Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

琵琶湖を訪ねて その1

2024-11-04 | 水圏環境教育

琵琶湖周航の旅

われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
志賀の都よ いざさらば
・・・・・
この歌詞は,1917年に第三高等学校(京都大学)2年生の小口太郎氏が作ったものだという。小口氏は水上部(ボート部)に所属し,大津市を出て3泊〜4泊の旅程で,漕手6人舵手1人からなるフィックス艇に乗船して琵琶湖を一周する琵琶湖周航の時に思いついたものだという。1960年代に大ヒットし今もなお多くの人達に親しまれている。
 では,なぜこの歌が100年経過してもなお,人々に愛され続けているのであろうか。私は,今回大津市に3泊し,琵琶湖の中心部に船で移動し水質調査を行い,そして琵琶湖周辺の酒蔵で作られた数種の地酒をいただき,そして滋賀県民と語り,琵琶湖の魅力に気づいたのだ。その魅力とは何か,これから心象を綴っていきたい。

佐々木家の氏神 沙沙貴神社を訪ねて
まず一つ目は、佐々木氏の始祖である沙沙貴(ささき)神社だ。今から20年度ほど前になるが,北海道大学でのサイエンスコミュニケーションの研究会でお会いした国立政策研究所の研究者から「佐々木さんの氏神は近江八幡市の沙沙貴神社ですよ。」と伺っていた。実は佐々木姓は,東京では決して多くない。同じ岩手県内でも盛岡も多くない。しかし,宮古や山田には多い。なぜなのだろう。沙沙貴神社に行けば,何か情報が得られるのかな?いつかは訪問したい,そう思っていた。いよいよその日が来た。
今回は,日本理科教育学会の参加発表の途中に立ち寄ってみた。学会の発表会場は琵琶湖湖畔の大津市を訪問した。大化の改新後に遷都された「大津京」があった場所。謎が多い場所だ。大津市へ向かう途中,東海道新幹線米原駅で東海道本線に乗り換えて安土駅で下車。琵琶湖畔の平坦な土地に閑静な住宅街が広がっていた。19時を過ぎており周辺は薄暗がりの中,遠くに鎮守の森が見えてきた。

歩いて20分ほどで到着。真っ暗で遠くがよく見えないが,鈴虫の音だけが四方から鳴り響いている。門前には大きな石垣が組まれていて,広々とした空間が広がっていた。
門の中にはいると案内板があった。そこにはこう書かれていた。「沙沙貴神社は,延喜式に掲載されている式内神社で,第1座に少名彦明神(すくなひこのかみ),第2座に大毘古神(おおひこかみ),第3座仁徳天皇(おおささきのすめらみこと),第4座宇多天皇(うたのすめみこと),敦實親王(あつみのみこと)を佐々木大明神と申し上げる。」


少名彦明神は神代の昔よりお鎮まりの産土(うぶすな)の神,大毘古神は,古事記日本書紀そして万葉集に登場する豪族「沙沙貴山君」の始祖という。沙沙貴山君(ささきやまぎみ)は,この地域を支配した豪族のようだ。また,仁徳天皇は,沙沙貴の地に由緒深い祭神と書かれていて,「おおささきのすめらみこと」と読む。仁徳は漢字読みで、和式では「おおささき」だ。宇多天皇は,敦實親王とともに宇多源氏佐々木の始祖という。ここから佐々木氏がスタートした。佐々木義経(のりつね)は,佐々木初代当主であるという。

近江佐々木氏と岩手とのかかわり
 鎌倉殿の13人にも登場した源頼朝の挙兵を助けた佐々木4兄弟(長男・定綱、次男・経高、三男・盛綱、四男・高綱)の先祖ものここの出身だ。佐々木4兄弟は義経とともに源平合戦で戦った。奥州藤原氏とのつながりもあり、義経と佐々木4兄弟は太いつながりがあったようだ。彼らの祖父は,佐々木家歴代当主であり、宇多天皇の子孫であるという。4人兄弟の父親である佐々木 秀義は、 1112年生まれ。両親は、 佐々木爲俊、 安倍宗任の娘 (佐々木季定の室)、祖父母: 佐々木経方、 安倍宗任、曽祖父母: 佐々木義経(のりつね)、 安倍頼時、 清原氏 (安倍宗任の母) というから、東北にゆかりのある家系でもある。しかしながら、奥州合戦に従軍し、自らの先祖を滅亡させることになったのは残念ではある。とはいえ、この合戦を機に佐々木家の一門は東北地方に移り住んだ。たどり着いた地域の一つが、ここ下閉伊地域だ。

佐々木氏と義経伝説との関わり
 一方で、義経伝説が宮古を中心に語り継がれてきた。義経は清和源氏、佐々木一族は宇多源氏であるが、義経と静御前の間の子供は佐々木四郎太郎義高と言い伝えられている。義高が実在しているとすれば,義経とゆかりのある佐々木一族が養育していた可能性がある。
 佐々木氏は宇多天皇の流れをくむ由緒ある氏であるが,その佐々木氏の末裔が、住んでいた地域を「みやこ」と呼ぶようになったのは、当然のような気もしないでもない。義経が住んでいたので当時の天皇からみやこの名称を賜ったとの言い伝えがあるが,いずれにしろ源平合戦以降のことであり,佐々木氏一族は何らかの理由で宮古に定着し歴史を刻んだことであろう。
 
なぜ,下閉伊地区に佐々木氏が多いのか
 地元滋賀県の小学校の先生たちと話をする機会があった。「佐々木さんはクラスに、何人ぐらいいるのか。」と訪ねてみた。実は意外と少ないようだ。今はどうかわからないが、当時山口小学校や宮古第一中学校ではクラスに4,5人はいたような気がする。その話をしたところ、滋賀の先生たちは驚いていた。宇多天皇直系の子孫が滋賀県から遠く離れた地で生活していたのだ。子供心にどうして佐々木は多いのか、不思議でならなかったが,何かを成し遂げるために,住み続けたのではないか。その子孫が,1000年近くその信念を貫き通した。その信念とは何か,考えるだけでワクワクする。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。