今回の記事は、転職についてです。
何故か日本では定職に就くことが最大ステータスと洗脳されています。
家族を持ったり、車を買ったり、住宅ローンを組んだりすると確かに基本収入はある程度必要となってきます。
これらの要因は、会社に奴隷として縛り付けるための単なるまやかしであり、これらを手に入れることで、一時的な喜びや周囲から社会、世間一般からの信用や評価はあるかもしれませんが、真の幸せは得られません。
かえって重荷となり、それらに縛られて生きるだけの、死んだような人生を送ることになります。
私達人間の創造目的とは何でしょうか?
とある哲学書や自己啓発ではこのあたりは深くかかれていません。
『人生の目的を探すのが、人生なのだ』
『人生は幸せになるのが目的だ』
などと、釈然としない答えばかりです。
人生の目的、生きる目的を見つけた人は貴方の周囲に何人いますか?
あなたの考える幸せは何ですか?それは持続しますか?本当の幸せでしたか?
普遍的で絶対的な幸せでしたか?
他の人にオススメしても、絶対外さない、裏切らない確固たる幸せでしたか?
私達は産まれてから、社会に出て、両親、学校、友達、スポーツ、会社、恋人、テレビ新聞雑誌などから、それこそ滝のような情報や価値観を浴び、脳に刷り込まれて来ています。
そして、多数決で、大多数のコンセンサスのあるものが正しい価値観だと信じ込まされてきました。
結果的にそれで真の幸福を得ている人は残念ながら私の周囲にはいません。
それらの中に真理はないのです。
特に日本は金を稼ぐことを第一とし、それでは大義名分が立たないため、何故か働く事が、納税につながり=社会貢献にすり替えられています。
こんな悪どい政府に納税することが社会貢献なのでしょうか?
深く悟れば、政府や官僚、そして政治家や大企業のトップ達は、国民から吸い上げた税金を、私利私欲の為だけに自分達の懐に入れているだけです。
仕組みとして、吸い上げれる仕組みを作ってしまってますから。
ですから、国民一人一人が、欲望の追求を止め、そこまで働かなくても良いと気付けば、大企業や政府、大バビロンはあっという間に崩壊します。
そうさせないために、彼らは、年収やら有名企業やら一流企業やらというネームバリューをメディアを使って宣伝しまくり、庶民を騙して、労働時間を搾取して企業奴隷としてこき使っているだけなのです。
今回はそのような愚かな人生を選択すると何も残らないよという記事を紹介致します。
以下転載
大学では一流企業サラリーマンこそ「勝ち組」と教えているが、中卒高卒でも定年
退職のない自営業こそ「勝ち組」なのだ。定年退職したサラリーマンの哀れな姿
2017年10月14日 土曜日
◆「一人ぼっち」で過ごす定年退職者の哀愁、午前中の図書館、カフェ、ジム… 10月11日 楠木新
定年後、人はどこで何をするのか。新たな仕事や、これといって趣味を持たない人は、どうやって時間をやり過ごすのか。フィールドワークを通して、定年退職者が多く集う場所がわかった。そして、そこにいる多くの人がみな「一人ぼっち」だった。(ビジネス書作家 楠木 新)
図書館で目撃した小競り合い
私は2年半前に、60歳で定年退職してからどこの組織にも属さずに過ごしてきた、「毎日が日曜日」状態である。
『定年後』(中公新書刊)を執筆する前に、定年退職者は普段はどのように活動しているのだろうかと考えた。しかし資料などでは実態がわかるものはなかったので自分で動き始めた。
まずは地元の図書館を訪れた。朝10時の開館前に行くとすでに7~8人の男性が玄関前にある椅子に座って待っていた。60代、70代とおぼしき男性ばかりだった。もちろん定年退職者ばかりとは言えないが、60代と思われる男性たちは私の目には元会社員であるように見えた。
10時になって扉が開くと、全員が新聞コーナーに行く。全国紙とスポーツ新聞を合わせると人数分はあるので各自一紙ずつ手に持って読み始める。
一人の男性が経済新聞を長く読んでいたので、待っていた人が「もう少し早く読んでくれないか」と話しかけると、男性は株価のページを読んでいた手をとめて「順番だから仕方がないだろう」と言い返して軽い小競り合いになった。館内に一瞬緊張感が走ったがそのまま収まった。
地元の図書館と比較する意味で、日比谷図書文化館の開館時間前にも行ってみた。10時の開館時間には27人が列をなしていたが、定年退職者と思しき人は半数もいなかった。
開館と同時に新聞コーナーに行ったのは6人だけだった。受験や資格試験の勉強のために来ている人が多くて、間もなくすると、眺めのよい窓際の席はテキストをひろげる若い人でいっぱいになった。同じ図書館でも場所によって風景は異なるのである。
2017年10月14日 土曜日
◆「一人ぼっち」で過ごす定年退職者の哀愁、午前中の図書館、カフェ、ジム… 10月11日 楠木新
定年後、人はどこで何をするのか。新たな仕事や、これといって趣味を持たない人は、どうやって時間をやり過ごすのか。フィールドワークを通して、定年退職者が多く集う場所がわかった。そして、そこにいる多くの人がみな「一人ぼっち」だった。(ビジネス書作家 楠木 新)
図書館で目撃した小競り合い
私は2年半前に、60歳で定年退職してからどこの組織にも属さずに過ごしてきた、「毎日が日曜日」状態である。
『定年後』(中公新書刊)を執筆する前に、定年退職者は普段はどのように活動しているのだろうかと考えた。しかし資料などでは実態がわかるものはなかったので自分で動き始めた。
まずは地元の図書館を訪れた。朝10時の開館前に行くとすでに7~8人の男性が玄関前にある椅子に座って待っていた。60代、70代とおぼしき男性ばかりだった。もちろん定年退職者ばかりとは言えないが、60代と思われる男性たちは私の目には元会社員であるように見えた。
10時になって扉が開くと、全員が新聞コーナーに行く。全国紙とスポーツ新聞を合わせると人数分はあるので各自一紙ずつ手に持って読み始める。
一人の男性が経済新聞を長く読んでいたので、待っていた人が「もう少し早く読んでくれないか」と話しかけると、男性は株価のページを読んでいた手をとめて「順番だから仕方がないだろう」と言い返して軽い小競り合いになった。館内に一瞬緊張感が走ったがそのまま収まった。
地元の図書館と比較する意味で、日比谷図書文化館の開館時間前にも行ってみた。10時の開館時間には27人が列をなしていたが、定年退職者と思しき人は半数もいなかった。
開館と同時に新聞コーナーに行ったのは6人だけだった。受験や資格試験の勉強のために来ている人が多くて、間もなくすると、眺めのよい窓際の席はテキストをひろげる若い人でいっぱいになった。同じ図書館でも場所によって風景は異なるのである。
一方、ハローワークの利用者は高齢者が多いわけではない。定年退職者と思しき人はパソコン画面を少し見てすぐに帰る人が目に付く。失業保険の受給要件を満たすために来ている人が多いそうだ。
平日の大型ショッピングセンターでは高齢の男性の姿が目立つ。
休日とは違って広々としたスペースは閑散としており、午前中にゆったりとしたソファーに座っているのはほとんどが高齢の男性だ。住宅地にある喫茶店にも定年退職したと思われる人は少なくない。子どもたちを連れたママ友のグループとは違って、一人で新聞や週刊誌を読んでいる人が多い。
スポーツクラブは大繁盛
住宅地に近いターミナル駅にあるスポーツクラブは、開館の9時には長い行列ができる。男性、女性を問わず高齢者が並ぶ姿は壮観でもある。私もこのクラブに加入して通ってみた。すると、午前中は見事なまでに高齢者が中心である。
私は定年退職するまでは、スポーツクラブは勤務時間後に汗を流す場所かと思っていたが、認識を改めさせられた。
昼間であれば何回使っても定額のコースがあり、朝から夕刻近くまでクラブで過ごしている人もいる。サウナや浴場もあるので「昼食を持ち込めば本当にゆっくり過ごせる」という男性定年退職者もいたのである。
以前、利用者の意見を掲示するボードに、「スポーツクラブだと思って入会したのに、ここは養老院なのか」と批判する意見が書かれた用紙が貼られていたことがあった。それに対して、クラブ側は「この施設はいろいろな世代の人に利用してもらうものです」と回答をしていたのを覚えている。こんな意見はわざわざオープンにしなくても良いと思ったが、批判する意見を書いた女性の気持ちは分からないでもなかった。 (中略)
カルチャースクールの講座にも行ってみたが、女性はグループでワイワイ楽しそうにおしゃべりをしているが、男性はやはり一人でいる人が多かった。
もちろん一人ぼっちであることに問題があるというわけではない。一人でゆったりと時間を過ごすことが心地よい人もいるであろう。人と群れることを好まない人もいるに違いない。どちらかと言えば、私も一人が好きなのである。
ただ、定年退職者を取材した時に、私の問いに正面から答えてくれた人たちのなかには、「毎日やることがなくて困っている」、「一番自由な今が一番しんどい」、「家で居場所がない」、「暇になったのに焦る」、「嫌な上司もいないよりはマシ」などと語られることがある。なかには「このままの毎日が続くと思うと、自分の人生は何だったのかと思うときがある」とまで発言した人もいたのである。
彼らの発言と住宅地や都心をまわった取材を重ね合わせてみると、在職中は組織内での上司や同僚、部下との濃密な人間関係を築いているにもかかわらず、退職後はその関係が切れてしまい、自分の居場所が見つからなくなっている、ということだ。
今まで長い間、企業社会のなかで朝から晩まで共同作業をやってきた人たちが、いきなり一人ぼっちになっては、力も意欲も湧かないのは当然であろう。
定年退職者には、まず何よりも、“他のメンバーのために”何かをやらなければならない義務や役割、すなわち、人との「関係をつくる」作業が求められるのではないか。
(私のコメント)
私の父は、一部上場企業のサラリーマンであった。そしてサラリーマンが定年退職したあとの哀れな姿を見ている。まさに家庭でぶらぶらしている父親はまさに粗大ゴミであり、妻や子からも冷たい目で見られるようになり、家庭に居場所がない。どこかで働けばと言われても手に職がないから働けない。
金には不自由しなくても、毎日ゴルフばかりしているわけにもいかない。会社の社長が退職しても「顧問」とか「相談役」などといった形で残りたがるのは、家でぶらぶらしていても何もする事がないからだ。本当に有能なサラリーマンなら、途中で独立起業を目指すべきであり、このことは「株式日記」でも何度も書いてきた。
健康に恵まれれば、定年退職してからの20年から30年をどのように過ごしたらいいのだろうか。女性なら専業主婦には定年がないから、そのような事を考える事もないのでしょうが、男の場合は家に居てもする事がない。だから図書館などに行って新聞を読むとか、喫茶店で時間を潰すしかなくなる。
私自身も、銀行を退職したあと数年ほどぶらぶらしていましたが、喫茶店や図書館で時間を潰していることが多かった。アパートを経営していたので失業者ではなかった。だから電気学校に行って電気工事士の資格を取り、ビル管理の会社に再就職しましたが、やはりサラリーマン稼業は私にはむいていなかったので、ビルを建てて不動産家業に専念することにした。
なぜそうなったのかといえば、やはり父親の定年退職した姿を見ているからだろう。30代40代なら体力気力もあるが、60歳すぎれば体力気力もなくなって再就職も難しくなる。働く場所がなくなった男は正に粗大ゴミであり、社会との繋がりも無くなってしまう。
何らかの仕事をしていれば、いやでも社会とのつながりができますが、定年退職してしまうと会社との繋がりもぷっつりと切れてしまう。定年退職したあとに会社に行っても後輩からは煙たがられるだけであり、上司や同僚もいない。何とか再就職しても、職業として満足のいく仕事でなければやりきれなさが先に立つ。
独身ならば、仕事を辞めてぶらぶらしていても妻子から疎んじられることもなく気楽でしたが、定年退職して妻子がいたらまさに悲劇であり、家にいたたまれなくなるだろう。だから図書館や喫茶店で時間を潰して日々を過ごさなければならなくなる。こんな生活をしていれば体を壊して命を縮めるかもしれない。私の父も定年退職して数年で亡くなった。
これは日本ばかりのことではなく、どの国でもあることだ。アーサー・ミラーの戯曲で「セールスマンの死」がありますが、アメリカにも引き籠もりの息子がいたことが面白い。セールスマンはサラリーマンの代表的な職業ですが、歳を取れば業績も落ちてクビになることもありますが、自営業ならクビになることもなく定年もない。
【転載ここまで】
このブログの著者は、銀行マンを早々に辞めてビル経営をされている方ですが、記事の選択がとてもユニークです。
私達は、両親からエリートサラリーマンになるように洗脳されてきました。
サラリーマンが地獄であるのに、私達の両親はその道を行けと地獄の片道切符を手渡すことが教育だと勘違いしています。
教育とは、一人でも生活できること、必要なだけお金を稼ぎ、日々幸せに生きていける人生を歩めることで、沢山お金を稼いだり、資産を持つことは幸せではありません。
現在私の勤めている企業は、店舗流通小売業なのですが、通勤片道2時間は当たり前で休みもお店から電話がかかってくるのが当たり前です。
転勤は半年に一回はあり、勤務も変則勤務で、往復通勤時間➕労働拘束時間を考えると14時間も会社に奴隷として身体を捧げていることになります。
冷静に考えれば、正気の沙汰ではありません。
京セラフィロソフィーを使って
『人生は企業で働く事にしか意味がない』
と洗脳しまくってますが、論理破綻しており、有能な人から辞めて行き、対抗企業を立ち上げ、血で血を争う激戦を繰り広げています。
何処の企業も50歩100歩ですが、結局企業とは、綺麗事だけ言って、従業員から労働力を搾り取る、さらには思想まで支配して、奴隷服従させたいだけなのです。
単なる企業家のいう綺麗事には論理矛盾があり、ネームバリューで縛り付けることができなければ、企業内の地位や人間関係という、情で縛り付けることしかできない、あっけない存在なのです。
しかし、企業は最後まで私達の人生を守ってくれません。
適当な理由付けしてくるだけであり、私達は心身ともに蝕まれて、人生の目的も見つからず、企業家の論理を信じ込まされてしまうだけの絶望が待っているだけなのですから。
終わり寄れば全て良しという言葉がありますが、このブログの記事から、企業にしがみついた人生は、平日の図書館や喫茶店に行けば、結果が現れている、愚かな選択だったと立証しています。
私達も企業になど、頼らず、自ら真理の道を求めたどり着かなければ、滅びの人生しかありませんね。
何故か日本では定職に就くことが最大ステータスと洗脳されています。
家族を持ったり、車を買ったり、住宅ローンを組んだりすると確かに基本収入はある程度必要となってきます。
これらの要因は、会社に奴隷として縛り付けるための単なるまやかしであり、これらを手に入れることで、一時的な喜びや周囲から社会、世間一般からの信用や評価はあるかもしれませんが、真の幸せは得られません。
かえって重荷となり、それらに縛られて生きるだけの、死んだような人生を送ることになります。
私達人間の創造目的とは何でしょうか?
とある哲学書や自己啓発ではこのあたりは深くかかれていません。
『人生の目的を探すのが、人生なのだ』
『人生は幸せになるのが目的だ』
などと、釈然としない答えばかりです。
人生の目的、生きる目的を見つけた人は貴方の周囲に何人いますか?
あなたの考える幸せは何ですか?それは持続しますか?本当の幸せでしたか?
普遍的で絶対的な幸せでしたか?
他の人にオススメしても、絶対外さない、裏切らない確固たる幸せでしたか?
私達は産まれてから、社会に出て、両親、学校、友達、スポーツ、会社、恋人、テレビ新聞雑誌などから、それこそ滝のような情報や価値観を浴び、脳に刷り込まれて来ています。
そして、多数決で、大多数のコンセンサスのあるものが正しい価値観だと信じ込まされてきました。
結果的にそれで真の幸福を得ている人は残念ながら私の周囲にはいません。
それらの中に真理はないのです。
特に日本は金を稼ぐことを第一とし、それでは大義名分が立たないため、何故か働く事が、納税につながり=社会貢献にすり替えられています。
こんな悪どい政府に納税することが社会貢献なのでしょうか?
深く悟れば、政府や官僚、そして政治家や大企業のトップ達は、国民から吸い上げた税金を、私利私欲の為だけに自分達の懐に入れているだけです。
仕組みとして、吸い上げれる仕組みを作ってしまってますから。
ですから、国民一人一人が、欲望の追求を止め、そこまで働かなくても良いと気付けば、大企業や政府、大バビロンはあっという間に崩壊します。
そうさせないために、彼らは、年収やら有名企業やら一流企業やらというネームバリューをメディアを使って宣伝しまくり、庶民を騙して、労働時間を搾取して企業奴隷としてこき使っているだけなのです。
今回はそのような愚かな人生を選択すると何も残らないよという記事を紹介致します。
以下転載
大学では一流企業サラリーマンこそ「勝ち組」と教えているが、中卒高卒でも定年
退職のない自営業こそ「勝ち組」なのだ。定年退職したサラリーマンの哀れな姿
2017年10月14日 土曜日
◆「一人ぼっち」で過ごす定年退職者の哀愁、午前中の図書館、カフェ、ジム… 10月11日 楠木新
定年後、人はどこで何をするのか。新たな仕事や、これといって趣味を持たない人は、どうやって時間をやり過ごすのか。フィールドワークを通して、定年退職者が多く集う場所がわかった。そして、そこにいる多くの人がみな「一人ぼっち」だった。(ビジネス書作家 楠木 新)
図書館で目撃した小競り合い
私は2年半前に、60歳で定年退職してからどこの組織にも属さずに過ごしてきた、「毎日が日曜日」状態である。
『定年後』(中公新書刊)を執筆する前に、定年退職者は普段はどのように活動しているのだろうかと考えた。しかし資料などでは実態がわかるものはなかったので自分で動き始めた。
まずは地元の図書館を訪れた。朝10時の開館前に行くとすでに7~8人の男性が玄関前にある椅子に座って待っていた。60代、70代とおぼしき男性ばかりだった。もちろん定年退職者ばかりとは言えないが、60代と思われる男性たちは私の目には元会社員であるように見えた。
10時になって扉が開くと、全員が新聞コーナーに行く。全国紙とスポーツ新聞を合わせると人数分はあるので各自一紙ずつ手に持って読み始める。
一人の男性が経済新聞を長く読んでいたので、待っていた人が「もう少し早く読んでくれないか」と話しかけると、男性は株価のページを読んでいた手をとめて「順番だから仕方がないだろう」と言い返して軽い小競り合いになった。館内に一瞬緊張感が走ったがそのまま収まった。
地元の図書館と比較する意味で、日比谷図書文化館の開館時間前にも行ってみた。10時の開館時間には27人が列をなしていたが、定年退職者と思しき人は半数もいなかった。
開館と同時に新聞コーナーに行ったのは6人だけだった。受験や資格試験の勉強のために来ている人が多くて、間もなくすると、眺めのよい窓際の席はテキストをひろげる若い人でいっぱいになった。同じ図書館でも場所によって風景は異なるのである。
2017年10月14日 土曜日
◆「一人ぼっち」で過ごす定年退職者の哀愁、午前中の図書館、カフェ、ジム… 10月11日 楠木新
定年後、人はどこで何をするのか。新たな仕事や、これといって趣味を持たない人は、どうやって時間をやり過ごすのか。フィールドワークを通して、定年退職者が多く集う場所がわかった。そして、そこにいる多くの人がみな「一人ぼっち」だった。(ビジネス書作家 楠木 新)
図書館で目撃した小競り合い
私は2年半前に、60歳で定年退職してからどこの組織にも属さずに過ごしてきた、「毎日が日曜日」状態である。
『定年後』(中公新書刊)を執筆する前に、定年退職者は普段はどのように活動しているのだろうかと考えた。しかし資料などでは実態がわかるものはなかったので自分で動き始めた。
まずは地元の図書館を訪れた。朝10時の開館前に行くとすでに7~8人の男性が玄関前にある椅子に座って待っていた。60代、70代とおぼしき男性ばかりだった。もちろん定年退職者ばかりとは言えないが、60代と思われる男性たちは私の目には元会社員であるように見えた。
10時になって扉が開くと、全員が新聞コーナーに行く。全国紙とスポーツ新聞を合わせると人数分はあるので各自一紙ずつ手に持って読み始める。
一人の男性が経済新聞を長く読んでいたので、待っていた人が「もう少し早く読んでくれないか」と話しかけると、男性は株価のページを読んでいた手をとめて「順番だから仕方がないだろう」と言い返して軽い小競り合いになった。館内に一瞬緊張感が走ったがそのまま収まった。
地元の図書館と比較する意味で、日比谷図書文化館の開館時間前にも行ってみた。10時の開館時間には27人が列をなしていたが、定年退職者と思しき人は半数もいなかった。
開館と同時に新聞コーナーに行ったのは6人だけだった。受験や資格試験の勉強のために来ている人が多くて、間もなくすると、眺めのよい窓際の席はテキストをひろげる若い人でいっぱいになった。同じ図書館でも場所によって風景は異なるのである。
一方、ハローワークの利用者は高齢者が多いわけではない。定年退職者と思しき人はパソコン画面を少し見てすぐに帰る人が目に付く。失業保険の受給要件を満たすために来ている人が多いそうだ。
平日の大型ショッピングセンターでは高齢の男性の姿が目立つ。
休日とは違って広々としたスペースは閑散としており、午前中にゆったりとしたソファーに座っているのはほとんどが高齢の男性だ。住宅地にある喫茶店にも定年退職したと思われる人は少なくない。子どもたちを連れたママ友のグループとは違って、一人で新聞や週刊誌を読んでいる人が多い。
スポーツクラブは大繁盛
住宅地に近いターミナル駅にあるスポーツクラブは、開館の9時には長い行列ができる。男性、女性を問わず高齢者が並ぶ姿は壮観でもある。私もこのクラブに加入して通ってみた。すると、午前中は見事なまでに高齢者が中心である。
私は定年退職するまでは、スポーツクラブは勤務時間後に汗を流す場所かと思っていたが、認識を改めさせられた。
昼間であれば何回使っても定額のコースがあり、朝から夕刻近くまでクラブで過ごしている人もいる。サウナや浴場もあるので「昼食を持ち込めば本当にゆっくり過ごせる」という男性定年退職者もいたのである。
以前、利用者の意見を掲示するボードに、「スポーツクラブだと思って入会したのに、ここは養老院なのか」と批判する意見が書かれた用紙が貼られていたことがあった。それに対して、クラブ側は「この施設はいろいろな世代の人に利用してもらうものです」と回答をしていたのを覚えている。こんな意見はわざわざオープンにしなくても良いと思ったが、批判する意見を書いた女性の気持ちは分からないでもなかった。 (中略)
カルチャースクールの講座にも行ってみたが、女性はグループでワイワイ楽しそうにおしゃべりをしているが、男性はやはり一人でいる人が多かった。
もちろん一人ぼっちであることに問題があるというわけではない。一人でゆったりと時間を過ごすことが心地よい人もいるであろう。人と群れることを好まない人もいるに違いない。どちらかと言えば、私も一人が好きなのである。
ただ、定年退職者を取材した時に、私の問いに正面から答えてくれた人たちのなかには、「毎日やることがなくて困っている」、「一番自由な今が一番しんどい」、「家で居場所がない」、「暇になったのに焦る」、「嫌な上司もいないよりはマシ」などと語られることがある。なかには「このままの毎日が続くと思うと、自分の人生は何だったのかと思うときがある」とまで発言した人もいたのである。
彼らの発言と住宅地や都心をまわった取材を重ね合わせてみると、在職中は組織内での上司や同僚、部下との濃密な人間関係を築いているにもかかわらず、退職後はその関係が切れてしまい、自分の居場所が見つからなくなっている、ということだ。
今まで長い間、企業社会のなかで朝から晩まで共同作業をやってきた人たちが、いきなり一人ぼっちになっては、力も意欲も湧かないのは当然であろう。
定年退職者には、まず何よりも、“他のメンバーのために”何かをやらなければならない義務や役割、すなわち、人との「関係をつくる」作業が求められるのではないか。
(私のコメント)
私の父は、一部上場企業のサラリーマンであった。そしてサラリーマンが定年退職したあとの哀れな姿を見ている。まさに家庭でぶらぶらしている父親はまさに粗大ゴミであり、妻や子からも冷たい目で見られるようになり、家庭に居場所がない。どこかで働けばと言われても手に職がないから働けない。
金には不自由しなくても、毎日ゴルフばかりしているわけにもいかない。会社の社長が退職しても「顧問」とか「相談役」などといった形で残りたがるのは、家でぶらぶらしていても何もする事がないからだ。本当に有能なサラリーマンなら、途中で独立起業を目指すべきであり、このことは「株式日記」でも何度も書いてきた。
健康に恵まれれば、定年退職してからの20年から30年をどのように過ごしたらいいのだろうか。女性なら専業主婦には定年がないから、そのような事を考える事もないのでしょうが、男の場合は家に居てもする事がない。だから図書館などに行って新聞を読むとか、喫茶店で時間を潰すしかなくなる。
私自身も、銀行を退職したあと数年ほどぶらぶらしていましたが、喫茶店や図書館で時間を潰していることが多かった。アパートを経営していたので失業者ではなかった。だから電気学校に行って電気工事士の資格を取り、ビル管理の会社に再就職しましたが、やはりサラリーマン稼業は私にはむいていなかったので、ビルを建てて不動産家業に専念することにした。
なぜそうなったのかといえば、やはり父親の定年退職した姿を見ているからだろう。30代40代なら体力気力もあるが、60歳すぎれば体力気力もなくなって再就職も難しくなる。働く場所がなくなった男は正に粗大ゴミであり、社会との繋がりも無くなってしまう。
何らかの仕事をしていれば、いやでも社会とのつながりができますが、定年退職してしまうと会社との繋がりもぷっつりと切れてしまう。定年退職したあとに会社に行っても後輩からは煙たがられるだけであり、上司や同僚もいない。何とか再就職しても、職業として満足のいく仕事でなければやりきれなさが先に立つ。
独身ならば、仕事を辞めてぶらぶらしていても妻子から疎んじられることもなく気楽でしたが、定年退職して妻子がいたらまさに悲劇であり、家にいたたまれなくなるだろう。だから図書館や喫茶店で時間を潰して日々を過ごさなければならなくなる。こんな生活をしていれば体を壊して命を縮めるかもしれない。私の父も定年退職して数年で亡くなった。
これは日本ばかりのことではなく、どの国でもあることだ。アーサー・ミラーの戯曲で「セールスマンの死」がありますが、アメリカにも引き籠もりの息子がいたことが面白い。セールスマンはサラリーマンの代表的な職業ですが、歳を取れば業績も落ちてクビになることもありますが、自営業ならクビになることもなく定年もない。
【転載ここまで】
このブログの著者は、銀行マンを早々に辞めてビル経営をされている方ですが、記事の選択がとてもユニークです。
私達は、両親からエリートサラリーマンになるように洗脳されてきました。
サラリーマンが地獄であるのに、私達の両親はその道を行けと地獄の片道切符を手渡すことが教育だと勘違いしています。
教育とは、一人でも生活できること、必要なだけお金を稼ぎ、日々幸せに生きていける人生を歩めることで、沢山お金を稼いだり、資産を持つことは幸せではありません。
現在私の勤めている企業は、店舗流通小売業なのですが、通勤片道2時間は当たり前で休みもお店から電話がかかってくるのが当たり前です。
転勤は半年に一回はあり、勤務も変則勤務で、往復通勤時間➕労働拘束時間を考えると14時間も会社に奴隷として身体を捧げていることになります。
冷静に考えれば、正気の沙汰ではありません。
京セラフィロソフィーを使って
『人生は企業で働く事にしか意味がない』
と洗脳しまくってますが、論理破綻しており、有能な人から辞めて行き、対抗企業を立ち上げ、血で血を争う激戦を繰り広げています。
何処の企業も50歩100歩ですが、結局企業とは、綺麗事だけ言って、従業員から労働力を搾り取る、さらには思想まで支配して、奴隷服従させたいだけなのです。
単なる企業家のいう綺麗事には論理矛盾があり、ネームバリューで縛り付けることができなければ、企業内の地位や人間関係という、情で縛り付けることしかできない、あっけない存在なのです。
しかし、企業は最後まで私達の人生を守ってくれません。
適当な理由付けしてくるだけであり、私達は心身ともに蝕まれて、人生の目的も見つからず、企業家の論理を信じ込まされてしまうだけの絶望が待っているだけなのですから。
終わり寄れば全て良しという言葉がありますが、このブログの記事から、企業にしがみついた人生は、平日の図書館や喫茶店に行けば、結果が現れている、愚かな選択だったと立証しています。
私達も企業になど、頼らず、自ら真理の道を求めたどり着かなければ、滅びの人生しかありませんね。
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