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北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

2024年02月04日 | 中国史

清乾隆景泰藍塔(乾隆時代の七宝焼の塔)

官営手工業の衰退と民営工房の発達

 農業の回復と同時に、手工業も康熙中期以降に次第に盛んになり、乾隆初期にはこの時期のピークを迎えた。この時、手工業は相変わらず官営と民営のふたつに分かれていた。官営手工業は日増しに衰退し、皇室や王公貴族が必要とする手工業品、日用品は、より多くが民営の工房や店舗に行って購入する必要があった、或いはこれらの民営工房に代理で責任を持って制作させた。民営の手工業は明代よりも数量が増加した。

 官営手工業は康熙以降、内務府、工部などの役所に属していた。これらの衰退は、この時代の生産規模が明代に及ばないことを表していた。清の内務府には、明の内監が擁していたほど雑多で多くの官営の手工業部門は無かった。内務府は北京で主に内織染局(皇室、宮廷御用の絹織物の染色を管轄)、広儲司七作(宮廷御用の銀、銅、染物、衣類、刺繍、花卉、皮革の保管、出納を管轄)、営造司三作(鉄、漆、炮の各工場を含む)を設けた。これらの局で作られるものは、何れも皇帝と王公貴族の使用に供した。工部が掌握する官工業は、砲兵廠、火薬廠の他、一般の生産規模もいずれも明代より小規模であった。その中で、琉璃窯で生産する琉璃瓦は主に宮殿と王府の建設に用いられた。黒窯、木廠、鉄廠、焼灰廠の製品の半分は皇室、王府の使用に供され、半分は城壁の修築やその他の土木建築の建造を進めるのに用いられた。軍器廠、火薬廠、盔甲廠の製品は、国防、国内の反乱鎮圧関連で用いられた。砲兵廠は 軍器廠に属し、清代には紅衣砲、神威無敵大将軍など多くの種類の銅鉄砲を製造していた。工部は清代長期間に亘り、門頭溝の官営の石炭鉱山を管理していた。

 官営手工業と鉱業の衰退と商業経済の発展、私営手工業の拡大には一定の関連があった。官営の手工業工房(手工業工場)の職人は、この時代、住み込み(住坐)とパートタイム(雇覓)の二種類があった。『大清会典』の記載によれば、「内外の造営で使う職人は、住み込みとパートがあった。住み込みは、決められた食糧の俸禄に基づき働き、パートは仕事に基づき給与が決められた。」清朝廷は明代の交代制(輪班)を完全に廃止し、また職人の世襲制度も廃止したが、これは重要な改革であった。しかし、職人たちの官府(役所)に対する従属性(封建依附性)はまだたいへん強固だった。住み込みの職人は一年中工房、工場を離れることができず、その身分は満州族の奴僕とほぼ同じであった。多くの内務府の住み込み職人は、満州貴族が関外や関内から捕虜にして連れて来たものだった。パートの職人は主に清朝廷が各地で召集してきたものだったので、必ずしも自由な労働力ではなかった。彼らは長期工と短期工の二種類あった。こうしたパートの職人は給料がたいへん低かっただけでなく、給料を受け取る時には更に官吏の中間のピンハネ(尅扣)を受けた。職人たちは常にサボタージュと逃亡でこうした残酷な封建搾取に反抗した。こうした情況下で、官営工業は衰退するばかりで、発展することができなかった。

 一部の私営手工業は、官営手工業が衰退する中で一層発展した。康熙中期から乾隆中期まで、私営手工業の各産業の中で、最も目覚ましく発展したのは銅鋳物、製薬、酒造、蝋燭、菓子食品等の産業であった。それに次ぐのが、紡織、漆器、鉄やすり、鋼針等の産業であった。鉄、木、皮革の工房も一定の発展をした。銅鋳物は直接に官府のコントロール下で生産を行い、乾隆年間、北京城内の銅鋳物の舗戸(商店)は全部で34百軒あった。その他の工場、工房は仲買業者の管理や制約を受け、封建国家は常に公定価格でこれらの製品を買い付けた。こうした工房の主人は一般にその他の商品の店を兼業していて、しばしば店舗の前方は小売店で、後方が工房であった。

 乾隆年間の北京の私営手工業について、『帝京歳時紀勝』は以下のような活き活きとした描写をしている。

 制薬:「毓成号、天匯号は四川、広東、雲南、貴州の精英を聚(あつ)める。鄒誠一、楽同仁は丸薬、散薬、膏薬、丹薬の秘密を制する。史敬斎の鵞翎眼薬は空青(鉱物から作った眼薬の名称)に譲らず。益元堂の官揀(公式に選ばれた)人参は、また瑞草を欺く。劉絃丹の山楂(サンザシ)丸子は、滋養になり消化を助ける。段頤寿の白鯽魚膏は、化膿や肥大を軽減する。」

 蝋燭:「花漢衝は、蘭の佳き珍香で制する。陳(ふる)きを集成、柏油を澆(そそ)げば之(これ)大蝋。」

 紡織:「靛青(藍染)の梭布(ひふ。機織りの布)、陳慶長の細密で寛き机(はた)。羽緞(毛織物)やフェルトは、伍少西の大洋青水。」

 鉄の銼(やすり)鋼(はがね)の針:「王麻子は西(西洋の)鉄の銼(やすり)三代の鋼(はがね)の針。

 酒:「佳き醅(にごり酒)は美(おい)しく醸され、中山雪に居り冬淶(淶河の水)で煮る。」

 糖果食品:「聚蘭斎の糖点、糕(ケーキ)に蒸した桂(もくせい)の蕊(しべ)。」「蜜餞(づけ)の糖櫻桃、杏(あんず)の脯(砂糖漬け)は京江の和裕が行家(専門店)。」「内制(自家製)の査(サンザシ餡)の糕 (ケーキ)は賈集珍が西直門まで売り場を拡げている。」

 これらの店や工房は、多くが封建地主や官僚階層が資金を出して開いたものであった。工房の内部組織や雇用関係は、封建的な性格を持っていた。いくつかは商店主が出資し、商店主自身は番頭に商務や工房の事務を委託し、店員、工員、丁稚を雇っていた。工員は普通、丁稚から育成した。西鶴年堂製薬の工房がそうであった。いくつかは商店主や番頭が店の営業、工房の運営を行ったが、小売部門は店員や丁稚が管理し、工房は別に職人の親方が管理した。職人の親方が工員を募集し、資本家が工員を解雇するには、必ず親方を通じなければならなかった。工員は商店主と親方の度重なる搾取の下、給料がとても少なく、全く自由が無かった。例えば合香楼の蝋燭工場、六必居の酒の醸造所は基本的にこの類に属していた。これ以外にも、商店主や番頭が店の営業、工房の運営を行い、店員だけ雇って、丁稚は取らない店もあった。番頭は小売部と工房両方に通じていて、一部の工員は工房に配属して働かせ、別の工員は小売部に配属して働かせ、一定期間働かせたら、このふたつの部門の工員の配属を互いに調整する。例えば同仁堂がこのように運営していた。ここの工員は商店主と番頭の管理を受け、給料はたいへん低かったが、商店主が毎年の利益の中から歩合を出して、彼らに分配してくれた。売り上げが上がれば上がるほど、彼らの収入もそれにつれて増加した。彼らは「自由に」店を離れることができたが、店を離れたことによる結果は、聞かずとも理解することができた。これら三種の工房の中で、最後の形の経営方式が優れていたが、それでも完全な自由雇用労働ではなかった。同業組合の束縛や制限がこれらの店舗や工房に長期に存在し、ごく少ない私営手工業の工房だけが資本主義的な生産関係を備えていた。

 工房の商店主は残酷に工員を搾取したので、工員は時に給料の増額を要求し、立ち上がって闘争を行った。例えば乾隆年間、合香楼の工員は給料が低すぎて生活がたいへん困難で、彼らはいつも服が着れず、裸の背中で空き地で線香を日光に晒して乾かした。彼らは本当に我慢ができず、集団で商店主に加工賃の支払いを要求し、商店主に約束するよう迫った。しかしほとぼりがさめると、商店主は多くの工員の首を切ったので、工員たちも解雇に反対する闘争を行った。

 北京の私営手工業の中で、鉱業は主要な部門であった。当時、私営の石炭炭鉱がたいへん発達していた。乾隆年間、門頭溝の炭鉱は百ヶ所前後に達した。西城、宛平、房山には全部で690ヶ所余りあった。封建国家は炭鉱から一定の税金を徴収した他、また鉱夫が封建官府に反抗する活動をするのを厳しく防いだ。鉱山主はいつも「鉱夫を虐待し、工賃を少なく」しようとした。西山の悪辣な鉱主、斉二は鉱夫たちの多くの生命を奪った。鉱夫たちは鉱山主の酷使と迫害を受ける立場にいた。鉱山主の虐待に反抗するため、鉱夫たちは絶えず「大勢が集まって騒ぎを引き起こ(聚衆滋事)」し、鉱山主に対して闘争を行った。鉱山主たちは、当初は「分散出資共同経営(分股合伙)」の経営方式を採っており、資金が比較的分散していたが、その後一部の資金が次第に少数の鉱山主の手に集中するようになった。例えば、閻という姓の鉱山主は雍正、乾隆年間に続けざまに十ヶ所以上の他家の炭鉱を購入し、相当の資金を集中させ、門頭溝一帯の大手の鉱山主になった。清代の炭鉱は、明代より一層進化していた。

商業

 北京は巨大な消費都市で、毎日全国各地から大量の農産品、手工業品が運び込まれ、専ら貴族や地主が享受する奢侈品として消費された。運び込まれたものは主に江南と長城以北(口外)の食糧、西口(殺虎口。山西省朔州市右玉县境内)と東北の毛皮、蘇州、松江、海寧、嘉興、通州、河間(瀛州。河北省中南部。滄州市西北部)の綿布、江寧、蘇州、杭州、広州、潞安(山西長治)の繻子(しゅす)や緞子(どんす)(綢緞)、ちりめんや薄絹(縐羅)、南海の真珠や宝石、長芦(長芦塩場で産する海塩で、中国最大の生産量を誇った。河北省、天津市渤海湾沿岸にあった)の塩、及び各地の薬材、木材、生漆、銅、鉄、紙、南糖(南方の砂糖菓子)などであった。ロシア商人が大量の毛皮や西洋の奢侈品、例えば琺瑯などを持ち込んだ。朝鮮商人はしばしば大量の毛蘭布(フロッキング。修道服や仕事着に適した粗布。木綿の布を藍で染めたもの)や馬を持ち込んだ。これらの商品は、大部分が封建統治階級が使用するためのもので、一般の城外に住む貧民や農民は貴重な物品を購入する力が無く、彼らが必要とするものの大半は、食塩、鉄器の農具、若干の地元で作られた北京梭布(機織りの布)などであった。

 当時、北京城内には至るところ行商の足跡があり、彼らはある者は会館(同業組合の集会所)の中に住み、ある者は舗戸(商店)の家に住んだ。舗戸は北京城全域に分散し、そのうち、前門外が主な集中地区であった。ここの大店舗は、同仁堂、合香楼、六必居以外にも、多くの珠宝店、綢布店、雑貨店、糧食店などがあり、その他にも、例えば江米街の貂裘(テンのコート)狐腋(キツネの毛皮)、瑠璃廠の書画骨董、振武坊の遼陽口貨(長城外で産出した商品)、瞻雲坊の糧食雑庄、花市大街の絨花(絹で作った造花)、紙花など、一時期極めて盛んであった。

前門大街

 行商と舗戸(商店)は統治者の厳しい管理と制約を受けた。清政府は彼らを136行に分け、各行に官牙(官府が指定し派遣する仲買人)を設け、徴税を担当させ、物価、貨物の販売と処理する商人の間の紛争等について評議を行った。こうした官牙の多くは順天府の胥吏(小役人)から充当され、彼らはしばしば舗戸と結託して行商の貨物を横領した。いくつかの材木商は更にしばしば統治者により長城外に派遣されて木材を伐採、運送し、宮殿や庭園を修築するのに供給した。次に、各行の商人の中にはまた同業公会(同業組合)的性格の行会組織があり、こうした組織は強制的に商人が丁稚や店員を雇う章程(業務規定)を定め、偽物を売ることを禁止した。大商人は店舗内で丁稚や店員に対し、完全に封建家長制の統治を行った。丁稚は三年間給料が無く、一日中商店主や番頭のために各種の労役に服した。商店主や番頭はいつも任意に彼らを叱りつけ、何人かの丁稚はこうした虐待に反抗して夜中に逃亡した。これは一種の残酷な封建搾取であった。店員は一定の給与があり、丁稚に比べると生活は多少は良かったが、彼らも商店主や番頭の威圧と侮辱を受けていた。

 大店舗の中のいくつかは封建官僚が自ら経営、或いは経営に関与し、多くが官府と結託した山西、徽州(安徽省南部、今の黄山市)、浙江の大商人が開いたものだった。大商人は常に投機をして利ざやを稼ぎ、物価をつり上げた。例えば綢布(絹織物)店や雑貨店は、八旗の旗丁(旗兵)に馬甲銭糧(給料)を払う時になると、突然各種の貨物の価格を引き上げ、ほしいままに旗丁を搾取した。糧食店は秋の収穫の時にできるだけ農産品の価格を低く抑え、郊外の多くの農民が農産品で自分用の日用品や農具などに交換する時に、多額の損失を受けることとなった。

 行商と舗戸(商店)を除き、当時の北京城内には多くの小商人がいた。彼らは平時は街角や横丁に屋台を設(しつら)えた。例えば前門外がそうであった。大小の商人はテントを張った屋台に商品を満載し、各種の日用品を売り出した。廟会(社寺の縁日)や市集(市が立つ日)の日になると、彼らは廟会や市集に駆けつけた。毎年農暦正月元旦から16日まで、瑠璃廠には「百貨が雲集」し、「図書が満載」された。廟会の場所は薬王廟、都土地廟、護国寺、隆福寺、花市などで、場所によっては、1日、15日に廟会が開かれ、別の場所では毎月3日、4日、7日、或いは9日、10日に行われた。その時になると、商人たちはこれらの場所で各種の高級や低級の日用品の販売を行った。

隆福寺廟会

典当(質屋)、銀号(両替商)、塩店

 当時の北京の大商業には、他に典当(質屋)、銀号(両替商)、塩店があった。乾隆9年には、北京城の内外の大小の質屋は全部で67百ヶ所あった。質屋と官府の関係はたいへん緊密で、いくつかは完全に官府が運営していた。これは高利貸しにより一般の人々や城内の下層住民から搾取を行うもので、質草を請け出す利息は月3分以上に達した。両替商は銀票(一種の紙幣)の兌換業務を行う以外に、高利貸しによる搾取にも従事した。両替商は高利で金を貸し、抵当は取らないが、商店名義の保証(舗保)を必要とした。小商人や小さな手工業者は主に両替商から銭を借りたが、両替商の重い利息に苦しめられた。高利貸の搾取は生産の発展をひどく阻害した。

 北京の大商人の中の一部は塩商で、有名なのは例えば宛平の査氏である。塩商はまた官商とも呼ばれ、彼らは直接封建統治者のため服務し、そのため性質は一般の商人とは異なっていた。北京地区で販売されたのは長芦塩(長芦塩場で産する海塩で、中国最大の生産量を誇った。河北省、天津市渤海湾沿岸にあった)で、清朝廷の1703年(康熙42年)の規定によれば、大興、宛平両県で合わせて塩14万引(塩引は塩包のことで、1引が400斤、700斤など一定ではなかった)余り販売した。塩商は塩を通州張家湾に運んでから、それぞれ清朝廷により指示された地区で販売した。彼らは専売権を使って人々に高値で塩を販売し、財産を蓄えた。

乾隆中期以後の北京の経済情況

 乾隆中期以後、封建貴族や地主、大商人の搾取により、農民や小手工業者を更なる困窮状態に陥れた。農業では、北京城郊外の八旗旗丁はより一層貧困化し、多くの漢軍で旗を出て民となるのを迫られ、外地に行き活路を捜さざるを得なくなった。漢族の小自作農は大地主による土地の併合で次々破産し、自分の土地を売り払った。昭槤『嘯亭続録』の記載によれば、直隷懐柔の郝姓の大地主は「膏腴万顷」(肥沃な土地を何万ヘクタールも所有し)、北京城の「米商人祝氏」は「富が王侯を逾(こ)え」、「宛平の査氏、盛氏は富がまた相倣った」。農民、旗丁の破産、逃亡により、近畿(首都北京近郊)一帯の大量の耕作可能地が荒地に変わった。1771年(乾隆36年)大学士劉統勲の清朝廷への上奏によれば、宛平路では打ち捨てられ荒地になった土地が頗る広大で、沙漠化やアルカリ浸食のあまり、遂にやむなく廃棄された。1785年(乾隆50年)直隷各路で荒地と報告された旗民の土地は全部で12千ヘクタール以上で、これらの荒地の一部は北京近郊であった。破産した農民は流亡し居場所を亡くし、絶えず蜂起を企て、天理教の勢力がこの時近畿一帯で瞬く間に拡大した

 手工業はこの時期、古いしきたりに固執(墨守成规)するばかりで、生産規模の拡大はほとんど行われなかった。北京城内には山西の大商人が開設した票庄(票号とも。一種の銀行、両替商)が現れた。というのも、商人たちは各地で交易を行う中で、現銀や銭でなく、為替(匯兌)を利用するようになったためだ。北京に設立された最初の票庄は嘉慶(17961820)、道18211850間(嘉道之際)、山西平遥人の雷履泰が開いた日升昌票庄であった。票庄の商店主は、主に為替で高額の利潤を得た。やがて、票庄は各地で役所と結託し、官僚たちに金を貸し付け、これに高額の利潤を上乗せした(官僚たちは、票庄からの借款を返済する時に、高い利息を払わなければならなかった)。票庄は次第に官僚への貸付に依存するようになり、アヘン戦争以後、票庄はまるで封建官僚の帳場のようになった。

 社会生産の進化は緩慢になり、封建的生産関係は生産力の発展を阻害するようになった。このことはアヘン戦争前夜の北京地区の基本情況である。

 

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北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

2024年02月03日 | 中国史

清朝廷、剃髪令を発し、漢人に辮髪を強制

清初、統治者が踏みにじった手工業と商業

 土地の囲い込みは漢族の農民を破産、逃亡させ、北京地区の農業生産を破壊しただけでなく、北京城内の手工業や商業に損害を与えた。城内の多くの漢族の手工業者や商人は、住居が囲い込みで占拠され、身を安んじるところが無く、またしばしば満州貴族やその走狗たちの抑圧に遭った。満州貴族は奴僕をそそのかして城外に行かせ、公然と北京に交易に来る商人たちから掠奪させ、一度は販路が存続の危機を迎えた。大通りには「人市」が出現し、一部の満州貴族は自分がさらってきた漢族の男女を、少しもはばからずに「人市」に引き出して売り出した。こうした情況下、私営の手工業や商業は急激に衰退した。官営の手工業は、清朝廷と満州貴族の需要により、まだ明代から残されてきた一部を維持することができた(例えば、順治年間(1644年ー1661年)、内監(宮廷内の御用を行う宦官)は明の制度で設立された内織染局、制造局などを引き続き利用したし、工部(官営工事を司る官庁)も一部の木廠、磚瓦廠、鉄廠、鋳銭局と軍器廠、火薬廠などを主管した)が、これらの機関の実際の生産はたいへん少なく、これらもその後だんだん衰退していった。

統治者の人々への政治的弾圧

 満州貴族が経済的な掠奪を行うのを保護するため、清朝廷は政治上、基本的に明朝が設立した中央政府機構と地方政府機構を真似、一般の人々を弾圧する道具にした他、更に厳しい「逃人法」を制定し、北京に専ら逃亡人を捕まえる兵部督捕衙門を設立した。 逃人法の規定に基づき、漢族の貧民(庄丁(壮丁)と佃農(小作農))は逃亡すると、自分本人が捕まって死刑に処せられる(三度逃亡すると死刑)危険があるばかりでなく、彼らをかくまった者も取り調べられ、拘束され奴僕にされた。このため、その後、多くの満州貴族が故意に奴僕(しもべ)を逃亡させ、漢族の人々を罪に陥れた。満州貴族が方々で掠奪をし、法に背いた活動を行ったにもかかわらず、清朝はあまり厳重に取り締まらなかっただけでなく、地方の州や県の衙門が関与しないよう規定し、こうした案件は内務府、八旗都統、及び歩軍統領衙門に引き渡して処理させた。これらの役所は全て満州貴族によって掌握され、したがって当然自分たちの仲間を罰するはずもなかった。満州貴族の権勢を頼みにした庄頭は、騎馬のまま直接府、州、県の衙門に乗りつけ、府、州、県の役人と直談判し、好き勝手にふるまった。この他、清朝廷は漢族の人々の反清意志を打ち壊すため、何度も命令を出し、漢人の薙(剃)髪(髪を剃って辮髪にする)、漢人の着衣を満州族の衣冠に改めることを強制した。

北京の人々の反清蜂起

 清初、こうした経済上、政治上の赤裸々な漢族への弾圧政策により、しばしば北京の人々の強烈な反抗が引き起こされた。1644年(順治元年)5月、昌平州紅山口の農民たちが清朝に抵抗して蜂起し、清朝廷は固山額真巴顔、石廷柱、李国翰、劉之源らが率いる軍隊を投入して、ようやく彼らを鎮圧することができた。翌年、近郊の農民の指導者、劉自什は群衆を率いて海子の紅門から渾河を渡り馬家山に向かい、そこで隊伍を拡大し、蜂起を起こそうとしたが、結果として清朝廷の厳しい鎮圧のため失敗に帰した。いくつかの活動は、北京城郊外の聞香教、無為教、白蓮教会といった秘密宗教組織が、何れも反清を旗印に掲げたもので、清朝統治者にとって、たいへん大きな脅威となった。

 清初の大規模な反清蜂起は、1673年(康熙12年)の楊起隆が指導する蜂起であった。この年、呉三桂が雲南で反清の挙兵をし、清の統治者たちを震撼させた。楊起隆はこの期に乗じて北京の漢族と一部の八旗の家奴(下僕)を組織し、義起(決起)の旗を挙げた。政治的な影響力を拡大するため、楊起隆は「反清復明」のスローガンを掲げた。自ら朱三太子と称し、「中興軍」を組織し、「広徳」という元号を使った。彼らはもともと1213日の五更(明け方の3時から5時)に松明に点火し決起する計画であったが、11日になって、情勢が突然変化した。この日、ちょうど「中興軍」に参加した八旗の家奴(下僕)、黄吉、陳益、及びその他30人余りが鼓楼西街で会議をしていた時、 黄吉と 陳益の主人がその知らせを聞いて密告し、清朝廷が軍隊を派遣し四方から彼らを包囲した。こうした情勢下、楊起隆は決起の予定を早めることを決断した。「中興軍」はひとりひとりが頭に白い布を巻き、肩に赤い布を掛けた。彼らの人数は少なかったが、戦闘は非常に勇敢で、幾重にも重なった清軍の面前でも、少しも恐れなかった。双方の軍事力の差がかけ離れていたため、「中興軍」は最終的に失敗した。斉肩王焦三、護駕指揮朱尚賢、閣老張大など数百人が捕虜にされ、磔(はりつけ)にされて殺された。楊起隆は包囲を突破し、陝西へ逃げ、引き続き反清活動を行った。7年後、この勇敢な蜂起指導者は清朝廷に逮捕され。殺害された。

 この時の蜂起は失敗したが、影響はたいへん大きく、以後北京と全国各地でしばしば漢族の反清復明活動が起こり、しかも多くの地方の蜂起で朱三太子の旗印が掲げられた。清の統治者はこのためあちこちで民間でかくまわれている朱三太子の行方を秘密裏に調査した。1708年(康熙47年)清の統治者は、明の太祖の第13子、代簡王の末裔、正定知府、朱之槤を探し出し、延恩侯に封じ、世襲させ、彼に明陵の墓守をさせた。

 人々の反抗、怒りの渦を突きつけられ、清朝廷は1685年(康熙24年)基本的に土地の囲い込み、家屋敷の占拠を禁止(雍正初年には完全に停止)し、間もなく「逃人法」の適用の制限、修正を行った。康熙末年から雍正初年、清政府は前後して「盛世滋丁、永不加賦」(康熙50年(1711年)の丁税(人頭税)の金額を基準とし、それ以降新たに増加した人丁(成人)からは丁税(人頭税)を徴収しない)の命令と「地丁合一」(人頭税を地租に組み入れる)の制度を公布し、人々の賦役負担を軽減した。この他、清朝廷は近畿一帯で水利事業を行い、荒地の開墾を奨励した。これらの措置は北京地区の社会生産性回復にプラスの効果をもたらした。

 清初、満州貴族と漢族地主の関係はいささか複雑なものであった。満州貴族は漢族、その他少数民族の反抗、自分たちの財産の掠奪を鎮圧するため、しばしば漢族地主の協力を取りつけ、漢族地主も次々と清朝の統治機構に加わった。しかし一方、満州貴族は自分たちの政治的地位を強固にするため、あちこちで漢族地主の進出を妨害し、彼らの力を抑制しようとした。彼らの経済利益は時には衝突を生み、北京近郊の多くの漢族地主の家屋敷、土地も満州貴族に囲い込まれ、占拠された。逃人法は漢族地主にとっても脅威であった。しかし、康熙帝の親政以降、こうした状況に変化が生じた。この時、八旗の組織は既に完全に封建君主により制御され、漢族地主と満州貴族の経済上の連携は次第に緊密となり、漢族地主の政治的な地位も向上していた。それに反して、八旗旗丁はこの時代、激しい分化が起こり、貧困旗丁は次第に漢族の人々同様に土地を失い、衣食に事欠く苦しい境遇に陥った。こうした情勢下、満漢両族の間の民族対立は相変わらず存在したものの、むしろ貧富の差が日増しに顕著になっていった。

第三節 経済活動と身分階級の関係

 康熙中期以降、北京地区の経済は次第に回復と発展の道を進みだした。郊外の多くの逃亡した農民たちが、また戻って来て農業生産に従事するようになった。北京城内の手工業者、商人たちは、前門外地区を再び繁華な商業地区、手工業者の工房の集中する地域として再興した。

 当時、中国国内の情勢も生産回復に有利に働いた。清朝が康熙20年(1681年)に三藩の乱を平定して以降、中国国内に平和が実現した。南方の物資は修復された運河に沿って続々と北に運ばれ、北京は再び全国の商業ネットワークの中の重要な拠点となった。

 この時代、北京地区の農業、手工業、商業は、大いに発展した。

農村での身分制度と地租、使役

 郊外の農業生産品は、食糧作物、野菜及び綿花などのような経済作物を含め、農民が自分で消費する部分を除いて、多くが都市の需要に供するために生産されたものであった。

 当時、郊外の皇庄は、糧庄、豆稭(豆がら)庄、半分庄、稲庄、菜園、瓜園、果実園などに区分された。清朝廷は1685年から1708年まで(康熙24年から47年まで)に次のように規定した。糧庄は一ヶ所の占有地が1800畝、毎年の食糧歳納が百石、豆稭庄と半分庄は一ヶ所の地畝(土地)と税糧が糧庄の半分とした。近郊の玉泉山の 稲庄水田、旱田は、それぞれ別途歳糧を徴収した。各皇庄に庄頭を置き、庄田を耕作するのは庄丁であった。王庄も基本的に皇庄と同様に管理された。八旗旗丁の壮丁地はたいへんこまごまとした小面積の土地で、貧しい旗丁は、多くの旗地を漢族地主や少数の自作農に転売した。乾隆年間に到り、旗地は既に半数が売り払われていた。転売された旗地は後に一部分が清朝廷により買い戻され、官有資産とされたが、大部分が漢族地主の世襲の不動産となった。

 康熙末から雍正初、清朝廷は新たに増えた人口の丁銀と、元々あった賦役丁銀を地租に組み入れ、農民の負担は明代や清初期に比べて軽減した。こうした北京地区で引き起こされた変化は、曾ては庄頭が庄丁を奴隷や農奴と見做して使役していたのが、今は強制的な労役は減少し、庄丁は主に地租を納めなければならず、庄丁の身分は次第に小作農に転化した。小作農は耕作地から追い出されることはなくなったが、彼らは引き続き満州貴族と漢族地主に地租を払い、貴族地主に家の修理などの雑役をする必要があった。自作農は国家の租税、賦役の負担は少なかったが、清朝の緊急の事業があると、相変わらず現場に召集派遣、もしくは雇用募集された。

農業生産の回復と発展

 農業生産を発展させ、自らの困窮した生活を改善するため、近郊の農民はこの時期、満州貴族と庄頭に反対し、「増租奪佃」(地租を増額し、小作人の土地を奪い、別の小作人に耕作させ、小作料を増額する)に反対し、清朝廷の雑派差徭(正税以外の各種の労役の割り当て)に反対するといった闘争を行い、清朝廷に迫って、乾隆年間に買い戻された旗地(八旗の官兵に分配された土地)に庄頭を設けるのをやめ、満州貴族と庄頭が「増租奪佃」を行うのを禁止し、衙門の白役(編成外の差役)などをやめるよう求めた。これらの闘争は、生産の発展に有利に働いた。例えば、庄頭の土地を設けるのをやめ、清朝廷も自らこう承認した。「ひとたび民を招いて耕作させ、また肥沃な土地になる。もし庄頭がいれば、次第に荒地になってしまう」。庄頭を置くのをやめるに従い、旗地の中でも漢族地区の小作農制度が盛んに行われた。農民たちは大規模な荒地の開墾、水利建設、収穫の多い作物や経済作物の作付けなど生産発展の取り組みを進めた。

 過去近畿(都北京の周辺地域)一帯には多くの荒地があったが、康熙中期以降になると、これらは徐々に農民によって切り開かれ、耕作可能地になった。大興県は康熙年間に全部で120116畝(約8千ヘクタール)開墾され、宛平県では40895畝(約27百ヘクタール)開墾された。雍正年間は正式な記録が無く、乾隆年間には北京南部一帯だけで数千頃の水稲田が開墾された。これ以外に、満州貴族や庄頭が地方の役所に返却した荒廃した開墾地(熟荒地)があり、こうした「熟荒地」は元々多くが漢族が開いた肥沃な土地であったが、満州貴族が囲い込みをして後、これらは次第に荒廃し、「薄碱沙压」(土地が痩せ、アルカリに浸食され、流砂に覆われた)の劣地となった。地方の役所はこれらの土地を貧しい農民に貸して耕作させた。土地を愛する農民たちは、やがてそれら荒廃した土地の様相を一変させ、いくつかの土地は三五年も経たぬうちに再び上等の沃地に変えられた。こうした荒地の開墾は、近畿一帯の農業生産量を大幅に向上させた。

 水利建設も重要な生産発展の事業であった。郊外の農民は、康熙年間から乾隆年間、清朝廷の監督下、永定河、北通河、通恵河(大通河)、清河、及び南苑の団河、一畝泉などの河川を改修し、その中でも特に取り上げられたのが、永定河の浚渫であった。永定河は旧名を渾河、またの名を無定河と言った。永定河は山西省から山を出て近畿一帯の平原地区に入って後、地勢が平坦であるため、盧溝橋から下流でしばしば氾濫を起こして災害となり、宛平、良郷などの地の農田や村落を水没させた。清の統治者は当時の階級間の対立を緩和し、自らの統治を強固にするため、1698年から1772年まで(康熙37年から乾隆37年まで)、大量の貧農と河兵を雇い入れ、永定河の浚渫を六度行った。改修方法は、「疏筑兼施」で、一方で川に沿って堤防を築き、一方で川の流れる方向を改め、流れをよくした。最後に永定河の水を沙家淀から鳳河を巡って大清河に入れ、再び天津から海に流した。六回の改修を経て以後、永定河はこの時代、基本的には安定していた。

 永定河等の河川を大改修して後、過去積年の水害は減少し、水利の効用は増加した。河患問題は当時は真の解決は不可能だったが、尚小さくない効果が発生した。農民たちは到るところに水門を開設し、水を引いて灌漑をし、多くの畑を水田に改めた。例えば雍正年間、盧溝橋の西北の修家庄、三家庄一帯に、農民が永定河の水を引いてこれを投入し、村の南の沙溝は肥しを施すことなく肥沃になった。乾隆年間、南苑の団河と一畝泉を改修し、その川の畔に稲田数千頃を開墾し、益々灌漑の利を資することとなった。

 水利の構築に伴い、北京地区の農民は水稲などの収穫量の多い作物を植え付けた。過去にもここでは一部水稲田もあったが、雍正年間に永定河の改修を行ったことで、短期間のうちに水稲の作付面積は133千畝(8,860ヘクタール)以上の数字にまで向上した。乾隆年間には京南で数千頃に達した。当時、北京では「苑囿(皇族の囲い込み地)以南、淀河以北は、を引いて順に流し、秔(=稲(うるち米の稲)が生い茂った」。水稲田の収穫量は、『順天府志』の記載に依れば、「中熟(中程度の作柄)の歳、畝(当り)谷五石を出ず」、麦や粱(コウリャン)、黍(キビ)の生産量に比べ、数倍高かった。水稲の他、別の高収穫作物としてトウモロコシの清代初めに繁殖が開始した。この時、近畿一帯では大部分の土地がまだキビ、コウリャン、麦などを植えていたが、これらの食糧作物も、水利によって以前よりかなり増産された。

 近畿(都北京の周辺地域)一帯の農民が栽培した経済作物は、主に綿花と染料植物であった。清の内務府管轄下の荘園では、棉靛戸を設け、綿花と藍の生産に従事し、官営の手工業の需要に供した。

 都市の需要に供応するため、野菜栽培と花卉栽培が盛んになった。近郊農民は、用水路や井戸水を利用して多くの菜園を灌漑し、北京城中の野菜農家は大小の菜園数か所を回復、開拓した。豊台の花卉農家は芍薬など高価な花卉を栽培した。毎月3日、13日、23日に、彼らは車を押して北京城内の槐樹斜街に行って販売した。草橋にも多くの花畑があり、各種の花の苗を栽培していた。

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北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

2024年01月31日 | 中国史

清摂政王ドルゴン

第一節 北京、清朝の都城

 1644年(大顺永昌元年)430早朝、李自成は農民軍を率いて北京から退却した。城中に留まっていた明の御史曹溶が直ちに逃げ出し、自らを西城巡視に任じ、崇禎帝の位牌を祭る都城隍廟を設立した。彼は他の明朝の官僚と一緒に臨時管理機構を立ち上げ、まだ北京城から退却していなかった農民軍兵士を虐殺した。53日、清の摂政王ドルゴン(多尔衮)が清の兵士を統率して北京に入城し、多くの明の官僚が清に投降した。これと同時に、三河県(北京市と天津市の間の河北省の飛び地)では人々の髪を剃る(薙髪(ちはつ)。漢族に辮髪を強制すること)のに反対する抗清闘争が爆発した。

 漢民族の官僚地主を籠絡するため、ドルゴンは、およそ明朝の在京の内閣、六部、都察院などの役所の官吏は全て元の役人と満州族の役人が一体となり事務を行うよう命令を発した。彼は前後して明の吏部左侍郎・沈惟炳ら、一群の漢族官僚を登用し、明の廃大学士・馮銓(ふうせん)を召集し、清の内三院大学士にした。ドルゴンは北京に満州貴族の支持の下、満州族と漢族の官僚が共同で統治する清政権を打ち建てた。

 清朝廷は、明の崇禎皇帝のために喪を発し、崇禎帝の諡(おくりな)を懐宗端皇帝(後に庄烈帝に改めた)とし、明朝の臣民に代わって「君父の仇」に報いなければならないと宣言した。これは清朝廷が山西、陝西の大順農民軍(李自成の勢力)を進攻し、内地を占領するために作った政治的輿論である。

 9月、幼年の清朝第3代順治帝は瀋陽から北京に到着した。10月、「鼎を燕京に定める」、すなわち北京を清朝の首都にすると宣言した。

 山西、陝西農民軍の抗清闘争が失敗して後、清軍は南中国を統一する長期の戦争を開始した。1664年(康熙3年)8月になって、清軍は大順軍の最後の拠点、鄖陽(うんよう)茅麓山(湖北省十堰市一帯)を攻め落とし、また南明(16441662年、北京陥落後、明朝宗室が南方で樹立した政権)の抗清将帥張煌言を浙江省定海山中で捕虜にし、農民軍と南明諸王の反清武装勢力はようやく完全に鎮圧された。康熙帝(16611722年)から乾隆帝(17361796年)の時代まで、清朝廷は主に蒙古族ジュンガル(准噶尔)部に対する戦争の勝利を通じて、より一層中国の多民族国家としての地位を強固なものにした。

 国内情勢の進展に伴い、北京は、中国全土の中で、日増しに重要な地域になった。北京は中国の各民族との連係を維持する政治的中心であり、同時に清統治者が幅広い人々を管理する拠点であった。北京はこれまでの多くの王朝に比べても、より一層漢族と他の民族との経済、政治、文化での往来や協力を発展させた。1652年(順治9年)と1780年(乾隆45年)、ダライ・ラマ五世とバンチェン・ラマ六世が前後して北京に来、チベット族が中国全土の統一を擁護するという確固たる願望をもたらした。ダライ・ラマは清朝廷から「西天大善自在佛領天下釈教普通鄂済達頼喇嘛」に封じられた。清朝廷は北京にダライとバンチェンが行幸中に北京に一時滞在するため、西黄寺を建立した。バンチェンが北京で逝去後、「清浄化域」塔が建立された。清朝の皇室と長い間婚姻関係にあった蒙古の王公貴族はしばしば北京に来て、ある者は長期間北京に住み、清朝廷は彼らに親王、郡王、貝勒、貝子などの爵位を与え、また北京に彼らのために多くの壮麗な屋敷を建造した。北京城郊外の多くのラマ教寺院、いくつかの西域風の建築物も、清朝初期の各民族の政治、宗教上の連携の密接さをあらわしている。モンゴル商人は毎年たくさんの毛皮などの商品を持って北京に来て販売し、他の少数民族の商人も北京で交易活動を行った。清朝廷は少数民族の往来、交易を促すため、北京徳勝門外に彼らの積荷を保管する倉庫(貨栈)、「馬館」を設立し、関税、商業税を軽減した。漢民族の多くの手工業品や農産物、例えば絹織物、薬材、鉄器、陶磁器、茶葉などは、北京やその他の地方から少数民族の住む土地に運ばれた。北京の国子監では各民族の子弟が勉強した。漢民族と各少数民族の生産経験は、常に北京で相互交流が行われた。こうした政治、経済、文化活動は、各民族の関係が日増しに緊密となり、この多民族統一国家が日増しに強固になっていくことをはっきりと説明していた。

 当時、北京城郊外で各民族が雑居している様子は、この統一多民族国家の縮図であった。北京地区の住民はもともと漢民族、モンゴル族、回族、及びその他少数民族を含んでいた。清軍の入関後、北京には数十万の満州族の住民が増加した。満州八旗、蒙古八旗、漢軍八旗、及び八旗中の朝鮮族、ベトナム(越南)族旗丁(漕運担当の兵士)が北京の各地に分布していた。東城一帯に住むモンゴルの王公貴族は多くのモンゴル族のラマ僧を連れて来た。これらのラマ僧、チベット族のラマ僧、漢族のラマ僧は一緒に北京のいくつかの寺院で暮らし、経典を唱えて修行し、仏事を行った。北京近郊の農業従事者は主に漢民族であった。北京城内で暮らすのは、大小の官僚の他、かなりの人数の漢族商人、工房主、手工業者、露店商、工員、そして貧民であった。回族の人々は城内で主に飲食業などを営んでいた。前門外には漢族、回族などの手工業者や商人が集まっている所であった。康熙時代(16621722年)に中国にやって来た一部の俄羅斯族(ロシア人)は、城東北角の東正教会付近に集まって住んでいた。北京に住み、全国各地から北京にやって来た各民族の人々は、北京のこの時期の経済、文化を発展させた。例えば、北京城内外に分布する壮大で美しい建築物、七宝焼き(景泰藍)、琺瑯、象牙彫刻など精巧な特殊手工芸品、上流階級の生活を描いた小説『紅楼夢』、各種の農業技術など、これらは中国内のみならず、世界文化史上でも、重要な地位を占め、独特の風格を帯びていた。18世紀前後の北京は、世界最大にして最も美しい都市のひとつであった。

第二節 清初の民族弾圧と北京の人々の反抗闘争

 ドルゴン(多尔衮)は78日に次のような命令を下した。「順治元年(1644年)より、およそ正規の金額以外の、一切の増税、例えば遼餉(りょうしょう。明末、後金が侵入し、遼東の戦況緊迫で、軍糧不足に対し銀を徴収)、剿餉(そうしょう。明末の農民蜂起対応で不足する軍糧に対し銀を徴収)、練餉(明末の農民蜂起等社会不安対応で増強する正規軍訓練のための軍糧に対する銀の徴収)、及び商人を呼び寄せて、米、豆を買い付けさせる行為からは、尽く免除されるようにする。」明王朝の苛酷な政治は廃除され、各地に住む人々のこうした重い税負担から解放されたが、北京地区は、満州貴族、役人、八旗の兵士が大量に集まっていたので、清朝廷は絶えず北京近郊の漢族や少数民族の人々の家屋や土地を囲い込んで占拠し、土地や家の囲い込みの過程で満州貴族を保護し、各民族の人々を弾圧する制度を確立した。こうして北京地区の社会生産を著しく破壊し、北京の人々の絶えざる反抗を引き起こした。

清統治者による北京近郊(近畿)の土地囲い込み(圏地)

 清朝廷の家屋や土地の囲い込みは、清軍が北京に入った翌日から始まった。この日、ドルゴンは内城に住む漢人に三日以内に外城か他の土地に引っ越すよう強制し、内城を八旗の駐留地に区分けした。(八旗は清朝軍事力の中核となった独自の軍事・行政・社会組織。軍編制の色別旗に黄・白・紅・藍の4色を用い,それぞれに正旗(縁取りのない旗),鑲旗(じょうき。縁取りをした旗)の2種があり,8旗とした。)鑲(じょう)黄旗は安定門内に住み、正黄旗は徳勝門内に住む、何れも城北である。正白旗は東直門内に住み、鑲白旗は朝陽門内に住む、何れも城東である。正紅旗は西直門内に住み、鑲紅旗は阜成門内に住む、何れも城西である。正蘭旗は崇文門内に住み、鑲蘭旗は宣武門内に住む、何れも城南である。これより、内城は八旗兵営と満州貴族の屋敷で埋め尽くされ、ただ一部分、八旗の兵営から比較的遠くに住む住民と野菜農家、露天商などは内城の元の住所に留まった。これら引っ越さなかった漢人は後に外城の多くの住民と共に満州貴族からの新たな掠奪に遭った。満州貴族やその走狗は、城中で建屋や土地を強制的に占領する時に極めて横暴、狂暴で、順治17年(1660年)刑部尚書の杜立徳の上奏によれば、彼らは「或いは園地を強制的に占拠し、野菜や苗を着服、占領した。或いは家屋を取り壊し、壁や建屋を取り除いた。或いは墓地を奪い、塚を破壊し民に災いをもたらした。……或いは調度品や人々の日用品といった細々としたものまで掠奪し、民を追ってゆすりや賄賂の要求をし、それも一度だけのことでは無かった」。当時、張立という名の野菜農家があり、彼は光禄寺より遣わされた者に野菜農園と家屋を無理やり占拠されただけでなく、家の中の薪、糞便、ミツバチの巣箱、鉄鍋、井戸の蓋、犬まで皆彼らに取り上げられ、しかも更にひどく殴られた。

清代北京城八旗分布

 満州貴族と八旗旗丁に占拠し強奪された土地を一定の区域に制限するため、164412月、清朝廷は漢族官僚、柳寅東の建議を採用し、近郊5百里内(直隷北部と内蒙古の一部分)の土地を囲い込んだ。何度かの囲い込みを経て、清朝廷は全部で159千頃(1頃は6.6667ヘクタール)余りの土地を囲い込ん(圏占)だ。そのうち57百頃余りは皇室の荘園とし、133百頃余りは諸王の宗室の荘園とし、1412662畝は八旗旗丁の壮丁(満30歳になり兵役に就く年齢の男子)の土地とした。北京近郊の大興、宛平の域内で囲い込みされた土地は58百頃余りに達し、両県の土地総面積の80%以上を占めた。

 囲い込みをされた土地のありさまは、たいへん悲惨であった。満州族の役人は皇帝と戸部の命令を奉じて、各村に行き、囲い込みした土地を測量し、馬で駆け回った(姚文燮『雄乗』巻上「凡そ民地を囲い、天子の命令を請う。戸部は満州族の官吏と主管部門の官吏を派遣し、下級役人、撥什庫(官吏名。満州語)、甲丁といった役人を率い、やってきた村では田畝を検分し、二騎の馬の前後で、連れて来た部下に縄を配って測量、記録させ、四方を調べ、合算する。囲い込み地毎に全部で数百十响(きょう)。壮丁1人に5响与え、1响は6畝(ほ。1畝は6.667アール、1/15ヘクタール)である。「响」とは1本の縄を折り曲げて作った方形の広さで、この方法は弓を使う測量より手早く測ることができた。」)時、村中の農民は外の囲い込みされた土地から銅鑼の音や怒鳴り声が聞こえてくると、ひとりひとりがたいへん驚き慌て、泣いても声にならなかった。囲い込みが定まって後、農民は直ちに村から追い出された。農民は土地と家屋を失い、大部分が生活の術が無かった。清朝廷は遠くの土地を彼らに耕作するよう指示したが、一に道のりが遥かに遠く、引っ越し費用が欠乏し、二に指示された土地は尽く「アルカリ土壌の痩せた土地の村」や荒地で、農民はそこに行ってもすぐには定住して就業することができなかった。多くの老人や身体の弱い者は、村からあまり遠くないところで餓死者となり、道端で倒れてしまった。逞しい農民は飢餓に迫られ、到るところで反抗し、蜂起した。

 近畿と直隷の一帯はしょっちゅう水害、旱魃の災害が発生したが、こうした自然災害の人々への脅威も、土地囲い込みのひどさには遠く及ばなかった。1654年(順治11年)戸科給事中の周体観の題奏(上奏)によれば、当時直隷の各受災地区では大量の被災民が餓死し、その中の89割が囲い込み地が最も多かった順天、永平、保定、河間等4府であった。まだ囲い込みをされていないか、囲い込み地のたいへん少なかった真定、大名等4府は12割を占めるに過ぎなかった。題奏によれば、餓死者は「もとより凶作によりもたらされたものだが、実に久しく土地を囲い込まれ占拠された民と未だ土地を囲い込まれ占拠されていない民では天と地ほどの差があった」。こうした状況は、囲い込み地が漢族の農民の大量の流浪と死亡をもたらし、北京地区その他の土地を囲い込まれた府州県の農業生産を直接破壊したことを非常に具体的に説明している。「離散が世間に満ち溢れ、死体が山も谷も埋め尽くした」、これは他でもなく、周体観が当時の近畿一帯の有様を描写した一幅の悲惨な絵図であった。

皇庄、王庄と旗地

 順治年間(16441661年)、近畿一帯の土地に設けられた皇庄(皇族の荘園)は、全部で132ヶ所あり、それぞれに荘園を管理する撥什庫と庄頭が設けられ、庄丁の生産を監督し、庄丁は食糧作物の生産以外に、養蜂、綿花栽培、藍栽培も行った。満州貴族は自分の荘園の中にも同様に撥什庫と庄頭を設置した。八旗旗丁はひとりひとりが各々30畝(2ヘクタール)の土地を得て、また清朝政府から兵士と、給与の食糧もしくは銭を受け取った。

 入関(北京入城)以前、満州貴族は大封建地主で、同時にまた大量の奴隷を保有し、当時の八旗制度は、封建的な組織と残余していた奴隷制の組織が結合したものだった。入関後、彼らはこうした社会体制を北京地区にもたらし、満州貴族、庄頭と庄丁との関係も、こうした遅れた封建組織の性質を反映したものだった。例えば清朝廷や満州貴族が指名し派遣された庄頭は、自分たちは信任され、取り立てられた下僕だと考えた。彼らは自分たちの主人の権勢を頼みとして、庄丁を農奴として使役した。庄丁は土地を耕さなければならないだけでなく、銀租と現物租を納入し、それ以外に各種の重い労役を負担しなければならなかった。彼らは土地を離れることは許されず、さもないと「逃人」とされ、庄頭に逮捕された。これら庄丁は、一部は満州貴族が関外から連れて来たもので、その中の多くが、清軍が明の崇禎年間に4度入塞した時に、河北、山東などから攫(さら)って来られ、一部は北京近郊で貴族の庄頭によって強制的に八旗軍の下で奴隷とされた漢族の農民であった。こうした庄丁は搾取やいじめに耐えられず、しょっちゅう逃亡やサボタージュを行った。そのため、満州貴族も周辺地域の租佃(小作)制度の影響を受け、少しばかり庄丁の待遇を改善せざるを得なくなり、また漢族の農民で荘園に来る者を吸収し、小作農(佃農)とした。

 八旗旗丁は満州貴族と異なり、彼らは囲い込み地の中からいくらも利益を得ていなかった。清朝廷は八旗で体力のある旗丁は兵隊を職業とすると規定し、「壮丁地」を耕作するのは、彼らの家族、随従と兵隊になることのできない旗人だけであった。こうした人々は、農業生産の習慣が無かったり、八旗兵に従って出征したりするので、しばしば土地を荒れるに任せ、耕作を行わなかった。康熙11年(1672年)都察院の上奏によれば、満州兵丁は土地を分配されたが、数年来収穫が上がっていない。命を奉じて出征するに、必ず随行しなければならない人々は、耕作の業を失するに到り、しばしば土地を見捨てて顧みず、ひとたび旱魃、洪水に遭えば、また部隊は口糧を与えなければならない。多くの旗丁は付近の農民に土地の耕作を強要したり、土地を彼らに貸して、自分は坐して地租を受け取った。旗丁の経済的地位は間もなく分化し、貧しい旗丁は、後に売買を禁じられた旗地を一区画一区画と、こっそり漢族地主に売り渡してしまった。

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北京史(三十八) 第六章 明代の北京(16)

2024年01月21日 | 中国史

八達嶺長城

長城と居庸関

 万里の長城の修築は戦国時代に始まった。当時、各国は分裂して雄を称し、強が弱を凌駕(りょうが)し、衆が寡を暴き、領土兼併の戦争が已まず、このため互いに防御を行うための土木事業として、長城が各国の辺境に出現した。斉、楚、魏、燕、趙、秦などの大国が長城を築いただけでなく、たとえ小国の中山国でさえも長城を築いた。これらの長城は、各国がお互いの防御のために用いただけでなく、一部は匈奴の侵入を防御するためにも用いられた。これは燕、趙、秦北部の長城の場合である。この当時、燕、趙、秦の北部は匈奴と境界を接していて、しばしば匈奴の騎馬隊の侵入、攪乱を受け、たいへん苦悩していた。このため北部に長城を修築せざるを得ず、それによって防御していた。紀元前221年秦の始皇帝が中国全土を統一し、その他の長城は悉く取り壊されたが、引き続き匈奴の侵入を防御する見地から、蒙恬(もうてん)が燕、趙、秦北部の長城を繋ぎ合わせ、修理し、合わせて一本の長城にさせた。西は臨洮(りんとう。今の甘粛省岷県)から東は遼東に至り、長さは万余里に達した。ここから、長城は中国北部の土地の上に巍然(ぎぜん)と聳え立った。

 秦の始皇が築いた長城は、上は燕、趙、秦の長城の旧を承け、下は歴代の長城の基に立ち、後世への影響はたいへん大きかった。この後、両漢、北魏、北斉、北周、隋、明などの王朝が、長城に対して大きな徭役を興し、その中で漢、明両王朝での規模が最も大きかった。その他の王朝では長城の一部を修繕するにとどまり、漢代は長城の西を敦煌付近の玉門関と陽関まで開拓し、明代は長城全体を修理し、多くの区域について完全に新たに修築した。

 明朝は大いに長城を築いたが、その目的は北部のモンゴル勢力とその後に蜂起した東北の女真政権を防御するためだった。明朝は開国の第一年、すなわち1368年、朱元璋が大将軍徐達を派遣し、居庸関などの長城を修築した。この後各皇帝が数度に亘って長城を修理し、2百年余りの時間をかけ、ようやく明の長城の全部の工程が完成した。この長城は西は嘉峪関を起点に、東は鴨緑江に至り、全長127百里余りであった。そのうち、山海関から鴨緑江に至る区間は、工事が簡素であったため、今では崩壊が甚だしくなっている。山海関から嘉峪関に至る区間は、工事が堅牢にできており、今日まで比較的良く保存されている。

 明代は中国史上、長城を修築した最後の王朝であった。秦の始皇帝の時代の長城は破棄されて久しく、その遺跡は既に捜すのが困難である。現在私たちが見ることのできる長城は明代に築かれた長城である。

 万里の長城は、中国古代の各民族の統治集団が北方で対立、対抗した結果の産物で、ある時期には中原地区の統治者が北方の遊牧民族の侵入、攪乱を防御するための防御工程であった。これは中国史上、堅牢で壊すことができない民族間の砦(とりで)であり、(本来の意味での)中国北方の国境ではない。中国が多民族統一国家として発展するに伴い、各民族間の関係は日増しに密接になり、長城は次第にその役割を終息させていった。

 居庸関八達嶺付近の長城は、明代の長城の中でも代表的なものである。この区間の長城は高く大きく堅牢で、城壁の表面は、長方形の石板が積まれ、内部は土と砕石が詰められ、頂上面は方形のレンガが敷かれ、平均の高さが約7.8メートル、頂上面の幅が5.8メートルで、五匹の馬を並んで走らせることができた。城壁の上の凹凸の突き出た部分(垛口。胸壁ともいう)の壁の高さは2メートル近くで、その壁の一つ一つに見張り穴と射撃口が設けられていた。城壁の峰の険要や曲がり角んぽ地点には、全て高さの異なる「堡塁」が設けられ、壁に凹凸がある以外に、高い地点の堡塁は敵楼と言い、兵士が見張りをし宿営する場所で、低い地点の堡塁は墙台と言って、兵士が巡邏(じゅんら)し歩哨を置く場所であった。城壁の外側の付近の山や丘の上、或いは遠くがよく見える場所には、更に狼煙(のろし)台(烽火台、烽燧、墩台、烟墩、狼烟台)が設置され、日中には煙を挙げ、夜間は点火し、辺境警備の情報伝達を行った。

八達嶺烽火

 居庸関と八達嶺付近の長城は全て山に依って築かれ、その工事はたいへん困難であった。八達嶺長城で発見された明の万暦10年(1582年)長城修築の石碑の記載によれば、当時長城の修築は軍の下士官と民間の人夫が区域を分けて請け負う方法が採用され、工事をした軍士、民夫は905名、請け負った長城の長さは333寸(11メートル)、高く連なる城壁の凹凸の突き出た部分(垛口)は23尺(7.5メートル)。7月中旬から10月中旬まで、3か月の期間を経て、ようやく完成した。その工事の進展が容易くなかったことは、推察できる。

 明代の長城の沿線には多くの著名な険しい関門(険関)、山間の要害の地(隘口)があり、居庸関はその中のひとつである。『呂氏春秋』と『淮南子』は何れもこう言っている。「天下の九塞、居庸はその一なり」。漢、唐でも居庸に関が設けられた。その後、各時代にたびたび建立、設置され、或いは西関と称し、或いは軍都関と称し、或いは納款関と称し、名称はひとつではなかった。(『昌平山水記』巻上)現在の居庸関1368年(明洪武元年)大将軍徐達が建設した。(劉效祖『四鎮三関志・建置考』)

 居庸関関城は一本の長さ約40里(20キロ)のでこぼこした(崎岖)峡谷の中間に建築され、この峡谷の名は関溝と言い、華北平原が蒙古高原に通じる唯一の近道(捷径)である。これは南から北へ、その間に南口、居庸関関城、上関、北口(八達嶺)などの関城が分布している。広義の居庸関は、峡谷全体を指して言う。狭義の居庸関は、単に居庸関関城の所在地だけを指す。

 居庸関関城は、南は南口から15里離れ、北は八達嶺から20里離れ、山を跨いで築かれ、南北に二門あり、その上には明の景泰年間(14501457年)に題記された「居庸関」の三文字の石の扁額が嵌め込まれている。南口から上ると、両側の山壁が立ち、中を一本の道路が走り、両側は皆幾重にも重なり合った山々(重岭叠嶂)で、日光を覆い隠すので、この関は古来より絶険と呼ばれた。明朝はここに参将、通判、掌印指揮各1名を設置して守らせ(扼守)、また巡関御史1名を設置し、居庸、紫荊の二関を往来して監視(按視)させた。

 居庸関は険要(地勢が険しい)とは言え、1644年(明崇禎17年)李自成の蜂起大軍が柳溝から居庸関に前進(進抵)し、明将の唐通は戦わずに降り、居庸関はその険要を失い、李自成はそこで長躯北京に入った。

 居庸関が有名な所以は、その地勢が険要であるだけでなく、その風景が秀美なことによる。毎年春夏になると、草木が青々と茂り、様々な花が咲き誇り、緑が幾重にも重なり合い、美しい景色が山に満ちている。このため、金代以来、「居庸叠翠」が燕京八景のひとつになった。

 とりわけ指摘する価値があるのは、居庸関関城の雲台である。この台の上には元々三基の石塔があった。1345年(元の至正5年)に建てられ、名を過街塔と言った。後に三塔は破棄され、台上に一寺が建立された。この寺は1439年(明の正統4年)の再建を経て、「泰安寺」の名を賜ったが、清の康熙年間(16621722年)に火災で焼失した。現在の雲台は全て漢白玉の大石を積み上げた、アーチ門(券門)の通路のある石台である。アーチ門の内側の石壁の上には四大天王像が彫刻され、造形が活き活きし、まるで飛び出さんばかりである(跃然欲出)。石壁の上には梵語、漢字、チベット語、パスパ文字、ウイグル文字、西夏文字など6体の文字でダラニ(陀羅尼)経が刻まれている。雲台は重要な芸術価値のある元代の建築遺跡である。

居庸関雲台

居庸関雲台・四天王像レリーフ

居庸関雲台ダラニ経彫刻

 八達嶺関城は峡谷の最高点に盤踞し、高きに居て下を臨み、守りやすく攻めにくく、地勢は極めて険峻である。うち一か所の懸崖の上に、「天険」の二文字が穿たれている。関城は1505年(明の弘治18年)修築が始められた。(『四鎮三関志・建置考』)東西に二門有り、その上には何れも石の扁額が付いていて、東門は「居庸外鎮」と題され、西門は「北門鎖鑰」(軍事上重要な場所)と題されている。八達嶺から居庸関を見下ろすと、井戸の中を覗くかのようで、それゆえ古代から人々は「居庸の険は関城に在らずして八達嶺に在り」と称した。八達嶺を守ることは、それゆえ居庸関を守ることで、このため、元代にはここに千戸所を設け、明代にはここに守備を設けたのだ。

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北京史(三十七) 第六章 明代の北京(15)

2024年01月18日 | 中国史

十三陵

 北京昌平県北天寿山の麓に、明朝の13人の皇帝の墳墓が分布し、十三陵と称する。明代には16人の皇帝がいたが、開国の皇帝、朱元璋が南京孝陵に葬られ、建文帝朱允炆(しゅいんぶん)が「靖難之役」の中で亡くなった場所が分からず、景泰帝朱祁钰(しゅきぎょく)は帝号を削られ、死後は王礼に依って北京西郊の金山に葬られた。それ以外の13人の皇帝は、均しく昌平県北天寿山の麓に葬られた。十三陵とは、長陵、献陵、景陵、裕陵、茂陵、泰陵、康陵、永陵、昭陵、定陵、慶陵、徳陵、思陵である。

 明の成祖朱棣(しゅてい)は皇位を取得して以後、鋭意北京に遷都し、1407年(永楽5年)7月皇后徐氏が亡くなり、人を遣って北京で陵地を選定するのに、諸山を遍歴させ、「吉壌」(風水の良い墓地)を捜した。最後に「地理術人」(風水師)廖均卿(りょうきんけい)が昌平県北黄土山に「吉壌」を得、朱棣が自ら現場に赴き決定をし、遂に黄土山を天寿山に改め、1409年ここに陵墓の造営を開始し、1413年(永楽11年)完成を告げ、名を長陵とした。皇后の徐氏は先に南京に葬られていたが、この年南京から長陵に改葬された。1424年(永楽22年)7月、朱棣は北方へ遠征し、北京に凱旋の途中、楡木川(今の内蒙古多倫県の域内)で亡くなり、12月に長陵に葬られた。この後、その子孫が継承し、皆陵墓を長陵の左右に造営し、明朝末年までに、全部で十二陵が揃った。

 明滅亡後、更に思陵が出現し、遂に十三陵が形作られた。思陵だけが西南の一隅にあり、他の陵とは隔絶して見えない。ここは元々朱由検(16代崇禎帝)の妃の田氏の墓であった。1642年(崇禎15年)田貴妃が亡くなり、ここに葬られた。朱由検は即位し、陵墓の地を選定しようとしたが、天寿山にはもう選定する土地が無く、それとは別に遵化に営陵する建議があったが、まだ実施していなかった。(『帝陵図説』巻31644年李自成が北京を攻め落とし、朱由検は煤山(今の景山)で首をくくって死に、皇后の周氏は宮中で首をくくって死んだ。李自成は彼らを田妃の墓の中に葬るよう命じたので、元昌平の小役人だった趙一桂らが金を集めて墓作りを開始し、田妃を右に移し、周皇后を左に置き、朱由検を真ん中に安置し、よもぎを刈って土を封じ、慌ただしく墓を完成させた。清朝は入関(山海関内に入って)後、この墓に追加工事をして陵にし、名称を思陵に改めた。

 明朝の埋葬制度では、一帝一后の合葬であった。例えば長陵には成祖朱棣と皇后徐氏が埋葬され、献陵には仁宗朱高熾と皇后張氏が埋葬され、景陵には宣宗朱瞻基と皇后孫氏が埋葬され、泰陵には孝宗朱祐樘(しゅゆうとう)と皇后張氏が埋葬され、康陵には武宗朱厚照と皇后夏氏が埋葬され、徳陵には熹宗朱由校と皇后張氏が埋葬された。しかし裕陵以後は、皇后が慣例通り合葬された以外、位を継いでから合葬する、又は皇帝が位を継いでからその生母或いは祖母を追尊してから合葬することになり、このため、それにつれ一帝二后合葬、一帝三后合葬という情況が生まれた。例えば裕陵には英宗朱祁镇と皇后銭氏、周氏(憲宗の母)が埋葬され、茂陵には憲宗朱見深と皇后王氏、紀氏(孝宗の母)、邵氏(世宗の祖母)が埋葬され、永陵には世宗朱厚熜と皇后陳氏、方氏(陳氏死後に立てられた皇后)、杜氏(穆宗の母)が埋葬され、昭陵には穆宗朱載坖(しゅさいき)と皇后李氏、陳氏(李氏死後に立てられた皇后)、李氏(神宗の母)が埋葬され、定陵には神宗朱翊钧(しゅよくきん)と皇后王氏、光宗の母、王氏が埋葬され、慶陵には光宗朱常洛と皇后郭氏、王氏(熹宗の母)、劉氏(崇禎帝の母)が埋葬された。思陵は特殊な情況で、崇禎帝朱由検と皇后周氏、妃の田氏が埋葬された。このように、十三陵には十三帝二十四后妃が埋葬されている。

 明初、宮妃従葬の令が出され、およそ皇帝死後、諸妃は従葬させるよう強制された。長陵にはいわゆる東西二井があり、東井は徳陵の東側、西井は定陵の西北にあり、すなわち朱棣の十六妃が従葬された場所であった。従葬者の墳墓はと称した。これは墓穴があるだけで、隧道が無く、棺桶は上から直下に降ろされ、井戸に降ろされるのと同じだからである。このような人を殉葬させる制度は、英宗の末年になってようやく廃止された。この後、諸妃嬪は天寿を全うすると、各々その墳墓があり、あるものは数人、十数人が一つの墳墓に合葬され、多くが北京西山、金山に埋葬され、また天寿山の陵墓地区内に埋葬されたものもあった。

 十三陵の建築には、膨大な体系があった。陵区全体の周囲は40平方キロ、周囲には中山口、東山口、老君堂口、賢庄口など10の関所(関口)があり、各々の関所の間は全て囲い壁(垣墙)でつながれ、陵区全体が囲われていた。陵区の南端及び西南端には、大小の赤色の門が建てられ、そこから出入りできた。しかし、これらの建物は現在はもう残っておらず、その残跡が見られるだけである。

明十三陵陵区地図

 昌平から北に行き陵区に到ると、五架六柱6本の柱の上に5つの小屋根が掛け渡された)の白石坊(石牌坊が一基あり、一色の漢白玉で作られ、1540年(嘉靖19年)に建立された。

石牌坊

更に北に行くと大紅門に到り、門は三洞に分かれ、門外の両側にはそれぞれ下馬碑が一基あり、その上には「官員らはここに至り下馬す」と刻まれている。

大紅門

門を入って中に行くと一本の長い神道があり、南から北へまっすぐ長陵に到達し、その上には一連の帝王の尊厳を表す建物が聳え立っている。先ず、出迎えてくれるのが、大きな碑亭があり、二重の庇が四方に出て、中にアーチ型の碑(穹碑)があり、龍頭亀趺(頭部に龍が刻まれ、足元には石亀が置かれる)、その上には「大明長陵神功聖徳碑」と題されている。碑文は仁宗朱高炽が洪熙元年(1425年)に撰し、碑の実際の建立は宣徳10年(1435年)であった。十三陵では長陵と思陵の碑亭の碑にだけ文字が刻まれ、その他の諸陵の碑亭には文字の刻まれていない碑が立っているだけである。碑亭の北側には一群の石像が置かれ、その内容は石人が12体(勲臣4、文臣4、武臣4)、石獣が24体(馬4、麒麟4、象4、駱駝4獬豸かいち。麒麟に似ているが、身体は牛に似る)4、獅子4)で、それぞれ神道の両側を挟んで侍している。これらの石像は宣徳10年に立てられ、一個の大きな白い石を彫んで作られ、活き活きとして本物のようである。

十三陵神道石像群

石像の北には棂星門(れいせいもん)、別名龍鳳門があり、これは華表(宮殿や陵墓の前に建てられた装飾用の大きな石柱)の様な柱で組み立てられた三つの石門で、その構造は特異である。棂星門から北に行くと、七孔橋を経て長陵に到達する。

棂星門

 十三陵の各陵には、祾恩門、祾恩殿、明楼、宝城など、建物の構成は基本的に同じであるが、各陵の規模の大小、建物が豪華か簡素かの違いが存在する。長陵は規模が最大の陵墓であり、それに次ぐのが永陵、さらに定陵である。献陵、景陵は比較的小さく、思陵が最も狭小である

 長陵は陵門から祾恩門に到り、更に 祾恩殿に到り、次に明楼、宝城に到ると、全部で三重の構成(三進院落)となっている。宝城には城壁が築かれ、方形を呈し、別名を方城と言う。城壁の中は一つの大きな墳頭を取り囲んでいて、その直径は1018尺(約336メートル)。墳頭の下はすなわち地下宮殿である。明楼は宝城の楼閣で、宝城の上に盤踞(ばんきょ)し、これも方形をしている。中には墓碑が建てられ、その上には「成祖文皇帝之陵」と刻まれている。この碑は元の碑ではない。元の碑は仁宗が建て、「大明太宗文皇帝之陵」と題されていた。嘉靖帝の時、太宗を成祖と改めたが、まだ新たな碑は立てられず、木に「成祖」の二文字を刻み、元の碑の上に嵌め込んだ。万暦年間に元の碑が焼損したので、別に新たな碑を立てたのが、現在の碑である。(徐学聚『国朝典匯』巻7)祾恩殿は祭祀を行う場所で、元の名を享殿と言った。1538年(嘉靖17年)、世宗朱厚熜がここに参詣し、この時から改名して祾恩殿と呼んだ。祾恩とは、陵墓を祭り、先祖の恩を感じ、福を受けるという意味である。祾恩殿は長陵の主要建築で、九間二重の庇の屋根で、黄色の瑠璃瓦に赤い壁で、総面積は1956平方メートルに達し、今の故宮太和殿と同じ構造をしている。木造の巨大建築で、使用された木材は全て香楠木(クスノキ)である。御殿内部には32本の楠木の柱があり、各柱は一本の木材で、とりわけ中央の4本が最大で、直径は1.17メートルに達し、大人二人で抱きかかえても、手を合わせることができない。この建物は、明代の建築物中でも最大の木造建築のひとつで、その迫力は雄壮で、現在の人々もこれを見ると嘆声を発する。この建物は1427年(宣徳2年)に建てられ、今日まで551年の時間を経ている。

長陵

 永陵の宝城の大きさは長陵に次ぎ、直径は81丈(約270メートル)である。永陵の祾恩殿も極めて雄壮で、二重の庇の屋根で七間、長陵と同じく楠の木造建築である。定陵は建築上極力永陵を模倣しており、祾恩殿も二重庇の屋根で七間である。永陵と定陵は規模の上では長陵に及ばないが、その建物の技巧の精緻で華麗なことは、長陵を上回っている。永陵で最も特色を備えた建造物は宝城で、全て花斑石(大理石の一種の、まだら模様の石)を積んで作られ、支えの木や板は一切使っておらず、「氷や鏡のようにきらきら輝き、ちりやほこりも残らない。長陵もこれに及ばない。」(王源『居業堂文集・十三陵記上』)定陵の明楼も全て石で作られ、一本の木も使われていない。残念ながら永陵と定陵の地上の建造物は皆捨て置かれていたので、祾恩殿はただ残跡だけが残され、保存され壊れていないのは明楼と宝城だけである。

 定陵の地下宮殿は1957年に発掘され、私たちに地下宮殿の謎を明らかにしてくれている。元々これは巨大な石の宮殿で、全体を大理石、漢白玉石と磚石(タイル)を積み上げて作られ、梁や柱は一本も無く、完全にアーチ(拱券)構造を採用していた。全体が前、中、後、左、右の五つの正殿から構成され、部屋と部屋の間は石門で隔てられている。石門は巨大で重いが、制作は精緻で巧みで、軸は厚く周辺は薄く作られ、開け閉めは容易である。各部屋の床には多くつるつるして摩耗に強い「金磚」(別名澄浆が敷かれ、後殿はつるつるに磨かれた花斑石が敷かれ、総面積は1,195平方メートルに達する。後殿の天井の最も高いところで高さ9.5メートル、その他の各殿は天井の最も高いところの高さ7メートル以上である。この地下宮殿は広く大きく、天井が高く、きらきら光沢があり、極めて壮麗で、中国古代建築芸術中の傑作と言って羞じないものである。

定陵地下宮殿

 十三陵の広大で精巧な建物は、人々の智慧の結晶であり、当時の優れた職人の高度な技術レベルを活き活きと記録している。しかし十三陵は人々の血や汗を使って作られ、人々が圧迫され搾取された歴史の証人である。

 昌平黄土山は別名康家庄と言い、明朝が皇帝陵をここに作るや、山を閉ざし墓をあばき、人々を悉くここから追い払った。(『帝陵図説』巻2)これより、各種の徭役、祭祀や必要な調査が次々と押し寄せ、人々は耐えられなくなった。例えば長陵の造営には、4年の歳月を要し、人夫や職人の徴発は山東、山西、河南、浙江などの布政司、直隷(今の江蘇、安徽地区)府州県と北京などの地に及んだ。定陵の造営は、6年の歳月を要し、毎日使役された軍人、職人、人夫は23万人を下回らなかった。たとえ比較的小さな景陵の造営でも、6か月の時間を要し、使役された軍人、職人、人夫は十万人余りに達した。また定陵が完成した時は、費用が銀8百万両に達した。(『明史・礼志・山陵』)慶陵着工の際は、スタートで銀50万両を使った。徳陵のプロジェクトでは、その中の橋を一本架けるだけで、銀20万両余りを消費した。また陵墓建設に用いる楠や杉の大木は、皆雲南、貴州、四川などの深山老林から伐採されたもので、陵墓の建設に用いる漢白玉、艾叶青(大理石の一種で浅い灰色、青みがかった灰色のもの)などの石材は、皆百里離れた房山大石窩で採取され、花斑石は河南省浚県普化山中で採取された。

 十三陵は明代には恐れ多い禁区で、人々はここに一歩たりとも立ち入ることができなかった。明朝の律令の規定により、凡そ勝手に山や陵門に立ち入った者は棍棒で百回打たれ、陵地に入り柴を拾い草を抜いた者は、辺境に流され兵役を課され、陵地内で樹木を伐採し、採石した者は斬殺に処された。

 然るに、現在の十三陵は、中国の人々のための園林となっている。その容貌は面目一新した。古い建築群の他、壮麗な十三陵ダムや肥沃な田園が加わった。勇壮な古い建築と大自然の湖の景色や山水が互いに引き立て合い、ここは旅人を惹きつける場所となった。

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