統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

高橋信次(その③メシアの主治医)祝!!10万アクセスPV22万

2015-09-12 00:11:54 | ドクターKの宗教問答(悟りのための医学)

信次先生入門上級編、左が宇宙と魂の仕組み、右が悟りの方法(心のあり方)が書かれた本です。なくしたらもう手に入らないと思います


ブルーベリーの甘酸っぱい味は、寂しい秋の始まりを感じさせます








今年はブルーベリーが豊作でした。ブルベリージャムを作って、蜂の巣ケーキ(子供がアトピーだった頃、ケーキが食べられないので、そのために作っていたケーキ)にこれをつけると最高に美味しい

東京から鳥取へ信次先生に3月に研修会があるから参加しませんかと誘われましたが、大学の医局人事で出向病院に行かなくてはならなかったので参加することができませんでした。そこは恐怖の病院で1ヶ月の間に受け持ち患者が二桁死亡するという病院でした。医師になって2年目に入ったばかりの私には、心理的には宗教の研修会どころではありませんでした。

死亡患者ゼロ外来患者は昼の3時まで、病棟勤務は10時までの厳しい職場、お金が無くて腎透析ができない患者に腹膜透析で夜12時過ぎまでお腹に水を出し入れ、夜中に交通事故の縫合を3時間というときもありました。夜間救急では医師も救急隊員も区別なく診察し入院のときは、自ら患者を担架に乗せて運ぶ、細い山道や田んぼ道を下るときは腕がしびれて患者を落とすのではないかというくらいのきつさでした。そんな状況でしたが何んと死亡ゼロで任務が過ぎました。

 前任の友人が出張を怖がる私を見て「お前はいい。がり勉で勉強しているから。俺は勉強しなかったので大変だった」と慰めてくれましたが、確かに良く勉強していたのは良かったと思いました。高橋信次のパワーアップもあったかもしれませんが、宗教活動よりやはり今はしっかりとした医学研修をするべきと思いました。人の命が懸かっているので、実際それどころではありませんでした。


メシア高橋信次死すしかしながら、病院から解放されて安心するや、また東京へ行くことを考え東京のGLAの友人に電話しました。「え!お前知らないの!!信次先生なくなったよ!」一瞬時が止まりましたが、信次先生は自分自身のずっと前からの予言どおりに、やはり48歳で亡くなったのです。私が会った死亡する2ヶ月ほど前のときは、私に八起きビル2階のテナント病院の医師になりなさいと言われていたので、まさか死亡するとは思っていませんでした。顔色が良く肌ツヤがとても綺麗に見えたのは、今から考えるに彼の肉体ではなく光子体を見ていたのかもしれません。

万歳三唱私は電話が終わった後、官舎の外にでて夜空を見つめ山に向かって、「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」と大きな声で万歳三唱しました。私は彼の死を悼むというよりは、彼が亡くなる前のしかも入院していたときのたまたま外泊時に2日にかけて個人指導を受ける幸運に恵まれたのです。早く信次先生に会いなさいという霊友の言葉を聴きながらも長く彼に会うのを遠慮していた私にとっては、本当にぎりぎりセーフという感じだっのです。自分自身にとってはまさに万歳物の出来事だったのです。

 ガンで早く死んだ父もそうでしたが、祖父母が敬虔なクリスチャンで家には聖書関係の書類が多くありました。私も聖書は一通り読みましたが、イエスの奇跡を私自身の目で確かめないと聖書に書かれてあることは信じられないというのが実感でした。しかし信次先生の文証、理証、現証と彼自身との奇跡の遭遇から全身全霊を持って、見えない世界がありそれが本当の世界であることを確信したのです。私の人生は大きく変容し、ある面そこで終わったのです。


下のユーチューブの講演は多分なくなられる前の熊本の講演ではないかと思いますが、これを聞くと信次先生の医学に深い思いが生じたことが分かります。



メシアの主治医信次先生がなくなって東京に行ったときに、私の話を聞いた信次先生を診ていた療術師が、一緒に信次先生の自宅に行こうと言い出しました。私達は霊前に供えようと浅草のりを買い自宅を訪れました。奥様が対応されましたが、そこには信次先生の面影もなく、さすが信次先生がなくなったようには感じられないさばさばした感じでした。

 療術師が「旅に出ようと思います」と言うと「出られたらよいと思います」という返事でした。私の「信次先生は自分の関係した病院を紹介する言われていましたが、その病院をご存じないですか」と聞くと「私には知りません」という返事でした。二人とも信次先生にお参りすることもなくおいとまし帰りました。お互い話しませんでしたが、思いは同じでした。心の中で「奇跡の時と人は終わったんだ」と思いながら、トボトボと帰って行きました。

 信次先生が生きていれば、やがては八起ビル2階で開業し、メシアの主治医になったかも知れません。信次先生は療術が好きであまり西洋医学的治療はされてなかったのではないかと思いました。私が主治医なら本日、国と県と市から100歳表彰された母のように長生きさせることができたかもしれません。もしそうだったら、それが光か暗黒か分かりませんが、私はとんでもない医者になったかもしれません。







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