心のハンドル操作方法 幸せに生きるための教習所

旧精神科医療は思想警察なのか?

自己決定の弱さ、これもグーミン?

2015年10月25日 | 精神科訪問看護

おはようございます。

精神科の患者さんと接すると

つくづく「自己決定弱いなぁ」と思う人がいれば

「自己決定強すぎるなぁ」と思う人の2パターンしかいません。

弱い人8割、強い人2割くらい

ちょうど良い人見たことありませんw

そう考えると、自分も「お金」で扇動されたり感情が揺さぶられることなんてしょっちゅうだから

自己決定は弱いなぁ、と思ってしまいますね。

こどもを保育園で預けていますが、何かあったとき仕事を休んでお迎えに行くなんてしてませんし。

それは

「職場に迷惑がかかるから」

「業務負担が他のスタッフに割り振られ、気まずくなり、結果的に不利益をこうむりたくないから」

と正当化して、「こどもを中心に考えていない」ことを正当化しているんだと患者さんを通して反省させられます。

「俺も患者さんとおんなじなんだなあ」と。

私が今働く理由は、こどもとの時間を増やすために、そして自分の本当に好きなことをやるために、健康の重要さ、そして食本来の姿を取り戻すという、人を癒し、育てるというセラピストとしての自分の使命、天命を全うするために妻と二人三脚で開業準備をするためなのですが、保育園に預けたこどもすら迎えに行かないのは、本当に自分がクズだと思うし、自分のことしか考えていない=目先のお金のこと=早退したら上司から嫌な顔されるのが怖いというレベルでしか考えていない自分に反省することに繋がってしまう。

メンタル領域って、本当に「自分と合わせ鏡だなぁ」と考えさせられます。

ですから、毎回訪問は、相手のエネルギーがどれくらいあるのかという「感覚を計る作業」をします。

呼び鈴を鳴らすときから、感覚的なものを研ぎ澄ましていることが多いです。

コミュニケーションは言語的な部分がかなり大事ですが、その裏にある身体的なエネルギーのやり取りも注意していないと、クレームに繋がったりするので難しさを感じます。

自己決定の弱い人に対して、こちらが自己決定を促していく、ファザーリングは実はよくありません。

決めれない人は決めるまで待たなければいけないのです。

これはパターナリズム(父性)とも言われますが、男性は分析し分断し理論的に決定することが得意です。しかし、自己決定の弱い人も、結局自分で決めたいのです。決めれないだけなのです。

ですから、自己決定できるように誘導してあげる、結果的に決定できなくてもいつかはその人がいつか決定する日が来るというスタンスで臨むことが大事だと思います。

精神を病んでいる人々は、今にいません。今を生きてません。

「過去」にしばられており、反省ばかりしています。

とても怖がりで正当化するために行動せず、反省、自己否定ばかりの繰り返し。

多分、天変地異がこないかぎり、生命的危険にさらされない限り、彼らは「今」に帰ってこないだろうなと思っています。

彼らと接すると、いかに「今」が大事でライブ感を生きるのが人生で大事なのだと考えさせられます。

そして多くの人は、お金という恐怖見えない不安にコントロールされ、今でなく過去の経験、不安をもとに強迫的に仕事をしているのだと感じざるを得ません。

私も含めてですが。

自己決定できないとき、いつも使う手段は、「とりあえず、このやり方をやってみてね。嫌だったらいつでも元のやり方に戻してもいいから」と押し付けないようにしています。

一般常識での正解は、「このやり方」というやり方なんですが、本人は絶対納得してないので押し付けないようにします。そして「このやり方」は本人の中で正解ではないのです。

促すだけで押し付けないという感覚。これが待つという感覚で、なにもしない、他人事ではないです。これを心理的距離感を保つことに繋がります。

これができるかできないかが、この感覚が重要だと気付くことが

精神科看護ができるかできないかだと思いますね。

まとまりが悪いですが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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