韓日の架け橋として生きる在日同胞の中には、母国留学の経験がある人も多い。
マージナル・マン(境界人)の枠を超え、両国をつなぐブリッジとして生きる彼らの役割は大きい。
社会に進出した20~30代の元在日同胞母国修学生らはどのように暮らしているのだろうか。
韓日両国でそれぞれの道を切り拓いているエネルギッシュな在日の若者たちを訪ねた。(ソウル=李民晧)
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「陶芸家は自己を覚醒させた天職」 朴盛克(弘益大 陶芸ガラス科卒業)
朴盛克氏(パク・ソングク、1981年1月生まれ)は陶芸家だ。
島根県出身の在日同胞3世である盛克氏は、韓国陶芸の本場として有名な京畿道利川で暮らしている。
近年は陶磁器の制作で休む間もないほど忙しい。
世界を旅する中、磁石に吸い寄せられるかのように韓国へとやってきた盛克氏。
国立中央博物館で韓国の伝統陶磁器「粉青沙器」を見た瞬間、「これを人間が作ったとは」と驚嘆。
陶芸家への一歩を踏み出した。本国投資協会第1号の奨学生でもある盛克氏の暮らしを覗いてみよう。
―なぜ韓国に?
「幼少期は島根県で過ごしました。高校卒業後に上京し、東京で美容専門学校に通いました。
しかし、そこは自分の居場所ではなかったようです。コツコツ貯めた幾ばくかのお金を持ち、海外へと旅立ちました。
1年3カ月間、バックパックでインドやチベット、中国などアジア各地を回りました。
その頃はまだ、特に韓国に対する思いはありませんでした。しかし韓国のパスポートを所持し、朴盛克という本名を使うことで『私は日本人ではない』と気づかされたんです。
パスポートのページを追加するため、ミャンマーの韓国大使館に立ち寄って英語で尋ねたところ、大使館の職員が『韓国人だから韓国語を勉強してみてはどうか』と日本語で話しかけてくれたのです。
頭をガツンと殴られた気がしました。それが韓国に来るきっかけとなった出来事でした」
―どのような経緯で陶芸家の道に?
「韓国で語学学校に通っていた当時、国立中央博物館を訪ねました。
昔の韓国人が作った遺物が並ぶ中、粉青沙器の前で足が止まりました。
衝撃でもあり、感動でもありました。これほど美しいものを人間が作ったということに、驚きを隠せませんでした。
その足で仁寺洞にある古美術品店に立ち寄り、陶芸を学ぶならどの大学に行けばいいか尋ねると、店主が弘益大学の陶芸科を薦めてくれました。
その時は必死だったのでなんとも思いませんでしたが、後で冷静になって考えてみるとなぜ古美術品店で聞いたのかなど無鉄砲さが笑えてきます」
―大学入試の際、実技試験はどのようにパスしましたか。
「入試前に美術教室に通いました。1カ月ほど通い、実技試験を受けて合格したんです。
そして更なるスキルアップを目指し、毎日作業室で過ごしました。
徹夜して、朝は目をこすりながらまた作業に取り掛かる。大学4年間はずっとそんな感じでした。
そういう生活を続けた末、3年生の時に奨学金を受給し、4年生の頃は公募展にも出品して賞を頂きました。
今でも後輩たちに会うと『先輩は学校に住んでいたよね』と言われます」
―入賞した作品はどのようなものでしたか。
「世界を旅しながら感じた思いを作品で表現したかったんです。
ミャンマーを旅行中、3週間ほど瞑想修行をしながら突如こんな考えが浮かびました。
『人は欲のために悩み、その悩みを解き放つことが難しい。それを作品として表現できないか』―。
その時思いついたのが『ろくろで断面をつくり、それらを人間に見立てて塔のように重ねる』という案でした。
私の思いと経験を作品に込めることができて嬉しかったし、入賞できてより嬉しかったです」
―芸術家の道は空腹への道ともいわれますが、経済的な苦労はありませんでしたか?
「陶芸だけで食べていけるようになったのは数年前からです。それまでは経済的に厳しい状況でした。
その間はアルバイトをしながら先輩の作品作りを手伝ったりしていましたが。
これが続いたら飢え死にする、と思ったこともありました。打って出ることが出来ず”守り”が精一杯の状態でした。
その状況を耐え抜き、最近では打って出る余裕も生まれました。
私が焼いた陶磁器の器やテーブルウェアがソウルの美術館に展示された他、商品として百貨店にも納品しています」
―利川に完全に定着したのですか。
「自宅を兼ねた工房に住んでいます。陶磁器を焼く窯をはじめ、作業設備を全て兼ね備えた私の憩いの場ですね。
今は私一人ではありません。妻と3歳になる娘がいるからです。
妻はフリーマーケットの隣のブースで出店していたことが縁となりました。
私は陶磁器を売り、妻は螺旋漆器を販売していました。
互いに心が通じ合い、家族になりました。
最近では作品を作り、商品を納品する傍ら育児もするという、本当に休む間もなく忙しい日々を過ごしています」
―今後の計画、将来の朴盛克の姿について。
「常に実験し、今していることとは違う新しいことに向き合っていきたいです。
失敗したり道に迷ったりした時は、陶芸を始めるきっかけとなった博物館での衝撃を思い出し、何をしたくて韓国で陶芸をしているのか初心を忘れずに作品と向き合っていきたいです。
『これを人間が作ったとは。しかも韓国人が作ったとは』と驚かずにはいられなかった当時の思いが常に胸にあります。
最近では『韓紙(韓国の伝統的な紙)』のように柔らかくて軽い陶磁器を作っています。
形が波のように複雑に曲がった皿やカップ、急須などです。次は重くて大きなものに挑戦したいと思います。
作品作りと経済活動を両立するのは簡単ではありませんが、それでも私は作家として生きていきたい。
新しい挑戦と実験を武器に、作品で私だけの世界をつくりたいと考えています。それでこそ『私の意味』があるのではないでしょうか」
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「私がデザインした服を着る日が」 金加奈(梨花女子大 繊維ファッション学科卒業)
金加奈さん(キム・カナ、1995年5月生まれ)は現在、就職活動中だ。
東京出身の在日4世である加奈さんは、梨花女子大の繊維ファッション学科を卒業した。
LAのファッション専門企業でインターンをしていた頃、3人のデザイナーからスカウトを受けたほど、ずば抜けたファッション感覚を持つ。
今後は、自分がデザインした服を世に送り出したいという加奈さんのストーリーを紹介する。
―母国修学を決めたきっかけについて。
「子どもの頃は朝鮮学校に通い、早くから韓国語を学びました。幼い頃から日本以外の違う国で暮らしたいという気持ちが強かったです。米国かな、中国かな―、そんなことを漠然と考えていた時、母国・韓国に行ってみようという思いに至りました。
母国修学の動機は、高1の頃、観光でソウルを訪れた時だったと思います。景福宮や明洞などの観光スポットを回った後、梨花女子大と延世大キャンパスを訪ねたんです。当時はまだ、”ここだったら通いたいかも”という漠然とした思いでした」
―ファッション学科を志望した動機は。
「インターナショナル高校に通い、世界各国の文化に接する機会の多い環境にありました。
そのため、外の文化に対する拒否感がなく、必ず日本に留まって暮らすといった考えもほとんどありませんでした。
関心のある分野はファッションと服。日本にある四年生大学には衣類学科が設置されている大学は見つかりませんでした。
でも、韓国にはあったんです。梨花女子大でした。それでファッション学科を志望しました」
―キャンパスの思い出は。
「ファッション学科は机に向かって学ぶ他の学科とは異なり、実技に比重を置いたカリキュラムが中心でした。
仲間と一緒に行うプログラムが多く、そのため友達とも仲良くなりました。友達とは他大学のイベントを観に行ったり、男子学生たちと合コンをしたり、済州道や江原道など韓国各地を旅行したりしました。楽しいキャンパスライフでしたね」
―韓国に住み始めた頃、韓国への適応は簡単ではなかったと思います。
「正直、2年生の頃までは韓国語があまり理解できずに苦労しました。
新入生の頃は講義の半分以上、ちんぷんかんぷんでした。教授の講義を録音して解読するという作業を行っていました。
また、課題が多かったことも大変でした。課題の一つ一つが全て成績に繋がるので、ストレスも多かったです。それでも何とか乗り越えてきました」
―韓国と日本の生活では何が違いますか。
「一番驚いたのは、韓国人のスピード感でした。日本ではよくせっかちだと言われていましたが、韓国では全くそうではなかったんです。
日本にいる時よりスピーディーに話し、行動しないといけない気がしました。
自分の思いを早く人に伝えないと不都合が起きることを実感しましたね。そんな風に”パリパリ(早く早く)”日々を過ごしていたら、いつの間にか強くなっていたような気がします。
―在日ならではのエピソードは。
「現地の方々は在日同胞に対する認識が殆どありませんでした。
私を日本人だと思っていた人も多く、在日同胞4世だと言っても理解できない友達もいました。
なぜ国籍が日本ではなく韓国なのかという質問も受けましたね。
そういえば、在日韓国人ならではのエピソードがあります。入学したばかりの頃、
『韓国語作文』という講義を受講したのですが、国籍が韓国だったため韓国人クラスに配置されました。
そこで担当教授に『ずっと外国で暮らしていました。外国人クラスに配置してください』と申し出ました。
しかし、国籍条項があったことでそれは叶いませんでした。
やむを得ず、ネイティブスピーカーたちと韓国語対決をすることになりました。
結果的に、その講義ではB+を頂きました。頑張ったと思いませんか? おかげで韓国語の実力が一気に上がったことを思い出しました(笑)」
―ご自身のファッション感覚について。また、韓日両国のファッションの違いは。
「産業デザイン、衣装デザインはトレンドの移り変わりが早いという特徴があります。
日々の服選びは、その瞬間の選択と調合です。私が服好きであることが理由かは分かりませんが、似合うデザインをよく見つけると評価されています。
LAのファッション企業でインターンシップをしていた時は、3人のデザイナーが私を巡りスカウト合戦をしていました。
立場的に誰か1人を選ぶことはできないので、3人それぞれのアシスタントになりました(笑)。
韓日両国のファッション感覚を比較するならば、韓国人は色の多様性には劣るものの、服をオシャレにこざっぱり着こなす印象を受けます。ファッションの多様性や独特さといった面では日本人がより優勢だと思います」
―現在の生活と今後の計画について。
「大学卒業後に一度日本に戻り、現在はソウルで暮らしています。就職において、昨年のコロナ禍で面接までたどり着かないケースもありました。
最近は起業している知人の手伝いをしながら就職準備とポートフォリオの作成をしています。
私が得意な仕事をみつけたいです。しばらくは企業やショッピングモールで服を販売することになると思いますが、将来的には私がデザインした服を多くの人が着る日が来ると信じています」
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「ウイルス研究の第一線で働きたい」 趙顕太(高麗大 生命工学科卒業)
趙顯太氏(チョ・ヒョンテ、1995年5月生まれ)は現在、大阪大学医学研究科で実験プロジェクトに参加している。
顯太氏は年初に高麗大学生命工学部を卒業した在日3世で、本コースを終えて大学院に進学する予定だ。
将来は「ウイルス研究者」として、世界を翻弄した新型コロナ類のウイルス研究に携わりたいとの抱負をもつ。
―母国修学を決めた動機は。
「在日同胞なので生活基盤がある日本で暮らすのは当たり前かもしれません。
しかし一方で、本当の韓国文化を体験したいという気持ちが強くなりました。
比較的韓国語を使用する家庭だったことに加え、小学校5~6年の頃は大阪南港の金剛学園(現KIS)に、スクールバスで通っていました。
本来は日本の大学への進学を目指していました。
日本の高校に通っていたので、韓国の大学に行くことは正直、想像もしていませんでした。
両親と相談し、日本でも韓国の大学に志願できる方法があるということを知ったので、挑戦してみようと決心しました」
―修学準備はどのように。
「家で普段から韓国語を使っていたので、聞き取りと会話には不自由しませんでした。
問題は読み書きでした。そのため韓国語能力試験(TOPIK)を受験することにしました。
やはり目標を具体化することが韓国語力を高める秘訣だと思ったからです。
韓国語スクールにも通い、実力が徐々についてきたことを実感しました」
―専攻が生命工学ですが、難しくありませんでしたか。
「母国生活は右往左往の連続でした。
2月末に実施する大学新入生のオリエンテーションにも参加できず、受講申請の方法も分からず混乱続きでした。
何より授業のレベルが高かったことに苦労しましたね。日本にいた頃は韓国語さえできれば良いと思っていましたが、実際の授業では英語を基本としていました。
生命工学は自然科学系列であり、専門用語の多くが英語だからです。汗だくになりながら必死で授業についていった記憶が鮮明に残っています」
―大学生活、キャンパスの思い出を挙げると。
「楽しいことばかりでした。2年生から水泳サークルに入りましたが、土曜日ごとに先輩後輩たちと一緒に泳ぎ、ご飯を食べて酒を飲むという生活でした。楽しかったです。小さい頃から水泳が好きでしたが、韓国で泳ぎを生かすことができて嬉しかったです。
心底衝撃だったのは、大城里遊園地(京畿道南楊州)のMT(合宿、Membership Trainingの略)で飲んだ『どんぶり酒』でした。
焼酎とビール、ポカリスエット、牛乳、辛ラーメンの汁を混ぜて作った奇想天外なチャンポン酒。不思議なのは、『罰ゲーム』としてチームで分け合って飲むといつの間にか友情が芽生えたことです。
どんぶり酒は日本では想像もつかない韓国式の大学文化でしたが、私には思い出の一ページになりました」
―現在の生活は。
「卒業後に韓国の大学院に進学し、韓国企業に就職することも考えましたが、たまたま大阪大学で実験ステップ募集の案内を見つけました。
高麗大学は実験よりも知識の錬磨を重視する傾向が強かったんです。それで、韓国とは違う環境で実験経験を積むこともチャンスだと思いました。
実際、大阪大学での実験を通して、一つずつ新しいことを学んでいます。社会で即戦力となるような実習を行うため、机上の勉強だけでは分からない、ということをよく感じています」
―新型コロナウイルスの見方、今後の計画について。
「ウイルスは昔から人類と共生してきたもので、根絶は不可能です。
新型コロナウイルスもインフルエンザのような流行型ウイルスになるはずです。
ただし、ウイルスの遺伝子構造がRNA系列である特性上、変異が活発になされるため、現在流通しているワクチンが効かなくなる可能性もあります。
今後も、こうした事態に対応できるワクチン開発を続けていく必要があるのです。
私も、できればバイオ分野のウイルス研究に従事したいです。来年は日本で大学院に進学し、その後は大学や企業で研究開発分野の仕事をしたいと考えています」
―母国修学を控えた後輩たちにアドバイスを。
「韓国語さえ勉強しておけばOKだと思っていましたが、実際は英語が非常に重要でした。
高麗大の場合、卒業時点でTOEIC750点(文系は700点)を取得し、成績表を提出しなければいけません。
母国修学の準備に際し、英語も勉強しておくと良いかと思います。韓国では、在日同胞や在外国民について知らない人が意外と多いです。
そのため、教授や友達にはあらかじめ『私は在日同胞であり、分からないことが沢山あります。
色々教えてください』と自分の立ち位置をアピールしておく必要があります。
言わなければ相手は分からないからです。韓国には気持ちの良い人が多く、きっと快く受け入れてもらえるでしょう。そうすれば、大学生活は楽しいものになるはずです」***************************
※インタビュー対象は、在日韓国人本国投資協会(金和男会長)の奨学生から選定した。投資協会は2009年、主力事業として在日同胞の次世代育成を掲げ、国内の大学に通う在日同胞らに毎年奨学金を支給している。これまでに輩出した投資協会奨学生は約200人に達する。
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