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平等って、

2016-07-06 15:30:23 | 基本的な考え方


日本の教育は、平等という言葉をはき違えているのではないでしょうか。

平等というのは、皆が同じであるということではありません。

皆が違うんだということを、互いに認め合うことなんです。

ケント・ギルバート

ブラインドサッカー

2016-07-06 14:20:20 | お話
⚽️ブラインドサッカー⚽️


「あなたはいずれ目が見えなくなるから盲学校に行きなさい」

母からそう告げられたのは10歳の時だ。

当時の私は漫画『キャプテン翼』の主人公に憧れて、日本代表を夢見ていた。

サッカー漬けの日々を送っていたと思う。

そんな時、視力が徐々に落ちる遺伝性の難病を発症したと聞かされても、私は信じられなかった。

当然、薬も飲まず、盲学校にも通わなかった。

2年後、ボールが見えなくなるまで視力が低下した。

日本代表の夢は諦めるほかなかった。

そして18歳で失明した。

目が見えない現実は受け入れ難く、死を決意し、歩道橋から飛び降りようとした。

思いとどまり鍼灸師になったが、
生きる意義は見出せなかった。

「ブラインドサッカー」に出会ったのはそんな頃だった。

ブラインドサッカーは5人制サッカーで、
4人のフィールドプレーヤーを視覚障害者が努め、

キーパーを健常者が努める。

公平を図るため、キーパー以外はアイマスクを着用し、鈴の入ったボールの音とガイド(ゴール裏から指示出す人)の声を頼りにゴールを奪い合うのが特徴だ。

ガイドは声がとれば問題ないため、老若男女にを問わない。

性別、障害、年齢に関係なく楽しめる競技といってもいい。

平成13年の正月、初めて参加したブラインドサッカーの練習は思うようにいかなかった。

目が見えていたときのイメージが邪魔をして、ドリブルもバスもシュートも満足にできなかったのだ。

それでも練習や試合を繰り返すとできることが増えてきた。

その実感が嬉しくて、平日は筋トレ、休日は始発に乗って練習に行き、終電で帰るなど、ブラインドサッカーにどんどんのめり込んでいった。

日本のブラインドサッカーが創生期だったこともあり、
運よくすぐに日本代表に入れたが、始めたの試合は感慨深かった。

平成14年11月の韓国戦。

シーンとした競技場に「君が代」が流れると、

体の奥底から喜びがこみ上げて、全身が震えた。

念願叶って日本代表に選ばれ、生きる意義を得た私は、ゴールを決めることで自分が生きた証を残したいと思った。

その日から自分さえゴールできればいい、と思いプレーをしていたのだ。

転機になったのは、3年後の日本代表選考が宿だった。

負けん気を強く、勝ちへの執念を上手くコントロールできていなかった私は、

紅白戦でファールを取ってくれない審判に怒り、差し伸べてくれた手を思わずふり払ってしまった。

一部始終を目撃した風祭日本代表前監督は、それを理由に、私を代表から外した。

どうしても納得いかず、サッカーをやめると宣言した。

それから、携帯が鳴り続けた。

「一緒にサッカーやろうよ」と仲間からメールが届いた。

次第に自分が思っている以上に、仲間が必要としてくれていることに気づき、復帰を決意した。

2ヶ月半ぶりの練習に出ると、当時所属していたクラブチームの監督も兼任していた風祭氏が、

「戻ってくるの遅かったなぁ。案外メンタル弱いんやなぁ」

とチームメートと一緒に温かく迎えてくれた。

この時、初めてサッカーはみんなでやるものという言葉が腑に落ちた。

それからは、逆に仲間の失敗を励ますようになり、力を合わせて勝ちたいと思うようになった。

台所で料理をしながら足元でボールを触るなど、日常の全てをサッカーに注ぎ込むようになったのもこの頃からだと思う。

思い返すと、日本代表の落選は私を人間的に成長させてくれた。

風祭氏には感謝している。

東日本大震災も大きく自分自身を変えた。

年齢も30代半ば、度重なる怪我にサッカーを続けるのはもう無理だと諦めかけていた時、

大震災で才能ある多くの人が亡くなる事実に直面した。

生きている自分に何ができるかと考え、ブラインドサッカーを通して人々に勇気と笑顔を届けようという結論に至った。

同年、ロンドンパラリンピック予選が仙台で開幕した。

観客席には被災した子供たちもいる。

改めてパラリンピックの出場権を得て、
「彼らを笑顔にしたい、勇気づけたい」と思った。

そのためにも負けられない韓国戦だったが、

0対0で迎えた後半、

先制点を許した。

監督から声がかかったのはその時だ。

「オフェンスで行くからな」

いつも守備的な位置でプレイしている私は驚いた。

それでも勝ちたいという意志が私を突き動かす。

ドリブルで攻め込むと、

相手ともつれ合いながら、

足を振り抜いた。

次の瞬間、場内がわいた。

蹴ったボールが同点ゴールになったのだ。

勢いに乗る日本は、2分後に逆転ゴールを決め、勝利した。

子供たちの喜ぶ声が聞こえてきて、嬉しかったことを覚えている。


いまでも東北には定期的に足を運ぶ。

その際、私が子供たちによく伝えるのは夢の叶え方だ。

夢を叶えるには1番大切なのは願うことだ。

それから努力すること。

努力しても叶わないことがあるかもしれないが、悲観することはないとも伝える。

私は失明し、サッカー日本代表の夢は諦めたが、

ブラインドサッカーの日本代表になれた。

この経験から夢にはいろいろな叶え方があると思っている。

また夢に向かって努力すれば苦しいこともある。

私はその苦しみは、人生を幸せにするための大切な「スパイス」だと考えている。

私は日本代表にもなれて、エース背番号10も背負えた。

今が幸せと思うと、

心の底から叫びたくなる。

「障がいがあって幸せだ!」と。


(「致知」8月号 致知随想 落合啓士さんより)

途上国のビジネス、2

2016-07-06 11:48:18 | お話
🌸🌸②途上国のビジネス🌸🌸


🔹水野 小田さんが水の浄化に取り組まれるようになったいきさつについて、ぜひお聞かせください。

🔸小田 私はもともと機械工学のエンジニアとして大阪金属工業(現・ダイキン)に勤務していたんです。

若い頃から発明が大好きで、ほら、数字を負わせる家庭用のドアロック、

それからティッシュケースや食品パックの印刷位置がずれないようにする光電マーク、これらは私の発明です。

水質浄化に取り組むようになったのは、阪神・淡路大震災が大きなきっかけでした。

その頃、私は神戸の御影に住んでおりましてね。

飲料水は一日我慢すれば次の日から配られるのですが、炊事や入浴などの生活水にはほとほと困りました。

近くを流れる石屋川を見ながら

「ああ、この水が綺麗にできたらいいのになぁ」

と。

その時、私は10年ほど前に読んだ京都大学の先生の論文に僅か二行か三行、

「納豆のネバネバ成分は保湿性がとても高く、

水質浄化に使えるのではないか」

とあったのを思い出したんです。

早速食品会社からポリグルタミン酸を取り寄せて実験したら、驚いたことに一発目から反応がありました。

もちろん、それからは試行錯誤が続きましたが、ソニーが世界初のトランジスタを発明した時の苦労話を思い出しながら頑張ってやってきたんです。

当時、水の浄化と言えば濾過が一般的でしたから、

マスコミで発表すると

「こんなに手軽の方法があったのか」

とたちまち注目を浴びました。

テレビ局が芸能人を呼んで京都の名刹で池の浄化実験を行ったり、

私も何かと有名になり始めて

「国内の水質浄化を独占して、環境ビジネスで一儲けできるぞ」

と密かにほくそ笑んでいたんです(笑)。

ところが、日本の行政や大企業は既得権重視で、新参者には門戸が狭かったですね。

あるテレビ局が大阪の道頓堀の一画を囲って、それを綺麗にしようと発案してくれた時も、

真っ先に猛反対したのは行政でした。

それで「この国はダメだ」とがっかりしたわけです。

🔹水野 活路を開けたのですか?

🔸小田 2004年のスマトラ島沖地震はご記憶でしょう?

その頃、うちの社員に阪大出たタイ人がいて、たまたま王室と近い間柄だったから救援の要請を受けて駆けつけたんです。

例の調子で実験をやって大変な反響だったのですが、

そのうちに「もう一回来てほしい」と言われて、今度は神様のように大事にされて。

自分が活動する舞台は海外なのかな、と思うようになりました。

地震の3年後、サイクロン・シドルによってバングラディッシュが大変な被害に見舞われた時も

支援を求められ、ここでも救世主扱いでした。

ですから、海外進出を計画的に進めたと言うわけではなく、

行き当りばったり、その時の成り行きで海外に活路を見つけたというのが正直なところですね。

私たちの事業は人間の生命や健康に関わるものですから、もちろん勝手にやっていいわけではありません。

必ずその国の許認可を得て、月に2回は現地の行政官の水質をチェックしています。

🔹水野 水質浄化剤は貧しい人々でもすぐに手に入るのですか?

🔸小田 100グラムで1ドル。これで千リットルの水をきれいにできます。

「奥地の人でもこの値段なら買える」というのでバングラデシュで商談が成り立ちました。

ただ、いくら貧しい国でも特権階級はいて

「自分たちに任せてくれたら、アッという間に国中に広めてみせる」

と言ってきたんです。

ところが、地域や郡長たちは

「いや、日本人がやらなかったら、自分たちに浄化剤は回ってこない」と。

そうなのかと思って、以来、バングラデシュには40回ほど直接足を運んで販売や指導に当たっています。

その間、現地調達の取材を使った浄水装置も完成させました。

地元の知事からは

「もうそろそろ来なくなるかと思っていたけど、あなたの根気には頭が下がる」

と言われたくらいです(笑)。

水野さんも感じているでしょうが、アジアもアフリカも現地の人は可愛いですよね、

人間が素朴だし、頼られると嬉しくなる。

私が行くと朝から晩までついて回る子供たちもたくさんいます。

肌の黒い人たちに交じって私も黒くなった感覚でいますよ。

🔹水野 おっしゃるように、現地に行くと現地の人たちが好きになりますね。

これは仕事をする上でとても大きな強みだと思います。


🔸小田 私は時々「この人たちは本当に貧乏なのだろうか」と思う時があります。

田舎に行くとマンゴーはたわわに実乗っているは、バナナはふんだんにあるは、鶏はたくさんいるわで、ある意味で豊かにも見えるんです。

🔹水野 その通りですね。

🔸小田 そういえば、ある時、現地のポリグルレディから

「月末に集金に行ったところ、現金がないので鶏や果物をもらってくれないか、と言われた。

どうしたらいいですか」

と相談を受けたことがありました。

私は

「自分で市場に売りに行って換金するならいいよ」とOKを出したのですが、

彼女たちは、そのうちに鶏や果物をマーケットで高く売って利益を出すことを覚えるようになりました。

ビジネスが面白くなるできたのでしょうね。

「自分たちの力でも生活できる」というある種の自信をつけてきたんです。

🔹水野 特にアフリカの女性はよく働きますね。

住友化学の防虫蚊帳の工場も85%が女性ですし、家事も子育ても畑仕事も自分たちでこなします。

🔸小田 イスラム圏では14歳かそこらで結婚し、家に閉じこもっている女性が多いのですが、

彼女たちがいまポリグルレディになっていきいきと働いてくれていますよ。

その姿は美しく輝いて見えます。

それに、面白いのは私たちは各地に浄水場を作るでしょう。

大型浄水タンクから水が供給できる仕組みになっていて、村民たちがポリタンクを持って集まってくる。

するとその一帯が自然と「道の駅」化していくんですね。

タンザニアのある村では、最初にトウモロコシやナマズを売る店が五件ほどあったのが、浄水場ができて半年後にはなんと200件です。

🔹水野 オアシスと同じで、水がある所に人が集まってくるわけですね。

🔸小田 そこからは遠くの家にバイクで水を運ぶといった、新しいビジネスも生まれています。

🔹水野 活動の規模が世界に広がると人材も必要になりますね。そこはどうされているのですか?

🔸小田 インドでもソマリアでもタンザニアでもそうですが、

水の浄化指導したり、販売をしたり、浄水装置を取り付けたりする人はどうしても必要です。

かといって人材を急に増やすことは難しいし、日本の社員を現地に送れば多額の費用がかかります。

そこで考えたのがバングラデシュで技術を習得させた職員をアフリカやインドに派遣することでした。

現地の人たちにしたら、バングラデシュ人が指導する様子を見て「自分たちもできる」という自信につながりますし、

バングラデシュ人にとっては水専門の技術者として海外に派遣されることが誇りになっているんです。


(つづく)