ドナウ川沿いに、ローマの最前線基地であった町レーゲンスブルグからパッサウへ向かう列車の中のことである。
( レーゲンスブルグとドナウ川 )
初夏の車窓風景は明るく、ぼんやり眺めていると、横に座っていた、定年退職後ヨーロッパを自転車で回っているというマッチョな白人男性が、すっかり日焼けしたたくましい顔に悪戯っぽい笑いを浮かべて、「あの丘陵の向こうは、バーバリアン(蛮族)の地だよ」と、教えてくれた。
── でも、私たち東アジア人には、あなたもゲルマンに見えますよ (笑)。
地図を開くと、田園の彼方の丘陵の向こうはチェコのようだ。冬のプラハに二度、行った。ヴルタヴァ川の流れる美しい都が、スメタナの 「我が祖国」 の感動的な曲とともに浮かんでくる。
男性の言うバーバリアンの蠢動が始まったのはAD2世紀。ローマ帝国の防衛線であるドナウ川を越えて、蛮族の大規模な侵入が繰り返された。5賢帝の最後の皇帝、哲人皇帝と呼ばれたマルクス・アウレリウスは、皇帝に選ばれた者の責務として、病身を顧みず、寒く遠い、当時ローマ軍団の基地のあったウィーンに赴き、総司令官として戦いを指揮する。が、そのままかの地で病に倒れ、死去。(ハリウッド映画では、息子に殺されることになっているが、全く史実に反する)。
西ローマ帝国の滅亡は5世紀だが、塩野七生は5賢帝の最後・マルクス・アウレリウスからを、ローマの「終わりのはじまり」とした。
( ローマが防衛線としたドナウ川 )
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15年以上も前のことだ。たまたまテレビをつけると、塩野七生というおばさまが画面に映っていた。
「おばさま」とは、このような女性を言う言葉であろう。
塩野七生 『 男たちへ 』(文春文庫)から
「ほんとうの女は、男と同等になろうなどというケチなことに、必要以上に固執しないものである。必要、というのは、法律面に属する事柄である。それよりも、男を越えることのほうに情熱を燃やすものだ。同等や平等よりも、越えるほうが、よほど刺激的ではないですか」。
「アレクサンダーもそうだったが、シーザーも、かわいいだけが取り得の女に惚れていない。シーザーの場合は典型だが、クレオパトラのような、男に伍しても立派にやっていける女を愛している。これは、異性の才能に敬意を抱くのが普通の環境に育った、男の特色ではないだろうか。なかなかのできの母親を見なれているものだから、なかなかのできの女に、抵抗感をいだかないのである」。
「日本でスタイルと言うと、あの人はスタイルがいい、とか、スタイルが悪い、とか使われることが多い。…… 私の考えるスタイルは、スタイルがあるか、またはないか、の問題なのである。…… どちらの用法が、英語のスタイルという言葉の用法に近いかというと、残念ながら、私のほうに軍配をあげるしかない。また、そのほうが、ずっとステキだ。若い女の子も、『あの人、スタイルがある』なんて言ってみてはいかが?
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とにかく、カッコいいおばさまだと思う。すでに、イタリアを舞台にした血湧き肉踊る歴史小説を書いていたが、ついに1年に1冊のペースで、ローマ史を書き始めたのである。
大ローマ帝国史ですぞ!! 快挙である!!
なにしろ近代日本では長い間、文学といえば私小説か、教科書に登場する「舞姫」「こころ」「山月記」など、インテリ青年の傷つきやすい屈折した自我の話だった。
で、このたび、『ローマ人の物語』第Ⅳ巻、第Ⅴ巻までが上梓され、テレビインタビューとなった。第4巻、第5巻は、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の物語である。
このときの塩野おばさまの話は、インパクトがあった。
「ヨーロッパはカエサルが創った」。
「ローマ史上最高の先見性、構想力、実行力をもった、男たちのなかの男であるカエサルが、女たちにとっても最高に魅力のある男であったことは当然だろう。当時、カエサルを愛した女たちは、マダムからマドモアゼルまで、列をなしてお行儀よく順番を待つほどであった」。(→ちょっと信じがたい!)。
「しかし、私は、それらのどの女よりも、ユリウス・カエサルという男のことをよく知っている」。
「直接にカエサルと逢い引きしていた2000年前のどの女よりも、私は、ユリウス・カエサルという男のことをよく知っている」。
テレビカメラの前で臆面もなくこう言い切る塩野おばさまの自信と思い入れに圧倒され、第Ⅳ、Ⅴ巻だけは読もうと思い立った。
読んで、第Ⅰ巻~第Ⅲ巻に戻り、以後、毎年1冊、心待ちし、わくわくしながら15巻を読み通した。真の文学は、読者をわくわくさせるものだ。
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欧米の子どもたちは、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」などのローマ史を、わくわくしながら読んで成長すると言う。学校で持たせる歴史教科書も、日本の歴史教科書の何倍も分厚く、面白い読み物になっていて、興味のある子はどんどん先へ読み進めることができるようになっている。
イタリアの高校の国語の教科書には、カエサルの簡潔、的確な文章がいまだに模範文として掲載されている。
外交や、企業活動や、国際ボランティア活動などを通して、世界で出会う欧米人が、西ヨーロッパから中東、北アフリカに至る大ローマ帝国の、外交戦略や、戦争の仕方や、講和の仕方や、征服と統治のやり方や、国家への忠誠心や、政争と反乱のこと、そしてパクス・ロマーナについて、子どものころから学んで成長した人たちであるということを、知っておくことは大切なことであろう。EUも、ローマの昔に戻しただけともいえる。彼らは長けているのだ。
( フォロ・ロマーノ )
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塩野七生の文体は、日本の男性作家の誰よりも、骨太で、凛として力強い。このおばさまの文章に対抗できるのは、司馬遼太郎ぐらいかな。
自分たちの既得権益を守ろうとする守旧派・元老院に対して、ついにカエサルは、国法を犯し、軍を率いてルビコン川を渡る、かの有名な場面である。
「ローマ人の物語」(第Ⅳ巻の終わり)から
「ルビコン川の岸に立ったカエサルは、それをすぐに渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ちつくしていた。従う第十三軍団の兵士たちも、無言で彼らの最高司令官の背を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚たちに言った。
『ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅』
そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向かい、迷いを振り切るかのように大声で叫んだ。
『進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!』
兵士たちも、いっせいの雄叫びで応じた。そして、先頭で馬を駆るカエサルにつづいて、一団となってルビコンを渡った。紀元前49年1月12日、カエサル、50歳と6月の朝であった。
「‥‥一団となってルビコンを渡った」。カッコいいですねえ。
今は、文庫本がある。
私見を言えば、第Ⅺ巻「終わりのはじまり」まででよい。このあと、ローマは衰退へと進んでいくのみ。
衰退へと進んでいくローマ帝国内で、キリスト教がアメーバーのように増殖し、民衆のなかだけでなく、元老院のなかにも浸透し、非キリスト教徒の政治家は次々罪状を負わされて処刑され、親キリストでなければ生きられなくなる。
そのあたりを描いたものとしては、辻邦生の『背教者ユリアヌス (3巻) 』(中公文庫)が素晴らしい。辻邦生の最高傑作と言ってよい。
( コロッセオ )