⚽️ブラインドサッカー⚽️
「あなたはいずれ目が見えなくなるから盲学校に行きなさい」
母からそう告げられたのは10歳の時だ。
当時の私は漫画『キャプテン翼』の主人公に憧れて、日本代表を夢見ていた。
サッカー漬けの日々を送っていたと思う。
そんな時、視力が徐々に落ちる遺伝性の難病を発症したと聞かされても、私は信じられなかった。
当然、薬も飲まず、盲学校にも通わなかった。
2年後、ボールが見えなくなるまで視力が低下した。
日本代表の夢は諦めるほかなかった。
そして18歳で失明した。
目が見えない現実は受け入れ難く、死を決意し、歩道橋から飛び降りようとした。
思いとどまり鍼灸師になったが、
生きる意義は見出せなかった。
「ブラインドサッカー」に出会ったのはそんな頃だった。
ブラインドサッカーは5人制サッカーで、
4人のフィールドプレーヤーを視覚障害者が努め、
キーパーを健常者が努める。
公平を図るため、キーパー以外はアイマスクを着用し、鈴の入ったボールの音とガイド(ゴール裏から指示出す人)の声を頼りにゴールを奪い合うのが特徴だ。
ガイドは声がとれば問題ないため、老若男女にを問わない。
性別、障害、年齢に関係なく楽しめる競技といってもいい。
平成13年の正月、初めて参加したブラインドサッカーの練習は思うようにいかなかった。
目が見えていたときのイメージが邪魔をして、ドリブルもバスもシュートも満足にできなかったのだ。
それでも練習や試合を繰り返すとできることが増えてきた。
その実感が嬉しくて、平日は筋トレ、休日は始発に乗って練習に行き、終電で帰るなど、ブラインドサッカーにどんどんのめり込んでいった。
日本のブラインドサッカーが創生期だったこともあり、
運よくすぐに日本代表に入れたが、始めたの試合は感慨深かった。
平成14年11月の韓国戦。
シーンとした競技場に「君が代」が流れると、
体の奥底から喜びがこみ上げて、全身が震えた。
念願叶って日本代表に選ばれ、生きる意義を得た私は、ゴールを決めることで自分が生きた証を残したいと思った。
その日から自分さえゴールできればいい、と思いプレーをしていたのだ。
転機になったのは、3年後の日本代表選考が宿だった。
負けん気を強く、勝ちへの執念を上手くコントロールできていなかった私は、
紅白戦でファールを取ってくれない審判に怒り、差し伸べてくれた手を思わずふり払ってしまった。
一部始終を目撃した風祭日本代表前監督は、それを理由に、私を代表から外した。
どうしても納得いかず、サッカーをやめると宣言した。
それから、携帯が鳴り続けた。
「一緒にサッカーやろうよ」と仲間からメールが届いた。
次第に自分が思っている以上に、仲間が必要としてくれていることに気づき、復帰を決意した。
2ヶ月半ぶりの練習に出ると、当時所属していたクラブチームの監督も兼任していた風祭氏が、
「戻ってくるの遅かったなぁ。案外メンタル弱いんやなぁ」
とチームメートと一緒に温かく迎えてくれた。
この時、初めてサッカーはみんなでやるものという言葉が腑に落ちた。
それからは、逆に仲間の失敗を励ますようになり、力を合わせて勝ちたいと思うようになった。
台所で料理をしながら足元でボールを触るなど、日常の全てをサッカーに注ぎ込むようになったのもこの頃からだと思う。
思い返すと、日本代表の落選は私を人間的に成長させてくれた。
風祭氏には感謝している。
東日本大震災も大きく自分自身を変えた。
年齢も30代半ば、度重なる怪我にサッカーを続けるのはもう無理だと諦めかけていた時、
大震災で才能ある多くの人が亡くなる事実に直面した。
生きている自分に何ができるかと考え、ブラインドサッカーを通して人々に勇気と笑顔を届けようという結論に至った。
同年、ロンドンパラリンピック予選が仙台で開幕した。
観客席には被災した子供たちもいる。
改めてパラリンピックの出場権を得て、
「彼らを笑顔にしたい、勇気づけたい」と思った。
そのためにも負けられない韓国戦だったが、
0対0で迎えた後半、
先制点を許した。
監督から声がかかったのはその時だ。
「オフェンスで行くからな」
いつも守備的な位置でプレイしている私は驚いた。
それでも勝ちたいという意志が私を突き動かす。
ドリブルで攻め込むと、
相手ともつれ合いながら、
足を振り抜いた。
次の瞬間、場内がわいた。
蹴ったボールが同点ゴールになったのだ。
勢いに乗る日本は、2分後に逆転ゴールを決め、勝利した。
子供たちの喜ぶ声が聞こえてきて、嬉しかったことを覚えている。
いまでも東北には定期的に足を運ぶ。
その際、私が子供たちによく伝えるのは夢の叶え方だ。
夢を叶えるには1番大切なのは願うことだ。
それから努力すること。
努力しても叶わないことがあるかもしれないが、悲観することはないとも伝える。
私は失明し、サッカー日本代表の夢は諦めたが、
ブラインドサッカーの日本代表になれた。
この経験から夢にはいろいろな叶え方があると思っている。
また夢に向かって努力すれば苦しいこともある。
私はその苦しみは、人生を幸せにするための大切な「スパイス」だと考えている。
私は日本代表にもなれて、エース背番号10も背負えた。
今が幸せと思うと、
心の底から叫びたくなる。
「障がいがあって幸せだ!」と。
(「致知」8月号 致知随想 落合啓士さんより)