評価の高い将官
2016年01月10日13:15 人物(陸軍/海軍)
今回は、アメリカで評価の高い山本 五十六海軍大将 / 宮崎 繁三郎 陸軍中将 / 木村 昌福 海軍中将
/ 吉川潔(きっかわ きよし)中佐 / 今村 均陸軍大将の5名をご紹介します。
[ 日本の戦争記録 ]
▼山本五十六海軍大将
「山本五十六記念館」 山本五十六YouTube
連合艦隊司令長官としてハワイ真珠湾攻撃などで有名な山本五十六(いそろく)大将だが、日本海軍の中で評価の高い軍人の1人である。日本海軍の教育(江田島海軍兵学校)は決して単純な好戦的なものではなかった。
サイレント・ネイビー(沈黙の海軍)という言葉がある様に、「大言壮語せず、国を守る時は充分に任務を果たすという意味である」日本の国力を冷静に分析し、戦争回避を第一に考え、外交努力に徹するという考えを日独伊三国同盟まで貫いた海軍山本五十六。
学校の教育は英国紳士を養成することを主眼としていた。 軍服の着こなしも野暮ったくてはいけないとやかましく言われ、外国の停泊地で恥をかかない様、ダンスや洋食のマナーまでが教えられた。
しかし英国紳士はあくまでもイギリスの風土に存在するもので、日本海軍に無理矢理存在させようとする事が日本海軍の為になったかどうかは疑問が残るが、海軍将校のスマートな格好は少年達の憧れであった事も事実である。
日本海軍とはこの英国流に官僚主義が加わった存在である。
山本に関しては有名な軍人であるのであえて生い立ちなどはここでは書かない事とする。
太平洋戦争中、山本は前線視察の為、バラレ島日本軍基地へ向かう途中、事前に情報を掴んだアメリカ軍P-38によって
ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。2015.山本機墜落現場YouTube
▼ブーゲンビル島のジャングルに墜落した山本五十六搭乗機(海軍一式陸上攻撃機)
山本五十六長官機撃墜事件の護衛戦闘機隊は204空のゼロ戦隊6機だった。
[ 第1小隊 ]1番機・森崎武中尉/2番機・辻野上豊光1飛曹/3番機・杉田庄一飛兵長
[ 第2小隊 ]1番機・日高義巳上飛曹/2番機・岡崎靖2飛曹/3番機・柳谷謙治飛兵長
昭和18年4月18日午前09時35分
一式陸上攻撃機2機、護衛零戦6機に対し、待ち伏せしていた米軍のP38戦闘機が攻撃。
山本機撃墜の特命を帯びた攻撃隊4機(ランフィア大尉指揮)と上空直掩隊12機(ミッチェル少佐指揮)だ。
午前07時45~50分、一式陸攻1番機(山本長官機)は火炎に包まれジャングルに突っ込む。
一式陸攻2番機(宇垣纏中将機)は燃えながら、モイラ岬附近の海上に不時着水転覆。宇垣纏中将は一命をとりとめた。
山本長官機の墜落現場第一発見者は、第6師団歩兵第23連隊歩兵砲中隊第1小隊長 浜砂盈栄少尉(はますなみつよし)
1番機は燃えながら降下角度5~7度でジャングルに突入し、約1000メートル突進して不時着。
山本長官は座席と共に機外に放り出されており、左エンジンの下に、軍刀を握りしめて股間に立て、斜め右前方にのめる様に静に倒れていたという。
山本長官の左斜め前方約3メートルの場所に軍医長・高田六郎少将がうつぶせになって山本長官の方へはい寄った形跡を残して絶命していたという。
しかも他の遺体は黒焦げで蛆虫だらけなのに、この2人の遺体だけが焼けずに残り、蛆虫も極めて少なかったという。
この事から、「山本長官と高田軍医長は不時着直後は生きていたのではないか」という説が出た。
山本五十六搭乗機の護衛についた6機の零戦は大任を果しえず、その重責を負い次々に南の空へ消えていった・・・。
▼山本が訪れる予定だった日本軍バラレ基地。指揮所・テント張兵舎・ゼロ戦21型が写っている。
1943年末以降補給が断たれ無力化されたが、連合軍は上陸せず、終戦まで日本軍が維持した。
▲飛行場建設は1942年末から始まり「シンガポールの戦い」で捕虜になった多数のイギリス軍捕虜が 使役され、多くが死亡した。元々無人島だった島は約1年間陸海軍航空機の前線基地として活動した。
現在は無人島に戻っているが、戦後放置された日本軍機が多く残り、英国人捕虜の慰霊碑もある。
現在はバラライ島(Ballalae Island)と呼ばれ、ソロモン航空の定期便が発着している。
この事件は、アメリカ側が山本の後を引き継げる優秀な人材は兵学校卒業順(ハンモックナンバー順/卒業席次順←要は成績順)の海軍にはいない。と確信して山本機撃墜を実行した程である。
太平洋戦争開戦直前の事、当時の連合艦隊司令長官である山本は、これからの作戦遂行の為には、自分が陣頭で突撃する形で行うべきだと考え、当時の海軍大臣の米内光政を連合艦隊司令長官、そして、山本五十六第一艦隊司令長官という草案を作り、航空本部長の井上成美に見せた事もあった。
「長門」「大和」には山本宛に大量の手紙が届いたが私信の返信が1日30通に及ぶ時もあったという。
しかし戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、場合によっては自ら墓参に訪れることもあった。
戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していた。手帳には万葉集、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の詩歌や山本の自作詩が書かれており、戦死者への賛美と死への決意で満ちていたという。
▲ラバウル東海軍飛行場(昭和18年4月「い」号作戦の際に撮影されたとされる)
▼▲ラバウル東飛行場。
▼言わずと知れた当時史上最大の戦艦「大和」
山本は南方ではパパイヤを好み、「大和」の冷蔵庫にはパパイヤが山のように保存されていたという。
戦艦大和ホテルにこもって最前線に出ようとしない無能な幹部という声も聞かれるが、アメリカとの戦争に最後まで反対し続けた事、当時の常識を覆す航空機を主とした真珠湾攻撃等、山本でなければ出来なかった事は多くある。
しかし敗戦した事で山本が立案した作戦等は批判されても仕方の無い部分もある。
「アメリカと戦っても勝てない」と開戦前から言い続けていた本人が指揮をとってハワイ作戦を実行し、自分の予想通りに敗退を重ねる日本軍に対してどう思っていたのか・・・・無念だったであろう。
勝算の無い戦争はこちらから仕掛けるものでは無い。どうしても有事になった場合、相手に攻撃の一手を先に撃たせ、
正当防衛として宣戦布告するしか他は無いだろう。それが戦争終結後に戦いの理由として大きく効いてくるからだ。
戦争とは勝たねば「悪者」になってしまうという事は現代の日本人が一番良く知っているはずである。
▲前線視察でラバウルを訪れ、航空隊基地で出撃するゼロ戦(零戦)を見送る山本五十六司令長官
▲ラバウル航空基地で出撃前の隊員に敬礼する山本五十六司令長官と、整備を受ける海軍ゼロ戦と花吹山。
戦艦「武蔵」で勤務した蝦名賢造少尉(連合艦隊司令部通信士官)は山本の敬礼の美しさに感激したという。
▲ラバウル航空基地から出撃直前のゼロ戦22型、隊員達は山本長官の激励を喜んだという。
Admiral Yamamoto AssassinationYouTube
山本五十六名言集
『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』
(実際にやってみせる。やり方を言って聞かせて、褒める。)
『話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず』
(話し合って、相手の言葉に耳を傾け、相手を認めて、仕事を任せることによって人を育てる。
『やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず』
(やっている姿を感謝で見守って、信頼する)
他、『博打をしないような男はろくなものじゃない』という言葉も残し、博打好きだった一面もある。
また、女好きもあって新橋の芸者「梅龍」と名乗る愛人・河合千代子をかこっていた。
1884年(明治17年)4月4日~1943年(昭和18年)4月18日享年59歳