⚡️☀️神経は神のみち☀️⚡️
僕は、小学校5年生の時、大病を患いました。
当時は明確な病名はなかったのですが、
症状としては小児リュウマチ熱のようなもので、
手足が固まったまま、動かなくなってしまったのです。
全身の関節が痛みだし、寝返りもうてない状態。
トイレに行こうとするだけで、ぎっくり腰のようなピキッという痛みが体中に走る感じで動けない。
もう、このままおもらししちゃおうかなって本気で思っていました。
窓からゴミ収集車がくるのが見える、あのなかに取り込んだら死ねるかな…。
そこまで、考えたほどです。
そのときは、自分ひとりでは何もできない状態で、
「母ちゃん、ごめん、水を飲ませて」
「姉ちゃん、ごめん、トイレに連れてって」
とお願いするしかありませんでした。
いつも口うるさいおふくろ、いじめられていた姉に頼みたくないという意地っ張りな気持ちもあるのですが、
もうそういう、ひねくれたことをいっている場合じゃない、
素直になるしかない状態だったんです。
それと同時に、人間って自分ひとりで生きているつもりだけど、
実はそうではなく、
ただただ協力してもらえることが、どれだけありがたいか、
ということに気づいたのです。
そして、このことに気づけない限り、人間ってすぐに、
「そっちが素直になれば、こっちも素直になってやる」
といった交換条件を持ち出して、いざとなれば、
「あんたの力は必要ない」といった意地っ張りのなかで生きているという感覚が、映像のように見えたのです。
それは、人間の構造そのものでした。
人間には、意識(宇宙からきた魂の世界観)と、自我(脳を通して肉体の中にある世界観)の葛藤が常にあるということ。
前に、4〜5歳の頃、人間は意識の世界から脳で考える世界へと移行するときがくると話しましたが、
意識と自我の葛藤は、まさにそのときに起こることで、
意識のなかに自我が入るから人生を複雑にするんだな、
ということに気づいたんです。
本当は誰もが神様であり、宇宙の清々しいエネルギーに満ちた素のままの姿を持っているのに、
それをなかなか発揮できないのは、自我を通すからだということがわかったのです。
なぜこんなに複雑な構造になっているのか?
それは、地球とは、神様がつくった遊び場ではあるけれど、
苦しみ、悲しみ、寂しさなどを感じながら生きていくにあたって、
ボートのような役割があった方ほうが便利だからです。
意識の世界だけで生きるとなると、
相手の心が全部読めてしまったり、感動が得られなかったりと、
この地球で体験する意味が薄れてしまいますよね。
地球という星で思う存分、人生を堪能するためには、物理的な世界にアクセスする乗り物として自我というボートがあったほうがいい。
そして、本当の自分、生の自分と触れ合いたいと思った人だけが、
ボート(自我)から降りて、意識の世界へもアクセスしようとする。
つまり、これが世の中でいわれている「悟り」とか「覚醒」という意味なんだと理解したんです。
そんな僕なりの気づきを得たあと、再び自分の病気と向き合いました。
自分の手や足なのに、命しても動かないし、歩けない。
自分の命令が効かないってことは、自分の体じゃないのかな?
自分の意思が体に伝わらないってどういうことだろう?
それって、神経が遮断されてるってことなのかな?
そのとき、頭のなかに「神経」という文字が何度もあらわれてきたのです。
「神経、神経、神経、神経…」
神経?
神の経(みち)?
もしかして、肉体には神さまが通ってるってこと?
自分で営んでいるように見える肉体だけど、
実は、神のエネルギーが流れることによって生かされている。
心臓も神のエネルギーで動いているし、
呼吸も、まばたきひとつでさえ、
神のエネルギーがあるんからできているんだ!
そう気づいたときに、
「俺って何もしてねぇ〜」
と思いました。
肉体のなかに神さまが通っているから、
こうやって生きていられるんだ!
命ってすごい!
「命って全自動なんだ!」
肉体ってありがたいなぁ。
感謝しなきゃ!
こんなしくみだったなんて、
それならそうと、神さま、いってくれればいいのに〜。
こんなふうに、病気のくせに命のしくみを見破ったことが妙に嬉しくて、感動していたんです。
すると、そう思った瞬間、
ピリピリピリと体に電気が走るような感じがしました。
それも、ゆっくりとソフトに。
一瞬だったらわかりにくいので、神さまはゆっくりと僕にわかるようにやさしく刺激を与えてくれました。
そのとき神さまの思いやりや愛情に触れて、すべてが神の計らいなのだと思えたとき、全身がものすごく温かくなるのを感じました。
まるで柔らかな光に包まれているかのようで、
僕の体の分子構造が全部変わっていくような、そんな感覚でした。
おそらく時間にしたら、1〜2分くらいじゃないでしょうか。
気がつくと、僕の病気は跡形もなく消え去っていました。
歩いて水を飲みに行ける、トイレにも行ける。
わずか1〜2分で病気がパッと消えて、自分の足で立てるし、手も動く。
もう何度、「万歳!」と叫び、飛び跳ねて喜んだことか。
僕は、すぐに表に出て走りました。
それは、僕ひとりで走っているというより、
風とともに、神とともに走っているような感覚で、
なにかとともにいることって、なんて素敵なんだろう、と思えたのです。
生かされていることに対して感謝しかない。
大病をしたことで、その気持ちは一生持ち続けることができるようになりました。
「病気を自分で治したなんて、それは、あなただからできるんでしょ」
と思う人もいるかもしれません。
でも、そうじゃないんです。
誰もが自分で治せる力を持っています。
なぜなら、病気というものは、自分の改善しなければならない点を教えてくれるシグナルだから。
沖縄では、病気のことを「病前(やんめい)」といいます。
これは、このままだと人生が病んでしまうから、病気で教えますね、という意味。
もちろん、肉体的に不都合が起きて病気になっているととらえるのも自由ですが、
宇宙の計らいという視点で見ると、
体が正常に機能しなくなっているのは、
自分の霊性や魂、精神のなかにひずみがあって、
それを教えるためにあるのです。
だって、肉体に痛みが生じれば、そのことに気づきやすいですよね。
だから、病気という手段を通して、より気づけるようにしてくれる神さまの計らいなんです。
よく、末期がんの人が治ったという話を聞きました、
それは、病気をすることで大きな気づきを得たからです。
みんなは、それを奇跡と呼ぶけれど、
そうじゃなくて宇宙のしくみなんです。
こんなふうに病気をとらえると、
実は「病気」というものは存在しない。
これが真実なのです。
(「あなたのなかのやんちゃな神さまとつきあう法」金城幸政さんより)
僕は、小学校5年生の時、大病を患いました。
当時は明確な病名はなかったのですが、
症状としては小児リュウマチ熱のようなもので、
手足が固まったまま、動かなくなってしまったのです。
全身の関節が痛みだし、寝返りもうてない状態。
トイレに行こうとするだけで、ぎっくり腰のようなピキッという痛みが体中に走る感じで動けない。
もう、このままおもらししちゃおうかなって本気で思っていました。
窓からゴミ収集車がくるのが見える、あのなかに取り込んだら死ねるかな…。
そこまで、考えたほどです。
そのときは、自分ひとりでは何もできない状態で、
「母ちゃん、ごめん、水を飲ませて」
「姉ちゃん、ごめん、トイレに連れてって」
とお願いするしかありませんでした。
いつも口うるさいおふくろ、いじめられていた姉に頼みたくないという意地っ張りな気持ちもあるのですが、
もうそういう、ひねくれたことをいっている場合じゃない、
素直になるしかない状態だったんです。
それと同時に、人間って自分ひとりで生きているつもりだけど、
実はそうではなく、
ただただ協力してもらえることが、どれだけありがたいか、
ということに気づいたのです。
そして、このことに気づけない限り、人間ってすぐに、
「そっちが素直になれば、こっちも素直になってやる」
といった交換条件を持ち出して、いざとなれば、
「あんたの力は必要ない」といった意地っ張りのなかで生きているという感覚が、映像のように見えたのです。
それは、人間の構造そのものでした。
人間には、意識(宇宙からきた魂の世界観)と、自我(脳を通して肉体の中にある世界観)の葛藤が常にあるということ。
前に、4〜5歳の頃、人間は意識の世界から脳で考える世界へと移行するときがくると話しましたが、
意識と自我の葛藤は、まさにそのときに起こることで、
意識のなかに自我が入るから人生を複雑にするんだな、
ということに気づいたんです。
本当は誰もが神様であり、宇宙の清々しいエネルギーに満ちた素のままの姿を持っているのに、
それをなかなか発揮できないのは、自我を通すからだということがわかったのです。
なぜこんなに複雑な構造になっているのか?
それは、地球とは、神様がつくった遊び場ではあるけれど、
苦しみ、悲しみ、寂しさなどを感じながら生きていくにあたって、
ボートのような役割があった方ほうが便利だからです。
意識の世界だけで生きるとなると、
相手の心が全部読めてしまったり、感動が得られなかったりと、
この地球で体験する意味が薄れてしまいますよね。
地球という星で思う存分、人生を堪能するためには、物理的な世界にアクセスする乗り物として自我というボートがあったほうがいい。
そして、本当の自分、生の自分と触れ合いたいと思った人だけが、
ボート(自我)から降りて、意識の世界へもアクセスしようとする。
つまり、これが世の中でいわれている「悟り」とか「覚醒」という意味なんだと理解したんです。
そんな僕なりの気づきを得たあと、再び自分の病気と向き合いました。
自分の手や足なのに、命しても動かないし、歩けない。
自分の命令が効かないってことは、自分の体じゃないのかな?
自分の意思が体に伝わらないってどういうことだろう?
それって、神経が遮断されてるってことなのかな?
そのとき、頭のなかに「神経」という文字が何度もあらわれてきたのです。
「神経、神経、神経、神経…」
神経?
神の経(みち)?
もしかして、肉体には神さまが通ってるってこと?
自分で営んでいるように見える肉体だけど、
実は、神のエネルギーが流れることによって生かされている。
心臓も神のエネルギーで動いているし、
呼吸も、まばたきひとつでさえ、
神のエネルギーがあるんからできているんだ!
そう気づいたときに、
「俺って何もしてねぇ〜」
と思いました。
肉体のなかに神さまが通っているから、
こうやって生きていられるんだ!
命ってすごい!
「命って全自動なんだ!」
肉体ってありがたいなぁ。
感謝しなきゃ!
こんなしくみだったなんて、
それならそうと、神さま、いってくれればいいのに〜。
こんなふうに、病気のくせに命のしくみを見破ったことが妙に嬉しくて、感動していたんです。
すると、そう思った瞬間、
ピリピリピリと体に電気が走るような感じがしました。
それも、ゆっくりとソフトに。
一瞬だったらわかりにくいので、神さまはゆっくりと僕にわかるようにやさしく刺激を与えてくれました。
そのとき神さまの思いやりや愛情に触れて、すべてが神の計らいなのだと思えたとき、全身がものすごく温かくなるのを感じました。
まるで柔らかな光に包まれているかのようで、
僕の体の分子構造が全部変わっていくような、そんな感覚でした。
おそらく時間にしたら、1〜2分くらいじゃないでしょうか。
気がつくと、僕の病気は跡形もなく消え去っていました。
歩いて水を飲みに行ける、トイレにも行ける。
わずか1〜2分で病気がパッと消えて、自分の足で立てるし、手も動く。
もう何度、「万歳!」と叫び、飛び跳ねて喜んだことか。
僕は、すぐに表に出て走りました。
それは、僕ひとりで走っているというより、
風とともに、神とともに走っているような感覚で、
なにかとともにいることって、なんて素敵なんだろう、と思えたのです。
生かされていることに対して感謝しかない。
大病をしたことで、その気持ちは一生持ち続けることができるようになりました。
「病気を自分で治したなんて、それは、あなただからできるんでしょ」
と思う人もいるかもしれません。
でも、そうじゃないんです。
誰もが自分で治せる力を持っています。
なぜなら、病気というものは、自分の改善しなければならない点を教えてくれるシグナルだから。
沖縄では、病気のことを「病前(やんめい)」といいます。
これは、このままだと人生が病んでしまうから、病気で教えますね、という意味。
もちろん、肉体的に不都合が起きて病気になっているととらえるのも自由ですが、
宇宙の計らいという視点で見ると、
体が正常に機能しなくなっているのは、
自分の霊性や魂、精神のなかにひずみがあって、
それを教えるためにあるのです。
だって、肉体に痛みが生じれば、そのことに気づきやすいですよね。
だから、病気という手段を通して、より気づけるようにしてくれる神さまの計らいなんです。
よく、末期がんの人が治ったという話を聞きました、
それは、病気をすることで大きな気づきを得たからです。
みんなは、それを奇跡と呼ぶけれど、
そうじゃなくて宇宙のしくみなんです。
こんなふうに病気をとらえると、
実は「病気」というものは存在しない。
これが真実なのです。
(「あなたのなかのやんちゃな神さまとつきあう法」金城幸政さんより)