ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

再び隣国のこと

2012年09月07日 | エッセイ

 隣国がまた、騒がしい。

 小さな岩礁をめぐる両国の対立は仕方がない。それを、非政治的な場であるオリンピックでアピールするという、1サッカー選手の子どもに見せたくない行為を、政治家、マスコミ挙げて拍手喝さいして誰も批判する者がいないという、隣国の「国のかたち」の危うさ。

 続けて、東シナ海から南シナ海、マラッカ海峡を経てインド洋にかけての覇権をねらう中国が、小さな岩礁を奪い取ろうと爆竹ごっこ。民間の経済活動や自治体の親善交流までぶち壊して、国を挙げての乱暴狼藉。火付け盗賊までやってはばからないというえげつなさ。

 お坊ちゃん政治家・石原ジュニアは、双方のクールダウンが必要だ、と言った。 パレット国防長官は、双方の冷静な対応を呼びかけた。

 しかし、日本人がヒートアップしているとは思えない。異常なのは隣国のほうである。異常な隣国というべだ。

         ★                    

司馬遼太郎  『この国のかたち 一』 から

 「人間というのは、よほどな人でないかぎり、自分の村や生国に、自己愛の拡大されたものとしての愛をもっている。

 社会が広域化するにつれて、この土俗的な感情は、軽度の場合はユーモアになる。しかし重度の場合は血なまぐさくて、みぐるしい。

 ついでながら、単なるナショナリズムは、愛国という高度の倫理とは別のものである。

 ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治的意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している」。

 中国のナショナリズムは、まことに「血なまぐさくて、みぐるしい」。「愛国という高度の倫理」からは遠くかけ離れ、自らの文明度の低さ・まがまがしさを、世界にアピールしている。

         ★

さらに、司馬遼太郎から。 

 「日本の十三世紀は、すばらしい。

 開拓農民の政権(鎌倉幕府)が、関東に成立したことである。

 農地はそれを管理する者の所有になった。”武士”という通称でよばれる多くの自作農は …… 律令制をたてとする京都の公家・社寺勢力と対抗し、”田を作る者がその土地を所有する”という権利をかちとった。日本史が、中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする”百姓”の政権が誕生したからである。私どもは、これを誇りにしたい。

 かれらは、京の公家・寺社とはちがい、土着の倫理をもっていた。

 『名こそ惜しけれ』

 はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の非貴族階級につよい影響をあたえ、いまも一部のすがすがしい日本人の中で生きている」。

 皇帝や王による中央集権的官僚国家としての歴史しか持たぬ韓国や中国には、「名こそ惜しけれ」という民の素朴な倫理観は育たなかった。 

        ★                          

  これからも隣国の鬱陶しさには耐えなければいけない。中国やロシアという、大国を隣国にもったのは、我々の地政学的宿命である。

 特に、中国は、いまや、米国と対抗して、「地球を分け合う覇権国家」になるという野望をあらわにした。そのやり方は、かつての帝国主義そのものである。社会帝国主義国家である。

 故に、今回程度のリスクに耐えられない企業や自治体は、安易に隣国に、進出すべきでない。「安い労働力」「10億の民、少なく見積もっても1億の中流以上の消費者」などという儲け話に安易にのるべきではない。

 また、傍若無人な隣人たちに、「おいで、おいで」と安易に観光や留学を呼びかけるのも、やめたほうがいい。外国から観光客を増やしたい気持ちは分かるが、もっと他の国や他の方法を考えるべきである。中国からの観光客が増えれば、しばしばその観光客は日本に圧力をかけるための手段に利用されるだろう。日本が何かで中国の言うことを聞かなければ、観光客は突如、来なくなり、観光地に閑古鳥が鳴くことになる。「それとこれとは別」、「一方で利害が対立しても、他方では大切な隣人です」 という常識を無視して、無理を押し通す隣国に対し、こちらも見切って付き合うべきなのである。

 これからも、何度でも、事あるごとに爆竹を投げ込んでくる。そういう隣国である。

         ★

 かつての日中戦争のはじまりも、大陸に進出していた企業や家族・個人に対する中国人の侮日言動、乱暴狼藉、レイプ事件に、軍部が感情的になって、挑発にのってしまったことが発端であった。

 再び国策を誤ってはいけない。

 砂糖菓子のように甘い「友愛」などという観念的な言葉をもって近づいても、陰で失笑されるだけ。一年生議員団を大挙引き連れての朝貢外交は、国辱である。

 大切なことは、この列島の歴史と文化を誇りとしつつ、リアリズムに徹した判断をすることである。できたら、国民一人一人が。

 そう考えるとき、今、だれを総理にすべきかも見えてくる。今度こそ正しい選択をし、とっかえひっかえは、やめなければいけない。 

 

 

 


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