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終戦直後の引き揚げ、なぜ「国民的記憶」にならなかったのか

2020-10-24 16:56:27 | 日記

終戦直後の引き揚げ、なぜ「国民的記憶」にならなかったのか

『加藤聖文』 2020/10/07

加藤聖文(国文学研究資料館准教授)

今から75年前、大日本帝国という、現在の日本国よりも広大な支配領域を持つ国家が存在していた。
 
大日本帝国は台湾、朝鮮半島、大連と旅順を含む遼東半島の先端部(関東州)、サハリン島の南半分(南樺太)、ミクロネシア(南洋群島)を支配していた。
 
さらに満洲国といった傀儡(かいらい)国家を通じて中国東北を実質的に支配し、日中戦争が始まると、中国本土にも蒙古自治邦政府、南京国民政府といった傀儡政権を樹立した。最盛期には東南アジアも占領した。
 
1945年、大日本帝国は第2次世界大戦に敗れたことによって崩壊する。
 
私たちは昭和天皇が国民に終戦を伝えた玉音放送が流れた8月15日を境に、大日本帝国の時代であった戦前と、日本国の時代となる戦後を切り分け、この年を起点に「戦後何年」といった呼び方をしている。
 
大日本帝国が崩壊すると、歌謡曲『リンゴの唄』(霧島昇、並木路子)が流れる平和な時代がスタートしたように思われがちだが、ここには大きく見落とされた現実がある。
 
大日本帝国が支配領域を拡大するにつれて、そこに日本人が渡っていった。
 
国際化社会といわれる現在ではビジネスパーソンなどが海外に移り住み、アジアには約40万人の日本人が居住している。
 
この数は敗戦時の樺太(サハリン)にいた日本人とほぼ同じである。
 
同時期のアジアには、現在の9倍に近い350万人の民間人が居住しており、現在の大阪市の人口、270万人より80万人も多い。
 
 これだけの日本人が敗戦によって「外国」となった地域に残留することになった。
 
彼らが日本へ帰還することは海外引き揚げと呼ばれ、帰還者らは引き揚げ者と呼ばれた。ただし、彼らが平穏無事に帰還できたわけではない。
岸壁で引き揚げ者を出迎える人々(舞鶴引揚記念館提供)
岸壁で引き揚げ者を出迎える人々(舞鶴引揚記念館提供)

「現政権では“韓日のwin-win”は不可能」韓国元陸軍中将が告白した「いま文在寅が怖がっているモノ」とは?

2020-10-24 15:10:28 | 日記

「現政権では“韓日のwin-win”は不可能」韓国元陸軍中将が告白した「いま文在寅が怖がっているモノ」とは?

文春オンライン / 2020年10月18日 6時0分

写真

インタビューに答えた申源湜(シン・ウォンシク)議員 ©文藝春秋

 

「お父さんが残酷な方法で殺されたとき、国は何をしていましたか。(略)もし大統領の子供や孫だったら、今のようにしますでしょうか」。この文章は、軍事境界線の海域に漂流中に北朝鮮軍に射殺、焼却された韓国海洋水産部所属の男性A氏の高校2年になる息子が10月6日、文在寅大統領に送った手紙内容の一部である。

 文大統領は「父を失った息子の気持ちは理解できる。私も心が痛い」と答えたものの、その2日後には、非営利団体での演説でふたたび朝鮮戦争の「終戦宣言」を提案するなど、北朝鮮を追及する姿勢は見せていない。

 そんな文在寅大統領の対応に韓国では批判が続いているが、その急先鋒に立つのが、第1野党「国民の力」(元未来統合党)の申源湜(シン・ウォンシク)議員だ。

 申氏は、韓国軍で大統領の信頼が厚い人物が任命される首都防衛司令官や、実質的な軍No.2ともいわれる合同参謀本部次長などの要職を歴任した実力者で、今年4月の総選挙で国会議員に当選している。申氏に、今回の射殺事件の分析、そして文在寅政権の問題点について聞いた。

◆◆◆

これまでの「3つの合意」も生かせなかった

 今回の事件は、北朝鮮による明らかな反人道的で凶悪な犯罪です。

 北朝鮮も加入しているジュネーヴ条約によって、戦時中であっても民間人を射殺することは国際的に禁止されている。さらに、その場で「即決処分」することを禁止する国連経済社会理事会の決議にも違反しています。つまり戦時においても非武装の民間人を即決処分することは大きな問題ですが、今回は「平時」でした。はるかに凶悪な犯罪です。

 このような国際的に見て明らかな犯罪行為に対して、文在寅政権は適切な対応を取っていません。この問題点は、大きく3つに分けられます。

 1つ目は、この犯罪を防ぐための、さまざまな手段と機会があったにもかかわらず、文在寅政権は何もしなかったことです。行方不明の届出が伝わった9月21日午後1時から22日午後9時40分まで、約33時間もありましたが、まともな手続きを取られなかったのです。

 今回のケースで、文在寅政権は、南北間で交わされた3つの合意に基づいた「通知」を出せたはずです。例えば、2005年に発効した「南北海運合意書」では、人命の救助に南北が共同で対応することも定められています。2018年9月の南北首脳会談の際、平壌共同宣言と共に交わされた「9.19合意」でも、南北は海上で敵対行為をしないことで合意されていますが、それに対して、通知を出した形跡がありません。

8つある「南北間のチャンネル」

 実は南北間の通信手段には、8つのチャンネルがあります。

「南北赤十字チャンネル」
「韓国の統一部=北朝鮮の祖国平和統一委員会の当局間チャンネル」
「東西海軍通信線」
「海事通信線」
「航空管制網」
「青瓦台(大統領府)=朝鮮労働党3号庁舎(金正恩委員長の執務室)のホットライン」
「国家情報院=北朝鮮統一戦線部チャンネル」
「国連軍の軍事停戦委員会」

 ちなみに、「青瓦台=朝鮮労働党3号庁舎のホットライン」は文在寅政権になってできたもの、「国家情報院=北朝鮮統一戦線部チャンネル」は、今回の事件で北朝鮮が金正恩の異例の謝罪を含む「通知文」を送るのに使いました。

 これら全ての手段を通じて、北朝鮮側に通報をしなければなりません。A氏が行方不明になったのが国境海域ですから「北側にA氏が流れていく可能性があるので、発見されたらすぐに返すように」と通報するべきだったのです。次に、韓国軍から板門店チャンネル、すなわち軍事停戦委員会を通じて通知をしなければならない。

 さらに、特に敏感な海域での出来事ですから、国内外のマスコミに迅速に知らせる必要があった。もし、すぐに報じられていれば、北朝鮮は行方不明者を殺すことができないでしょう。

 これらの手段を尽くしていれば、失踪したA氏を、北朝鮮側が宣伝として利用したとしても、殺すことはできなかったはずです。命を救うための措置を取る努力を全くしなかったのです。

救助措置をしなかった大統領に最も責任がある

 2つ目は、文在寅大統領の責任が明らかになっていないという問題です。これまで見てきたように文政権はA氏を救うための措置をほとんどしなかったのですが、その判断の中心には文在寅大統領の存在がありました。

 文大統領が、A氏失踪後30時間以上報告を受けていないと言っているのもおかしいですが、とにかくA氏が生存していた9月22日午後6時40分に報告を受けたのは事実です。しかし、文大統領は何の措置もしませんでした。救助措置や指示はありませんでした。つまり、大統領に最も責任があるのは確かです。

 3つ目は、A氏殺害後の対応の問題です。A氏が射殺された後も、政府は事件を隠して北朝鮮に対しての措置を取らなかった。「国民にどのように言い訳をするか」について、全ての努力を集中させたのです。

 A氏が殺害されて3時間経った頃、最初の関係長官会議が開かれましたが、生存していた期間には開かれていません。亡くなられた後に集まって大騒ぎしはじめた。

 青瓦台(大統領府)と与党が持ち出した「言い訳」の中心は、「A氏が越北(北朝鮮へ亡命)したがっていた」と押し通すことでした。

 文政権は、韓国軍の通信傍受で、北朝鮮軍がA氏に「なぜ越えてきたのか」と聞くと「越北」と答えたことを「越北したがっていた」理由に挙げていますが、これは証拠になりません。なぜなら生命が危機に晒されている絶体絶命の状況での供述は、証拠として認められないからです。A氏の失踪届が出されたのが21日午後1時で、北朝鮮軍に発見されたのは26時間半後です。その状況で、北朝鮮軍に銃を突き付けられているのに「私を韓国に返してほしい」といえるでしょうか。「越北したい」と言うしかなかったのでしょう。

不確かなことを政府が広める「蛮行」

 冒頭で触れたように、非武装の民間人を殺害しただけでもありえない犯罪です。そして、その民間人が行方不明であれ、越北であれ、救出努力をするのは、政府の責務です。失踪者に越北の意思があったとしても、A氏の事件について韓国政府と軍の責任がなくなるわけではありません。

 さらに、「A氏は越北したがっていた」という不確かなことを、政府と与党が先頭に立って広めるのは、猟奇的で、非人間的な蛮行です。

 韓国政府は、国連安全保障理事会を通じて国際刑事裁判所(ICC)に、この事件を提訴しなければなりません。北朝鮮がICCに加盟していないため、すぐに提訴はできませんが、国連安保理の決議があればICCに提訴することが可能です。韓国は友好国と協力し、あらゆる努力を尽くして国連安保理決議案を可決させる必要があります。

 文在寅政権は、金正恩を非人道的な犯罪者として提訴すべきですが、全くその動きはありません。北朝鮮が少なくとも「非武装の民間人を殺害した」ことは認めているのです。北朝鮮がA氏の遺体を燃やしたのか、それとも燃やさなかったのかという議論もありますが、遺体を損傷させたのは事実です。私も国防部を訪問して、北朝鮮がA氏の遺体を毀損したという内容を再確認しました。

 いまは、むしろ金正恩が謝罪した“おかしな手紙”によって免罪符を与えようとしています。それが問題なのです。

軍経験からもありえない秋長官「息子優遇」問題

 文大統領は、北朝鮮に対する下手な対応だけでなく、いま国政でも批判を受けています。秋美愛(チュ・ミエ)法務長官の息子が兵役で優遇を受けた問題です。軍の規定上、病気休暇の要件は5日しかありませんが、秋長官の息子は19日間の休暇を取っていた。それも病暇記録がまったく残っていません。軍出身の私の経験から考えて、あり得ないことです。

 一言で言って不法な休暇です。なぜこのような違法な休暇が取得できたかといえば、秋美愛側の外圧としか考えられません。秋美愛長官が「共に民主党」代表時代、自分の補佐官に軍関係者の電話番号を教え、補佐官に連絡させたことは職位を利用した圧力です。証拠がすべて見つかりました。それでも検察は「容疑なし」と処理してしまった。

 文在寅政権の検察は、文側の人物がどんな罪を犯して証拠が明らかになっても、証拠として認めないので無罪になる。秋美愛長官の息子の件は、大韓民国の法治と自由民主主義が「深刻な挑戦を受けている」と、国内外に宣言した問題だと思います。

 文在寅大統領は、とても特異です。自己確信が強く、自分の方向が正しいと思ったら全く修正や調整をしません。というのも、文政権は、朴槿恵政権を友人の国政介入問題で一気に倒した経験から、万が一、自分たちが世論に一度押されたら、取り返しのつかないほど崩れるのではないか、という不安があるのではないかと思います。 私には文在寅大統領がとても怖がっているように見えます。

韓日の「ウィン=ウィン」の関係は不可能

 文在寅政権が相手では、日本の政権が菅義偉政権に代わっても、韓日関係が変化するとは思えません。(慰安婦の合意を破ったのは)文在寅政権が外交的な問題より、自分の国内政治上の問題のためでした。国家間の約束を引っ繰り返して生じた問題です。今後も、「反日扇動」の枠組みで、自分の支持層を結集させるのに利用しようとするでしょう。

 日本の首相が代わって、一時的なイベントは可能かもしれませんが、韓国の政治的な利害構造は変わっていません。一方の国が得をすれば一方の国は損をする「ゼロサムゲーム」の状況なので、文在寅政権が妥協する可能性は全くないと思います。文在寅政権が続いているうちは、韓日の「win-win」の関係は不可能です。

(朴 承珉/Webオリジナル(特集班))


上官がくれた命 戦艦「大和」生還兵の証言

2020-10-24 14:41:51 | 日記

上官がくれた命 戦艦「大和」生還兵の証言

憧れの海軍に

 旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦「大和」。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月7日、沖縄海上特攻の途中、米艦載機の猛攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。乗組員3332人のうち、生還者は276人。

 敵機との距離を測る測的手だった八杉康夫さん(87)=広島県福山市=は、沈没寸前の大和から海中に飛び込んだ。溺れかけたとき、上官に「頑張って生きろ」と丸太を渡され、生き残ることができた。

◇    ◇    ◇

 昭和2(1927)年秋、広島県福山市の豆腐屋で生まれました。小学校でピアノに出会い、中学校に入った時にアコーディオンを買ってもらいました。当時はとても高価な楽器でしたから、夢中になって練習しました。学校の勉強はできる方でした。

 太平洋戦争が始まったのは中学生のときです。陸軍は荒っぽいが、海軍はさっそうとしていて格好が良く、ひかれました。海軍が志願兵を募集していることを知ったときは、迷うことなく飛びつきました。

 昭和18(43)年に大竹海兵団に入りました。「軍人である前に立派な人間になれ」という団長の言葉を聞き、海軍に入って良かったと思いました。その後、横須賀の砲術学校に配属になりました。そこでは、敵の艦隊や飛行機に大砲を撃つために距離を割り出す「測的」をひたすら勉強しました。成績優秀者だけが選ばれる補修員にも選ばれました。

 ある日、分隊士に呼ばれました。昭和20年1月3日のことです。通常なら、上官とは1メートル離れて立たなければいけないのですが、分隊士は「いいから前へ来い。耳を貸せ」と言います。反射的に殴られるのかと身構えると、「いいか、お前の行き先は大和じゃ。良かったな」と耳打ちされました。

 「あの船は絶対に沈まない。大和が沈むときは日本が沈むときだ」。憧れの大和乗艦を命じられ、涙が出るほどにうれしかったです。その時は17歳の上等水兵でした。

大抜てきの測的手

 大和は全長263メートル、46センチの3連装砲塔3基を搭載した史上最強の戦艦です。とても大きくて、初めて見たときは島かと思いました。

 任務は、主砲を撃つため、艦橋の最上部にある測距儀(そっきょぎ)で敵艦隊や敵機との距離を測り、砲手に指示を送ること。測的手とも言います。

 当時の測距儀では5万メートル先まで測れ、主砲の最大射程距離は4万メートルでした。大和の測距儀は長さが15メートルもあり、とても大きかったですね。

そこに、5人で配置に就く。艦橋の一番上で、海面から30メートルの高さにあります。重要な任務に17歳で大抜てきされたこともあり、一目置かれる存在になりました。

 昭和20年3月29日、大和は沖縄戦に向け呉を出港します。4月6日には三田尻沖(現・山口県防府市)を出て、みんなで皇居の方に向かって敬礼し、国歌を斉唱しました。さらに「海行かば」を歌い、故郷にも別れを告げるよう命じられました。

「こういう歌い方、別れ方をさせるのか」と思いましたね。

 3月26日には特攻を意味する「天一号作戦」が発動されていましたが、この別れで、特攻であることを改めて実感しました。世界一の戦艦で特攻したら日本は終わりだと思っていましたから、特攻はあり得ないと信じていました。

 【戦艦「大和」】
 昭和16(1941)年12月に呉海軍工廠(こうしょう)で竣工(しゅんこう)。全長263メートル、最大幅38.9メートル、最大速力は27.46ノット。世界最大の46センチ3連装砲塔を3基搭載。同型艦の「武蔵」に引き継ぐまで連合艦隊旗艦を務めた。

襲い掛かる魚雷

 4月7日は朝から曇っていました。飛行機が雲に隠れると測的が難しいので、「嫌だな」と思ったのですが、お昼におにぎりを食べながら、「来るなら来い。1機残らず撃ち落としてやる」と自分を奮い立たせました。

 昼食中に見張りが敵機を発見。すぐに測距儀に飛びつき、レンズをのぞくと無数の飛行機が迫ってきました。あまりに多かったため、真っ黒な塊に見えました。

 距離を測ろうとしたとき、敵機は高度を上げて厚い雲に隠れました。そうなると測れません。打つ手がないのです。「何のための訓練だったのか」と、とても悔しかったです。

 午後0時半ごろ、米軍機は真上から突っ込むように攻撃を始めました。主砲は距離があるときに撃つのが目的ですが、距離が測れなかったため、結局、最後まで放たれることはありませんでした。最初に使ったのは史上最大の主砲でも副砲でもなく、機銃だったのです。

 米軍は大和の左舷を狙って魚雷を撃ち込んできました。攻撃は第一波、第二波、第三波、第四波とどんどん続き、その度に艦が大きく揺れます。砲術学校では15度傾いたら船は限界と習っていましたが、巨艦は15度、25度と傾いていきます。

 大和には注水システムがあったので、片方から水が入るともう片方にも水を入れ平衡を保つようになっていました。そのため、いったんは平衡になり、「やっぱり沈まないのだ」とうれしくも思いましたが、攻撃を受け続け、結局、どんどん傾いていきました。

 艦橋から後部を見ると、白煙が上がっていました。甲板は死傷者であふれ、衛生兵が吹き飛んだ腕や足を海に放り投げていました。

沈没、そして重油の海へ

 50度ほど傾いたときだったと思います。海軍では持ち場を離れることは許されていないのですが、ついに「逃げろ」を意味する「総員、最上甲板へ」という命令が出ました。

 海に飛び込むしかないと思ったときです。目の前にいた少尉が戦闘服を脱ぎ、ベルトを外しました。戦闘帽を日本刀に巻き、腹に刺したのです。少尉は一気に腹をかっさばき、大量の血が噴き出した。当時は割腹の方法も習っていましたが、その通りに実行しました。

 「やめてください」と言いたいが、凍りついて声が出ません。世話になった少尉の割腹は、17歳の自分には信じられない光景でした。震え上がったまま、静かに敬礼しました。気付くと艦は90度まで傾いていて、波が目の前まで来ていました。

 艦橋から海に飛び込みましたが、今度は沈む大和がつくる大きな渦に巻き込まれました。水圧で胸が締め付けられ、息ができません。午後2時23分、大和は沈没し、爆発。その衝撃で海面に浮き上がったのですが、鉄片で右足を負傷しました。爆発後、しばらく気を失っていたと思います。

 泳ぎは得意だったのですが、傷を負ったこともあり、重油があふれる海で溺れだしました。「助けてくれ」と思わず叫んでしまい、すぐにしまったと後悔しました。

 すると、そばにいた高射長が近づいてきました。怒られるのかと思ったのですが、高射長は「落ち着け。もう大丈夫だ」と優しく声を掛けてくれました。そして「お前は若い。頑張って生きろ」と、つかまっていた丸太を渡してくれたのです。礼を告げた後、しばらくの間、泣いていました。

死を選んだ高射長

 海で4時間ほど漂流しました。その間、大和の鋼鉄の破片に当たって死ぬ人や、渦に巻き込まれる人、冷たい海に体力を奪われ力尽きる人が大勢いました。

 生き残った者で簡単ないかだをつくり、それにつかまっていました。海はものすごく冷たく、そのうちに睡魔に襲われました。

 「死んでもいいから眠りたい」と思うほどの睡魔です。自分より年下の水兵は睡魔に負けて眠ってしまいました。そばにいた上官が「眠ったら死ぬぞ」とその水兵を殴りました。彼は「申し訳ありません」と目を覚ましましたが、またすぐ眠ってしまいます。

 そのうちに、別の上官が「もう眠らせてやれ」と言いました。彼は海の中へ沈んでいきました。かわいそうでしたが、どうすることもできません。そして、次は自分の番だと思いました。

 夕方に駆逐艦「雪風」「冬月」が来ました。生き残った者たちは一斉に救助のロープに群がりました。人が殺到している場所を避け、艦の後部に回ったところ、そこに丸太をくれた高射長がいたのです。

 「高射長」と声を掛けると、高射長はあごで「行け」と合図をしました。そして、駆逐艦に背を向け、大和が沈んだ方へ泳いでいきました。海の中へと消えていく姿に「高射長」と何度も叫びました。

 あんなに大きな声を出したことは、生涯でありません。力の限りの声を振り絞り、何度も叫びました。

 自分に「生きろ」と言った人が、自分の目の前で死を選ぶ。その姿を見届けたときの気持ちは言葉では言い表せませんが、空の攻撃から大和を守る最高責任者だった高射長は、大和と運命を共にすることを選んだのだと思います。そして、自分に命をくれたのだと思っています。

被爆直後の広島で

 その後、呉に戻りましたが、重油も動ける戦艦もありませんでした。間もなくして陸戦隊に入りましたが、本土決戦を控え、銃さえ十分になかったのです。このとき「日本はもう駄目だ」と痛感しました。5月に水兵長に昇格し、呉鎮守府の第23陸戦隊に配属になりました。

 夏になりました。8月6日、広島に爆弾が投下されたときは呉にいました。朝8時ごろ、B29が1機だけ飛んでいきました。その数分後、パァーと光りました。直後に猛烈な風が吹き、防空壕に飛び込みました。

 翌7日、広島駅の復旧作業のため、広島に向かいました。駅の周辺には男女の区別がつかない真っ黒な死体がごろごろとありました。死体置き場になっていたのです。

 8日は部下2人を連れて、市内に偵察に入りました。現在の原爆ドーム付近や爆心地にも行きました。京橋川の土手にはたくさんの死体が横たわっていました。

 その様子をスケッチにして、帰ろうとしたときです。子どもに両足をつかまれたのです。小学4~5年生くらいの少年でした。か細い声で「兵隊さん、水をください」と言いました。当時、重傷者には水を与えてはいけないと教えられていたため、「戻ってくるから待っておれよ」と言い聞かせ、その場を離れました。

 その後、少年のところには戻りませんでした。あの子はきっと自分が水を持って戻ってくるのを待ちながら死んだはずです。なぜ、水をあげなかったのか。水を飲ませて死なせてあげればよかった。70年たった今でも、悔やんでいます。

「頑張って生きました」

 戦後はアコーディオン奏者になり、NHKで始まったのど自慢大会での伴奏を任されました。その後、調律師になりました。被爆の影響から輸血が必要な時期もありました。大和のことが忘れられず、1980年代に入った頃、海中に眠る大和探しにも携わりました。

 日本は平和ぼけなどとも言われていますが、殺人事件なども絶えない中、戦争を知らない若い人たちに平和について考えてほしいと思うようになりました。たった数十年前に、日本で何が起こっていたのか、そのことについて考えてもらいたいです。

 不沈戦艦の沈没は、晴天の霹靂(へきれき)でした。大和と死ぬのは名誉だと信じていましたが、自分は生き残りました。

 生き残ったことに対する罪悪感にさいなまれながら、生きたくても生きられなかった仲間のため、生涯をかけて大和のことを世に残そうと語り部になりました。これまでに全国で600回以上の講演を行いました。

 今年の秋、88歳になります。死ぬのは怖くありません。大和が沈んだとき、死んでもおかしくなかったのですから。死んだら仲間に会えると思っています。みんなに胸を張って会いたいです。そして「頑張って生きました」と高射長に伝えたいです。

聞き手:時事通信社 及川彩
編集:時事ドットコム編集部
(※インタビューは2015年5月に行いました)

 


韓国の世代間格差と若者の怒り

2020-10-24 14:20:39 | 日記

韓国の世代間格差と若者の怒り

生活研究部 主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任   金 明中

 

韓国社会における世代間の葛藤が深刻化している。

朝鮮戦争以降、韓国社会の世代区分は多様な定義があり、重複する年もあるものの、大きく

(1)ベビーブーム世代(1955年~1963年生まれ)、

(2)386世代(1960年代生まれ)、

(3)X世代(1970年代生まれ)、

(4)Y世代(1980年~1995年生まれ、ミレニアル世代ともいう)、

(5)Z世代(1996年~2012年生まれ)に区分することができる。

 
韓国社会における世代間の葛藤は多様な世代間で起きているものの、主には若者世代と高齢者世代、そして386世代とそれ以降に生まれた世代を中心に議論することができる。
 
まず、若者世代と高齢者世代の葛藤は、主に意識の差により発生している。
 
韓国社会には今も「儒教思想」が根強く残っている。
 
目上の人とお酒を飲むときには失礼がないように顔を横に回して飲む、若者は電車の優先席に座らない、普通席に座っていてもお年寄りが乗ると席を譲る等、義務ではないものの、若者が守るべきことは多い。
 
人口高齢化の進展に伴い、地下鉄会社が1984年から段階的に65歳以上の高齢者に対する乗車料金を無料化してきたために、地下鉄を利用する高齢者は急増した。
 
10年前からは、無料であることを利用した格安の「老人地下鉄宅配」というビジネスも登場したほどだ。
 
高齢者の利用が増えたことで、若者が座って休める確率は低下した可能性が高い。
 
料金を払って地下鉄を利用する若者の多くが、無料で地下鉄を利用する高齢者に席を譲ることについて不満を感じても不思議ではない。
 
しかも、一部の高齢者は、若者が席を譲ることを当たり前と考えている。
 
若者が席を譲るように大声を出したり、怒鳴ったりする。
 
若者だって仕事や学業で疲れているときもあり、体の調子が良くないときもある。
 
そんなときには、席に座ってゆっくりしたいだろう。だが、それを認めない高齢者がいる。
 
いくら儒教思想が大事でも、席を譲ることを強いられると、高齢者のことが嫌になり、世代間の葛藤はさらに深まるだろう。 
 
地下鉄の席を例に若者世代と高齢者世代の葛藤を説明したが、地下鉄以外の場所でも「最近の若者はだめ」だと言いながら、若者にやたらと説教をする高齢者が存在し、これもまた、世代間の葛藤の一因になっている。
 
若者は彼らを「コンデ」と呼び、一緒にいることをできる限り回避しようとする。
 
「コンデ」とは元々親や教師を指す若者の隠語で、高齢者世代(広くは中高年世代)を意味する。
 
彼らは、自身の経験を一般化して若者に考えや行動などを一方的に強要したり、自分の若い頃の自慢話ばかりをしたり、なんでも経験して分かっているように語る。
 
もちろん、高齢者のすべてが「コンデ」ではない。しかしながら韓国社会における「コンデ」は、会社、電車の中、教会等、どこにも存在している。
 
次は、386世代と若者世代の間の葛藤だ。
 
386世代とは、1990年代に年齢が30代で、1980年代に大学生活を送り民主化運動にかかわった1960年代に生まれた者を指しており、(30代、80年代、60年代の3,8,6を取って386世代と称する)現在はほぼ50代になったことで、最近では586世代とも呼ばれている。
 
若者世代と高齢者世代の葛藤が主に意識の差による葛藤だとすると、386世代と若者世代の間の葛藤は経済的要因に起因する。
 
現在、韓国社会の中心とも言える386世代は、政治や経済に与える影響力においてX世代やY世代を大きく上回っている。
 
1960年代生まれの386世代は、1970年末~1980年代に大学に入学した。
 
当時の高校卒業生の大学進学率は3割を少し上回っていた水準なので、約7割が大学に進学する今とは大学生の存在感が大きく異なる。
 
彼らは社会のエリートとして評価され、キャンパスのロマンスを楽しみ、マッコリを飲みながら軍事政権を批判したり民主化について語った。
 
386世代は、学業より学生運動や民主化運動に重きを置いたにもかかわらず、大きな問題なく労働市場に加わることができた。
 
当時の韓国経済が絶好調だったからだ。1985年からアジア通貨危機が発生する1997年までの経済成長率は平均9.1%に達し、失業率は完全雇用とも言える2%台にとどまっていた。
 
だが、1997年に起きたアジア通貨危機により状況は急変した。
 
ウォンが暴落し、金利が上昇すると、企業の倒産が相次ぎ、街には失業者が溢れた。
 
1998年の経済成長率は統計が始まってから最も低いマイナス0.51%を記録し、1997年には2.6%だった失業率は1999年2月には8.8%に、さらに若者失業率は14.5%まで上昇した。
 
アジア通貨危機に見舞われた韓国政府はIMFから融資を受ける条件として、企業、金融、公共部門、労働市場の4部門における構造改革を行った。
 
1998 年以降、IMF の指導の下で、諸改革を進めたことにより、韓国経済は少しずつ回復し始めたものの、企業は危機管理体制を緩めず、正規職の代わりに非正規職を増やす雇用システムに切り替えた。
 
その影響は、当時労働市場に進出し始めたX世代やその後のY世代、そして最近のZ世代まで及んでいる。
 
2019年時点の非正規労働者の割合は36.4%に達しており、2015年の4年制大卒者のうち、正規職として就職した人の割合は52.5%に過ぎない。
 
卒業すれば正規職が当たり前だった386世代とは状況が大きく変わっている。その結果、若者世代の多くが恋愛、結婚、出産、人間関係(就職)、マイホーム、夢、希望を諦めている。
 
韓国社会において世代間の葛藤は、「コンデ」の存在や世代間の意識の差が一つの原因かも知れないが、最も大きい部分は経済的要因に起因している。
 
そして、経済的要因、つまり、経済的格差に影響を与えるのが「労働の量と質」である。
 
ここで、労働の量は雇用創出によって働くことを希望する多くの人が働くことを、そして労働の質は正規職のように安定的な雇用形態で働けることを意味する。
 
従って、今後世代間の格差や葛藤を解消するためには、労働の量と質を改善するための政策を持続的に実施する必要がある。
 
また、世代内の不公正により格差や鬱憤が発生しないように、その面からも慎重な対策を講じるべきである。安心して働ける社会や公正な社会を実現することこそが、世代間と世代内の格差や葛藤を解決する近道であることを忘れてはならない1
 
※本稿の詳細は、現代韓国朝鮮学会の『現代韓国朝鮮研究』第20号に近日公開される予定である。

韓国社会が向き合う格差の実態

2020-10-24 14:05:17 | 日記
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#64
 

韓国社会が向き合う格差の実態

 

元徴用工やレーザー照射の問題で悪化の一途をたどる日韓関係。2019年1月20日のBS朝日『日曜スクープ』では、韓国社会が今、どうなっているのか?反日と伝えらえるのは実像なのか?山口豊アナウンサーがソウルを緊急取材しました。

■最低賃金引き上げが裏目に

連日気温が氷点下を下回る韓国・ソウル。そんな極寒の中、韓国人がこぞって観に訪れている映画があります。現在、公開中の映画「国家破産の日」。アジア通貨危機が発生した1997年の韓国を舞台に経済破綻を防ごうとする政府関係者、そして経済危機に翻弄される人々の姿を描いています。観客動員数は370万人を突破。なぜ今、この映画がヒットしているのか?その理由を聞くと、こんな答えが返ってきました。

主婦40代
「過去の出来事というだけでなく、映画には、今の私たちにも共感できる部分が沢山あるので皆が観るのだと思います。」

飲食関係60代男性
「今の状況と少し似ていると感じます。私の勤める会社もそうですし、いま飲食店に勤めていますが、周りの会社は廃業し我々も同じ状況に直面しています。」

21年前の悪夢と今を重ねるほど経済の失速を感じているというのです。ムン・ジェイン大統領は政権発足時から雇用促進を掲げるなど経済改革を推し進めてきました。去年7月から始まった韓国の“働き方改革”では1週間の労働時間の上限を52時間に制限。そして貧困層への目玉政策として最低賃金を時給7530ウォン(約753円)から8,350ウォン(約835円)に引き上げました。しかしこの改革が、韓国社会に予想外の影響を与えていました。

山口
「文在寅政権が始めた最低賃金の引き上げ。お店への影響は?」

焼肉店経営の女性
「経営者たちが集まると、潰れる店が多くなるのではないかと話しているんです。人件費の割合が高くなったら、当然価格を上げなければならない、店の賃貸料も、材料費も高くなる、それによって一番大きな影響を受けるのは、私たち飲食業です。」

飲食店の経営者の負担が増加。その影響が最低賃金引き上げの恩恵を受けるはずの労働者を直撃していました。

焼肉店経営の女性

 

「従業員を実際に減らしましたよ。昼に3人雇っていましたが2人にして、夜は2人だったのを1人に減らしましたんです。」

高くなった人件費を削減するため、飲食店の経営者がこぞって導入したものがあります。それは、無人清算機です。

山口
「この無人化された機械でジュースを買ってみます。このイチゴとキウイのミックスジュース、サイズは・・これか。Mサイズ。特にアトッピングはなし。はい、行けたようですね。これ1つで2500ウォン。クレジットカードで払います。これでカードを入れればいいってことかな。カード入れて・・・これでいいのかな。」(ピコン!)

キッチンをのぞいてみると・・・ジュースを作るのは店長ただ一人・・・。

山口
「文在寅さんの最低賃金引き上げがどんどんどんどん、1万ウォンとか進んでいくとこういう流れ、機械化の流れっていうのは進みますね。」

ジュース店店長
「カフェなどのテイクアウト用のお店は、(自動精算機が)絶対必要だと思うし、さらに増えると思います。」

山口
「逆に言うとアルバイトとか働く人の場が減っていくということですよね?」

ジュース店店長
「残念ですけど、賃金が上がると仕方ないですね。」

■コシウォンに住む若者たち

サムスンや現代など一部の財閥企業がけん引し成長してきた韓国経済。大企業で働くことやや公務員になることが“勝ち組”とされ高校や大学で熾烈な受験戦争が繰り広げられてきました。しかし、こうした経済構造がある若者たちを生み出していました。

山口
「ここはどんな場所ですか?」

20代後半の男性
「ここはコシウォンです。日本にはコシウォンはないんですか?ここはソウルの中心街なので、部屋代が高いんです。ここは部屋数も多く、狭い代わりに、安くしているので60名ほどが一緒に暮らしています。」

コシウォンとは補償金のいらない家賃のみの宿泊施設のこと。韓国では部屋を借りる際、日本円で数百万円単位の補償金が必要です。コシウォンは、もともとは、受験生が集中して勉強するために使う宿泊施設です。現在、就職活動中の20代後半の男性は、3か月前から、このコシウォンに住み始め、管理人のアルバイトもしています

山口
「全部で3畳くらいですね。ベットがあってシャワー、机、ここが玄関ですから。」

トイレ、シャワーなど必要最低限のものはそろっています。家賃は光熱費込の日本円で4万5千円ほど。男性は公務員になるための準備をしていましたが、上手く行かず、今はIT系の企業に就職するために、この部屋で資格の勉強をしています。実は今、20代の失業率は10%、43万5千人にのぼり、大学・大学院を卒業しても3人に1人が就職できない状況です。こうした簡易住宅のコシウォンで暮らす若者が増えているのです。

山口
「韓国の経済をどう感じますか?」

20代後半の男性
「確実に悪いと実感もしますし。良い方向に向かってほしいですが、まだそのような見通しが立っていません。」

山口
「どんな部分で感じますか?」

20代後半の男性
「物価も上がり、高学歴の人も就職難で、資格を持っている人たちも就職できていません。」

警察官を目指す、20代後半の女性。部屋に伺うと・・・。

山口
「大体、これ3畳ちょっとぐらいでしょうか。」

家賃は光熱費込で3万5千円、トイレやシャワーなどは共同です。両親からの仕送りの9万円で家賃、食費などをやりくりしています。

山口
「公務員を選んだ一番の理由は?」

20代後半の女性
「一番大きな理由は、正直なところ親の望みが一番大きいです。親心で、この国で一番安定的な仕事が公務員だと思っているので。」

 

倍率の高い警察試験を突破するため、勉強は1日、15時間以上机に向かっています。これまで6回、警察試験に挑戦していますがいずれも不合格、女性には、今、ある焦りがあるといいます。

20代後半の女性
「両親からは友達の娘と比べられるんです。『あの娘は結婚して子供もいて、車も買って』みたいな。それがプレッシャーになっています。」

■格差を象徴するソウルの一角

 

韓国社会に広がる格差を象徴するある場所に向かいました。ソウル屈指の高級住宅街、カンナム。この地域を少し進むと景色が一変しました。

山口
「いま大通りからこの路地に入ってきたんですけど、突然景色が変わってきましたね。その先なんですが、小屋がたくさん並んでいるのが見えてきました。」

クリョン村は1970年代から80年代にかけて都市開発の影響で家を失った人々などが移り住んだ集落です。現在1107世帯が暮らしているといいます。

山口
「どの家も非常に簡素な造りですね。こういうなんて言うんですか、薄っぺらい、これ床用の素材ですよね。それを屋根に使っていますね。それからこういうブルーシートで窓をふさいだり、板で打ち付けていますね。」

この村に30年以上住む女性がインタビューに応じてくれました。

山口
「貧富の格差は感じますか?」

40代の女性
「強く感じています。私はここから、あの高層マンションに上っていく人の姿をいつも眺めていますから。遠くから眺めていても格差は感じます。貧乏は自慢になりません。でも貧しいせいで、教育を受けられないために、まともな職場に就けないし、そのようなことが積もり積もって、抜け出すことができないのです。」
「見えないガラスの壁のせいでそれを壊して進んでいくことができない。」

この女性は貧しい家庭で、満足な教育を受けられず、貧困から抜け出すことができなかったと言います。

40代の女性
「私のような人たちは夢見ることもできないんです。この瞬間も素晴らしく充実した生活を送る人がいる反面、そうではない人たちがいます。」

文在寅大統領は深刻な国内問題を抱えているのです。そんな中で見せた日本に対する強硬姿勢。しかし韓国の町の中には意外な風景が広がっていました。

■若者の街で根付く日本文化

 

韓国の若者が集まるエリアであるものを発見しました。

山口
「あれ、これっ!なんですかね。おいしい和食って書いてありますね。24時間営業って日本語で書いてある。」

日本語の看板がいたるところに・・・。さらにはちょうちんがぶら下がる日本式居酒屋まで、ホンデには和食専門店が1000店舗以上あるといいます。

山口
「日本料理店によく行くんですか?」

女性
「はい。しょっちゅう行きます。2週間に3、4回くらいかな~」

若者を中心に和食ブームに火が付き、日本食の店が急増しているといいます。
日本ブームはこんな所にも。

山口
「ソウル最大の書店にきています。こちらには日本の書籍のコーナーがありまして大変にぎわっています。村上春樹や夏目漱石など、日本の書籍が人気なんですね~。」

 

村上春樹や東野圭吾が人気で、つねにベストセラーの上位に並んでいるといいます。

山口
「いま村上春樹の『1Q84』を手に取っていますが、買いに来たんですか?」

27歳大学院生の男性
「はい。」

山口
「村上春樹が好きですか?」

27歳大学院生の男性
「文体がとても気に入っているので。」

山口
「いま手にしている本は、全部日本人作家の本ですか?」

21歳大学生の男性
「はい、そうです。」

山口
「結構はハマっているように見えますが・・・」

21歳大学生の男性
「一番好きな作家は川端康成かな。」

同じ韓国で同時に起きている、反日と日本ブーム。その理由はどこにあるのでしょうか?

21歳大学生の男性
「政治と文化は大きな関連のない二つの分野だと思います。互いの文化に関心を持てば、政治でも人同士が近くなれるんじゃないかと思います。」

■政権与党の有力議員が語る韓国の現状

 

韓国の現状を文在寅大統領はどう受け止め、そして、どう対応しようとしているのでしょうか。山口アナは、韓国の政権与党・共に民主党の中心人物・宋永吉(ソンヨンギル)議員にインタビューしました。共に民主党の宋永吉(ソンヨンギル)議員は、2000年に37歳の若さで国会に初当選安倍総理を始め各国首脳とも親交があり、去年は世代交代を訴え、党代表選に出馬、「共に民主党」の中心人物の一人です。

山口
「たくさん写真が飾ってありますよね、文在寅さんと相当近い親しい関係なんですね。」

宋永吉議員
「私は文在寅大統領の選挙期間に総括選挙本部長していました。」

文在寅大統領と行動を共にしてきたソン議員は厳しい状況を迎えた韓国経済をめぐる大統領の政策をどのように捉えているのでしょか?

山口
「文在寅さんが最低賃金の引き上げを始めたりとか、働き方改革で週52時間制、働く時間の制限を設けたりしました。そういう個別の政策についてはどう思っていますか?」

宋永吉議員
「相当な負担になっています。景気が良ければ賃金引上げの負担を負えますが、一番良くないときに賃金引上げの話がでるので、自営業者がとても苦しんでいます。」

山口
「文在寅さんは景気が悪いのにもかかわらず、最低賃金を引き上げとか景気に逆効果のことをしてしまっているんじゃないかと思うんですが、なぜ文大統領は、このタイミングでしたのだと思いますか?」

宋永吉議員
「他の日程もあったと思います。庶民たちの所得を上げないといけませんが、所得を上げるには賃金の引き上げだけではいけません。支出を抑え、実際の可処分所得を上げるなど、例えば、住居費を下げ、賃金引上げにならなくても、可処分所得を増やす政策を法案にしようともしています。」

韓国において、社会をも歪め若者から夢と希望を奪っているのが極端な格差社会。文政権はこの格差問題に取り組んでいるとソン議員は強調します。韓国・政権与党のソン議員は、日々悪化の度合いを増す日韓関係をどのように捉えているのでしょうか。

山口
「率直にご意見お伺いしたいんですが、今、日韓関係が特に政治の分野で対立が深まっています。現状をどうお感じになっていますか?」

宋永吉議員
「日韓関係は政治的に解決するのが難しい面がありますが、お互いの解決しにくい部分はあまり出しすぎずに尊重し合って少し置いといて、解決できる部分を一緒に努力する必要があると思います。」

そして今、最も事態が緊迫しているのは徴用工問題。日本政府は韓国に対し請求権協定に基づく協議を求めています。

山口
「日本側は1965年の日韓請求権協定で補償金を払っているので、仮に今回のような判決が出ても文在寅政権の中で、韓国国内問題として、韓国政府が対応してほしいという思いなんですよ。これはどうお感じになられますか?」

宋永吉議員
「この問題が個人の請求権の問題、慰謝料の請求が法律的にそこまで含まれるかの問題になっています。それが1965年国交正常化により解消するというのは、難しいし、法的問題もあります。」

山口
「となると日本側としては、新日鉄住金という企業がお金を払うことになると、過去の国際法で結んだ約束が違うことになってくるので、それは受け入れがたいということで、政治の対立がどんどん深まってしまうと思うんですよね。」

宋永吉議員
「その問題は、企業が当時、賠償したわけではないですよね。当事者が賠償をするのはまた別のことだと思います。」

山口
「文在寅政権の方針として、まず北朝鮮との南北融和が最大の目標だと思うんですね。そうすると日本との、対日関係を考えるのが手薄になっているんじゃないかという指摘があるんですか、そこはどう思いますか?」

宋永吉議員
「何を優先するかの問題ではなく、もし戦争が起きると、全国民の生命と財産が崩れるので、まずは朝鮮半島の戦争を防ぐのが第一にならざるを得ません。どんな大統領でも、そのために集中しています。日本は後回しとかではなく、そのような論理でいうと、アメリカ・中国・ロシアなども同じですが、外国との関係も、まずは朝鮮半島の戦争を防ぐという、優先原則に基づき動くしかないと理解していただければと思います。」