横浜市都筑区耳鼻咽喉科

南山田(センター北と北山田の間)の耳鼻咽喉科院長のブログ。

小児鼻副鼻腔炎 日経メディカルオンラインの記事

2010-11-12 08:59:18 | 院長ブログ

先日日経メディカルのインタビューを受けましたが、その記事が日経メディカルオンラインに出ました。タイトルは ”特集・小児の風邪、もっと「鼻」を見よう。知っていますか? 小児の「急性鼻副鼻腔炎」:日経メディカル オンライン。”

耳鼻咽喉科領域の感染症の第一人者である山中昇教授や、小児耳鼻咽喉科疾患の専門家の工藤典代教授のお話と並んで、私の話した内容も載せてくれています。記事は、ほぼ10月20日のブログ日経メディカル 小児鼻副鼻腔炎と超音波検査 に書いた内容に沿って、まとめてくれていました。

 

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ローマの休日

2010-11-10 00:01:48 | 映画・テレビ
ローマの休日 1953年(アメリカ) 日本公開1954年4月19日



 横浜第9週の上映。映画ファンならずとも誰でも知っている映画なので、いまさらと思われるかも知れませんが、オードリー・ヘップバーンは、私が映画ファンになったきっかけになった女優さんなので、はずせません。

 オードリー・ヘップバーンは、イギリス人の父とオランダ人の母の間に、ベルギーで生まれ、10歳でオランダに移住、バレリーナを目指していました。戦争中はナチスに対するレジスタンス運動に寄与していたのも有名です。この映画のアン王女役に抜擢されて、一躍スターになり、数々の映画に主演し、日本でも本当に数多くのファンがいました。私にとっては、ひとつひとつのすべての作品に思い入れがあり、書ききれません。癌を患いアメリカで治療を受けていましたが、死期を悟って家族と暮らしたスイスの自宅にもどり1993年に亡くなりました。私は、一番好きな女優は誰かと聞かれたら、今も、おそらく今後もずっと、オードリー・ヘップバーンと答えるでしょう。

 この映画には、彼女の魅力が見事に表されています。演技というより、彼女の内面がそのまま現れているようです。気高い精神が愛らしい容姿に宿る、彼女自身が本当の王女であるような気さえします。他のどの映画のどの役でも、彼女は彼女自身でした。彼女はどんな役をやっても、常に王女だったのです。それは女優としては決して長所とは言えませんが、しかし、ファンは彼女を見に行くのであって、映画の出来不出来は関係ありませんでした。その中で、この彼女のハリウッドデビュー作は、脚本、演出、撮影、配役、舞台となったローマを含めて完璧で、彼女の資質と役がぴったり一致した、幸せな作品だったといえます。

 監督は巨匠ウィリアム・ワイラー。フランス生まれのユダヤ系。私の好きなハリウッド映画の監督たち、ウィリアム・ワイラー、ビリー・ワイルダー(ふたりは名前が似ていますね)、そしてヒッチコックは、考えてみると皆アメリカ生まれではありません。世界の才能を集めてしまうのが、アメリカの強みです。
 ワイラーは、"ミニヴァー夫人”(1942)、”我等の生涯の最良の年”(1946)、”ベン・ハー”(1959:50本の1本)の3回アカデミー監督賞受賞。オードリー・ヘップバーンとの映画は他に、”噂の二人”(1961:シャーリー・マクレーンと競演) ”おしゃれ泥棒”(1966)があります。彼の作品は、ラヴ・ストーリーあり、西部劇あり、歴史劇あり、文芸映画あり、サイコ・スリラーあり、ミュージカルあり、戦意高揚映画あり、社会派ドラマありと、広いジャンルに渡り、そのすべてで名作を生んでいるのには感嘆します。

 原案・脚本はダルトン・トランボ。もっとも、それが正式に公表されたのは1990年代になってからです。この脚本を執筆した当時のトランボは、赤狩りでハリウッドを追放されており、他人の名義を借りて発表されました。議会での証言を拒否したというだけで禁固刑に処され、社会の敵というレッテルを貼られ、仕事の機会も奪われ、悲惨な状況下にあったトランボが、現代のおとぎ話とも言える美しく緻密な脚本を仕上げたのです。トランボはその後も別名で脚本を書き、ようやく実名で発表できるようになったのは、キューブリックの”スパルタカス”(1960)からとのこと。晩年の”ジョニーは戦場へ行った”(1971 )、”パピヨン”(1973:50本の中の1本)、”ダラスの熱い日”( 1973)は封切り時に見て、私にとってそれぞれ思い出のある作品です。

 あまりにも有名な映画なので、これ以上言うこともないと思いますが、誰も言っていないことをひとつだけ。愛する人への執着心を断つことが必要なときにそれができた者が、相手を不幸に陥れることを免れ、自分の精神を高めることができるというのが、カサブランカにもフォロー・ミーにも共通するテーマです。それができないと、ダースベイダーのように、ダークサイドに堕ちてしまいます。愛と執着は全く別のものなのです。

 余談ですが、今週の大河ドラマ龍馬伝のタイトルが”龍馬の休日”でしたが、明らかにこの映画のタイトルのもじりです。龍馬伝は見ていないので内容は分かりませんが、脚本家か制作者が、この映画のファンなのかも知れません。




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ある日どこかで

2010-11-08 21:56:06 | 映画・テレビ
ある日どこかで 1980年アメリカ 日本公開1981年1月3日


 横浜第8週の上映。この映画を初めて見たのは、飛行機の中でした。いつの旅行であったかは憶えていなかったのですが、改めて公開年を見ると、新婚旅行のときだったようです。ジャンルはタイムトラベル=ラヴストーリーということになるでしょうか。もともとSF好きなこともあって、この映画は印象に残りました。しかし、その後見る機会はなく、およそ30年ぶりの再見ということになります。

 原作、脚本はリチャード・マシスン。他に、”地球最後の男オメガマン”(1971:キャリアの後半はSFが多いチャールトン・ヘストン主演)、”激突”(1971:スピルバーグの出世作、今回の50本にも入っています)、”ヘルハウス”(1973:当時全盛だったオカルト映画の佳作)などの原作、脚本を担当しています。ウィル・スミスの”アイ・アム・レジェンド”(2007)は、マシスンの原作”地球最後の男”の3度目の映画化ということになります。

 主演はスーパーマンシリーズのクリストファー・リーヴ。早すぎる晩年には、脊髄損傷による障害との勇敢な闘いぶりが、日本にも伝えられました。代表作は”スーパーマン”(1978)なのでしょうが、この映画で彼を記憶する映画ファンも多いようです。映画の中の1912年におけるヒロインのジェーン・シーモアは、”007 死ぬのは奴らだ”のボンドガールなどをやっていても、あまり印象がなかったのですが、この映画の彼女の美しさは記憶に残ります。

 公開当時はさしてヒットしませんでした。私も、機内上映で偶然やっていなかったら見ていなかったでしょう。しかしアメリカでは、公開が終わった後になって、ケーブルテレビやビデオによって次第に支持者が増えたそうです。今回の50本に選ばれたということは、日本にも熱心なファンがいるのでしょう。監督ヤノット・シュワルツはフランス人、テレビドラマの仕事が多かったようで、映画も数本ありますが特筆すべきものはありません。出演者たちも、スーパーマンやボンド・ガールとして有名ではありましたが、一流スターとは言えません。しかし、何かこの映画には切ない魅力を感じます。主人公たちの時間を超えた恋と苦しみに、不思議な共感を覚え、数あるタイムトラベル物の中では、かなりうまくできていると思います。さらに、公開当時見た人が少なかったことが、かえってカルト的な人気を呼んだという面もありそうです。

 音楽は一流です。ジョン・バリー、"野生のエルザ"(1966)"、冬のライオン"(1968)、"愛と哀しみの果て"(1985)、および"ダンス・ウィズ・ウルブズ"(1990)でアカデミー賞を4回受賞し、他にも007シリーズなど、多くの名曲を残しています。私のブログでも、”フォロー・ミー”に続いて2回目の登場です。この映画では、ラフマニノフの『パガニーニ・ラプソディー』が主題曲のように使われて印象的です。

 余談ですが、エンドクレジットにテレサ・ライトの名前があって、驚きました。1940年代に多くの名作に出演したスター女優です。ウィリアム・ワイラーの”ミニヴァー夫人”(1942:アカデミー助演女優賞受賞)、”我等の生涯の最良の年”(1946)、ヒッチコックの”疑惑の影”(1943)など。今回も映画を見ている間は全く気づかず、さては一場面だけ印象深い登場のしかたをする、映画の中の現代(1972年)のヒロインの役だったかと思いましたが、資料を調べたらそうではなくて、さほど重要ではない役での出演でした。


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ロミオとジュリエット

2010-11-07 21:58:22 | 映画・テレビ
 ロミオとジュリエット 1968年(イギリス、イタリア) 日本公開1968年3月4日 


 午前十時の映画祭で上映される作品を順番にすべて書こうと思っていたのですが、このペースだと終わるまで1年かかってしまいますので、スキップしていきます。これは、横浜第7週目の上映作品。

 このシェークスピアの名作は、何度も映画化され、1996年にはレオナルド・ディカプリオのロミオがありましたが、やはりこの1968年ゼフィレッリ版がベストと思います。イタリアのスタッフとイギリス人の主演者が、みごとにロミオとジュリエットの世界を作り上げています。

 原作にほぼ忠実な映画化で、配役も原作の年齢に近く、セットではなく当時の風景が残る場所でロケを行っているのも、雰囲気を出しています。ジュリエットのオリヴィア・ハッセーは撮影当時15歳。このジュリエットは初々しく美しく、最高でした。ロミオが一目で恋に落ちても不思議はありません。
 以前彼らの年齢に近い時に見たときと違い、今回は親が子を見るような気持で見てしまいがちでしたが、むしろ今回の方が、より心を動かされました。以前見たときには自分自身が若いので分からなかった、彼らの若いゆえの未熟さと一途さが、痛いように感じられ、この悲劇は我々皆に対する罰だ、という大公の言葉に、私自身も固定観念の中で若い心を失っているのことが多いことを、自省させられました。

 原作に忠実という意味では、この映画の良さの半分はシェークスピアのおかげなのですが、それをこのような新鮮な映画として蘇らせたのは、ゼフィレッリの力でしょう。フランコ・ゼフィレッリは、ヴィスコンティの助監督として映画界に入り、この作品がやはり代表作です。聖フランチェスコの青年期を描いた”ブラザーサン・シスタームーン”(1972)も、ロミオとジュリエットと甲乙つけがたい作品だと思います。ほかに、ジョン・ヴォイトがアカデミー主演男優賞に、デイヴ・グルーシンが作曲賞にノミネートされた”チャンプ”(1979)などがあり、後年はオペラの演出家としても好評を博したそうです。
 
 そしてニーノ・ロータによる音楽。悲しげでありながら甘美なジュリエットのテーマは、名曲中の名曲です。ニーノ・ロータはイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの一連の作品をはじめ、ルネ・クレマン/アラン・ドロンの太陽がいっぱい(1960:今回の50本にも入っています)、ヴィスコンティの山猫(1963)、ゴッド・ファーザー(1972:50本に入っています)、などなど、私も好きな曲がいっぱいあります。本人は映画音楽は趣味でクラシックが本業だと言っていたそうですが、本当でしょうか。そんなことはとても信じられないぐらいの名曲ぞろいです。
 フォロー・ミーのミア・ファローも出ている”ナイル殺人事件”(1978)は、残念ながら傑作ではないですが、音楽はニーノ・ロータです。多くの才能が集まっても、必ずしもそれだけで傑作ができるわけではないのですね。

 オリヴィア・ハッセーは、この映画が女優キャリアの始まりにしてピークとなってしまいましたが、この一本だけで忘れることはないという映画ファンも多いと思います。とくに日本では、公開当時から圧倒的な人気が出て、後に歌手の布施明さんと結婚していた時期もあります。先ほども話題にした、”ナイル殺人事件”(1978)でも脇役でしたが、最近、イタリアのテレビ映画を編集して公開されたマザー・テレサ ”(2003)で、タイトル・ロールを好演していました。
 
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アパートの鍵貸します

2010-11-03 19:49:09 | 映画・テレビ
アパートの鍵貸します 1960年(アメリカ) 日本公開1960年10月8日


 午前十時の映画祭、横浜での第2週目の作品。
 監督ビリー・ワイルダー。1960年のアカデミー賞で作品賞、監督賞など6部門を受賞した(Wikipedia)。自分にとっての映画ベストテンは、若い頃と今では変わってきているし、いつも同じではありませんが、この映画は現在のベストテンの中に、確実に入る1本です。主人公はどこにでもいるような、と言うより、どちらかというとみじめな立場の男女なのに、何でこれほどロマンティックで魅力的なコメディになったのでしょう。

 第一は、監督脚本のビリー・ワイルダーの手腕です。完璧な脚本というものが存在するとすれば、この映画の脚本がそれです。全く無駄な会話や説明はなく、ユーモアとペーソスに満ちたひとつひとつのエピソード、見事としか表現できないような小道具(ひび割れた鏡、シャンパン、レコード、そしてもちろん鍵)の使い方、随所にちりばめられた伏線の生かし方で、主人公たちを表現していきます。脇役たちもよし、音楽の使い方もよしです。重要な脇役のひとり隣人のドレイファス医師が、主人公に向かってメンシェ(人間)になれ、と言いますが、ラストで主人公はそうなります。人間の幸福とは何か、しみじみとほのぼのと、感じさせてくれる映画です。

 ビリー・ワイルダー、オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ系。ナチスの台頭でアメリカに亡命してきました。脚本家からスタートし、長い間多くの傑作を撮ったワイルダーにとっても、1950年代から60年代初頭が全盛期と思われ、この映画はやはり彼の代表作でしょう。彼は「私は芸術映画は作らない。映画を撮るだけだ」と語っていたそうです。ヒッチコック、ジョン・フォードたちと同様、そのただ「映画を撮るだけ」にあふれる才能のすべてをつぎ込んで、結果として後世に残る多くの傑作が生まれました。今回の50本では、もう1本、マリリン・モンロー、ジャック・レモン、トニー・カーチスの、”お熱いのがお好き”(1959)が入っています。

 もちろん、主演ふたりの魅力がなければ、この映画はなりたたなかったでしょう。

 シャーリー・マクレーンは、ヒッチコックの”ハリーの災難”のヒロインでデビュー。弟はウォーレン・ビーティ。この映画と、ジャック・レモン、ビリー・ワイルダーと再び組んだ”あなただけ今晩は”(1963)、そして”走り来る人々”(1958)と3度アカデミー主演女優賞にノミネートされ、後年”愛と追憶の日々”(1983)でついに主演女優賞を受賞しました。彼女の魅力はよくコケティッシュと表現されていますが、私は外見の粋な感じとはうらはらの、内面の真摯さの方を強く感じます。この映画では特にそうでした。”愛と追憶の日々”以降は、もうおばあさんになっているのですが、いずれも個性の強い、まさにあの若いころのシャーリー・マクレーンが年を重ねたらこうなるだろうという役で、多くの映画に出ています。
 親日家でもあり、娘さんのサチ・パ-カ-のサチは日本語の”幸”で、映画評論家の故小森和子さん(小森のおばちゃまを知っているのは、何歳ぐらいのまでの人なんだろう)が、命名したそうです。日本語が堪能なサチ・パ-カ-は、最近日本映画”西の魔女が死んだ”(2008)などに出演しています。


 ジャック・レモンは、戦後アメリカ映画最高の喜劇俳優と言われた、というのは大げさにしても、我々の世代がテレビの洋画劇場で、愛川欽也さんの吹き替えとともに、最初に名前を知ったアメリカの喜劇俳優だったと思います。それほど多くの有名な喜劇映画に出ていた、そしてアカデミー主演賞(Save the Tigar(1973))、助演賞(ミスタア・ロバーツ (1955))両方を取ったことのある彼にとっても、代表作はやはりこの”アパートの鍵貸します”でしょう。

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