Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

◎4プラスαとは何か?その2 教養としての水産を

2010-03-28 | 水圏環境リテラシープログラム
「ヒトはパンのみにて生きるにあらず」と言われる。

 これは、40日間断食していたイエスキリストに対し、誘惑者が神の子であればこの石をパンにして食べなさいと言ったことに対する御言葉であると伝えられている。「ヒトはパンのみにて生きるにあらず」の意味は、私はパンだけで生きるのではなく、神の言葉に従い生きているということである。

 人間は生きるためには食べ物は必要であるが、それだけではなく、生きる意味を理解することが必要であるということであろう。

 これを、我々日本人に当てはめるとどうなるであろうか?「日本人は生きるためにただ単に魚を食べるのではなく、日本人として魚を食べている意味を理解することが必要である 」ということではないか?

「技術者養成教育のみならず国民の理解普及を」

 これまで、水産教育(大学の水産学教育)は技術者(研究者)養成に大きな目標が定められていた。

 しかし、これからは国民の水産理解普及のための水産教育が必要だ。職業人育成教育にこだわるだけでなく,広く市民を対象とした教育を水産教育の一つとして実施していく体制を整えていくことが求められている。

 100年前,官立水産講習所(現東京海洋大学海洋科学部)が東京に設置された当時,200万人が漁民であった。人口5千万人のうちの200万人である。5%弱が水産人であった。水産振興の教育研究が必要であり、職業教育により、伝統技術や、革新的な技術を教えることがそのままリテラシー教育にもつながった。

 ところが、現在の漁業者人口は20万人を割ろうとしている。0.2%以下である。従来通りの,技術者養成だけでは、十分に水産教育が機能しなくなった。9500人中、専門の水産業に従事するのは、わずか10%程度である。

 これからは,水産教育が培ってきたノウハウを地域社会に還元する社会貢献をもう一つの柱とすることも必要になってくるであろう。

 社会貢献をもう一つの柱とすることは,学校現場においては確かに重荷である。なぜならば,学校現場において社会貢献活動はあくまでも「主」ではなく「従」なのである。特に野外での実習が多い水産教育などの学校現場においては,学校業務と並行して実施することは,大変な労力が必要なのである。しかし,ここで言う「もう一つの大きな柱とする」という意味は,プロフェッション(職業)として成立させるということだ。つまり,水産教育における社会貢献活動をサポートする人材の配置をすすめていくのである。

 このような,体制を整えることで,国民教養としての水産、すなわち水産のリテラシーの普及が実現していくのである。

東京で大人気!! 宮古産ニシン

2010-03-24 | 話題
「ニシンの塩焼きをお願いします!!」とほどなく登場したのは、つややかな新鮮そのもののニシン。体長は30センチ弱。場所は五反田駅付近の飲食店。

 ニシンというと、輸入物をよく見かける。アラスカ,ロシア,ノルウェーが有名である。

 しかし,このニシンは普段見慣れているニシンとは見た目が違う。輸入もののニシンは、体高が高く、顔も大きい。そして、目が赤い。目が赤いのは鮮度が良くない証である。

 この度,お見かけしたニシンは,スマートで表面がツルツルしており何処と無く、違うのである。目は赤くないのは、鮮度が良いことを物語っている。

 (ワカサギ博士)「源さん、このニシンはどこの?」(源さん)「えーと、岩手の宮古」(源さん)「この魚のすごいのは、しめていることだよ」 と、右側の体側を見れば,尾に血抜きのあとがあった。鮮度を保つために工夫をこらしてているのだ。

 ニシンを美味しくいただきながら,ニシンの資源回復に取り組む漁師さんの話をした。以前,春になると宮古湾にはニシンが産卵のために藻場に集まった。しかし、環境の変化などによりニシンの資源は激減。

 地元の漁師さんは、一念発起。ニシンを復活させ,地元の特産にしようと地元の栽培漁業センター、東京大学とともに研究に取り組んだ。

 そして、偶然にもニシンの仔魚が浅瀬に設置してある定置網で集まることを発見した。ニシンだけでなく50種類もの海産魚の仔稚魚を確認したこと、そのことで宮古湾の藻場を守る活動が始まった。今や、ニシンの資源も少しづつ回復し、毎年ニシンの料理教室が開催される程になっている。

 同席していたさかなクンも、ニシンのウマさに感動し私の話に真剣に耳を傾けてくれた。

 早速生産者の山根さんに電話で報告した。(山根さん)「このニシンは私一人の力ではない。みんなで関わって資源を回復したんだ。」ときっぱり。「他の場所では刺し網漁が中心で、死んでから12時間以上たってから漁獲する。しかし、宮古のニシンは定置網で漁獲しているので出荷直前まで生きているのです。」鮮度が良い理由がこれでわかった。

 おそらく、このような生産者の地道な取組はニシンだけではない。一匹の魚に隠されたドラマをもっとアピールし、水圏環境リテラシーとして共有したいものである。


 

◎4プラスαとは何か?

2010-03-17 | 水圏環境リテラシープログラム
4プラスαとは何か?
 原点に立ち返った水産のとらえ方すなわち,技術革新とプラスαが必要であるということを見てきた。
 それでは,そのプラスαとは一体具体的にどのようなものであろうか?

 それは,生産者と消費者が一体となった新しい取り組みだ。
 
 これまで見てきた様に,経済活動に大戦後市場原理主義が導入され,機械化が進み効率的な生産が可能となり,水産業は躍進した。その結果、最大の漁獲量を上げる様になった。

 しかしながら,そのような漁獲量の増大は恒常的に望めるものではない。今日に至って、水産資源の減少,漁価の低迷,水産物消費の低迷、漁業後継者の不足など多くの問題が山積するようになった。もはやこのような問題は従来のやり方では解決できない。もちろんこれはすべての市場原理主義に基づいた経済活動全てに当てはまる。
 
 このような局面に立ち向かうためには、生産者と消費者が一体となった新しい取り組みを実施することが必要である。このことで,今日の混迷の時代を乗り越え新しい持続可能な社会が実現されると確信する。

 新しい取組とはどのようなものか?
 
 これまでの市場原理主義では個人の利益を追求した。その結果,生産者は生産者自身の利益を追求し,消費者も個人の生活にとってより良いものを追求し、結果的に経済活動が活発化し、所得も増大した。

 このような関係では,「人間は自然の一部であり,全ての物質が循環する。自然と共生することでそこから食料としての恵みをいただく」という「水産」本来の思想が抜け落ちている。
 
 一方,「生産者と消費者が一体となった新しい取り組み」とは,本来の日本の風土にあった自然との共存としての「水産」を消費者や生産者という垣根を越えて認識し合うことである。ここには,生産者と消費者という対立軸はない。生産者と消費者は共存するのである。脱生産者,脱消費者である。もちろん、これは新しい取り組みというより日本の伝統文化に根ざした考え方ではあるが。
 
 3500種類もの魚介類を食し,豊かな自然環境に恵まれた国に生きる国民として,そして太平洋に浮かぶ島国として,日本の果たす役割を考えたとき,このような水産の見直しは,新しい時代を切り開く試金石となると確信する。

ナミビア大学水産学科長が訪問されました

2010-03-15 | 話題
 ナミビア大学の水産学科学科長が訪問された。
 
 ナミビアと言えば,ナミビア砂漠を思い出す方は多いかもしれない。
砂漠の国であるが,西側を海に面した国でもある。この国は,以前ドイツの植民地であった。20年程前に独立をした新しい国でもある。今もドイツの支援を受けているという。

 現ナミビア大統領は,元ナミビア大学総長であり,新しい国家戦略として,これからのナミビアは水産に力を入れる。と宣言し,水産学科を作ったという。

 この国は,肉食が中心の国であり,魚介類はほとんど食べない。国民の大半は内陸の方で生活をしている。特に大きな川や湖はない。魚食文化というものはない。もちろん,マイナー・サブシステンシーとしての水産も存在していない。

 近い将来,世界人口が100億人に膨れ上がると言われており,世界的に水産に眼が向いてきている現れの一つなのだろうか。

 ナミビアではこれから,新しく魚食の習慣を作っていくのだという。
「経済発展を遂げつつ,伝統文化をたくさん持つ日本文化を羨ましく思っている。」と話していた。

 国内にいるとわからないが,海外から見ると日本は敗戦後,急激な経済発展を遂げつつも歴史と伝統文化を保ち続けているのは,他の国からみると羨ましい存在なのだ。

 私たちはもっとそのことをよく理解しなくてはいけない。

水産(SUISAN)を思想史から眺める

2010-03-07 | 水圏環境リテラシープログラム
 次に,思想史から,水産を見ていくことにする。
 
 西洋思想は,キリスト教の影響を強く受けている。キリスト教では自然は人間のために神が作り与えたものであると説いた。

 中世においては,ギリシア思想が入り,アリストテレスの哲学が採用され,人間中心的な自然観が形成されていった。リベラルアーツという言葉がある。これは,文法・修辞・論理学(弁証法)の3科および算術・幾何学・天文学・音楽の4科の7学科を指す。前者は,聖書を学び,普及・啓発するための学問であり,後者の4科は自然を対象とした学問である。後者4科は,自然に隠された神の秘密を解き明かすための学問であり,自然科学へと発展していく。

 近代になると,真理の追究のための観念的な学問である「科学」が,自然の支配と利用を目的とした実用的なものになっていく。 デカルトは,神が絶対な存在であった当時,自然を生命のない大仕掛けの機会と考えた。そして,自然界に対して徹底的に疑問を持つことによって,自分の存在を認識することができると説いた。「我思う,故に我あり」簡単に言えば,人間からみると自然は対照となる存在であり,徹底的に疑う事が大切なのだ。いわゆる「デカルトの二元論」である。こうした考えが,新しい発見や発明を生み出し科学技術の発展に大きく寄与した。

 このような歴史をみると,上述した水産業の発展の歴史,すなわち「沿岸から沖合へ,沖合から遠洋へ」という発展は,日本伝統の水産(SUISAN)をベースにしながらも,西洋のデカルト的な思想が元になって発展したものといえる。

 それでは,本来の水産とはどのような思想なのであろうか?東京湾を例にとって考察する事にする。江戸時代,江戸前(現在の品川から深川付近)では海苔の養殖が盛んであった。「海苔の味は,庶民の生活排水の味」といわれ,人間の生活と漁業の対象となる生物が密接に関わっていた。海苔を食べることで栄養塩を還流させていた。人間が生態系の一部となり生態系の循環サイクルを上手く利用したのである。

 このような人間と意味との関わりは,簡単にできあがったものでないであろう。おそらく,日本古来の自然観をもとに培われたものであろう。その自然感とはすなわち,自然は人間が支配するものではなく、むしろ人間が自然によって陶冶されていく。「神(かん)ながら」という言葉があるように,自然に身を任せること。そのことで,自然を敬いながら,自然と共存し生きていく知恵である。水産とは,自然の摂理に身を委ね,人間の命の糧としての食料、命を頂くこと。江戸前の海苔は「水産」の典型的な例といっていいだろう。 

 もちろん,このような考え方は,日本ばかりではない。太平洋の島嶼国でも確認出来る。例えば,ハワイ人たちのMOKUの思想がある。 MOKUの思想では, 一河川流域沿いで生活する人々を一つのコミュニティとする。資本主義経済とは異なり私有財産はない。土地は誰のものではない。必要な量だけ必要な魚を漁獲し,平等に分け与える。海川山と人々の暮らしが一体となった生活スタイルである。
 
 このような自然を中心とした考え方が太平洋島国の思想-日本では水産,ハワイではMOKU-の特徴であり,西洋思想とは大きく異にするところである。漁師が森に木を植える活動は,今や全国的な広がりとなった。このような活動は世界的にも珍しく,注目されている(海洋教育国際検討会 台湾 2009年)。山に木を植えて水産物を豊かにしようとする活動の起源は,日本古来の自然観「水産(SUISAN)」から発せられたものである。

3専門性の深化
 1で見たように,戦後,科学技術の革新は,漁業にも大きな恩恵をもたらし,漁業生産量を拡大させた。昭和37年の科学技術白書によれば,漁船能力の増強,漁業技術の進歩,漁業用資材機器の改善,新漁場の開発等に関する科学技術の進展発展により,毎年,30万トン前後の漁獲量の増加をつづけているとしている。

 このような輝かしい漁業生産量の拡大の時代に比較して,近年の漁業生産は,500万トン台で頭打ちである。果たして,水産業が隆盛を極めていた当時の人々は,どれだけ現在の実態を予測していたであろうか?

 確かに,その当時は社会全体が経済発展をナショナルゴールとしおり,経済の発展による国民生活の向上を誰もが期待していた。水産業の発展も当然期待されていたであろう。

 しかし,現実的には,その経済成長一辺倒の政策は行き詰まりを生んだ。
 もちろん,高度な技術の発展により私たちは世界中の水産物を日本に居ながらにして頂くことができる。これは,漁業技術,養殖技術の進歩発展,流通の革新の発展のおかげであろう。

 だが,経済発展を重視するあまり,本来の水産(SUISAN)を忘れてしまってはいないか?水産とは自然とともに生きる思想から生まれた共生思想である。水産文化とでもいおうか?

 このような人間と自然の関わりをもう一度見直し、文化からみた新しい水産の捉え方を見直し,このような技術革新のみならず,本来の姿に立ち返った水産を問い直すときすなわち「技術革新+α」を考えるときが来たのではなかろうか?

教育の視点からの提案 その1 水産の定義を明確化

2010-03-04 | 水圏環境リテラシープログラム
教育の視点からの提案

1 水産の定義を明確化
2 思想の歴史から水産を見る
3 専門性の深化
4 プラスα 国民に対する教養としての水産の普及啓発

◎1水産の定義(水産ハンドブック)
 水産ハンドブックで水産の定義を見てみたいと思う。
 水産ハンドブックは水産学徒にとってはバイブルのような書物である。水産ハンドブックによると,水産とは何か?という明確な定義が記載されていない。

 あえて言えば,第1章の書き出しにある漁業の定義とその変遷の部分が当てはまるのであろうか?漁業とは,「水産動植物を採捕し,またこれを養殖する事業である。」と定義される。また,漁業の発展を歴史的に見ると,以下の通り第1期ー第4期に分けることができるという。
  第1期(1868年-1897年ごろ)江戸時代とかわらない,伝統的漁業
  第2期(1897年ごろ-1912年ごろ)沿岸漁業から沖合漁業への発展
  第3期(1912年ごろ-1945年ごろ) 遠洋漁業,母船式工船漁業
  第4期(1945年ー)1955年有史以来最大の漁獲量,漁業科学技術(魚群探知機,集魚灯,通信機器,衛星航法機器)の発展。

 確かに,これらの内容は,漁業の定義と発展の歴史が述べられている。しかしながら,「漁業」の定義であって「水産」の定義ではない。水産と漁業は同義であることになるが果たしてそれでいいのだろうか? 「漁業とは,水産動植物を採捕し,またこれを養殖する事業である。」は,英語のFisheryとほぼ同じ意味合いである。とすれば,Fishery=漁業ということである。すなわち,我々が水産高校をFisheries High Schoolと呼んでいるが,これは英語に訳すと漁業高校ということになる。

 水産は,「水産動植物を採捕し,またこれを養殖する事業である」以外にも,加工,販売,流通,教育など様々な分野を含んでいる。水産ハンドブックには,水産の定義が明確に記述されていない。明確な水産の定義づけが必要である。前にも触れたが,水産には,日本人が永い年月をかけて培ってきた生業としての意味合いも含んでいる。これからの時代に向けて,水産の定義を明確にすることが第一に必要になってくるだろう。

 さらに言えば,水産という英語訳をFishery とするのではなく,水産の意味を含めた用語,すなわちSUISAN という英語表記でいいのではないだろうか?と私は思う。