本日は、降誕会(親鸞聖人の誕生を祝う法要)、永代経法要にお参り、誠にありがとうございました。
降誕会(ごうたんえ)とは、降りてこられ、誕生されたと書きます。どこから降りてきたのかと言えば、
仏様の世界から降りてこられたのです。
親鸞聖人は、人間として、この世にお生まれになりましたが、それは、阿弥陀如来様が、親鸞聖人
という姿をとり、降りてこられ、この世に生まれたと頂くのです。そして、阿弥陀如来様の救いを
説いて下さったのです。それを、仏教では、化身(けしん)といいます。そのため、浄土真宗では、
親鸞様を、仏様の化身、聖の人とお書きしております。その教えが、永久に絶えることがなく、
続くように、お勤めるのが、永代経(えいたいきょう)法要です。
親鸞聖人は、1173年5月21日に京都にお生まれになりました。時代的には、平安時代の末期であり、
もうすぐ、鎌倉時代になる頃です。
そして、聖人の凄いところは、90才まで長生きされました。今でこそ、90才は、驚きもしませんが、
鎌倉時代に、90才まで長生きしたというのは、親鸞様お一人ではないかと思います。是非、皆様も、
お念仏を称えて長生きして下さい(笑)。
私は、お寺が大好きです。お寺の住職をさせて頂いていることが本当に有難く思っています。
そうなれたのは、親鸞聖人の教えに出会えたということが大きいのです。
親鸞様の精神は、お寺は、どなたが、来ても、出入り自由な場ですよということです。なぜかというと、
阿弥陀様の救いは、どなたにも注がれているからです。ですから、あまり来てほしくはありませんが、
泥棒さんであってです(笑)。
私は、お寺に生まれましたが、小さい頃から、お寺が好きだったかといえば、答えは、NOでした。
坊主丸儲け、くそ坊主、三日坊主などと言われ、いじめられて、家がお寺であることが、嫌で嫌で
仕方がありませんでした、「おまえは、誰かが、死ぬとうれしいんだろ」などと言われたこともあ
りました。しかし、浄土真宗の教えを学ぶようになり、私のお寺に対するイメージは、変わりました。
それは、お寺は、生きている者が救われる場。亡くなった方が、迷っているのではなく、この世に生
きている者こそが、迷いの存在、苦しみの存在、その私たちを救おうと働いて下さるのが、阿弥陀如
来様なのです。また、亡き方も皆様を応援して下さっているのです。
皆さんは、亡き方のために、お墓やお寺にお参りされていると思いますが、真実は、亡き方が、皆さ
んの気持ちを安らぐようにと、お参りに導いて下さっているのです。
それにしても、世の中というのは、なぜ、こんなにも、心配事が多いのでしょうか。やっと、一つの
心配事が片付いた、「やれやれ」と思ったら、次の心配事が起こってくるのです。
私は、南無阿弥陀仏の本当の意味も、親鸞様の教えを学び、びっくりしました。
「私が、称えているのではない、阿弥陀様のはたらきで称えさせてもらっているのだ」というのです。
南無阿弥陀仏は、仏様が、私に向かって大丈夫・大丈夫と呼びかけて下さっているです。
私は、時々、いろいろな心配事があり、寝付けない時などは、南無阿弥陀仏と称えています。そうし
ますと、とても、安心します。皆様も是非、試してみてください。
この前、テレビで、明石家さんまさんが、プールで、お年寄りの方が、一生懸命泳いだり、歩いたり
されているのを見ると、三途の川を、渡るための練習をされているんだなと思うと言ってました(笑)。
私は思わず笑ってしまいました。しかし、浄土真宗は、三途の川(現世と来世の境目)
を、自分で泳いで渡ったり、歩いて渡る必要はありません。泳ぎの苦手な方は、向こう岸まで渡れません、
足の不自由な方は、向こう岸までたどり着けないかもしれません。ですから、私たちは、こちらの岸から
向こう岸へ、阿弥陀如来様の船に乗せて頂いて、渡らせてもらうのです。しかも、既に、この世に生きて
いる間に、船に乗せてもらっているのです。昔は、棺に、船代として六文銭を入れました、しかし、お金
もいりません。亡き方は、成仏するまで49日間の旅をすると言われて、そのために杖と履物をはき、
旅装束で納棺しますが、浄土真宗は、必要ないのです。
49日待つことなく、即座に、仏様と成るのです。いわば、卒業と同時に、仏様の世界への入学式です。
遅くなりましたが、本日の講題 5月のカレンダーの『大(だい)信心(しんじん)は仏性(ぶっしょう)なり
仏性すなわち如来(にょらい)なり』という親鸞様のお言葉をご説明します。
信心というのは、阿弥陀如来様が、私たちを、何があっても、見捨てることがない、信じてくれる、
必ず救うという心の事です。仏様の心なので、大が付いております。
信心の中には「仏の悟りを開く因(仏性)」が欠けることなく備わっていて、浄土に生まれれば
「その因(仏性)」がそのまま仏(如来)と成って実を結ぶのであるから「仏性すなわち如来」
と示されるのです。
お参り下さった皆様、亡き方に対して、今でも『ああしてあげればよかった、こうしてあげれ
ばよかった、つまらないことで、喧嘩なんかしなきゃよかった。もっと、優しくしてあげれば
よかった。』と思い出すこともあると思います。お互いが健康で、一緒に暮らし、笑ったり、
泣いたり、喧嘩をしたりすることが出来る、そんな当たり前の日々が、今思えば、とても幸
せだったと感じることも多いと思います。
親鸞さまは、ご著作の中で、信心の説明に、『慶(きょう)』という言葉を、何度も用いています。
この字は、既に与えられていた幸せに気づかせてもらい喜ぶという意味です。阿弥陀様の救いは、
私が、既に、おぎゃーと生まれたときから、船に乗せてもらってます。しかし、私は、今まで、
与えられていた幸せに気づかずに生きてきたのです。しかし、愛する方を亡くしたご縁で、
阿弥陀様の救いに出会い、既に、救いの中に生かされていたことに気づき喜ぶことを、
『慶』という字で示されています。
私たちは、仏に成るための修行中の身ですから、毎日、苦しいことがあると思いますが、
たまには、お寺に来て、楽になってもらいたいと思います。本日は、誠にお参りありがとうございました。
住職 伊東英幸(法名 釋英幸)