今回の記事は国民的アイドルグループの「嵐」のメンバー櫻井翔についてです。
私には「彼だけなぜか特別扱いを受けている」ように感じました。
ネットで調べていても、「エリート家庭で羨ましい」といった、内容のない記事ばかりで、彼ら一族がどうやってのし上がってきたのか?までは書かれていません。
「父親が官僚で電通等に天下りしただけで、どうして息子がちやほやされるのか?」というところまでは突っ込んでいないのです。
例に漏れず、嵐 櫻井翔を調べていくと、世の中は実力ではなく、血族、血縁でなりたっており、庶民はどれだけ努力しても努力が報われない仕組みになっているということが再認識できました。
「コネも実力のうち」と笑い話がありますが、日本、いや世界が「コネが実力」と言わんばかり、メディア、政界、財界、芸能界はコネだらけで回っており、一部の血族が支配しており、法律や業界のルールをすべて談合で決めて、庶民から搾取した税金を山分けしています。
悪人(イルミナティ)たちは、政界、財界をコントロールするために、まず「情報機関」のメディアを支配することから始めます。
ニュース報道、新聞、エンタメによる情報操作によって、庶民に目隠しをして自分たちの悪事を隠すために情報統制する必要があるためです。
彼らは一族から広告塔を輩出し、庶民を洗脳する道具として使います。当然出演している本人にも莫大な報酬が入りますし、関連企業のイメージアップを図り、一石二鳥となるのでしょう。
いい加減女性の皆さんはジャニーズを応援するのは止めませんか?
彼らの後ろで庶民を苦しめる悪人たちが嘲笑しているかもしれないのですから。
まずは、嵐の櫻井翔について見ていきましょう。
・・・・(櫻井 翔(さくらい しょう[2]、1982年1月25日[2] - )
日本のタレント、歌手、俳優、司会者、キャスター、アイドルで、男性アイドルグループ・嵐のメンバーである。愛称は「翔ちゃん」
群馬県前橋市生まれ、東京都港区育ち[3]。ジャニーズ事務所所属[1]。 「櫻」が旧字体のため、一部メディアでは「桜井翔」と表記される場合がある。
概説
1999年に嵐のメンバーとしてデビューしてから約半年後、当時のジャニーズ事務所所属のアイドルとしては珍しく大学に進学する。芸能活動を続けながら慶應義塾大学を卒業した後は嵐での活動と並行して個人の活動を徐々に増やしながら、キャスターや司会者など活動の幅を広げている。2010年代には、CM起用社数ランキングなど、企業の発表するさまざまなランキングで上位の常連となっている
ニュースキャスターとして
大学在学時に起こったアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに報道の仕事に携わりたいと思うようになる[41]。2006年から、NNN『NEWS ZERO』月曜キャスターを務める[2][42]。また、オリンピック開催時に日本テレビ系で放送される特別番組では、『2008北京オリンピック』[15][43] から、『2010バンクーバーオリンピック』[15][44]、『ロンドンオリンピック2012』[15][45]、『2014ソチオリンピック』、『2016リオデジャネイロオリンピック』、『2018平昌オリンピック』まで6大会連続でキャスターを務めた[46]。2010年1月には、国際原子力機関事務局長の天野之弥と対談した[47]。同年、『24時間テレビ「愛は地球を救う」』の企画で、元ソビエト連邦大統領・ノーベル平和賞受賞者のミハイル・ゴルバチョフにインタビューした
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
アメリカ同時多発テロを見て報道にかかわりたいと思うものなんでしょうか?
そして、彼は6期連続で「オリンピックのキャスター」を務めています。
そして、ゴルバチョフとも対談しています。
さらに、選挙報道では安倍首相とも対談しています。
彼は一体何者なのでしょうか?
こういいったとき、このブログでは必ず家系図や出自を調べてきましたね?
まずは父親から見ていきましょう。
・・・・・・・・(櫻井俊)
桜井 俊(さくらい しゅん、1953年(昭和28年)12月14日[1] - )は、日本の元総務官僚。
総務事務次官を最後に退官後は、一般財団法人全国地域情報化推進協会理事長に就任。地域IoT官民ネット共同代表、電通執行役員(全社基盤統括補佐)、三井住友信託銀行顧問等も兼務[2][3]。群馬県出身[3]。専門は情報通信分野[3]。過去にはNTT再編などの通信事業の自由化を主導した[3]。
長男は嵐の櫻井翔。なお、戸籍上の名前の表記は「櫻井 俊」である。
・・・・・・・・(転載ここまで)
メディアの事業許認可権を持つ総務省の事務かたトップを経て、広告代理店に天下りしています。
利益造反もへったくれもないですね。
(こんなことがまかり通るのが現在の日本の惨状です。)
まさに櫻井一族はメディアの寵児と言えそうですね。
櫻井翔の祖父について調べてみると、「櫻井三男」なる人物が出てきました。
櫻井三男は、上毛新聞社専務取締役編集局長までなっており、群馬県お上毛新聞社は「JAL123便墜落事故のカラー報道をした新聞社」で専務まで上り詰めた人物です。
・・・・・・・・(上毛新聞(じょうもうしんぶん)
上毛新聞社が編集・発行する群馬県の県域地方新聞。1887年(明治20年)創刊。
推理作家の横山秀夫は、事件記者として12年間勤務した。同氏には、記者時代の実体験に着想を得たと思われる作品が多い。なかでも代表作のひとつ『クライマーズ・ハイ』は、日本航空123便墜落事故取材の体験をもとに書かれたと言われる。作中に出てくる「北関東新聞」は上毛新聞をモデルとしつつも、同紙がライバルとして描かれる。同作品の重要なコンポーネントとなる「大久保連赤」は、発生当時に群馬の事件として全国的に騒がれた大久保清連続殺人事件と連合赤軍事件のことで、大久保事件当時、横山の上司であった高橋康三(後に社長)は、全国紙に先んじて大久保清本人への取材に成功していた記者として全国メディアにも登場した。
アイドルグループ「嵐」のメンバーである櫻井翔の祖父である櫻井三男(総務事務次官を務めた桜井俊の父)が記者を勤め、後に専務となった新聞社[2][3]としても知られる。
翔は2015年に報道番組の戦後70年企画で、戦没者遺骨収集のためにパプアニューギニアを訪問したが、そこは三男が1969年夏に上毛新聞の特派員として同じ目的で訪れた場所であった。また、2009年5月4日発行分の上毛新聞には翔の記事が掲載されている。
歴史
1985年8月14日 - 日本航空123便墜落事故の御巣鷹の尾根墜落現場を、世界で初めてカラー写真で紙面掲載した。
・・・・・・(転載ここまで)
日本航空123便墜落事故はいわくつきの事件です。
(いわくつきの内容は以下のリンクを参考にしてください。)
○JAL123便墜落事故の真相。すべては「天皇派」と「教皇派」との戦いに原因がありました。
○日本が「核兵器」製造国であるという紛れもない現実。「核兵器」が開発・製造されている幾つもの国内施設について。
○グリコ森永事件とJAL123便墜落事故との奇妙な関連性。グリコ森永事件の真の黒幕は誰か。
「1985年8月14日 - 日本航空123便墜落事故の御巣鷹の尾根墜落現場を、世界で初めてカラー写真で紙面掲載した。」とあるように、この事件の隠ぺい工作にかかわった新聞社であることが推測されます。
「上毛新聞」と櫻井で調べると、桜井翔の母親「陽子」が「上毛新聞」の創始者、役員の一族と関係があり、小渕恵三元首相と親せき関係にあると、ネットでうわさが立っています。
櫻井翔の両親のなれそめについては情報がなく、両親を結びつける接点は新聞社の関係で紹介されて一緒になったと考えられます。
その理由は、群馬県の新聞社である「高崎新聞」を調べる櫻井伊兵衛(高崎市民新聞社創始者)という人物がかかわっていることわかりました。
<4代目 櫻井伊兵衛>
以下、『高崎アーカイブHP』から転載いたします。
・・・・・・・・(戦後民主主義の定着を促進 GHQが進めた『高崎市民新聞』)
群馬県新聞発祥の地
新聞が短命に終わる高崎
昭和15年(1940)、戦時統制の一環として、県下の新聞七社、上毛新聞(前橋)、上州新報(前橋)、群馬新聞(前橋)、上野新聞(高崎)、両毛織物新聞(桐生)、上毛日日新聞(前橋)、東毛新聞(館林)が、上毛新聞一紙に統合されて以来、群馬県内で日本新聞協会に加盟している日刊新聞社は『上毛新聞』だけとなりました。
この新聞統合が行われるまでは、県下各地で数種の日刊新聞が発行されており、とくに高崎は明治6年(1873)、宮元町にあった誠之堂という出版元から刊行された『書抜新聞』が県内新聞の始まりで、県下新聞発祥の地という栄誉を得ました。
しかし、新聞の質という面でみると、前橋に比べ高崎の新聞発行事情はあまり芳しいものではありませんでした。前橋では、百年を経て続く『上毛新聞』をはじめ、『上州新報』『群馬新聞』といった有力日刊紙が伝統を受け継いで発行されていたのに対し、高崎で長く続いた日刊紙は『上野日日新聞』の後を継いだ『上野新聞』が昭和15年まで30年程続いたのが良いほうで、あとは3、4年から短いものでは2、3か月で廃刊に追い込まれるものが多く、高崎は新聞経営には適さない町という定評がありました。
新聞の発行に挑む人が後を絶たない
『高崎案内』という刊行物には「高崎は昔から商業都市として立ち、錙銖(わずかなこと)の利を争ふに忙しく、従って不生産的な新聞事業などに投資することを好まない功利主義と、他の政治都市の如く言論宣伝の必要を知らない保守主義と、大体この二つに帰することが出来るようだ…」(昭和3年刊)。当時5,000号を超える日刊紙は『上野新聞』一紙のみという状況を見れば、真理を言い当てているようですが、一方で次々と新聞発行に挑戦した多くの高崎人がいたこともまた事実でした。
高崎に誕生した新聞のいろいろ
自由党の勢力を背景に自由主義を掲げるとともに、地方自治と養蚕製糸業の地域産業の振興にも目配りした『上毛自由』。高崎米穀取引所の広報紙として発行された『高崎商業日報』。当初は不偏不党、産業重視を目指したものの、他紙との競争の激化から、旧自由党系の憲政党色を強め廃刊に追い込まれた『群馬新報』。吾妻郡原町の町長と県会議員を兼務した木檜三四郎が、代議士への足掛かりとして社長に就任した『上野日日新聞』は、明治40、41年に最盛期を迎え、前橋の上毛新聞の発行部数を抜きましたが、高崎から総選挙に立候補した木檜が落選すると、経営権は兵藤和三郎の手に渡りました。
その後、高崎での新聞発行にこだわった木檜は『上野日日新報』を発刊するも、明治45年(1912)5月に廃刊となり、『上野日日新聞』のほうは、大正2年(1913)6月に前橋の上野新聞社に吸収合併されました。
戦時下の新聞統合
陸軍特別大演習のあった昭和9年(1934)の「高崎日刊新聞連盟の趣意」によると、『高崎夕刊新聞』、『上野新聞』、『新群馬日報』、『関東日日新聞』、『群馬日日新聞』、『上州毎日新聞』、『上毛毎日新聞』の七紙が高崎で競合していたことがわかっています。
昭和15年(1940)には戦時下一県一紙の新聞統合のため『上毛新聞』に合併される県下六紙中、高崎は『上野新聞』一紙のみだったことから、他の新聞は既に廃刊となっていたといえます。
戦後民主主義の定着を促進
GHQが進めた『高崎市民新聞』
戦後の高崎では、昭和22年(1947)三月創刊の新『群馬新報』が、用紙難などのため不定期刊になり、昭和25年1月まで続きました。その廃刊後、悪質な新聞の横行に苦しんでいた市民に新しい新聞の発行を促したのは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の新聞課でした。
アメリカは自国流の民主主義を日本に定着させたいと考え、その方策の一つとして、アメリカ各地で民主的な世論形成に大きな影響力を持つ地方週刊新聞を日本の各都市にも普及させようとしました。GHQ新聞課長のインボデン中佐は高崎で講演し、民主主義と地域社会の発展には郷土新聞の発行が欠かせないと説き、高崎市民に新しい新聞発行を決意させました。
市民100人の株主から20万円の資本金を集め、昭和25年(1950)6月の創立総会を経て㈱高崎市民新聞社は誕生しました。社長には、戦前貴族院議員にもなった高崎きっての富豪で社会教育にも貢献した『櫻井伊兵衛』が就任。
スタッフは編集主任の岡田稲夫以下群馬新報社のメンバーが多く加わりました。
創刊号は2万部が印刷され、市内全家庭に無料配布されました。以降、一部10円、一カ月30円で二号からの購読者は、3,362部となりました。発行日を日曜にし、出来るだけ多くの市民を紙面に登場させるなどの努力が実り、購読者、広告利用者ともに増加し、一期目から利益を計上しました。
市民新聞をモデルにした映画
GHQは『高崎市民新聞』の成功を他都市にも普及させようと、一年の歳月と数百万円の巨費を投じて映画『高崎での話』の制作に取りかかり、市内各所で撮影が行われ、小島弘一高崎市長をはじめ、スタッフが俳優顔負けの演技で登場しました。昭和26年(1951)九月に完成した映画は、高崎、前橋で封切られ、その後全国で上映されました。
また高崎市民新聞社では、市民音楽祭や学校新聞コンクール、ミス高崎コンテストなど各種催事活動に取り組みました。
戦後の歴史と共に育ち、高崎市民に密着し親しまれてきた『高崎市民新聞』ですが、著しい時代の変化の中、読者離れによる経営不振から、本来の使命を終えて平成22年3月に休刊となりました。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
GHQ主導で作られたのが高崎市民新聞で平成22年に廃刊されています。
『櫻井伊兵衛』は群馬県高崎では有名人です。
その出自を見ていきましょう。
・・・・・・・・・(桜井 伊兵衛さくらい いへえ(1887〜1966)気品に満ちた近代高崎人のとまり木 人と人をつなぐオルガナイザー)
親子二代の貴族院議員
昭和の初め頃、本町一丁目の通りに、「松屋」の屋号と「桜井」の姓を同じくする三軒の大店が並んでいました。それぞれの商売を冠に「蝋燭松屋」「呉服松屋」などと呼ばれ、その向かいには大正一三年に衆議院議員に当選した小林弥七の砂糖問屋「百足屋」もあり、一帯は壮観な大尽通りとして衆目を集めていました。
桜井伊兵衛は呉服松屋の主人で、その名は代々世襲されました。ここで取り上げる人物は四代目の伊兵衛。明治20年11月2日に、三代目伊兵衛の長男として生まれました。
明治38年に東京開成中学校卒業後、43年3月まで埼玉県農事試験場・福井県松平試験場で特別研究生として農林・園芸・農業経済などを専攻しました。
桜井家は大地主でもあり、県内二位の高額納税者だったことから、父親は貴族院議員となりましたが、任期を一年残して死去。大正7年に四代目伊兵衛も30歳で貴族院議員に選ばれ、山林経営や地主小作慣行(仕来たり)など自身の専門分野に限らず、上信電鉄の長野への延長や八高線など各地の鉄道敷設にも熱意を注ぎました。
また、財界では上州銀行取締役、横浜興業銀行監査役、高崎板紙の取締役等に就任しました。
高崎の人的資源の中心的存在
伊兵衛は、7年間を貴族院議員として国政に尽くし、任期満了後は高崎で地方文化の発展に生涯を捧げました。
伊兵衛が活躍した代表的な戦後の大イベントとして、観音山一帯で開催された『新日本高崎子ども博覧会』があります。プロデューサーとして三上隆彦氏をニューヨークから招き、成功に導きました。また、伊兵衛はこのときの模様を記録映画に残しています。
教育分野の充実を図る
伊兵衛は、大正15年から昭和20年まで高崎市教育会第二代会長を務め、その傍ら県教育会副会長としても実力を発揮しました。帝国教育会長永田秀次郎の信任も厚く、特に会長指名の理事として活躍。日本で開かれた世界教育会議には部会の議長に選出され、国際的にも鮮やかな議長ぶりを見せました。
他にも県教職員適格審査委員会委員長、県温泉審議会会長、群馬大学期成同盟会建設委員長、高崎高等女学校教育振興会長等、幾多の役職に嘱望されて長となりました。伊兵衛の素晴らしいところは、決して名目だけではなく、その全ての役職に献身的に力を尽くしたところでした。
スポーツ・文化の振興に多大な功績を残す
大正6年に公会堂が有志の手で建てられると、高崎文化向上の一大基地となりました。広い視野と自由な発想を持った伊兵衛は、文芸講演会にも力を入れ、中央で活躍していた吉井勇、竹久夢二、直木三十五らを招きました。
また、スポーツや文化への興味が旺盛で、華道、写真、ヨット、スキー、その他スポーツ全般にわたって愛好し、それらの発展にも寄与しました。
観光、放送事業についても貢献するところが多く、後進に対して適切な指導や助言を惜しみませんでした。伊兵衛によって郷土に紹介された技術、人物は非常に多く、郷土の人材や資料が中央に紹介されたことも多大でした。
乞われて『高崎市民新聞』の社長に
戦後、進駐軍の総司令部新聞課長インポデン少佐が、市民の間に民主的な地方週刊新聞の誕生を希望し、高崎に注目しました。高崎は維新前後に五万石騒動を起こし、農民の平等観が武士たちを屈服させたり、群馬民権運動の先駆者宮部襄の活躍があったりといった歴史から、地方週刊紙の生まれる素地があると考えていました。
昭和25年に『高崎市民新聞』はスタートし、伊兵衛は推されて社長に就任、終生に及びました。インポデン少佐は、高崎市民新聞に対して「人格高潔者としてその人格見識に定評があり、功成り名遂げてなお活動的な紳士桜井伊兵衛氏を社長に選び、その配達をアルバイトに依ったということは賢明なことと称賛するものである…」と述べ、評価しました。
政治・経済・文化界の重鎮が追悼の会を開く
伊兵衛が昭和41年11月7日、享年80歳で没すると、政財界や文化界の重鎮たちが発起人となり、心のこもった追悼の会を開きました。
社長を務めた高崎市民新聞には、各界から哀悼の意が寄せられ、「スジの通った理論家」「豊かな時代感覚」「常に旧習打破を実践」「洗練された人格者」といった活字が紙面を飾り、その稀有な人柄と功績を讃えました。
戦後の農地改革では、不在農地の地主として地所のほとんどを没収されましたが、それを恨むことなく終生公共文化のために尽くした伊兵衛。常に青年のような精神で後輩の指導にあたり、多角的な文化活動の先駆者でした。また、身だしなみスマートな紳士として"貴公子"の愛称で大衆に親しまれました。
・・・・・・・・・(転載ここまで)
まるで、現在の嵐の櫻井翔と同じ立場ですね!
高崎にはもう一人有名人がおり、中曾根康弘元首相がいます!
<中曾根康弘元首相>
・・・・・・・・・・・(2016年02月28日 駅から遠足 観音山(65))
「躍進」像がなぜここに建つのか、それを教えるのが像の近くにある「桜松苑」(おうしょうえん)碑です。
碑背には、こう刻まれています。
「 この櫻松苑は高崎市発展の為に貢献された櫻井伊兵衛 中曽根松五郎 両翁の功績を永く記念する為造られたものである
この櫻松苑に建てられた躍進の像は 山崎富治氏の御好意によるものである」
昭和四十五年十一月 高崎市長 住谷啓三郎
この小山には、「櫻松苑」という名前が付いていたのですね。
櫻井伊兵衛の「櫻」と、中曽根松五郎の「松」をとった訳ですか。
題字は、中曽根松五郎の次男・中曽根康弘元総理の書です。
「躍進」像建設に好意を寄せた山崎富治という人は、「相場の神様」と言われた山崎種二の次男で、山種証券社長、日本青年会議所会頭などを歴任し、山種美術館館長でもあった人物です。
「桜松苑」碑の隣には、やはり中曽根元総理の題字による「志道之碑」というのが建っています。
碑背には、里見村出身の松田喬平という人が生前「桜松苑」をこよなく愛したとありますが、ここに相応しい碑なのかどうか、私にはよく分かりません。
・・・・・・・・(転載ここまで)
中曾根と櫻井が高崎の有力者だったのことを物語っていますね。
さらに調べてみると、平成でも中曾根と櫻井は仲良しでした。
以下、週刊女性Primeより転載いたします。
・・・・・・・(櫻井翔、両親にプレゼントした豪華別荘の土地は中曽根康弘元首相から購入 週刊女性2017年11月21日号2017/11/7)
櫻井の軽井沢の別荘。別荘間の距離があり、静かだが、軽井沢銀座などの買い物スポットにもアクセスがいい
「外壁には色違いのブロックを効果的に配して、とてもおしゃれな造りですよ。軽井沢は都内より10度近く気温が違いますが、隙間を少なくして寒さ対策もきちんとされています」(近隣住民)
避暑地・別荘地として知られ、数多くの芸能人や文化人などが別荘を構えてきた軽井沢。そこに仲間入りしたのが嵐の櫻井翔だ。
「櫻井さんの別荘は9月に完成しました。あとは、庭の手入れがすめば住める感じですかね」(前出・近隣住民)
軽井沢駅より車で15分ほど、白樺の木などが生い茂る静かな森の中に櫻井が建てた別荘はあった。
「櫻井さんは、2年ほど前に300坪の土地を購入したそうですね。軽井沢のなかでも坪単価が高いエリアです」(地元の不動産関係者)
近隣には豪華な別荘が多いが、それぞれ距離が離れており、静かな休暇が過ごせそう。
「櫻井さんが購入した土地は、もともと中曽根康弘元首相が所有していた土地でした。その土地の一角が売りに出され、彼が購入したんです」(前出・不動産関係者)
別荘の工事が始まったのは、今年の春先だという。
「あの嵐の櫻井さんがこのあたりに住むということは、近所の人の間で話題になりましたよ(笑)。残念ながら、彼が様子を見に来たりしているところは見たことがないですけどね」(前出・近隣住民)
建築中の別荘を確認しに来たところを目撃したという声は聞かれなかったが、軽井沢にはときどき訪れるようで、
「中曽根さんの別荘にたまに遊びに来ているそうです。お孫さんの康隆さんと櫻井さんが慶應義塾の幼稚舎からの同級生で仲がいいようですね」(前出・近隣住民)
ちなみに、こちらの別荘だが、いったいどのくらいの価値があるのだろうか。不動産鑑定士の洲浜拓志氏によると、
「土地代が6000万円、建物が4000万円ほどになりますが、合わせて1億円程度ではないでしょうか」
これだけのお金をかけた別荘だが、櫻井自身が、疲れた身体を癒すために軽井沢に建てたのかと思いきや……。
「別荘は両親のために購入したそうですよ。総務省事務次官という官僚のトップで忙しい日々を過ごしてきた父・俊さんも昨年6月に退官となりました。老後は緑豊かな場所で、のんびり過ごしてほしいという親孝行でしょうね」(芸能プロ関係者)
また、彼の優しさは建物の造りにも表れている。
「寒さ対策はもちろん、最近、年配層に人気の平屋建てになっています。お年を召してくると階段の上り下りも大変になってきますし、両親と相談してそういう形にしたのではないでしょうか」(前出・不動産関係者)
嵐としての活動やキャスター、また現在も『先に生まれただけの僕』(日本テレビ系)に出演中と多忙を極める櫻井。
忙しいなかでも、きちんと“先に生まれた”両親をいたわる姿勢には頭が下がる。
・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
高崎の有力者は時代を超えてつながっていたのですね。
お金に困っていない中曾根から別荘を建てるために、櫻井翔がわざわざ購入したのでしょう。
彼らはもはや、中曾根の別荘に櫻井が遊びに行く、両者の関係は、まさに親戚関係に近いと言えるでしょう。
彼らの共通項はほかにもあり、慶應義塾大学OBでしかも同級生であることです。
・・・・・・・(中曽根康隆と櫻井翔は慶應の同級生!?他には誰がいる?)
中曽根康隆さんは、元総理大臣の中曽根康弘さんのお孫さんです。
父親は、参議院議員の中曽根浩文さんです。
康隆さんは、幼稚舎から大学まで、慶応義塾大学です。
実はなんと、嵐の櫻井翔さんと同級生なのです!!
さすが慶應、同級生もただの人ではない!!
櫻井さん以外の同級生も調べてみました。
中曽根康隆と櫻井翔は同級生
中曽根康隆さんは、1982年1月19日生まれ。
櫻井翔さんは、1982年1月25日生まれ。
生まれた日がすごい近いです。
2人とも幼稚舎から慶應に通っていました。
しかも、櫻井さんは、出生地が群馬県前橋市です。
中曽根一族(?)の地盤も、群馬県です。
群馬県つながりがありますね。
慶應って、エスカレーター式なんですが、進級するのは、大変のようです。
それなりの成績を取れなくて、中学から高校に上がれない人もいるそうです。
なので、ただいればいいと言う訳ではなく、しっかり勉強していかないといけないのです!
よく中高一貫校だと、高校からはいってきた生徒の方が、受験勉強してきたので、成績が良いなんて言いますよね。
確かにそういう部分もあるらしいですが、とはいえ、成績が悪ければ、ふるいにかけられるということも事実です。
ですが、開成高校は、逆だと聞きました。
公立校から開成高校へ進むと、在学生との成績の差を埋める為に、新入生は、ものすごく勉強をさせられるらしいです。
さて、中曽根さんと櫻井さんの大学の専攻についてです。
中曽根さんは、法学部法律学科です。
櫻井さんは経済学部。
どちらも卒業するのは大変ですが、特に法学部法律学科は、下から進めるのは、一握りのひとだそうです。
アイドルしながら、慶應卒となった櫻井さんってすごい!と思ってましたけど、中曽根さんも、さすがにすごいです。
かっこいい!!
ちなみに、卒業後、櫻井さんがトップアイドルへまっしぐらの時、中曽根さんは、
コロンビア大学大学院で、小泉進次郎さんと出会っています。
小泉進次郎さんは、 1981年4月14日生まれで、同学年なんですよね。
セレブの交友関係って、すごいですね。
中曽根康隆の同級生
櫻井翔さん以外の中曽根康隆さんの同級生について調べてみました。
ですが、櫻井翔さんの慶應の同級生は出てくるものの中曽根康隆さんと知り合いなのかは、はっきりわかりませんでした。
すみません・・・
ですが一応、櫻井翔さんの同級生として知られている方を列挙してみます。
赤萩歩
TBSのアナウンサー
赤荻歩(あかおぎ あゆみ)さんは、
1981年8月5日生まれです。
学歴は、次の通りです。
横浜国立大学教育学部附属横浜中学校
〜慶應義塾高等学校
〜慶應義塾大学法学部
法学部が、中曽根康隆さんとかぶっているので、赤荻さんは、一緒に学んでいた可能性が大きいですね。
うーん、気になる!
広瀬俊明
廣瀬俊朗(ひろせ としあき)さんは、ラグビー日本代表の選手です。
1981年10月17日生まれです〜
広瀬さんは、大阪府吹田市出身で、ラグビーの推薦で、慶応大学理工学部に進学しました。
なので、中曽根康隆さんとは、ちょっと接点がなさそうです。
残念!
斉藤舞子
斉藤舞子(さいとう まいこ)さんは、フジテレビのアナウンサーです。
私が櫻井翔さんの同級生として、一番最初に知った人物です〜
1981年5月2日に生まれました。
慶応義塾湘南藤沢高等部
〜慶応義塾大学経済学部
に進みました。
中曽根康隆さんとは慶應でも高校が違うし、大学は学部が違うので、知らなそうですね。
それにしても、さすが慶應大学だけあって、活躍している人が多いです。
中曽根康隆さんは、政治家を目指すこれからの人です!!!
夢が叶うと良いですね!
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
慶應学閥すごいですね(笑
これでは、我々庶民がどれだけ頑張っても、権力中枢には入ることは不可能ですね!
「自分を信じろ!」「頑張れば夢はかなう」なんて言葉は妄想に過ぎないことがお判りでしょうか?
櫻井伊兵衛の「伊兵衛」のルーツを調べると、加賀前田藩にありました。
そしてそれは「浅田伊兵衛」という商人でした。
・・・・・・・・(加賀百万石の豪華絢爛な文化を創り上げた金沢藩。)
江戸時代の三百年を過ぎてなお現代に至るまでもその文化を伝承した前田家歴代の藩主の功績は今あらためて多大な評価を得ています。
前田利家初代藩主は「織田信長」と共に転戦を重ね名古屋の荒子城から、能登、そして金沢へと領地が移封されてきます。
一方浅田屋の始祖浅田屋伊兵衛は萬治二年(1659年)、時の加賀藩主前田綱紀卿より「中荷物御用」を百ヵ年間忠勤したことを認められ五人扶持・苗字帯刀を許されました。
前田利家初代藩主に認められてから百年、商人でありながらその業績を具体的に認められた浅田屋伊兵衛はその後「江戸三度」という組織を立ち上げ棟取りを勤めました。
(※ 江戸三度とは、初代浅田屋伊兵衛が藩御用飛脚棟取りとして、加賀藩と江戸を月三度往復する中荷物御用が浅田屋の創始であること)
江戸三度とは一ヶ月に三回金沢と江戸本郷の上屋敷を結ぶ物流の定期便です。
藩主の夏冬の衣類から藩の重要書類に至るまで、信頼された者だけに許された仕事を明治時代直前まで継続して参りました。
その間2年に1度の参勤交代時の二千人を超える藩士の食事の手当て、消耗品の手当て、宿舎の段取り等々の仕事も勤めて来ました。
徳川幕府の体制が終わろうとする慶応三年(1867年)、時の浅田屋の経営者浅田屋庄兵衛は加賀藩に中荷物御用の鑑札を返上、金沢本店跡地に旅人宿「浅田」を開業しました。
上の版画はその当時の「浅田」の模様を描いたものです。(石川、加賀商工百店・明治二十年刷)
江戸では、加賀藩下屋敷は板橋に(現在の加賀町)、上屋敷は赤門で有名な本郷にあり慶応三年まで浅田屋の江戸の店はそれぞれのお屋敷内にありました。
飛脚業と加賀料理料亭という業種こそ異なりますが江戸あらため東京には昭和46年(1971年)に104年ぶりに赤坂店を出店、同じく平成6年(1994年)に青山店を出店しました。
そして、このたび平成16年(2004年)ご縁に恵まれ、前田家ゆかりの地、名古屋に参りました浅田屋でございます。
何卒よろしくお引き回しの程お願い申しあげます。
・・・・・・・・(転載ここまで)
櫻井伊兵衛と加賀藩の「浅田伊兵衛」を結びつけるものがどんどん出てきました。
櫻井氏と加賀のつながりは東京(江戸)と金沢(加賀)、そして「東京大学」まで発展します。
東京都板橋区のHPには「第1回櫻井賞」なるものが紹介されています。
・・・・・・・・・・(櫻井徳太郎賞とは)
本賞は平成14年、区内に在住されていた民俗学者櫻井徳太郎氏の業績を顕彰するとともに、櫻井徳太郎文庫の開設を記念して創設されました。民俗学・歴史学・考古学を通じ、地域を基盤にした学問の発展と、地域を活かす立場から研究を進める人材の育成を図るとともに、次代を担う青少年の地域研究を奨励と郷土愛を育むことを目的として、一般・高校生・小中学生を対象に論文・作文を募集し、入賞者を決定して表彰しています。
・・・・・・・・・(転載ここまで)
この櫻井徳太郎とはいったい何者なのか?調べてみると、民俗学のほか、シャーマンた呪術についての本を書いている人物でした。
・・・・・・・・(桜井 徳太郎(さくらい とくたろう、1917年4月1日 - 2007年8月27日)は、日本の民俗学者。)
経歴
新潟県北魚沼郡川口町出身。1944年に東京文理科大学文学部史学科を卒業、東京高等師範学校助教授、1961年東京教育大学文学部助教授、1973年教授、1977年駒澤大学教授、1983年文学部長、1986年学長、1991年退任、名誉教授。日本民俗学会会長や日本風俗史学会会長も務めた。1962年「地域社会における講の沈着過程の研究」で東京教育大学文学博士。1981年に紫綬褒章、1990年秋、勲三等旭日中綬章受勲。
柳田國男の晩年に門下に入り、1962年には第一回柳田國男賞、2002年には第十二回南方熊楠賞を受賞。
専門は、シャーマニズム、民間信仰、他界観など。
・・・・・・・・(転載ここまで)
そして第1回櫻井賞作品が「第1回櫻井賞受賞作 ぼくが住む加賀藩江戸下屋敷」です。
「何で東京で加賀藩?」と違和感だらけですね!
・・・・・・・・・(ぼくが住む加賀藩江戸下屋敷 金沢小学校4年 岩田 健太郎)
ぼくは、東京都板橋区加賀一丁目に住み、板橋区立金沢小学校へ通っています。ぼくの住むまちは東京都にあるのに、なぜ、まわりには石川県に関係する加賀や金沢などの名前が多くついているのか、その由来を今年の夏休みの自由研究で調べました。
はじめに、赤塚の区立郷土資料館へ行きました。そこには、加賀一丁目で東板橋体育館の工事中に発見されたナウマン象の化石がありました。ナウマン象は、人が生まれるずっと前の20万年から2万年ごろまで、ぼくが住むマンションが建つ場所で生活していたかもしれません。信じられないくらいおどろきました。
郷土資料館には区内で発見された土器や戦争の資料のとなりに、加賀藩江戸下屋敷の絵地図がかざられていました。そこで、ぼくは初めて、ぼくの住むまち板橋区に、江戸時代、加賀藩江戸下屋敷があったことを知りました。ここで、少し地名のなぞがとけたような気がしました。絵地図には、現在も流れる石神井川の下の中央に見たこともない大きな池が書かれていました。今度は、この下屋敷や大池が現在どこにあったのか、知りたくなりました。
次にぼくは、東板橋図書館へ下屋敷の資料を探しに行きました。そして、「図説板橋区史」(板橋区)と「加賀藩江戸下屋敷」(奥山正著)の二さつの本を借りました。また、下屋敷の絵地図を現在の地図と比べるために、住宅地図(2002年版)をコピーしました。予想以上に下屋敷は広かったので、10枚以上の住宅地図をはりあわせる作業は大変でした。
二さつの本を読むと、下屋敷は、加賀前田家が1679年にばく府から約万8千?uを借りたのに始まり、その後、他の場所の屋敷を返すかわりに、板橋の下屋敷は1683年には約72万1千平方メートルの広さになったことがわかりました。下屋敷には、いつもおとの様が住んでいたわけではなく、たまに休むための別荘の役目をはたしていました。そこには、広大な庭の中に山や池がつくられ、たかによる狩りも行われていました。こんな広い所がどうして別荘なのかとぼくはおどろきました。下屋敷が栄えた理由としては、中山道の板橋宿にあって交通の便がよかったこと、石神井川があって川の舟運がよかったことがあげられています。そして、その場所は、現在の加賀一・二丁目、板橋一・三・四丁目、仲宿の六町にまたがります。現在の地図に重ね合わせると、そこには学校が4つ、公園が6つ、大きなマンションが5つと区立の体育館や図書館もあり、もちろんぼくが住むマンションやぼくが通う金沢小学校もその中に入っています。
本を参考にして、ぼくは下屋敷の絵地図をつくりました。始めに、下屋敷の敷地を書き、次に道と川を書き入れました。320年前からはほとんど形が変わらない王子新道と旧中山道は、最初に書くことができました。しかし、石神井川は、まがり方が二か所で今とちがっているようでした。そして、道と川の位置を目印に、ごてん、大山、その他の山々、大池、田畑、林、水車を書き入れて、ぼくの絵地図は完成しました。
苦労して作った絵地図を現在の住宅地図に重ね合わせた結果、ごてんは、敷地の大きさのわりには、それほど大きくなく、今は板橋第四小学校の東側にあり、国道17号線に分断されています。大山は、今の加賀公園です。そして、大池は、板谷公園と板橋第五中学校がすっぽり入るほどの大きさであることがわかりました。また、ぼくが住むマンションの近くには、大きな水車がありました。そしてこの水車は、明治になって、下屋敷がなくなり、火薬工場ができると火薬の製造に使われるようになったそうです。
3年生の社会科の時間、加賀のまちのとくちょうとして公園・図書館・体育館などの公共施設が多いことを勉強しました。これも、まちに下屋敷があったことに関係するのではないかと地図を書いていて思いました。なぜなら、下屋敷の外側をみると、公園の数がとたんに少なくなるような気がするからです。
地図が完成して、改めてまちを歩きました。板橋という地名の由来の板橋、加賀西公園の火薬製造の記念ひ、そして、加賀公園には加賀前田家下屋敷跡の記念ひがたっていました。今まで気づかずに通りすぎていた場所に、新しい発見がたくさんありました。大山(加賀公園)にのぼり、おとの様が見た景色を想像すると、みなれたまちがいつもとちがうまちにみえてきました。
ぼくの住むまちは、下屋敷から、火薬工場そして、工場からマンションへと変わってきました。そして今もマンションが建てられています。ナウマン象がいた時代からくらしやすいまちは、これからも人がたくさんあつまるみ力的なまちでありつづけると思います。
・・・・・・・・・(転載ここまで)
やたらと「加賀藩」アピールです。
こんな内容が受賞作品とはおかしなものですね。
まるで、「金沢県人会」のようです。
次は、櫻井と加賀藩と東京大学の関係について見ていきましょう。
・・・・・・・(大宮司ご先祖の足跡を訪ねて (5)本念寺2006/11/4~6)
5.加賀藩邸 奥向
桜井基延文書には、権大宮司櫻井基明の娘で本郷上屋敷年寄となる「櫻井」のほかに、権大宮司家の取成人となった2人の奥向きに奉公した女性を記している。加賀藩の藩士は、加賀藩侍帳などで確認できるが、女性の奉公人については、奥向の勤務や出来事など一切口外しない誓紙を交わし奉公したことや、世襲ではなく一代限りのお勤めということもあって、氏名・履歴などの公式記録が残されていない。
・・・御広式おひろしき女中とは?・・・・
櫻井基延文書には、奥向を「御広舗おひろしき」と記している。この言葉使いに関して、松雲公(前田綱紀公)夜話で次のように使い方をいましめていた。「御奥向女中のことを御広式おひろしき女中と近習頭どもは言っているようだ。表向きの者はなおさらそのように御広式女中と心得ることだろう。御広式というのは、御鎖口(お鈴廊下)より外の意味である。このように心得違いをしていては、何かと忙しい時には、御広式にまかりこすよう命じると、内証(お出入り禁止の奥屋敷)に入りこむこともありうるだろう。不都合なので混同するなと度々御意を述べられた。」
・・・本郷上屋敷の奥向空間・・・・
本郷上屋敷は、金沢城の4万坪をはるかに越える8万8千坪の大邸宅で、奥向きの女中だけでも3百人は働いていた。最高位の御年寄おとしより4名でこの女中を取り締まっていた。加賀藩の奥向は、綱紀のしつけも厳しく質素倹約をむねとし、竹刀稽古や薙刀、馬術の稽古が盛んであった。
江戸一と称された庭園を囲むように、江戸詰めの藩士が暮らす詰人空間(細長い長屋群)が取り巻き、最盛時に2千人から3千人の藩士が暮らしていた。
御殿空間と詰人空間は、エリア分けがはっきりしていた。御殿空間は、現在の東大赤門の正面に表御殿の御本殿が建ち、その奥に奥御殿と長局ながつぼねの殿舎がつながっていた。赤門の前の本郷通は、旧中山道で、加賀藩の参勤交代道であった。
本郷上屋敷は、深山幽谷の風情を思わせる心字池(現在の東京大学校内、三四郎の池)を中心に、敷地の約半分を占める育徳園と呼ばれる泉池回遊式庭園と馬場が配置されていた。
池の周辺には、カラカサ御亭などの亭あずまやが配置されていた。亭あずまやの近くには氷室ひむろもおかれていたので、真夏まで保存しておいた氷で、涼を楽しんでいたのではないだろうか。
殿の馬場跡は、御殿下グラウンドである。現在の東大構内には、幽谷の風情をのこす心字池を囲んで昔をしのぶ和風造りの弓道場、柔・剣道場などが建つ。女子大生が袴姿で稽古を行う姿を見ると、思わず時空間のへだたりを忘れる光景である。
・・・・・・・・(転載ここまで)
加賀藩と東京大学と櫻井家がつながりました。
しかもこの三四郎池は東京大学のど真ん中に位置していますね。
東京大学と櫻井家、加賀藩(金沢市)はつながっていることを示す証拠を紹介いたします。
これら三つを繋ぐのが、
日本の教育者 櫻井 房記(さくらい ふさき)
日本の化学者 櫻井 錠二(さくらい じょうじ)
です。
・・・・・・・・(櫻井 房記(さくらい ふさき)
1852年9月28日(嘉永5年8月15日) - 1928年(昭和3年)12月12日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者。
学位制度草創期の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)初代所長、第五高等学校第5代校長。
経歴
1852年9月28日(嘉永5年8月15日)、櫻井甚太郎・八百夫妻の長男として加賀国加賀藩金沢馬場一蕃丁に生まれる[1]。父・甚太郎は先妻との間に2人の男子がおり[1]、2人の異母兄を含めれば房記は甚太郎の三男にあたる[1]。母・八百は甚太郎の後妻[1]。1869年(明治2年)、藩費生として開成学校(後の大学南校、現・東京大学)に入学。1870年(明治3年)、大学南校で貢進生に選ばれる。1878年(明治11年)12月24日、東京大学仏語物理学科第1期卒業。1881年(明治14年)、東京物理学講習所の初代所長となる。1882年(明治15年)、イギリス・フランスへ留学する[2]。1883年(明治16年)、高等師範学校教授となる[2]。1885年(明治18年)、第1回中等教員検定試験の学力試験委員となる。第五高等学校へ赴任する第4回まで、引き続き学力試験委員を勤める。1890年(明治23年)、第五高等中学校(1894年第五高等学校に改称)教授となり[2]、東京物理学校の教師を辞する。1895年(明治28年)、第五高等学校教頭となる。同校の新任教師であった夏目漱石に、イギリス留学を薦める[3]。1897年(明治30年)、工学部初代主事となる。1898年(明治31年)、夏目漱石に、加賀宝生流の能楽を教える。1900年(明治33年)4月、第五高等学校校長となる[2]。1907年(明治40年)1月、第五高等学校校長を辞する。1908年(明治41年)、大韓帝国皇太子の教育係となる。1917年(大正6年)4月、東京物理学校の主事となる。
家族・親族
弟は造船学者の櫻井省三[4]、化学者の櫻井錠二[4][5](錠二の五男・櫻井季雄も化学者[6])。
房記は妻との間に2男3女をもうけた。長男は実業家で三菱重工業社長の櫻井俊記[2]、俊記の妻は志村源太郎の姪[7]。長女は建築家の藤村朗(華厳滝で投身自殺した旧制一高生・藤村操の弟)に嫁ぎ[2][8]、次女は実業家の岩崎輝弥(三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助の三男)に嫁いだ
・・・・・・・・(転載ここまで)
櫻井家は、三菱の創始者で天皇家と親せきの岩崎弥太郎ともかかわっているため、天皇家の遠い親戚ですね。
ちなみに、岩崎弥太郎と慶応大学創設者の福沢諭吉も孫同士が結婚しており親戚です。(詳しくは三菱と天皇一族と福沢諭吉 - るいネット参照してください)
1975年に亡くなっている三菱財閥の総帥「櫻井俊記」と櫻井翔の父親の「櫻井俊」
「俊」の字を使うのは偶然なのでしょうか?
また、水俣病で有名になった有機水銀化合物の研究家である「化学者の櫻井錠二」も金沢生まれで東京大学です。
<櫻井錠二 イギリスのアレクサンダー・ウィリアムソンのもとへと留学し、帰国後は日本で2人目の化学系教授として東京大学の教授に補職された。>
そして、櫻井錠二の3男の櫻井武雄 (男爵)が出てきます。
・・・・・・・・(櫻井 武雄 さくらい たけお)
1887年(明治20年)9月27日[1] - 1972年(昭和47年)4月20日[1][2])は、日本の海軍軍人(機関科)、政治家、華族。最終階級は海軍大佐。貴族院男爵議員。
経歴
東京府で化学者・櫻井錠二の三男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い、1939年3月15日に男爵を襲爵した。
・・・・・・・・(転載ここまで)
また、ネット情報ですが、「櫻井翔の母親陽子は、小渕恵三元首相(群馬県出身)の親戚関係がある」という情報もあります。
これについてはソースがありませんので事の真偽は定かではありません。
また、群馬県は出身都道府県別の内閣総理大臣ランキングで第3位となっています。
2016年5月6日現在の【出身都道府県別】内閣総理大臣ランキングの第3位に輝いているのが群馬県。
ちなみに、岩手県も第3位です。原敬・斎藤実・米内光政・鈴木善幸の4名です。
群馬県は、福田赳夫・中曽根康弘・小渕恵三・福田康夫の4名となっています。
櫻井翔総理大臣もあるのかもしれません。
そのようなことを仄めかす言動もありますので紹介します。
・・・・・・・・・(「翔くんにとって嵐は何なの?」櫻井翔、インタビュー発言めぐりファン大荒れ 2018年5月10日 9時45分 サイゾーウーマン)
5月4日に全国ロードショーを迎えた映画『ラプラスの魔女』で主演を務めている嵐・櫻井翔。公開に伴ってPR活動に勤しむ中、ある雑誌での発言が物議を醸している。櫻井が「俳優」「アイドル」としての活動について自身の考えを述べているが、「アイドルをやってるつもりはない」という一言に対し、多くのファンから疑問の声が噴出している状況だ。
ファンの関心を集めているのは、4月20日発売のシアターカルチャーマガジン「T.」37号(TOHOシネマズ/角川メディアハウス)のインタビューページ。発売から数日がたった5月上旬頃、ネット上に櫻井のコメントの一部を写した画像がアップされ、その発言内容をめぐってさまざまな意見が出ている。
「櫻井はこのインタビューの中で、『ラプラスの魔女』の撮影裏話から、俳優業、嵐での活動について言及しています。『演じる仕事は楽しい』としながらも、『ただ、僕はどこまでいっても俳優ではない』と答え、演技を語れるような立場じゃないと謙遜。かといって、自分は“アイドル”というわけでもなく、自身については『嵐ってことでしかない』などと、持論を展開していました」(ジャニーズに詳しい記者)
そして、ファンの間で最も問題視されているのは、この後の記述だ。そもそも、“アイドルの定義”が「よくわからない」と話す櫻井に、インタビュアーが「それは昔から?」と尋ねると、
「はい。とにかくこうして自分はいろんなことをやらせてもらっていて、その出発点が嵐として歌って踊ることだった。自分がわかるのはそれだけで『それがアイドルなのか?』って聞かれたら、アイドルをやってるつもりはないとしか言いようがないですね。嵐をやっているという意識は、いつだってとても強いですけど」
と、回答。こうした考えも含め、自分は「俳優ではない」と客観視しているそうだが、櫻井独自の話しぶりが思わぬ波紋を呼んでいる。「私の中で嵐はアイドルだと思っていたんですけど……翔くんにとって嵐は何なの?」「アイドルの枠を超えて『嵐』というカテゴリで……って意味なのかもしれないけど。嵐はジャニーズ所属のアイドルグループで、翔くんはアイドルだよ」「歌って踊ることだけがアイドルってことなら、それ以外のこともやっているから『アイドルをやってるつもりはない』って意味なのかもしれない。だとしても、誤解を生むような言い回しはやめて」と、批判的な意見が続出してしまった。
「櫻井は、歌やダンスに加えて、個人の俳優業や『NEWS ZERO』(日本テレビ系)でキャスター業にも進出しています。要するに、“自分は嵐のメンバーだ”といった自負や、誇りを持って仕事をしている一方で、肩書をつけるのならば『アイドル』や『俳優』という表現ではなく、あくまで『嵐』であると受け止めているのでしょう」(同)
一方で、「よく読むと真意が見えてくる」「言葉を切り取って騒ぐタイプも多いから読解力は大事」として、「『アイドルをやってるつもりない』発言の前後を読めば、『嵐として歌って踊ったことが始まりで、自分は嵐として存在している』ということを強調したいがために言ったんだと感じた」「アイドルの枠組みを超えた仕事までやらせてもらってるから、『アイドルをやってるつもりはない』って言っただけなんじゃないの?」と、擁護するファンも少なくない。
「ネット上では、櫻井の真意がどうであれ、誤解を生むような発言をしたことが問題と指摘する声も上がるなど、賛否両論を巻き起こしています。櫻井の発言を非難しているのは、昨今続いたメンバーの熱愛騒動によって嵐自体に不信感を募らせている人々や、ほかのメンバーだけを応援する“オンリーファン”が多いようです。さらに、半ば『アイドルをやってるつもりはない』の部分が“独り歩き”状態になり、インタビュー全文を読んでいないと思われるジャニーズファンまでがアイドル論、嵐に対するイメージを語る流れに発展した印象ですね」(前出・ジャニーズに詳しい記者)
櫻井にとっては、悪い意味で発したコメントではなかった可能性もあるだろう。しかし、嵐はれっきとしたジャニーズのアイドルであり、ファンに与える影響力は絶大だ。今後はもう少し、言葉の細部にまで気を配るべきなのかもしれない。
・・・・・・・・・(転載ここまで)
「嵐」メンバーが政界進出する日が近いのかもしれません。
そうなったら日本は終わりだと思いますが、、、、・
どうせ、彼らは表では偽善的なことを言って、裏では自分たちの一族や親類同士で、税金を山分けするだけですから。
ネットの噂では上毛新聞創始者の家系と言われていますが、その場合「櫻井姓」ではないであろう事はお気付きですか?
もちろん櫻井くんの祖父櫻井三男氏の親戚筋の可能性はありますが、その場合直系ではないですよね。櫻井くんの親戚は医者など高学歴で社会的地位の高い方々ばかりなのは確かですが。
そのせいで親戚や祖父母にはジャニーズを早く辞めろとずっと言われていたようですよ。
また、中曽根さんの土地を譲って頂いたのはおそらく間違い無いとは思うのですが(それすら嘘だと週刊誌は一体何を書いてるのかという話になるので)、櫻井くんと中曽根元総理のお孫さんは非常に親しいので、単にそちらの関係の可能性もあります。
小渕さんとお母さんが親戚筋との噂について、かなり信憑性は薄いですが、もし本当なら中曽根元総理と同じ選挙区で争う相手なのでは。
アイドルではない〜の記事は櫻井くんを中傷するために雑誌やTVの発言を切り取って揶揄する内容のもので、意味はありません。
嵐は「職業・嵐」と言えるような特別なは存在になりたいと言ってきてるので、その延長線上でしょう。
キャスター業を事務所に反対された経緯もあるので、自分がやっている仕事がアイドルの範疇と言い切れるか懐疑的なのでは。
そもそもキャスターになりたいと言ったわけではなく、報道情報番組などのコメンテーターや報道バラエティの司会などを想定していたようですよ。年齢もずっと後を想定していたようです。911きっかけでジャーナリズムに目覚めたのは確かでしょうが、事務所に言いにいったのは共演経験のあるアナウンサーのインタビュー取材を見て、こういう仕事なら出来るのではと考えたからだそうです。
キャスターは日テレ側からの依頼です。客寄せパンダだったものを、時間をかけて本来のキャスターの仕事をやらせてもらえるように努力していっての今です。それは本人の意思と努力でしかありません。最初の数年は政治問題になるとカメラに映りすらしませんでした。
事務所側はそんな事御構い無しに、櫻井くんの成功に乗っかってAO入試で大学に押し込んだジャニーズタレントを次々とキャスターや情報番組司会やコメンテーターに押し込んでいますが、櫻井くん個人にとってはコツコツと信頼を積み上げたものが、ジャニーズのゴリ押しという印象になってしまい迷惑な話でしょう。
客観的な事実を元にコメントして頂ければと思います。
どこの地方でもそうですが、ある程度は同じの人が地域に偏って住まわれています。
櫻井姓で調べてみれば群馬県内に1000人いるそうですよ。
櫻井伊兵衛さんのご一族という証拠が何もありませんし、櫻井くんの祖父三男さんはその名の通り三男坊では。直系のご家族が別にいるでしょう。
ちなみに三男さんの弟さんが海軍におられたので、中曽根氏とはむしろそちらで知り合いの可能性が高いと思います。
苗字だけではなく、櫻井伊兵衛と櫻井三男を繋ぐのは、新聞社、つまりマスメディアという接点もあります。そして櫻井俊も電波事業、放送関係の総務省から広告代理店大手電通の取締役になりました。
あと、直系であるとか傍流であるというのは関係ないと思います。
問題は一族の中から、秀でた人材を登用して権力を握り続けることが重要ですから。
キャスターを目指し必死に頑張っている人がいるのに、アイドルというだけで台本を読んでいるだけの看板キャスターになってしまう事に違和感を覚えませんか?
報道なんて、ルックスが良くて有名人であれば結局誰でも良いということですよね?
それでも、櫻井翔を擁護し続けるあなたの「嵐への愛」は見事なものです。(ファンの方でなければ)
しかし嵐ももう終わりですね。
口パクのコンサートに大金をはたいて応援しに来てくれるファンがいたからこそ、成功できたのに。
原価100円のTシャツを3000円以上も出して購入してくれるファンがいたから有名になれたのに。
記者会見でもへらへら笑いながら
「突然解散しなかっただけマシだろ?」
というのが嵐の言い分。
2020年、ファンを裏切る形で活動休止。
ファンを大切にしない、最期までアイドルとして演じ切ることができなかったことこそが「ファンへの裏切り」以外ないでしょう。
嵐ファンならよそでやってください。
これだけ櫻井翔に裏切られてもついていこうとしているのだから、相当お気の毒な方ですね。
客観的事実を繋げてますよ。
櫻井翔の正体を詳しく知らないならこちらをどうぞ
『国民的アイドル「嵐」の「櫻井翔」と「中曽根康弘」のドス黒い関係【原発利権・ガン利権・JAL123便事故】』
http://kawata2018.com/2019-02-17/