日本と世界

世界の中の日本

外交部、日本からのワクチン提供に「心から感謝」

2021-09-14 18:26:38 | 日記

外交部、日本からのワクチン提供に「心から感謝」

発信日: 2021/06/04 | 
A-
 
A+
日本政府は3日、台湾にアストラゼネカ製ワクチン124万回分を提供し、台湾と共同で新型コロナウイルスに立ち向かう決意を示した。
 
ワクチンはきょう(4日)午後、台湾に到着する。
 
写真は成田空港でワクチンを載せた航空機に深々とお辞儀をする台北駐日経済文化代表処の謝長廷駐日代表。(台北駐日経済文化代表処より)

台日双方の緊密な交渉の末、日本政府が台湾にアストラゼネカ製ワクチン124万回分を提供し、台湾と共同で新型コロナウイルスに立ち向かう決意を示した。

ワクチンはきょう(4日)午後、台湾に到着する。

外交部(日本の外務省に相当)は同日、ニュースリリースを発表し、日本が適切なタイミングに支援の手を差し伸べてくれたことに「心から感謝する」と述べている。ニュースリリースの概要は以下のとおり。

 

★★★★★

 

昨年、新型コロナウイルス感染症が全世界に拡大して以来、わが国は医療物資をさまざまな国に無償提供し、国際社会から評価されてきた。

最近、新たな感染拡大の波が世界を襲っている。

日本政府は、台湾で感染拡大が深刻化していることを鑑み、また、日本の各方面から台湾支援の声が上がる中、日本国内の感染状況が依然厳しい段階にあるにも関わらず、ワクチンを提供することで台湾に協力する決定を下した。

これは「人溺己溺(他人が溺れていることを自分が溺れていることとみなす。

つまり、他人の苦しみをわが事ととらえる)」、

「同舟共済(同じことにあたっている者たちが力を合わせて難局を乗り切ること)」の人道的精神を発揮し、台湾と日本の感染症対策での協力を強化するものだ。

外交部は、わが国の政府および国民を代表し、日本政府および関係者に心から感謝申し上げる。

 

台湾と日本はもとより緊密な関係にあり、固い友情を築いてきた。

災害や事故が発生するたびに互いに支援の手を差し伸べ、「雪中に炭を送る」という行動を繰り返し、長期にわたって支え合いの手本を他国に示してきた。

このコロナ禍においても、台湾と日本は互いに、第三国に取り残された相手国民の救出に協力してきた。

大型客船ダイヤモンドプリンセス号の台湾人乗客を帰国させるためのチャーター機の運航、あるいはペルー、インド、フィジーなどに取り残された人々の帰国など、さまざまなケースを台日双方の協力で無事解決してきた。

今年5月に開催された世界保健機関(WHO)年次総会では、日本の菅義偉首相をはじめとする多くの政府高官が、台湾のWHO参加を支持する立場を表明した。

これに加えて、このたび日本政府からワクチンの支援を受けられることは、わが国の感染症対策システムを強化し、国民の健康を守るために大きく役立つことだ。

このことはまた、台湾と日本のパートナーシップが「患難真情(まさかのときの友こそ真の友)」であることを改めて証明した。

日本の人々からの心温まる支援を、わが国の政府と国民は永遠に忘れないだろう。

 

台湾と日本は、自由や民主主義という普遍的価値を共有している。

さまざまな側面において、双方は重要なパートナーであり、貴重な友人である。

わが国は、この盤石な関係を基礎に、さらに双方の関係を深めていきたいと考えている。


石破氏出馬見送りへ 自民総裁選 河野氏支援を検討

2021-09-14 18:07:39 | 日記

 

石破氏出馬見送りへ 自民総裁選 河野氏支援を検討

 自民党の石破茂元幹事長(64)は14日、菅義偉首相の後継を決める総裁選(17日告示、29日投開票)への立候補を見送る方向で調整に入った。

党内の支持が広がらず石破派内にも慎重論が強いため。

既に出馬表明している河野太郎行政改革担当相(58)を支援する方向で検討しており、15日の派閥臨時総会で表明する。

総裁選は岸田文雄前政調会長(64)、高市早苗前総務相(60)、河野氏による戦いの構図がほぼ固まった。

 石破氏は各種世論調査の「次の首相候補」で河野氏にリードを許し、側近議員が河野氏支援に動くなど派閥内も固められず、出馬に必要な20人の推薦人集めも難航。

周辺は14日、「派内は割れている」と述べ、石破氏が出馬しても勝つのは困難との見通しを認めた。


九人の乙女の碑

2021-09-14 16:21:49 | 日記

九人の乙女の碑

 

 

稚内公園の樺太(サハリン)を眺める景勝の地に立つ慰霊碑。

終戦直後の昭和20年8月20日、ソ連軍は樺太真岡郡真岡町に侵攻。

真岡郵便電信局で、本州との電話連絡のため残留していた電話交換手(女性)12人のうちの、高石班長ら9人が青酸カリなどで自決するという悲劇が起きました

終戦後、樺太で起こった電話交換手の悲劇を慰霊

九人の乙女の碑

「交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん・・・、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで・・・。さようなら」(『九人の乙女の物語』)という最後の連絡を残して樺太に散った9人の乙女を慰霊しています。

昭和20年8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決め、8月15日には天皇陛下の肉声で終戦の玉音放送を流していますが、樺太では8月20日になって突然、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破って侵攻。
戦火での犠牲者も出ています。

九人の乙女の碑に刻まれたレリーフは、横にある「氷雪の門」と同様に札幌出身の彫刻家・本郷新(ほんごうしん)の作品。
レリーフの横には、「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」と最後の言葉が刻まれています

真岡郵便電信局と北海道の間は、昭和9年に敷設された海底ケーブルで結ばれていました。
そのケーブルの中継所は猿払村浜猿払(猿払電話中継所)にあり、真岡郵便局で自決をした9人の乙女たちの最後のメッセージは、猿払電話中継所で受信しました。

猿払電話中継所跡には「樺太との電気通信ゆかりの地」碑が立っています。
 

九人の乙女の碑 DATA

名称

九人の乙女の碑/くにんのおとめのひ
Monument of the Nine Maidens

所在地

北海道稚内市稚内公園

関連HP

稚内市公式ホームページ

 

ドライブで

稚内空港から約14km

駐車場

50台(氷雪の門駐車場)/無料

問い合わせ

稚内市観光交流課TEL:0162-23-6161

掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

稚内公園


自決した真岡郵便局の女性たち 同僚の記憶(2018年8月15日 稚内支局 芋野達郎記者)

2021-09-14 16:07:49 | 日記

自決した真岡郵便局の女性たち 同僚の記憶(2018年8月15日 稚内支局 芋野達郎記者)

「その場にいたら、自分も自決していた」

終戦直後の樺太で、ソビエト軍の侵攻の状況を電話で伝え続けた後、自ら命を絶った真岡郵便局9人の電話交換手を知る同僚が、思い出を絵に描きました。

NHK札幌放送局では、太平洋戦争中に樺太、今のロシア、サハリンや千島列島、北方領土での体験を絵に描いてもらう「樺太・千島戦争体験の絵」を募集しています。

花形の電話交換手 楽しい思い出

北海道の和寒町の栗山知ゑ子さん(90歳)は、戦時中、樺太の真岡郵便局で電話交換手として働いていました。

当時の電話交換台での仕事風景や、同僚たちとの昼休みの団らんを絵に描きました。

電話は当時、情報をいち早く伝える手段として重要な役割を果たしていて、電話交換手は女性たちにとって、花形の職業でした。

その責務は重く、常に緊張を強いられましたが、昼休みだけはみんな普通の女の子に戻り、おしゃべりを楽しんだそうです。

ソビエト軍の侵攻 最後の別れ

昭和20年、当時17歳だった栗山さんが頼りにしていた先輩は、6歳年上の可香谷シゲさんでした。

いつも笑顔が絶えず、郵便局内の演芸大会の前には、出し物の踊りを教えてくれました。

しかし終戦直後、ソビエト軍が樺太に侵攻。楽しい時間は、突然断ち切られました。

栗山さんは使命感から仕事を続けるつもりでいましたが、母親から頼まれ、家族と共に疎開することにしました。

栗山さんが郵便局で事情を話すと、可香谷さんたちは「元気でね」と笑顔で受け止め、送り出してくれました。

それがみんなとの最後の別れとなりました。

「自分も自決していた」

その2日後、ソビエト軍が真岡に上陸。可香谷さんら9人は郵便局に残り、電話で戦況を伝え続けました。

そして「みなさんこれが最後です。さようなら、さようなら」と告げ、青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。

9人の死を知ったとき、栗山さんは驚くとともに「もし疎開していなければ、自分も薬を飲んで自決していた」と思ったそうです。

最後まで国に奉仕する教えを受けていた身として、自分だけ自決しない選択肢はなく、栗山さんは自分と9人との間に大きな違いはないと感じています。

栗山さんは、樺太の対岸の稚内市で、毎年8月の9人の命日に開かれる追悼式典に参加しています。

栗山知ゑ子さん:
「戦争がなかったら、みんなで楽しく仕事をしていたでしょう。一緒に仕事したり弁当を食べたりした思い出を、大切にしていきたい」


シベリアに1000人近い日本女性が抑留されていた!

2021-09-14 15:41:40 | 日記
シベリアに1000人近い日本女性が抑留されていた!
     
  • 2019.12.17

シベリアに1000人近い日本女性が抑留されていた!

文:小柳ちひろ

数々の賞を受賞した「NHK BS1スペシャル」の話題作がついに書籍化


ジャンル : #ノンフィクション

従軍看護婦、電話交換手、民間人、受刑者……70年の沈黙を破って彼女たちが初めて語ったシベリア抑留、もう一つの歴史


『女たちのシベリア抑留』(小柳ちひろ 著)

女性のシベリア抑留

「シベリアに女の人もいたんですか? 初めて聞きました」

「いや、シベリアに女はいないはずですよ」

 一九四五年八月、日本の敗戦後、旧満州などから関東軍兵士らおよそ六〇万人がソ連やモンゴルの収容所に送られ、強制労働に従事させられた、いわゆる「シベリア抑留」。

その中に数百人の女性もいたという。

 かつてシベリアに抑留された元兵士たちに、女性たちについて知っているか尋ねてみると、たいていの人が怪訝そうな顔をした。

 だが中には抑留された女性について、わずかに見聞きしている人もいた。

 細谷弘治さんは、満州国の首都新京(現在の長春)にあった満州国軍軍官学校に在籍中、終戦を迎え、シベリアに抑留された。

一七歳だった。満州国軍とは、満州国の建国とともに創設された軍隊で、“五族協和”を標榜し、漢族・満州族・朝鮮族・蒙古族で編成されていた。

日本人は、軍官学校を卒業した各民族の将校(軍官)とともに指揮官として従軍した。韓国の朴正煕元大統領も軍官学校の同窓の一人である

 細谷さんたち軍官学校の第七期生、三七五人のうち三一六人が抑留され、そのうち八六人が亡くなった。

 細谷さんが送られたブカチャーチャの収容所に、一人の日本人女性がいた。

看護婦だと聞いていたが、直接言葉を交わしたこともなく、詳しいことはわからない。

細谷さんは、この女性がどういう経緯でシベリアに送られたのか、かねてから不思議に思っていたという。

 永田潔さんは、入隊後、関東軍露語教育隊に配属され、ロシア語教育を受けて特務機関に在籍していた。

シベリアに抑留後まもなく裁判で刑を受け長期抑留を強いられた、いわゆる“戦犯”である。

終戦から一一年後、一九五六年に釈放され、帰国を果たした。

「シベリアに女の方も……?」

 と切り出すと、

「ええ、いましたよ」

 と、こともなげな返事が返ってきた。

 永田さんの記憶に残っているのは、終戦から五年後、多くの抑留者が日本に帰国し、“戦犯”だけがソ連各地からハバロフスクの収容所に集められた頃、慰問団として楽団とともに収容所を訪れた歌手の女性だ。

終戦前までは樺太でドサ回りをしていたと聞いている。

笑うと出っ歯のため、花より先に葉が出る山桜になぞらえ「山桜嬢」と呼ばれていたが、本名は知らない。

ソ連の奴らが自分らの慰安のために帰さないんですよ

 と苦々しげに語った言葉が妙に生々しかった。

 千島列島の得撫島で終戦を迎えた元少尉の渡辺照造さんは、抑留中、女性がいるという噂を耳にした。

「ナホトカで女のアクチブがアジっているという話を聞いたんだよ。『なんでシベリアに女がいるんだ?』と思ったけどね」

“アクチブ”とは活動家を意味するロシア語で、「民主運動」と呼ばれる、シベリア抑留者たちに対して行われた共産主義の宣伝教育の旗振り役となった日本人を指す。

渡辺さんは、アクチブたちが糾弾の対象とした“反動将校”と見なされ、何度も激しい吊るし上げを経験している。

 渡辺さんは当時を思い出したのか複雑な笑みを浮かべ、思い出したように席を立った。

「ああ、これにも載っているよ」

 本棚から大きなハードカバーの本を取り出して来ると、慣れた手つきでページを繰り始めた。ソ連当局が日本人捕虜の思想教育のために発行した「日本新聞」の復刻版だ。

「これ、これ」

 渡辺さんが示したページには、若い女性の似顔絵と、「在ソ中の皆様に」と題された、抑留者に決起を促す激しい言葉が並んでいた。

 この女性の名はS子さんという。

抑留者の間で「ナホトカのジャンヌ・ダルク」と呼ばれていたと聞く。

のちに私は、S子さんの足跡を追うことになる。

 戦後になってから、女性の元抑留者と交流があったという人もいた。

 依田正一さんは、抑留者たち自身が編纂し、シベリア抑留の実態を知るための貴重な資料集となっている『捕虜体験記』(全八巻)の編集に関わった一人だ。

この時、体験記を寄せた元抑留者の中に、一人の女性がいた

「兵器廠かどこかの軍属だとか言っていたな。ソ連軍が満州に入って来て避難する際、女だとわからないように軍服を着て男装していたために、員数合わせで連れて行かれたらしいんだよ」

 依田さんは、同情極まりないという表情を浮かべて言った。

 シベリア抑留を描いた画文集で有名な画家の佐藤清さんは、戦後「日独捕虜交歓会」という会合で、女性の元抑留者に出会った。

千島で捕えられた電話交換手だったという。

この地域の電話交換手と言えば、ソ連が侵攻した時、「これが最後です、さようなら」と言い残して自決した、樺太真岡郵便局の九人の乙女のエピソードが思い出される。

彼女たちも、自決していなければソ連軍の捕虜となっていたのだろうか。

「その人に『抑留された女の人はどれぐらいいるのですか?』と聞いたら、『一〇〇〇人ぐらいはいるんじゃないですか』と言っていましたよ。

確かなことはわかりませんがね。看護婦で抑留された人もいましたから、看護婦と交換手がいちばん多かったんじゃないかな。女性で抑留されたのは」

日本の敗戦後、満州や北朝鮮、樺太、千島列島から、ソ連、およびモンゴルの収容所に抑留された日本人は、厚生労働省の調べによれば、およそ五七万五〇〇〇人。

その中に「数百人の女性もいた」という事実は、シベリア抑留について総括的に書かれた書物の中で必ず触れられている。

しかし、女性たちがどのような経緯で抑留され、何を経験したのかについてはほとんど記述されていない。

シベリアに女性も抑留されたという事実は、多くの場合「女性すらも容赦なく連行した」ソ連の非道さを強調するための枕詞に留まっている。

 なぜ、女性たちの存在は忘れられてしまったのか。誰かが意図的にその存在を隠したのか。それとも、誰も注意を払わなかっただけなのか。

歴史から消された女性たち

 実は私自身も、女性抑留者の存在に気付きながら、その前を素通りしたことがある。

 テレビドキュメンタリーのディレクターである私が初めてシベリア抑留について取材することになったのは、二〇一〇年にNHKスペシャル「引き裂かれた歳月 証言記録シベリア抑留」の制作に携わった時のことだ。

その時、ロシア取材を担当していた栗田和久ディレクターが持ち帰った、ある地方公文書館に所蔵されているアルバムの複写を見た。アルバムは、収容所当局が日本人抑留者を撮影した写真を収めたものだ。収容所当局と日本人の良好な関係を強調した、多分にプロパガンダ色の濃いものだったが、その中に、日本への帰国を前に整列する女性抑留者たちの写真があった。ロシア語で「ナホトカのアクチブたち」と手書きのキャプションがついたページには、数人の若い兵士たちに混じり、溌剌とした笑顔を見せているおさげ髪の若い女性もいた。名前を確かめると、前述の「ナホトカのジャンヌ・ダルク」と呼ばれたS子さんだった。彼女の名前は、全国抑留者補償協議会を結成し初代会長を務めた斎藤六郎氏の著作にも登場する。

「女性もソ連の捕虜になったのか。どれほど苦労したことだろう」とその時思った。

しかし、この時の取材のテーマは、シベリアの民主運動と、それによって引き裂かれた日本人抑留者たちの対立を浮かび上がらせることだった。

限られた取材期間の中で、なすべきことは山ほどある。

なぜ民主運動が日本人抑留者の間に広がったのか。運動を主導したのは誰か。

五七万人もの人々が体験した巨大な時代の潮流を、約五〇分のストーリーにまとめるためには、最大公約数的な体験を描くための情報収集を優先せざるを得ない。

女性抑留者は民主運動の根幹に関わった存在ではない。それゆえ女性の抑留という特異な側面を盛り込むことは難しいと思われた。

 それに、女性でありながらソ連の捕虜になった人たちにとって、抑留生活は忘れたい記憶に違いない。

現在、どこかで静かに人生の最晩年を過ごしている彼女たちを探し出し、当時を語って欲しいと望むこと自体、取材とはいえ、あまりにも失礼なのではないだろうか──。

 シベリア民主運動の取材は非常に難しかった。抑留当時、アクチブとして共産主義に傾倒していたはずの多くの人が、取材の申し込みに対し、狼狽し、平静さを失った。

多くの人は、シベリアの収容所という異常な環境で、イデオロギーに熱狂した自らの過去を恥じているように感じられた。

ロシアの地方公文書館に残るアルバムの中で、無邪気に笑っている「ナホトカのジャンヌ・ダルク」ことS子さんもまた、当時の記憶を忘れたいと思っているかもしれなかった。

 

 しかし、その後も数年にわたり、あの戦争の時代に生きた人々の取材を続ける中で、忘れられた女性たちの存在が気になってきた。

 戦争について取材する場合、対象者の多くは男性である。しかし時折、男性たちの妻や姉妹など、女性たちの話を聞くと、はっとするような真実が立ち現れる瞬間があった。

 女性たちが自ら語り、書き残した記録は非常に少ない。

そして歴史について書かれた書物も、多くは男性の書き手によるもので、女性たちを描くために割かれているページは少ない。

 だからこそ、女性たちの存在に気付いた者がその声を聞き、記録を残さなければ、彼女たちの存在は消えてしまうのではないか。

 私は、シベリアに抑留された女性たちを探すことにした。

 二〇一四年一月から取材を開始し、手がかりが見つからないまま、あっという間に二か月が過ぎた。ようやく一人の女性元抑留者に会えたのは、三月九日のことだった。