袖振り合うも多生の縁
上記のことわざ、皆さんはきっとご存知だと思います。しかし多生を多少と間違えたりしないでしょうか?これは「少しばかりの縁」という意味で使われるのではなく、「往来で行き交う人の着物の袖先が、軽く接するようなささやかな関係であっても、何度も生まれ変わる中で生じた貴重な縁である」という意味だからだそうです。
親鸞聖人は教行信証、総序の中で、
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも得がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
と述べています。これは、「阿弥陀さまからの願いである大いなる本願は、何度も生を重ねても会えるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることは難しい。思いがけず、念仏の教えと信心を得たなら、遠い過去から、阿弥陀さまの光が私達を照らし、み教えを伝えてくれた先人とのご縁を感謝し喜ぶべきである」という意味です。
私たちはたまたま人間として生まれ、今の平和な日本で暮らしています。そして恐らく悲しみの出来事から法徳寺と縁ができ、門徒としてお付き合いをさせていただいています。縁の始まりは大事な人との別れであっても、仏教の教えに耳を傾け、浄土真宗門徒となったことは素晴らしく有難い事だと思います。それを導いてくれたのは阿弥陀さまであり、仏教を伝えてくださった先人、お寺や友人であったかもしれません。その出会いの喜びを多生の縁として大事にしていきたいものです。