熊野本宮大社への参拝は2004年から。多いときには春、夏、冬と年3回訪ねているから、かれこれもう20回近くになるだろうか。
しかし、上には上がいる。NHK大河ドラマ「平清盛」に登場した鳥羽上皇は21回、後白河上皇はにいたっては34回も参詣している。
しかも、当時 (もしかしたら今も)、道中は徒歩でないと功徳がないとされたから、京都から延々と歩いて、中辺路 (紀伊田辺から山へ入る) を通り、本宮大社へ詣でた。ついで、舟で熊野川を下って熊野速玉大社、さらに熊野那智大社に参詣した。往復1か月の難行の旅であったから、私のように車で行って、湯の峰温泉に1泊して帰るという参詣とは全然違う。
初めて熊野本宮大社を訪ねたのは、2004年の暮れであった。このとき初めて三山を巡ったので、その旅のことを書き留めておきたい。
☆ ☆ ☆
旅の動機は、温泉でのんびりと湯治の真似事でもしてみたいという願望の実現にあった。人生、2度目のご奉公に入っていたから、心身の金属疲労があっても不思議でない。
「温泉博士」の松田忠徳先生が「お湯は最高」と折り紙を付けた那智勝浦温泉の宿「海のホテル一の滝」に3泊した。高級旅館というにはほど遠い風情の、温泉街からははずれ、那智湾に臨んだ1軒宿である。
朝、奈良の自宅を車で出る間際に、スマトラ島沖大地震と大津波で多くの犠牲者が出たとのニュース。あわただしく家を出たが、車を運転しながらも、遠い異国の被害のことが気になった。
あちこち立ち寄って、夕方、宿に着き、1階の自分の部屋の窓を開けると、海がひたひたと目のすぐ下に迫っていた。ひとごとではない。もし津波があれば、最初の犠牲者である。でも、なかなかいいムードだった。
夜は、月光が、暗い海面に一筋の光を漂わせた。
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この旅のもう一つの目的は、紀伊半島の岬めぐりである。岬には灯台がある。
道中、冬晴れの下、有名な潮岬灯台、それから樫野崎 (カシノザキ) 灯台に立ち寄り、太平洋の海を見ながらドライブして、宿を目指す。
阪和道のみなべICを出たあとは、国道42号線をひたすら走った。
椿温泉のあたりから海沿いを走ることが多くなり、対向一車線、カーブを繰り返す。その海沿いのカーブを、スピードを緩めることなく飛ばす車は地元車だ。軽(ケイ)といえども、速い。
陸の黒島、沖の黒島という二つの島を見下し、遥か太平洋の行き交う船を見晴らせる岬の高台の食堂で昼食。ここは恋人岬というらしい。
紀伊半島のとん先、本州最南端にある潮岬の、さらに最先端にある灯台が、潮岬灯台である。
日差しは暖かいが、風が強く、コートを着て灯台に行く。確か30年ほども前に訪れたことがある。
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のちのおもひに
立原道造
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
─── そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた …… (以下、略)
☆
立原道造という詩人の文庫本を手にしたのは、大学生時代である。
陽光きらめく紀伊半島の一人旅の間も、私の想いはいつもあの少女と出会った軽井沢の村にかえっていった。しかし、旅からかえっても、そこに少女はいない。ただむなしいばかりである ……。喪失 (失恋) の悲哀を歌った詩である。
喪失の暗さに対して、一瞬、対照的に、陽光がきらめくのが、第二連の5行目。
「 (見て来たものを、) 島々を / 波を / 岬を / 日光月光を、(だれも聞いていないと知りながら / 語り続けた )」。
この「島々を / 波を / 岬を / 日光月光を」というイメージが好きで、若いころ、太平洋に臨み、黒潮が洗う、紀伊半島にあこがれた。
陽光きらめく半島の岬めぐりの旅は、恋人のもとに帰って、すぐに、目を輝かせて、語って聞かせるにふさわしい ……。
( 紀伊の海 )
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立原道造は、東大建築科卒。室生犀星や堀辰雄に兄事し、雑誌 『四季』 に詩を発表。結核のため、26歳で夭折した。長身・痩躯。スケッチブックと色鉛筆を持って信州の高原を歩く姿がふしぎに似合う青年であったようだ。
この詩もそうだが、西洋詩のソネット形式を日本語に移植させた。知的で、ナイーブな青年だったのだろう。
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冬とはいえ、明るい日差しに照らされた太平洋の、岬の灯台をめぐるドライブの旅は心楽しかった。
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