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旧精神科医療は思想警察なのか?

入学したらもう御終い。ヴィトンのバッグと同じ価値しかない、現行の大学は行くべきではない。)法政大、一部学生が講義中断の教授のノートを集団「盗撮」

2018年06月08日 | 学歴もスポーツも同じ

<学生の態度に怒って退出していった教授のノートを盗撮する学生たち:法政大学>

私は常々、「大学には行く必要はない」と持論を述べています。

それは、様々な理由がありますが、学費、生活費がかかるということ、それ以上に「大学では学ぶことはないから」と考えるからです。

今回の記事の元となるニュースを見ていくと、

「講義中、大講堂の後方の通路で寝っ転がって遊んでいる学生がいた」

という記事が目につきました。

「親に金出してもらって大学いってるのに」

と胸が痛くなります。

講義がつまらなければ出なければいいだけの話です。

「出席とるから、講義に出ているだけ」なのでしょうか?

そんな形式的な学生生活を送り、「本当に大学卒の実力が身に着く」と思っているのでしょうか?

まじめにやっても、ふざけてやっても、現在の大学は「就職するための学士ライセンスを取りに行くだけのテーマパーク」となっています。

大学でスポーツをやっている人たちはさらに悪質です。

冷静に考えて「なぜ大学まで来てガチンコでスポーツやってるの?」と思いませんか?

特待生なり優遇を受けてスポーツをやっているわけですが、生活費は親が出すなりしているはずです。

これは完全に「大学の広告塔だろ?」と理解できないのでしょうか?

私も大学を卒業させえてもらっていますが、今思えば「学歴ブランド」が欲しい親が見栄のために子供を大学に入れていただけだったと思います。

よく両親は「こどもを全員、大学卒業させたから子育ては成功した」などと親せきが集まると自慢気に話します。

「この人たちは、どれだけイルミナティから洗脳されているのだろうか?」

とガッカリしてしまいます。

こどもができれば一人前にするまでに一人当たり「4,400万円必要」と保険屋が言ってきますが、これも嘘っぱちですね。

「無駄な大学行かせて、一人暮らしさせる」つまり遊ぶお金含めて4,400万円なのかな?と笑ってしまいます。

 

いうれにせよ、大学や学歴などは「キャバ嬢やギャルが持っているヴィトンのバッグや財布と同じもの」です。

医師、弁護士、税理士などの国家資格は「成金マダムが持っているエルメスのバッグと同じもの」です。

 

カバンが一個200万円ってどうかしていますね?

そんな価値あるわけないはずですが、狂ってしまっているひとにはそれだけの価値があるようにみえるのでしょうか?

所有することで一時的に心が満たされるだけです。

しかし一時的なものですから、すぐに虚しくなってしまいますね。

ですからこのようになるのです。

浪費することでしか心が満たされなくなる、他人が少しでも違っているものを持っていると羨ましくてしょうがなくなる。

話が横道にそれましたが、今回の法政大学の記事を転載いたします。

・・・・・・・・・・(法政大、一部学生が講義中断の教授のノートを集団「盗撮」2018年6月7日 19時6分 J-CASTニュース)

大学の講義中に学生がまさかの行動に…

法政大の学生が講義中に非常識な行動を取っていたとの報告がツイッターに寄せられ、インターネット上に「ありえない」「流石にこれは...」といった疑問や批判の声が出ている。

話題となった投稿などによれば、学生の受講態度に激怒した教授が、講義を中断して教室から去った後に「事件」は起きたという。

「これは許される行為なのだろうか」
騒動の発端となったのは、法政大社会学部の学生だというあるユーザーが2018年6月6日に投稿したツイートだ。

「先生が教室出てってから先生が置いてったノートの写真撮るために群がってる連中がいる笑 これは許される行為なのだろうか?」(原文ママ)
投稿には、教壇の周りに10人近くの男女が集まっている写真も添えられており、中心にいる男子学生が机の上をスマホで撮影している様子が確認できる。周囲の学生は、こうした行為を笑顔で見ている。

いったい、何があったのか。一連の騒動を同じ教室で目撃したという投稿者とは別のある学生は7日、J-CASTニュースのツイッターを通じた取材に応じ、トラブルの経緯について次のように説明した。

まず、この講義は「ミクロ経済学」で、受講生が多いため大教室で行われていた。担当教授が離席したのは、一部の学生が教室の後方で床に寝そべり、スマホをいじりながら談笑していたためだ。

<写真はイメージ>

教授はこうした一部学生の受講態度を咎めたが、当人たちは注意を無視。これに教授が激怒し、講義に必要な道具を放置したまま教室を去って行った。その後、別の学生たちが教壇に残された講義用のノートの撮影を始めたという。

投稿者の学生が取材を拒否したワケ
一部学生の非常識な行動を告発した投稿はネット上で注目を集め、ツイッターやネット掲示板には、

「流石にこれは見たことない」
「切れて帰った先生の忘れたノート盗み見るって民度やばすぎやろ」
「何のために講義でてんの?」
といった声が上がっている。

こうした騒動について、法政大学広報課の担当者は7日夕、J-CASTニュースの取材に対し、

「本件について事実確認を現在調査中です」(原文ママ)
と回答。ただその後、「本学として、学生のプライバシーへのご配慮もお願い申し上げます」とだけ追加で連絡があった。

J-CASTニュースでは、話題となったツイートを投稿した学生当人にも取材を依頼していた。だが、この学生は「大学側の不利益になりかねないので取材は受けないでほしい」との連絡を大学から受けたと説明。そのため、今回の取材には応じられないとのことだった。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

この写真を撮影している学生は異常なのでしょうか?

これが大学生の実態であり、本性だと言えます。

私も学生時代「マクロ経済」は難しすぎて話を聞いていてもさっぱりわかりませんでした。

「自分の頭が悪いから理解できないのか?」と落ち込んでいましたが、経済学自体がウソの学問であることを知らなかったためだったのです。

その理由について見ていきましょう。

・・・・・・・・(この世はどこもかしこもフリーメーソンだらけ。または盛和塾と自己啓発と神智学協会。)


「日銀」は金融緩和と称して「マネタリーベース(市場に流通するお金の量)」を三倍に増やしたわけですが、これは「日銀」の持ち金が三倍に増えたことを意味します。


〈マネタリーベースの推移〉


つまり、「日銀」はお金を刷れば刷るほどお金持ちになっていくわけです。

それなのに、マスコミは口をそろえて「日本は借金大国」だと言い、日本にお金がないかのように宣伝しています。

そして、政治家たちはそれを口実に「増税」やら「医療費の国民負担」やらを口にする……。

もういい加減、こんなつまらない茶番はやめてほしいものですね。

しかし、これがいかにインチキな茶番劇であるかを隠すために、「日銀」に関する解説書はいくら読んでも理解できないようになっています。

そもそも、「日銀」のような中央銀行制度の始まりは「スウェーデン銀行」らしいのですが、この「スウェーデン銀行」は「ノーベル経済学賞」の賞金を拠出しています。

○スウェーデン国立銀行 – Wikipedia

で、この「ノーベル経済学賞」がインチキであることは、もうすでに世間一般にも知られています。

---------------------(以下、こちらから転載)

ノーベル賞の季節がやってきた。

ノーベル賞といえば、いうまでもなく科学の世界で最高の栄誉とされ、受賞者はその道で最高の権威として一般の人々からも称賛を集める。

ところが全部で6部門あるノーベル賞の中で、「これは本当はノーベル賞ではない」といわれる賞があるのをご存じだろうか。

おまけにその賞の対象は、文学賞や平和賞は別として、「科学とは呼べない」という批判まで聞かれるのだ。

それはノーベル経済学賞である。

「ノーベル賞ではない」という意見は、別にいいがかりではなく、少なくとも形式的には完全に正しい。

一番わかりやすいのは正式名称だ。

他の賞の正式名称が「ノーベル物理学賞」「ノーベル化学賞」などであるのに対し、経済学賞は「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」という。

スウェーデン国立銀行とは、スウェーデンの中央銀行で、日本でいえば日本銀行にあたる。

他の5部門がダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて創設され、1901年に始まったのに対し、経済学賞のスタートは20世紀も後半の1968年。

スウェーデン国立銀行が設立300周年を記念してノーベル財団に働きかけ、創設された。だからその名が賞に付けられているわけだ。

経済学賞は、賞金の出所も他の部門とは違う。

他の部門はノーベルの遺産をノーベル財団が運用して得た利益を充てるのに対し、経済学賞はスウェーデン国立銀行が拠出している。

経済学賞の受賞者選考は、物理学賞、化学賞と同じく、スウェーデン王立科学アカデミーが行う。

ノーベルの遺志にない賞の新設に同アカデミーは当初あまり乗り気ではなく、ノーベルの子孫は今でも賛成していないといわれる。

■「偉大な貢献」をしたのか?

形式もさることながら、より重要な問題は内容である。

そもそも経済学とは、物理学や化学、生理学・医学と肩を並べるにふさわしい「科学」といえるのだろうか。

ノーベルは遺言書で、賞の対象者を「人類のために最も偉大な貢献をした人」としている。

物理学をはじめとする自然科学であれば、ノーベルのいう「偉大な貢献」は具体的にイメージしやすい。

たとえば第1回物理学賞を受賞したレントゲンはX線を発見し、医療や工業の発展に大きく貢献したし、生理学・医学賞を受けたワトソンらはDNAの二重らせん構造を解明し、分子生物学の基礎を築いた。

(註・まあ、これらも結局はすべてインチキだということがRAPT理論で分かってきたわけですが……。)

物理学賞を共同受賞した3人の日本人研究者が発明した青色発光ダイオード(LED)は、照明や携帯電話用バックライト、大型ディスプレイなど幅広く実用化されている。

これに対し、経済学はどうだろう。ノーベル賞を受賞した経済学者が人類のために成し遂げた「偉大な貢献」が、何か思い浮かぶだろうか。

最近の受賞理由をみると、「労働経済におけるサーチ理論に関する功績」「資産価格の実証分析に関する功績」「消費、貧困、福祉の分析に関する功績」など、何やら立派そうな「功績」が並ぶ。

経済学界の中ではすごいことなのだろう。

しかしこの経済学者たちのおかげで労働者の生活が楽になったとか、株や土地の資産バブルを防ぐことができたとか、貧困を減らすことができたとかいう話は聞いたことがない。

それどころか、百年に一度といわれた2008年のリーマン・ショックやその後の世界的な財政金融危機を事前に予測した経済学者は、ほとんどいなかった。

1997年に共同受賞したマイロン・ショールズとロバート・マートンが経営にかかわった投資ファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)は、同年発生したアジア通貨危機による市場の変化を読み誤り、破綻した。

お粗末な話はもっとある。

1980年受賞のローレンス・クラインは世界各国の経済モデルを結びつけ、およそ3000もの方程式で構成されるとてつもなく複雑なモデルを構築。

受賞スピーチでこのモデルに基づく長期予測を披露し、米国で石油価格が上昇し、インフレが続き、財政・貿易収支が赤字から均衡に向かうと予想したが、ことごとく外れた(トーマス・カリアー『ノーベル経済学賞の40年 上巻』<小坂恵理訳/筑摩選書>)。

■「えせ科学」

失敗ばかりをあげつらうのはフェアではないと思うかもしれない。「失敗は成功の母」という言葉もある。

物理学をはじめとする自然科学も、失敗を重ねながら、そこに改善のヒントを見いだし、正しい法則の発見に結びつけてきた。むしろそうした試行錯誤に基づく発展こそ科学の特質といえる。

だが問題は、経済学に自然科学と同じような、失敗から真理を見いだすメカニズムが備わっているかどうかである。

この点について、著名な物理学者のリチャード・ファインマン(1965年ノーベル物理学賞受賞)が1981年のインタビューで厳しい指摘をしている。

経済学を含む社会科学は「えせ科学(pseudo-science)」だと断じているのだ

ファインマンは言う。

「科学が成功したので、えせ科学が現れました。社会科学は、科学ではない科学の一例です。科学の形式にならい、データを集めに集めるのですが、何の法則も発見できません」

何がいけないのか。ファインマンは続ける。自分は、何かを本当に知ることがいかに大変か、実験を確認する際にどれだけ注意深くなければならないか、人がいかにミスや思い違いをしやすいか、知っている。

ところが社会科学者はそうは見えない。

タイプライターの前に座って法則らしきものをこしらえるが、それが正しいかどうかはわからないとファインマンは言う。

厳格な手続きでデータの測定や推論、検証を求められる自然科学者から見ると、経済学者ら社会科学者のやり方はいかにもいい加減ということだろう。

ファインマンの批判に対し、経済学者にも言い分はあるだろう。

自然科学が扱う物質と違い、生身の人間が動かす経済現象は実験室で実験することはできない。

かといって、実験のために経済政策を行うわけにもいかない。せいぜい過去のデータをあちこちから集め、統計のテクニックを駆使してなんらかの法則らしきものを探るしかないだろう。

ファインマンが言うとおり、20世紀以降、経済学は自然科学、とりわけ物理学の「形式」を熱心にまねてきた。

現代の経済学論文は、まるで理系の本のようにおびただしい記号や数式で埋め尽くされている。

少なくともその見てくれは、あたかも物理学と同格の厳密な科学であるかのようだ。

経済学者は「経済学は社会科学の女王」と自画自賛する。しかしその実情は、物理学者のファインマンに言わせれば「えせ科学」にとどまっている。

■「見せかけの知」

もし自然科学と経済学のこの落差が、前者は物質を扱うが後者は人間を扱うという性質の違いによるものだとしたら、そもそも自然科学の手法をまねることが誤りだったのではないか。そんな疑問が頭をもたげる。

ごく一部の経済学者はその誤りを認識している。その一人は、1974年にノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクである。

ハイエクは「見せかけの知」と題する受賞記念講演で「経済学者が政策をもっと成功裏に導くことに失敗したのは、輝かしい成功を収める自然科学の歩みをできるかぎり厳密に模倣しようとするその性向と密接に結びついているように思われます」と述べた。

そして、自然科学の手法を社会科学に機械的かつ無批判に適用する態度を「言葉の真の意味において決定的に非科学的」(『ハイエク全集』第二期第四巻<嶋津格監訳、春秋社>)だと厳しく批判した。

今の世界経済の混乱は、経済学の混迷と無縁とは思えない。

経済学は自然科学の模倣という「見せかけの知」から抜け出せるだろうか。今年のノーベル経済学賞は10月10日に発表される。

---------------------(転載ここまで)

このインチキな「ノーベル経済学賞」を請け負っているのが「スウェーデン銀行」で、中央銀行の始まりが「スウェーデン銀行」。

ということは、「中央銀行制度」自体がインチキであることも疑いようもありません。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

例に漏れず、法政大学の学生もこの「えせ科学」である経済学のマクロ経済をばからしいと思っていたのかどうかわかりませんが、つまらないし、役に立たないと感じてか、講義中に遊んでいたのでしょう。

入試に合格して入学してしまえば、大卒のブランドをもらったも同然です。

大卒ブランドなんぞ、最近では石を投げればすぐに当たるくらいどこにでもいます。

法政大学は東京六大学と呼ばれ、各界に有名人を輩出している大学です。

しかしながら、大学という仕組みは日本には必要なく、大学など卒業しなくても社会で通用しますから、本当に無用の長物となってしまっています。

ですから、私には大卒というのは、ブランドバッグに価値がある、自分の価値を高めてくれると信じ込み、高いブランド品を買うために自分の貴重な時間を企業のために、ブランド品を買うための余分なお金を得るために、奴隷のようにささげている哀れな信仰にしか思えないのです。

 

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