莫言のスウェーデンアカデミーでの講演、「講故事的人」の3回目。例によって、原文は下のリンクからご覧ください。
http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-3.html
過去2回は、莫言の少年時代からの生い立ち、また彼の人生に大きな影響を与えた亡き母の思い出が語られていましたが、この後は、彼の代表作の背景が語られています。今回の冒頭では、前回触れた、ウィリアム・フォークナー、ガルシア・マルケスから受けつつ、そこからどうやって自分の文学スタイルを構築していったかが述べられています。
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私はこの二人の巨匠の後ろを二年間ついて行きましたが、そしてできるだけ早く彼らから離れないといけないと気がつきました。私はある文章の中でこう書きました。彼らは二基の灼熱に燃えたボイラーであり、私は氷の塊である。彼らとあまりに近い距離にいると、彼らに熱せられて蒸発してしまう。私が体得したところでは、一人の作家が別のある作家から影響を受けるのは、根本的には影響を受ける者と影響させる者とが、心の奥底でよく似たところがあることに拠ります。正にいわゆる「心に霊犀あり、一点通ず」(以心伝心で相手の心が分かる)です。ですから、たとえ彼らの本をあまり読んだことがなくても、何ページか読めば、彼らが何をしたかを理解でき、彼らがどのようにしたか理解でき、すぐさま私は何をすべきか、どのようにすべきかを理解することができます。私がすべきことは実はたいへん簡単で、自分のやり方で、自分の物語を語ることです。私のやり方というのは、私がよく知っている市場の講談師のやり方で、私の祖父母、村の老人たちに物語を語るやり方です。率直に言って、話をする時には、私は誰が聴衆になるか考えたことはありません。ひょっとすると、私の聴衆は私の母のような人かもしれず、ひょっとすると聴衆は私自身かもしれません。私自身の物語は、最初は私自身の体験です。たとえば《枯河》の中でこっぴどくぶたれる子供、《透明な赤いニンジン》の中で、最初から終わりまで一言も発しない子供がそうです。
私は確かに嘗てある失敗をして、父親にひどくぶたれました。私はまた橋梁工事の現場で、鍛冶屋の親方のためにふいごを吹いたこともあります。もちろん、個人の経験は、それがどんなに珍しくても、それをそのまま何も変えずに小説に書き記すことはできません。小説はフィクションでなければならず、想像がなければなりません。多くの友人は《透明なニンジン》が私の最も良い小説だと言ってくれ、私はそれに反論しませんが、同意もしません。けれども私は《透明なニンジン》は私の作品の中で最も象徴的で、最も意味深長なものであると思います。あの全身真っ黒で、超人的な苦しみを我慢する能力を持ち、超人的な感受性を持つ子供は、私の全作品の霊魂(精神)です。その後の小説で私はたくさんの人物を書きましたが、彼ほど私の精神に近い人物は一人もいません。また次のようにも言えます。一人の作家が描き出す何人かの人物には、必ず一人リーダーがいると。この寡黙な子供こそがリーダーで、彼は一言も発しませんが、力強く様々な人物を導き、高密県東北郷という舞台で、思う存分演技をしています。自分の物語はしょせん限りがあり、自分の物語を話し終わると、他の人の物語を話さないといけません。そして、私の肉親たちの物語、村人たちの物語、更に老人たちの口から聞いたことのある祖先の人たちの物語と、集合命令を聞いた兵隊たちのように、私の記憶の奥底から湧き出てきました。彼らは期待に眼を輝かせて私を見、私が彼らのことを書くのを待っています。私の祖父、祖母、父、母、兄、姉、叔母、叔父、妻、娘と、皆私の作品に出ましたし、またたくさんの高密県東北郷の同郷の人たちも、私の小説に登場しました。もちろん、私は彼らを文学的に加工し、彼ら自身より誇張して、文学作品中の人物にしています。
私の最新の小説《蛙》では、私の叔母のイメージが出てきます。私がノーベル賞を受賞したので、たくさんの記者が叔母の家を取材し、最初は叔母も我慢して記者の質問に答えていたのですが、間もなくその煩雑さに我慢できなくなり、町に住む叔母の息子の家に逃げ込んで、そこに隠れてしまいました。叔母は確かに私が書いた《蛙》のモデルですが、小説の中の叔母は、現実の叔母とは天と地の差があります。小説の中の叔母は横暴で勝手気ままに振舞い、まるで女盗賊のようですが、現実の叔母は優しく朗らかで、絵に描いたような良妻賢母です。現実の叔母は晩年、生活が幸せで満ち足りていますが、小説の中の叔母は、心に大きな苦しみを持ち、そのため不眠症を患い、黒い長衣を纏って、幽霊のように暗闇の中をふらふらと歩き回っています。私は叔母の寛容に感謝しています。私が小説の中で叔母をそんなふうに描いても怒らないのですから。私も叔母の聡明さに十分敬意を払い、叔母も小説の中の人物と現実の人物の複雑な関係を正確に理解してくれました。母が亡くなった時、私の悲しみは甚だしく、それを一冊の本にして母に奉げることにしました。それが《豊乳肥臀》です。前もって考えがありましたし、気持ちが充実していたので、わずか83日間で、50万字に及ぶ小説の初稿を書き上げました。
《豊乳肥臀》で、私はなんらはばかるところなく私の母の実際の体験に関した素材を使いましたが、本の中の母の感情の推移は、フィクションか、もしくは高密県東北郷の多くのお母さん方の体験から取材しました。この本の扉に、私は「天国の母の霊に捧ぐ」と書きましたが、この本は実際には世の中の全ての母親に奉げるもので、それは私のきちがいじみた野心で、つまり小さな「高密県東北郷」を中国、或いは世界の縮図のように描きたいと望んでいたかのようなのです。
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前回に続き、莫言のスウェーデンアカデミーの講演、2回目です。
原文は、例によって、次のリンクからご覧ください。
http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-2.html
前回のお話で莫言の原点が、農村での、1950年代終わりの大躍進の後の自然災害期の飢え、そして今はもう亡くなっていますが、母親の強い影響力によることが分かりました。
第2回の今回は、貧しさゆえ小学校を中退し、牛や羊の放牧をして一家の生計を助けていかなければならなかった少年時代、軍隊に入り、折しも70年代後半からの改革開放政策により、大学に行き、作家としての一歩を踏み出すという幸運に恵まれた青年時代と話が進んでいきます。
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ことわざに、「山河を改造するのは容易いが、本性を入れ換えるのは難しい」と言います。私は父母からどんなに懇ろに教え導かれようと、話をするのが好きな天性は、改まりませんでした。このことは私の名前、「莫言」(言う莫れ)を、ちょうど自分に対する皮肉のようにしています。私は小学校を卒業前にやめてしまいました。というのは、幼い頃は体が弱く、重い仕事ができず、荒地の草むらに行って牛や羊の放牧をするしかなかったからです。私は牛や羊を連れて小学校の門の前を通る時、以前の同級生達が学校の中でわいわいがやがややっているのを見ると、心の中が悲しさと寂しさで一杯になりました。人間というものは、たとえ子供であっても、集団を離れるとどれほど苦痛か、深く会得しました。荒れ地に着くと、私は牛や羊を放ってやり、彼らに自由に草を食べさせました。青い空は海のようで、草地は果てしなく広がり、周囲には人影が無く、人の声はせず、ただ鳥が空の上で鳴いているだけでした。私は孤独で、寂しく、心の中はからっぽでした。時には、私は草地の上に横になり、上空を物憂げに漂っている白雲を見つめ、頭の中ではたくさんの訳のわからない幻想が浮かんできました。私たちの故郷にはたくさんの、キツネが美女に化ける話が伝わっていました。私はキツネが美女に化けて、私といっしょに牛を放牧する幻想を思い描きましたが、遂に実現しませんでした。けれども一度、真っ赤なキツネが私の目の前の草むらから跳び出してきた時には、私はびっくりして、しばらく地面にしゃがみこんでいました。キツネが走り去り跡形も無くなっても、私はまだそこでぶるぶる震えていました。ある時は、私は牛の傍に佇んで、コバルト色の牛の眼と、牛の眼の中に映った自分の姿を見つめていました。ある時は、私は鳥の鳴き声を真似して上空の鳥と対話しようと試み、またある時は、一本の木に対し私の気持ちを訴えました。けれども鳥は私を相手にしてくれず、木も私を相手にしてくれませんでした。それから何年も経って、私は小説家になると、当時のたくさんの幻想は、皆私に小説に書かれました。多くの人が、私の想像力が豊かだとほめてくれ、何人かの文学愛好者は、私に想像力を養う秘訣を教えてほしいと言いましたが、これには私は苦笑するしかありませんでした。ちょうど、中国の先哲、老子が言ったように、「福は禍の伏する所、禍は福の倚る所」であり、私は幼くして学校をやめ、飢えと孤独、読むべき本の無い苦しみを経験しましたが、私はこのために先輩作家の沈従文のように、早くから社会や人生という大著を読み始めました。前に述べた、市場に行って講談師の講談を聞いた話は、この大著の中の1ページに過ぎません。
学校をやめてから、私は大人たちの中に混じり、「耳学問」の長い人生を開始しました。私の故郷は嘗て一人の物語を語る偉大な天才、蒲松齢を輩出しました。私たちの村の多くの人は、私も含め、彼の後裔です。私は集団農場の畑の中で、生産隊の牛小屋や馬小屋で、祖父や祖母の熱いオンドルの上で、時にはゆらゆら揺れながら進む牛の曳く荷車の上で、たくさんの妖怪変化の物語、歴史上の奇談、言い伝えなどを聞きました。これらの物語は、故郷の自然環境、家族や歴史と密接に結びつき、私にとって強烈な現実感を生じさせました。
私はいつの日かこうしたものが私の創作の素材になるなどとは夢にも思っていませんでした。私は当時は物語好きの子供に過ぎず、人々の話すのを夢見心地で聞いていました。当時、私は絶対的な有神論者で、私は万物には魂が宿ると信じていて、大木を見ると厳かに手を合わせました。私は一羽の鳥でも願えばいつでも人になると信じていて、見知らぬ人に出会うと、ひょっとすると動物が化けたのではないかと疑いました。毎晩、私が生産隊の労働点数記録事務所から家に帰る時、寄るべない恐怖が私を包み込み、肝っ玉を太くするため、私は走りながら大きな声で歌いました。当時私は変声期で、声はしゃがれていて、声の調子は聞くに堪えず、私の歌声は、村人たちの悩みの種でした。
私は故郷で二十一年間暮らしましたが、その間家から最も遠くへ行ったのは、汽車に乗って青島に行った時で、危うく木材工場の巨大な木材の間で道に迷うところでした。母が青島でどんな景色を見たか聞いた時に、私はがっかりして母に言いました。何も見なかったよ。ただ積上げられた材木を見ただけだと。しかし、その時の青島行きで、私に故郷を離れ外の世界を見たいという強烈な願望が生じました。
1976年2月、私は招集に応じて軍隊に入るため、背中には母が結婚の時の首飾りを売って買ってくれた四冊の《中国通史簡編》を背負い、高密県東北郷という、愛憎半ばする場所を出て、我が人生の重要な時期を開始しました。私が認めざるを得ないのは、もしも何年にも亘る中国社会の大きな発展と進歩が無かったら、もしも改革開放が無かったら、私がこのように作家になることなどあり得なかったということです。
軍営での無味乾燥の生活の中で、私は1980年代の思想解放と文学ブームを迎えました。私は耳で物語を聞き、口で物語を語る子供から、ペンを執って物語を著述することを試み始めました。最初の道のりは決して平坦ではなく、私は当時は二十年余りの農村生活の経験が文学の豊かな鉱脈であることなど別に意識していませんでしたし、当時は文学とは良い人の良い行いを書くこと、すなわち英雄や模範を書くことだと思っていました。ですから、いくつか作品を発表しましたが、その文学価値は低いものでした。
1984年秋、私は解放軍芸術学院文学系に入学しました。恩師で著名な作家、徐懐中の指導の下、《秋水》、《枯河》、《透明なニンジン》、《赤いコウリャン》等の短編小説を書きました。《秋水》という小説の中で、はじめて「高密県東北郷」という文字が出てきます。これより、あちこち流浪していた農民が自分の土地を得たように、私という文学の放浪者は、遂に身の落ち着け所、心の拠り所を得ました。私の文学フィールドである「高密県東北郷」を作り出す過程で、アメリカのウィリアム・フォークナー、コロンビアのガルシア・マルケスは、重要なヒントを与えてくれました。私は彼らの作品をまじめに読んだわけではありませんが、彼らが切り開いた勇敢な精神は私を励まし、一人の作家は必ず自分のフィールドを持たないといけないということを理解させてくれました。人間は日常生活では謙虚で譲歩しなければなりませんが、文学の創作では、大威張りで、独断専行しなければならないのです。
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今回は、中国の作家、莫言氏が、ノーベル文学賞を受賞し、スウェーデンアカデミーで講演された時の講演内容の日本語訳をご紹介します。
大陸中国から初のノーベル文学賞受賞ということで、授賞式での服装をどうされるかが話題となりましたが、結局、授賞式は燕尾服を着用され、それに先立つ、今回ご紹介するスウェーデンアカデミーでの講演会では、中山服を着られました。
講演の題名は「講故事的人」、英語ではStory Teller、物語を語る人で、物語の語り部たる小説家になるまでの生い立ちを述べられていて、なかんかおもしろい話になっていると思います。
ただ、例えばお母さんのお墓の上を鉄道が通ることになったので、移転のために墓を掘り返すエピソードは、魯迅の《故郷》の中のエピソードにそっくりですし、市場で講談を聞いてきて、そのお話を周りの人に臨場感を出して語るエピソードは、映画の《中国の小さなお針子》の中のエピソードによく似ているのは、偶然でしょうか?
ともかくも、内容をご覧ください。長い講演内容なので、何回かに分けてご紹介します。
尚、中国語原文は、次のところからご覧ください。
http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536.html
尊敬する、スウェーデンアカデミーの会員の皆さん:
TVやネットを通じ、皆さん方は遥か遠く離れた高密県東北郷のことを、既に多少なりともご理解いただいているかもしれません。皆さん方は、私の90歳になる父親の写真を見たかもしれませんし、私の兄、姉、私の妻と娘、私の1歳4カ月になる孫娘の写真を見たかもしれません。けれども、私が今最も懐かしく思っている、私の母親に、皆さん方は永遠に会うことはできません。私がノーベル賞を受賞し、多くの人が私の栄光を共に分かち合いましたが、私の母はそうすることができません。
私の母は1922年に生まれ、1994年に亡くなりました。母の遺骨は、村の東側の桃畑の中に埋葬しました。去年、鉄道がそこを通るというので、私たちは母の墓を村から遠く離れたところに移さざるを得ませんでした。墓を掘り起こしてみると、柩は既に朽ち果て、母の遺骨は、既に土と混じり合っていました。私たちは遺骨のしるしとして幾らかの土を掘り出し、新しい墓の中に移しました。そしてその時から、私は、私の母が大地の一部になったと感じました。私が大地の上で話すことは、つまり母に対して話をすることなのです。
私は母の一番下の子供でした。私が憶えている中で最初の出来事は、家中でたった一つの魔法瓶を持って、人民公社の食堂にお湯を入れに行ったことです。飢えて力が出ず、うっかり魔法瓶を割ってしまいました。私はたいへんびっくりして、草むらの中に逃げ込み、その日一日、そこから出ることができませんでした。夕方になって、私は母が私の幼名を呼んでいるのが聞こえました。私は草むらから抜け出し、怒ってひっぱたかれるものと思っていたのですが、母は私を叩きも怒りもせず、ただ私の頭を撫で、口の中で長いため息を出しただけでした。私の記憶の中で、最もつらかった事件は、母について集団で麦の穂を拾いに行った時で、麦畑の番人が来たので、麦の穂を拾いに来た人は次々逃げて行きましたが、母は纏足の足で、速く走れないので、捕まえられ、その長身の番人から頬を叩かれました。母はよろけて地面に倒れました。番人は私たちが拾った麦の穂を取上げると、口笛を吹きながら意気揚々と去って行きました。母は口元から血を流し、地面にしゃがみこみ、顔には絶望的な表情を浮かべていました。私はそれを一生忘れることができません。それから何年も経ってから、あの麦畑の番人をしていた男が、白髪交じりの老人となって、村の市場で出会いました。私は飛び掛って行ってあの時の仇を取ろうと思いましたが、母は私を引きとめ、静かに言いました。「息子や、あの時の私を叩いた男は、この老人とは別人だよ。」
私が最も印象深く覚えている事件は、ある年の中秋節のお昼のことで、我が家では珍しく餃子を作ったのですが、ひとり分、お碗一杯しかありませんでした。ちょうど餃子を食べようとしていた時、一人の乞食の老人が我が家の玄関にやって来ました。私はお碗に半分の乾し芋を両手で奉げ持ち、乞食のところに行ったところ、乞食はぷんぷん怒ってこう言いました。「私は年寄りだよ。おまえたちは餃子を食べているのに、私には乾し芋を食べさすなんて、おまえたちの心はどうなっているんだ。」私は前後の見境もなく腹を立て、言いました。「私たちは一年のうちでもそう何回も餃子が食べられる訳ではないし、ひとりに小さなお碗に一杯しかなく、腹半分も食べられないんですよ。あなたに乾し芋をあげるだけでも悪くないですよ。要るなら持って行きなさい。要らないなら、出て行ってください。」母は私をたしなめると、自分のお碗に半分入った餃子を両手でかかえて持って行き、老人のお碗の中に入れてやりました。
私が最も後悔したことは、母と白菜を売りに行った時のことで、思わず知らず一人の白菜を買いに来た老人に一毛多く代金を取ってしまいました。お金の勘定が済むと、私は学校へ行きました。授業が終わって家に帰ると、めったに涙など流さない母が、満面に涙を浮かべていました。母は決して私を叱りませんでしたが、そっとこう言いました。「息子よ。あなたは母の面子をつぶしてくれたね。」
私が十いくつかの歳に、母は重い肺病を患い、飢えと痛みと疲労で、我が家は困難な状態に陥り、光明や希望を見出すことができませんでした。私は強い不吉感に襲われ、母がいつ何時自殺を図るのではないかと心配しました。毎日仕事から帰ってきて、門を入るや、私は大声で母を呼び、返事を聞いてはじめて、石が地面にきちんと落ちたかのように安心しましたが、すぐに母の返事が聞こえないと、恐れおののき、脇棟や粉挽き小屋に駆けて行き、探しました。ある時、私は全ての部屋を探しましたが母の姿を見つけることができませんでした。私は中庭にしゃがみこんで大声で泣きました。その時、母が背中に柴を一束背負って外から帰って来ました。母は私がめそめそしていたのが不満でしたが、私も母に私が心配していたとは言えませんでした。母は私の気持ちを察して、こう言いました。「息子よ、安心おし。私は生きていても楽しいことなんて何も無いが、閻魔様がお呼びにならない限り、逝ったりしないから。」私は生まれつき、顔が醜く、村では多くの人が面と向かって私を嘲笑し、学校では数人の気性の荒い同級生に、時にはそのため殴られることさえありました。私が家に帰って泣きじゃくっていると、母は私にこう言いました。「息子よ、おまえは醜くなんかないよ。鼻も眼もちゃんと付いているし、両手両足もちゃんとしている。どこが醜いの?それに、おまえの心がきれいで、良い行いをたくさんしさえすれば、よしんば醜くても、きれいになれるのよ。」後に私が町で暮らすようになって、何人かの教養のある人が相変わらず陰で、時には面と向かって私の容姿をけなすことがありましたが、私は母の言葉を思い出し、心穏やかに彼らに謝りました。
私の母は字が読めませんでしたが、学問のある人をたいへん尊敬していました。我が家は貧しく、次の食事に事欠くこともしばしばでしたが、私が母に本や文房具を買ってほしいと言うと、母はいつもその希望をかなえてくれました。母は働き者で、怠け者の子供を嫌いました。けれども、私が勉強していて仕事に遅れた時は、私を叱ったことはありませんでした。一時期、村の市場に講談師がやって来ました。私はこっそりそれを聞きに行き、母が私に割り当てた仕事を忘れてしまいました。このため、母は私を叱りました。夜、母が行灯の前で家族のために綿入れの服を急いで作っていた時、私は我慢できずに、昼間講談師のところから聞いてきた話を母に話して聞かせました。最初、母は嫌な顔をしました。というのも、母の心の中では、講談師は口先がうまいだけで、全うな仕事をしていない人間で、そんな男の口から、何も役に立つ話など聞けないと考えていたからです。けれども、私がその話をもう一度話して聞かせると、次第に母の心を惹きつけました。それ以後、市の立つ日には、母は私に仕事を割り当てず、私が市場に講談を聞きに行くのを黙認してくれるようになりました。母の恩情に報いるため、また母に私の記憶力をひけらかすため、私は昼間聞いた話を、臨場感を出して母に聞かせました。
間もなく、私はただ講談師が話した物語をそのまま話して聞かせるだけでは満足できなくなり、話の過程で、絶えず味付けを加えるようになりました。私は母の興味を惹くように、自分で筋をこしらえたり、時には話の結末を変えることさえありました。私の話の聴衆は、母だけでなく、姉、おば、祖母も聴衆になりました。母は私の話を聞き終わると、時には心配で気が気でない様子で、私に対して言っているかのようで、また自問自答しているかのように、こう言いました。「息子や、おまえは大きくなって、どんな人間になるんだろうね。まさか口先を弄んで飯を食うんじゃないだろうね。」私は母の心配が理解できました。なぜなら、村の中では、おしゃべりな子供というのは、人に嫌がられ、時には自分自身、更には家族に面倒をもたらすからです。私が小説《牛》の中で描いた、おしゃべりで村人に嫌がられる子供は、私の幼少時代のイメージです。母はいつも私におしゃべりは控えるように諭しました。母は私が寡黙で、おとなしくておおらかな子供になるよう望みました。けれども私の体には極めて強い話をする能力と、極めて大きな話をする欲望が表れていて、このことは疑いなく極めて危険であったのですが、一方、私が物語を語る能力は、また母に喜びをもたらしていて、このことは母を深い矛盾の中に陥れたのです。
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絵空事を言っていては国の進路を誤る、実行こそが国を発展させる
習近平以下、先の第18期党大会で、中国共産党中央政治局常務委員に選出された7名が、11月29日、天安門広場の東側、人民大会堂の向かいにある、国家博物館で開催される、《復興之路》展を見学されました。これは、1840年のアヘン戦争以降、現在に至る歴史関連の文物の展示会です。見学の途中、習近平総書記がマスコミ関係者に話をされた内容が、当日の夜のニュースで報道されました。
ここで、中華民族の昨日、今日、明日を、3つの詩に例えています。中華民族の昨日の譬えとして使ったのが、“雄関漫道真如鉄”です。
娄山関は、遵義市(貴州省北部)北方にあり、紅軍の長征(1934年10月~1936年10月)の初期、王明らの軍事戦略ミスから多大な犠牲を出しましたが、遵義会議(1935年1月)を機会に、毛沢東が主導権を握り、遵義付近で蒋介石の国民党軍に勝利したことを表現しています。
習近平は、この句を引用することで、1949年の中華人民共和国建国前に、中華民族が被った様々な艱難辛苦を、「昨日」の象徴としています。
次に、中華民族の今日として、“人間正道是滄桑”の句を引用しています。
この句は、毛沢東《人民解放軍占領南京》(1949年4月)という七言律詩の一節でもあります。この詩は、南京は天然の要害の地で、嘗て諸葛孔明が呉の都であったこの地を帝王の住むべき土地と称えたが、さしもの要害の地も、政がまずいと守ることができず、滅びるしかない。今、ここに人民解放軍が南京解放を実現した、と歌っています。
最後に、中華民族の明日として、“長風破浪会有時”の句が引用されています。
この句は、南北朝の宋(420-479年)の宗愨の言葉から引用したもので、宗愨が叔父から将来の抱負を聞かれ、このように答えたと、《宋書・宗愨伝》にあります。後に、これから“乗風破浪”という成語が生まれました。
[和訳] 《復興の道》の展示会では、中華民族のこれまでを回顧し、中華民族の今日を展示し、中華民族のこれからを指し示しており、見る者に深い教育とヒントを与えている。中華民族の過去は、「険しい関所のようで、堅牢でとても突破できない」と譬えることができ、近代以降の中華民族が受けた苦難の重み、もたらされた犠牲の大きさは、世界史上でも稀に見るほどだった。けれども中国人民は決して屈服せず、たゆまず奮起し戦い、遂には自らの運命を掴み取り、自らの国家の建設という偉大なプロセスを歩みだし、愛国主義を核心とする偉大な民族精神を花開かせた。中華民族の今日は、正に「人の世の移ろいは、世のならい」と言うことができる。改革開放以来、私たちは歴史経験を総括し、絶えず懸命に探求に努め、遂に中華民族の偉大な復興の正しい道を見つけ出し、世界が注目する成果を上げた。この道こそが、中国の特色ある社会主義である。中華民族の明日は、「風に乗り波を蹴って進む」と言うことができる。アヘン戦争以来170年余りの休むことのない奮闘を経て、中華民族の偉大な復興に、明るい見通しが示された。今や、私たちは歴史上の如何なる時代より中華民族の偉大な復興という目標の近くにおり、歴史上の如何なる時代より、この目標を実現する自信があり、その能力がある。
“落后就要挨打,発展才能自強”ですが、“落后就要挨打”はスターリンが言った言葉の引用です。
これは、1931年スターリンの《論経済工作人員的任務》に出てくるもので、当時、ソビエトの工業化加速の議論の中でスターリンが語った言葉だそうです。
[和訳] 過去を振り返り、全党の同志諸君はしっかり覚えておきたまえ。立ち遅れは打ち倒さなければならず、発展してこそ強くなれる。現実をよく見よ。全党の諸君はしっかり覚えておきたまえ。進路が運命を決定する。正しい道を見つけるのは容易ではない。私たちは断固として歩んでいかねばならない。未来を展望するに、全党の諸君はしっかり覚えておきたまえ、青写真を現実のものにするには、まだ長い道のりを歩いて行かねばならず、私たちは長期の苦難に満ちた努力をしていかねばならない。
ここで、“空談誤国、実幹興邦”という極めて強い調子の言葉が出てきますが、この言葉は、小平の言葉の引用です。
1992年1月18日、小平が後に南巡講話で有名になる中国南方視察の途中、列車で武漢の漢口駅に到着した時、湖北省党委書記の関広富に語った言葉だそうです。
[和訳] 誰もがひとりひとり理想と追求があり、自分の夢がある。今、誰もがチャイニーズ・ドリームについて議論している。私はこう思う。中華民族の偉大な復興の実現こそ、中華民族の近代以来の最も偉大な夢であると。この夢には、何世代もの中国人の宿願が凝縮され、中華民族と中国人民の全体の利益を具体的に表し、中華民族の子孫ひとりひとりの共通の願いである。歴史が私たちに示すように、全ての人のこれからの運命は、国家と民族のこれからの運命と密接に関連している。国家が良く、民族が良くてはじめて、皆が良くなる。中華民族の偉大な復興は栄えある、そして困難な事業であり、各世代の中国人がいっしょにそれに向け努力する必要がある。絵空事を言っていては国の進路を誤る、実行こそが国を発展させる。私たちの世代の共産党員は、前の世代の事業を受け継ぎ、それを将来の発展につなげ、私たちの党を発展させ、中華民族の子孫全体を団結させ、国家を発展させ、民族を発展させ、引続き中華民族の偉大な復興の目標に向け奮闘し歩んで行かねばならない。
[和訳] 私は、中国共産党成立100周年には、全面的な小康社会実現の目標は、必ず実現できる、新中国成立100周年には、裕福で強い、民主的文明の、調和のとれた社会主義現代化国家実現の目標は、必ず実現できる、中華民族の偉大な復興の夢は、必ず実現できると、固く信じている。
私も、ニュースで習近平の肉声を聞きましたが、落ち着いた、分かりやすい声で、思わず引き込まれました。
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11月15日朝の、中国共産党第18期中央委員会第一回全体会議で、習近平総書記を中心とする、新たな政治局常務委員7名が選出されました。
その後、当初北京時間の11時からと発表された、新メンバーの記者会見は、約1時間遅れ、11時53分から開始されました。
習近平新総書記が、政治局常務委員のメンバーを紹介した後、彼自身が英語の逐語通訳を交え、10分強のスピーチをされましたが、その中で使われた、気になる表現をご紹介します。
特に国の内外での情勢が揺れ動く中、新たに一国の舵取りを任された責任の重大さを重く受け止めている、ということが話の要点です。
[訳] 党は人民を導き、既に世間全体が注目する成果を上げた。私たちはこのことによって自らの誇りとする十分な根拠があるが、けれども誇りを持ってもうぬぼれてはならず、決して過去の業績の上にあぐらをかいてはならない。
[訳] 新たな情勢の下、私たちの党は多くの厳しい挑戦に直面しており、党内には多くの速やかに解決しなければならない問題が存在する。とりわけ、一部の党員幹部の中で発生した汚職や腐敗、群衆からの離脱、形式主義、官僚主義等の問題は、全力で解決しなければならない。全党は気持ちを引き締めなければならない。鉄を打つには、それ自体が硬くなければならない。
ここで「打鉄還需自身硬」という慣用句を使ったのは、党員、わけても人民の上に立つトップが、それにふさわしい清廉な人格、資質を持たねばならない、という意味で使っています。薄熙来事件その他、党を揺るがしている課題解決への断固とした思いが、この言葉に集約されているのでしょう。
[訳] 責任は泰山よりも重く、事業の任務は重大で、前途は遠い。私たちは常に人民と心を通い合わせ、人民と苦楽を共にし、朝から晩まで公務の事を考え、勤勉に仕事をし、歴史に対し、人民に対し、合格点を取れる答案を出すよう努めねばならない。
胡錦涛と江沢民の権力争いを背景に、紆余曲折があったと伝えられる今回の政治局常務委員の選出で、記者会見も1時間遅れ、どうなることかとやきもきしましたが、記者会見そのものは、非常にあっさりと終了しました。
今後、どのような国の舵取りがなされるのか、引続き、注目していかねばなりません。
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