< もう一度、美しい景観を >
幕末から明治時代にやってきた西洋人たちは、将軍のいる江戸の街並みにも、地方の城下町にも、田園風景にも、自分たちの文化とは異なる美しさがあることに、感動した。
大正、昭和と、近代化が進むにつれて、日本独自の風景の美しさは少しずつ失われていったが、赤レンガの東京駅にしろ、倉敷の紡績工場にしろ、西洋化を上手に取り入れて、なお美しい。
袴に靴、黒髪にはリボンという、大正デモクラシーのころの女学校の女生徒は、その和洋折衷がまことにオシャレである。
戦後の復興の過程から、高度経済成長、バブルの時代にかけて、日本の大都市は雑居ビルのようになり、地方の中小都市までがケバケバしいネオンの街となっていった。日本中に、「〇〇銀座」という通りがつくられた。
里山は削られ、川は水量を失い、田畑の景観も荒廃し、海も汚れた。
いま、やっと、失われた日本の景観が、少しずつだが、取り戻されてきている。
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かつて、オーストリアでは、ドナウ川のたび重なる氾濫を防ぐため、全流域に渡ってコンクリートの護岸工事を施した。川は大きな用水路と化し、人々が自然や歴史を感じ取る景観は失われた。
こういうライフスタイルはよくない、という反省が起こった。
全流域のコンクリートを撤去し、もう一度魚や貝の棲める川岸に戻す大工事が行われた。それは、大事業だった。日本が高度経済成長をし、鼻息の荒かったころのことである。
( ドナウ川の流れ )
今、ドナウ川は、都市の中や田園の中をゆったりと流れ、美しく、歴史ある景観は、世界各地から多くの観光客を呼び寄せている。
日本も、都市と、田園と、山と川の景観を、さらに美しくしていく取り組みが必要である。
公共事業は必要である。ローマの豊かさ、繁栄と、平和は、絶えざるインフラのメンテナンスによって維持された。
さて、その際、電線はできるだけ地下に埋設し、景観を損ねる電柱は除去したい。
寒色系の蛍光灯はやめて、人の心を和ませる色合いの街灯に入れ替え、ネオンはすべて禁止する。( 私は非喫煙者ですが 、ネオン禁止は、屋外喫煙の禁止などより、優先順位は上位です )。
錆びた鉄骨があらわになったビニールハウスはきちんと整備し、景観に配慮した田園風景をつくる。
「反原発」は結構だが、あの低周波の騒音を撒き散らす巨大で無機質な風車を、里山から里山へと林立させたり、黒々とした太陽光パネルを、谷から谷へと休耕田に敷きつめるのはやめてほしい。
「反原発」は、一見、美しく見える。だが、近年のグローバリズムの中で有り余る資本を手にした新興資本が、「反原発」を利用して、貪欲にも、日本の基幹産業であるエネルギー産業を、解体・奪取したがっていることに、もっと注意が必要だ。民進党のような政党は、簡単に取り込まれてしまう。
「日本列島改造論」は、昭和版も平成版も、ご免である。
緑の山や、谷や、川や、田畑があってこその日本列島である。
文化とは、街並みであり、緑豊かな農村の風景であり、山や川のたたずまいである。
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< 日本の心と日本の美 >
話は変わる。
2キロを貫くシャンゼリゼ大通りの景観や、ショイヨー宮からのエッフェル塔とマルス公園の景観を見て、日本はなんと貧弱なんだ、ヨーロッパはすごい、と嘆く向きがある。
中国に行けば、万里の長城や兵馬俑に圧倒されて、日本は卑小だと嘆く。
しかし、2キロを貫くシャンゼリゼ大通りも、豪華絢爛のヴェルサイユ宮殿も、それがあるということは、かつて圧倒的な専制権力が君臨していたということだ。
立ち退かない住民を力づくで追い出し、一方で、重税を徴収する。そういうことをしないで、どうやってシャンゼリゼ大通りができるだろう?
( ヴェルサイユ宮殿 )
前田百万石の殿様の前田利家が、金沢にお城を築くとき、労働してもらった民・百姓には相応の賃金を払っているし、自らもモッコを担いで人足仕事をし、奥方のおまつさんはたすき掛けで炊き出しをした。そういう殿様でなければ、日本では民衆は付いてこない。
戦国大名は、暴れ川の氾濫を防ぐために堤防を築き、大規模な灌漑をして米の増産に努め、城下町を整備して商工業者を招いたが、中国や西欧のように、贅を尽くした大宮殿は造らなかった。
江戸の火災で焼けた江戸城の天守閣を、歴代将軍はついに再建しなかった。
利休は、朝鮮半島の農民が日常使っていた茶碗を褒めて、これは良いと、自らの茶道に取り入れた。そういう茶道具を、大名、権力者の間に流行らせた。そう言われて見れば、なるほどその茶碗はなかなかの味わいがある。そこが利休のすごさである。天才とは、そういうものだ。
書院造りの陰影を美しいと思い、狭い茶室の柱の竹筒に投げ入れられた1輪の椿に感動する。
それが、この島国が育み、洗練させてきた美意識である。茶道の心得はなくても、日本人なら、そういう美意識を誰でももっている。
「伝統というものは、経験の結晶として、一人一人の具体的な人間の全体の中に体現されているのである」。
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派手なヴェルサイユ宮殿は日本にないが、木々の繁る杜の中の簡素な社がある。
縄文時代からの杜 (モリ) は今も残され、そこには、それぞれの神様がおわして、人々は今も、お正月だ、七五三だ、お受験だ、出産だと、お参りに行く。秋には神輿や山車の太鼓の音も聞こえてくる。
しかも、その社は、建て替えられ建て替えられして、千年も、二千年もよみがえりを繰り返しながら存続する、古い古い文化遺産である。
ピラミッドも、アクロポリスの丘の神殿も、万里の長城も、大聖堂までもが、今は石の廃墟に過ぎない。
(村の神社)
そういう民族性、国柄、文化を誇りとして、シャンゼリゼ大通りを楽しもうではありませんか。