日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

ボロボロの大きな船

2018年10月20日 | GRACE 死にゆく人とともにあること
ワーキングホリデーかなにかで地上に降り立った天使みたいなマイミちゃんがしてくれた話をします。

苦しむ人を助けたいと思う人の話。

「沈みそうな人を助けたくても
自分が飛び込んで一緒に溺れてはいけない」

「その人が乗っているのが
どんなにボロボロな船でも
それはその人の大切な人生だから
その船から下ろそうとしてもいけない」

「私たちにできるのは
自分の小さな船で大きなボロボロの船に近寄り
そばにいることだけなのかもしれない」

治らない病気の子どもたちとその親と

どうしたら、どうしたら、いいんだろうと
悩んだ人の言葉。


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世界は簡単に変わる

2018年05月28日 | GRACE 死にゆく人とともにあること
何をしても世界は変わらない、と思う?

自分の受け止め方が変わるだけで、世界は簡単に変わる。
がらっと変わる。

駒込病院やマギーズ東京で活躍する栗原幸江先生が、ナラティブ・メディスンの講義で鮮やかにそれを実演して見せてくれた。

使った材料は一枚の絵、それと私たちの目、脳。

スライドにはワイエスのあの絵。
草はらに体をねじって座る「クリスティーナの世界」

どこか不自然なその体勢からは、現実と気持ちが引き裂かれたような葛藤が強く迫ってくる。

みんながそれぞれに感じたことを言う。

「あの家に行きたいけれど行けないみたい」

「もしかして見えない馬車から落ちた?」

「恨み、諦めを感じる」

その後、栗原先生は私たちに一つの情報を開示する。
この絵のモデルのクリスティーナはシャルコー・マリー・トゥース病で半身が不自由にもかかわらず、毎日欠かさず自力で草はらと自宅を往復していたこと。
それを見た画家にぜひにと請われて絵に描かれた、と。

すると一瞬で絵の印象が変わる。
何も変わらないはずなのに、私たちの解釈が変わることで複数の人には「空の色まで明るく見える」。

クリスティーナの体のねじれは最初から彼女の内にある戦いを表していた。
行きたい気持ちがあるのに、動かない体。
多くの人が叶わない願い、あきらめ、無念さを感じるかもしれない。
でも彼女の体が、そもそも不自由で動かないものであったのなら。
その体をひきずって這ってでも進む、という強い意志の勝利の物語に転換するのだ。

まるで手品のように「空の色まで明るく見える」。

栗原先生が見せてくれたのは、実は、特別なことではない。

そんなことは日々あること。
私たちが常にしていること。
だってそうやって私たちは自分の認知の仕方で自分の住む世界を形作っている。

そしてそれは非言語的に一瞬で伝わり、相手の世界をも変えてしまう。

「私」と「世界」とは、相互作用的な創造的なプロセスだから。

絵だから楽しい驚きの経験ですむけれど、

相手が絵じゃなくて人間だったら?

怖いでしょう?

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GRACE 日本語

2018年01月02日 | GRACE 死にゆく人とともにあること
GRACE (by Roshi Joan Halifax)
日本語のはなしことばに訳してみました。

辛い時、ピンチの時に効きます。
しあわせな時にもどうぞ。



ちょっと一息立ち止まり

胸に手をあて考える

この身は何を伝えるか

相手は何を見ているか

そもそも何がしたいのか

どうあることが幸いか

一期一会のその内に




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悩みがなくなるのではない

2017年11月28日 | GRACE 死にゆく人とともにあること
そして一照さんの締めの言葉。

GRACEも仏教もマスターしたら
全てOKというものではなく
それはちゃんと悩むための心棒であり
ストラクチャーである。

その都度ちゃんと悩んで
そのことに疲れない悩み方
意味のある悩み方を教えてくれる。

うーん、そうそう。

本当にそう。

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どこまでやるのかの境界線

2017年10月27日 | GRACE 死にゆく人とともにあること
定期的に一緒に勉強している(混ぜてもらっている)仲間がいるんだけれど、今回のテーマは「どこまでやるべきか」あるいは境界線、だった。

相手によりそう、の実践編。

主に専門家と患者、利用者の関係においてだけれど、どんな場合にでもヒントになると思う。

そこで出た珠玉の意見のいくつかがこちら。

「お互いのためにこそ境界線(枠)を設ける」

「できることとできないことを見極める」

「考え尽くした末の割り切りは愛情である」

「手を出さないこと、その人に任せることは責任の放棄ではなくその人を尊重することでもある」

「全て含めて生のプロセスである。変えようとするのではなく立ち合うことも重要な役割である」

帰りの電車でも話してた、私の頭に浮かんだことがふたつ。

ひとつめ。

悩んだ時にはやはり少し引いて見ることが大事だなあということ。

一生懸命であればあるほど、どうしても近づきすぎて全体が見えなくなるから。

ふたつめ。

自分なりの境界線の引き方、決め方があるといい。
私はもう決まっていて、それは相手の態度や反応によってうらみが生じないところ。
相手がどんなにわかってなくても失礼でも、まあいいよ、自分がやりたくてやったから、ですむところ。
全部自分の責任においてできるところ。
相手次第で気持ちが持って行かれないところ。

それも、おそらく母が教えてくれた。








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