り下げ待機中は、働きながら保険料を納めて年金を増額させていくのが筋だと思いますが、この制度では70歳以降は単に待っているだけの期間になってしまいます」(三宅氏)
どうやら70歳以上の繰り下げは、制度的に突っ込みどころが多いようだ。
「結果として、制度はつくってみたものの利用者がほとんどいない、ということにならないか、心配しているんです」(同)
では現実問題として、70歳以上の繰り下げを利用する人はいるのか。
成功者である冒頭の澤木さんによると、繰り下げは「健康」「仕事」「蓄え」の三拍子がそろって初めてできることだという。
「待機生活を問題なく過ごすには、この三つが欠かせません。例えば、健康は毎年の健康診断や普段の運動だけでなく、自分の家が長寿家系かどうかも調べるべきです。私の場合、母が101歳まで生きたことが『長生きできる』という自信につながっています」
そして健康は、三宅氏が指摘した「元が取れるまで生きられるか」に直結する。
「(平均寿命などを見ると)男性は元が取れる可能性が高くないのです。だから70歳以上は勧められない。逆に女性は有望ですよ。60歳時点での平均余命が29年もありますから」(澤木さん)
最大の問題は、繰り下げ待機をしている間の「生活費」だろう。]
健康を維持したうえで仕事ができるのなら最高だ。
しかし、澤木さんのように資格を持って自営し、70歳になっても安定収入を得ている例は珍しい。
来年4月、改正高年齢者雇用安定法が施行される。70歳までの就労の機会確保が努力義務化されたが、ようやく65歳以上70歳未満の働く場の確保に向けて手がつき始めた段階にすぎない。
それでも澤木さんはチャンスはあるという。
「新型コロナウイルスが収束すれば、人手不足状態に戻るとみているので、仕事はあると思っていい。男性なら警備や介護、女性なら給食関係や介護が中心ですが……」
元ホワイトカラーでも対応できるのか。
「大企業の元管理職は、現場で働く自分の姿を昔の同僚に見られたくないと思いがちですが、本人に働きたいという気持ちがあれば乗り越えられるはずです。私のかつての同僚には、公園の草花管理の仕事をしている元管理職もいますよ」(同)
もし仕事が見つからないのなら、三つ目の「蓄え」を使って待機生活の費用を賄うことは考えられないのか。
年金に詳しいFPの長尾義弘氏は、老後生活の収入と支出のバランスが取れていれば、それは「あり」だとする。
「介護や病気になったときの準備として800万円程度は最低必要なのですが、それだけの資金が残るのなら、65歳までためたお金を待機生活に使ってもいいと思います。収入の範囲内で生活できれば、繰り下げ待機終了後、老後資金を取り崩さなくても済みますから」
例えば、老齢基礎年金と老齢厚生年金で年240万円を受給できる人がいたとしよう。
5年間繰り下げると42%増で、年金は340.8万円に増える。
そして夫婦2人の年間生活費が、340.8万円以内なら「よし」とする考え方だ。
ただし、待機中もこの生活費で暮らしていけるとしても、70歳までの5年で約1700万円かかる。
別に800万円が必要だから、65歳までに用意するお金は最低2500万円ほどだ。その先も繰り下げを続けるのなら、さらなる蓄えがいる。
「損得ベースでみれば72歳ごろまでの繰り下げが理論的には可能なのですが、あくまで余裕がある人の話です」(長尾氏)
ちなみに、金融広報中央委員会の最新のアンケート調査によると、世帯主が60歳代の2人以上世帯の平均貯蓄額は1635万円。中央値は650万円で、金融資産を持っていない世帯が4分の1近くある。どうやら、2500万円もの蓄えがある家計は少なそうだ。
夫婦で考える場合、次のような視点も大切だ。
今の60歳以上の女性には専業主婦が多く、「自分の自由になるお金がほしい」などの理由で、繰り下げよりも、むしろ年金を早くもらい始める「繰り上げ」を選ぶケースも多いという。
しかし、社労士でFPの井戸美枝氏は、女性こそ繰り下げを選ぶべきだという。
「妻は夫より長生きすることが多く、夫の死後、一人で暮らす期間が10年以上になることもしばしばだからです。そんなとき、妻が自分の老齢基礎年金を繰り下げで増やしておけば、夫の遺族厚生年金と合わせて月額約14万円の年金収入が期待できます」
目先のお金にとらわれて繰り上げをするのは、なぜダメなのか。
「一人になったときにみじめな思いをしなければならないからです。よくよく、後々のことを考えてほしい」(井戸氏)
とはいえ、70歳以上の繰り下げには、ややためらいを感じるという。
「65歳以上になると、『公的年金等控除』として110万円の所得控除が認められています。妻が老齢基礎年金を5年繰り下げると、満額の場合、ほぼぴったりこの金額なんです。年金を考えるときは、支払う税金のことも考えてください」(同)
このように多角的に見ていくと、現状では「70歳以上75歳未満」の繰り下げには、数々のハードルがありそうだ。
しかし、だからといって繰り下げはあきらめたくない。
多くの専門家は選択肢の広がりを歓迎し、長生きリスクには繰り下げが効果的と認めている。
ならば、「できない」ではなく、「できる」ように現状を変えていくことが必要ではないか。
まずは働く場所を確保し、広げていくことだろう。それこそ、高齢者が自然と繰り下げを選べるようになる第一歩である。(本誌・首藤由之)
※週刊朝日 2020年10月30日号