赤気(せっき):赤色の雲気。彗星・超新星・オーロラのことともいう。
広辞苑第六版
藤原定家(1162-1241)の日記「明月記」(1180-1235)には
退屈な日常の出来事がつづられているようですが、時には貴重な記録もみられるとのことです。このような「発見」は、専門家にしかできないことなんでしょう。
広く言っての社会的不満もまたますます昂じて来るのである。夜天には奇怪なる「赤気(これは斉藤国治氏の研究「明月記中の天文記事」によるとオーロラであったらしい)」(正月十九日)があらわれ・・・・:P.208-210 堀田善衛「定家明月記私抄」ちくま学芸文庫 筑摩書房
<藤原定家>日記の「赤気」はオーロラ 極地研などが解析
平安・鎌倉時代の歌人、藤原定家(1162~1241年)が日記「明月記」に書き残した「赤気(せっき)」という現象は、太陽の異常な活発化によって京都の夜空に連続して現れたオーロラだった可能性が高いと、国立極地研究所や国文学研究資料館などのチームが米地球物理学連合の学術誌に発表した。連続したオーロラの観測記録としては国内最古という。
明月記には、1204年2~3月にかけて、京都の北から北東の夜空に赤気が連続して現れ、定家は「山の向こうに起きた火事のようで、重ね重ね恐ろしい」と書き残している。
オーロラは太陽から噴き出した高エネルギー粒子が、地球の大気を光らせる現象。北極や南極などで観測され、京都で連続して発生することは考えにくい。赤気の現象が何を指しているかは長年の謎で、彗星(すいせい)説もあった。
片岡龍峰(りゅうほう)・極地研准教授らのチームが過去2000年の地磁気の軸の傾きを計算した結果、北米大陸方向に傾いている現在の軸が1200年ごろには日本列島側へ傾きオーロラが出現しやすい時期だったことが分かった。また、中国の歴史書「宋史」の同2月の記録に「太陽の中に黒点があり、ナツメのように大きい」と書かれているのに着目。太陽活動が活発化していた可能性が高いと分析した。
太陽の活動が活発化するとオーロラが発生しやすくなるといい、宋史にも900~1200年代に赤いオーロラの観測例が十数件記述されているという。屋久杉などの年輪に残る太陽活動の痕跡と照合した結果、オーロラが観測された年と太陽活動が活発だった年がほぼ一致したという。【阿部周一】:毎日新聞 2017/3/22(水) 13:40配信
藤原定家(1162-1241)が
1204年に「赤気(オーロラ)」を日記(明月記)に記録しましたが、この時代に「不気味・不穏」を感じていたのかも知れません。
というのは
初代将軍源頼朝の死因でさえ諸説ありはっきりしないまま、その息子の2代将軍源頼家を支持していた比企能員(ひきよしかず)一族が、やがて3代将軍になる源実朝を支持する北条一族によって滅亡させられ、源頼家は将軍職を解かれ、翌年1204年に暗殺されています。
そして若くして3代将軍になった源実朝も、源頼家の息子で源実朝の猶子になっていた公暁(くぎょう・こうきょう)によって暗殺されてしまいました。このとき公暁は「親のかたき」と叫んでいたらしいのですが、若さゆえそれが北条の企みであったかも知れないなどという思考には至りませんでした。
こうして鎌倉将軍三代将軍のすべてが、暗殺などの怪しい死に方をしています。源氏が平氏を追撃して全滅させた『たたり』だ、と思われていたのでしょうか。せっかく成立したはずの鎌倉将軍の「源氏」は3代で終わってしまったのですね。
鎌倉の地から遠い京都にいた藤原定家ですが、源頼家が伊豆へ幽閉されたことは知っていたはずで、1204年に赤気(オーロラ)をみたことで当時流行していた末法思想にも幾分か影響されて「不穏な政局」を感じていたのかも知れません。
そんなことを考えていると
北朝鮮の将軍もちょうど3代目金正恩であり、完全な隠ぺい工作があり実体は分かりませんが、2代ともはっきりしない最期を迎えているようで、3代目になってますます側近の暗殺処刑が多くなっているため、北朝鮮もまた鎌倉将軍のように3代目で終わってしまうのでしょうか。その場合、朝鮮戦争(1950-1953)の『たたり』なんでしょうか(笑)。
そう言えば、南にある韓国のほとんどの大統領が、不幸な最期を迎えている(死刑判決・自殺・逮捕などなど)ことは、世界中に知られていることで、韓族そのもの、あるいは韓族がこしらえる国家形態に、何らかの問題があるとしか言えません。
さてさて、皆様はどう思われますか。