いつ頃だろう。
小学校、中学、高校時代、私は吃っていた。
そんなにひどくはなかったけど、出にくい言葉があると詰まってしまう。
吃らないようにひと呼吸置いて言葉を出す。
スムーズにおしゃべりが出来ない。
詰まる言葉を避けるようになる。
時に詰まりそうになると話題を変えてしまう。
それがうっとうしいから、積極的に人とおしゃべりをしなくなる。
だからだったのかな~
本ばっかり読んでいた。
読むことが面白いから、余計に人としゃべらなくなる。
休憩時間にはすぐに本を取り出し読む。
邪魔されたくなかった。
そんな私に同級生は「長」とつく役目をおおせ付ける。
あんまりしゃべらない方法でなんとかやり抜け先に進む。
きっと、
本当は、
こうでもない、ああでもないと、沢山、人としゃべりたかったんだと思う。
でも、
思うようにいかないから、だんだんひとりで行動するようになっていく。
それが意外と楽で、マイペースな自分になっていっちゃった。
今は全く吃る事はない。
いつの頃からスムーズにスラスラ言葉が出ていく。
しまいには私にかなう人はいないとまで言われてしまった。
いつの頃から・・・・・・
私が自由になった時、
母親から解き放された時、
心の安定が、詰まる言葉を溶かしてくれた。
次女が3歳の時、私の離婚で優しい4歳違いとの姉との別れがあった。
吃ってしまった。
“ね~ちゃんは?”
感受性が強い娘だった。
言いたくとも言えなかった幼い娘の心。
すぐに直って安心したけど、心はもろいものだ。
吃音に関する文献を少しばかり読んでみて色々な諸説があるようだが、
過剰ではなく、過少でもなく、
穏やかな愛情の中では子供は吃ることはないと思っている。
今、母は91歳、すい臓癌が肝臓に転移し、食が進まず点滴併用で病院のベットにいる。
病院で死ぬ事は「イヤ」と言っていた母親。
Drはホームに一旦戻って、点滴はせず、好きなもの食べたい物を少しでも食べてもらう事にしましょうかと言う。
ホームの方も受け入れてくださる意向。
感謝です。
来月、来訪時、それが可能となれば・・・・
まだ生きていてほしいと願う自分がいる。
少し?沢山?
いっぱいしてきてね。 帰ってきたら
我が家の年寄りもたのむね。☆