昭和45年3月、釣人の手によっての戦争の爪痕が残るサイパン島に「太平洋の塔」という慰霊碑が建立されました。
この慰霊碑の建立は、当時、三木会長がサイパン島へ釣りに行かれた時に、米軍兵士の慰霊碑は立派に立てられているのに、日本人の碑はあまりにもお粗末だったことが発端でした。
この島で5万人もの人が亡くなったのに・・・との思いから釣り人に呼びかけて有志を募り、募金カンパ等により150万円ものお金が集まりました。
そのお金を基にサイパンのバンザイクリフに拓殖大学の学生さんによる勤労奉仕で慰霊碑が出来上がりました。
そのデザインは自由美術家協会の吉村主税氏によるものです。そしてこの年には、連盟の会員数も1万人を超えたのでした。
昭和46年2月12日に全日本釣り団体協議会が社団法人としての創立総会が大阪府商工会館にて行われました。この日は偶然にも私の33歳の誕生日でした(あまり関係がなかったな?)。会長は原健三郎代議士でした。
昭和51年には釣人の手による魚塚が、串本の潮岬の先端に立てられました。これは今も釣り人の手によって守られていて、日本の釣り場では他に例のない慰霊碑でしょう。
碑文には「一切魚族霊」と花園大学学長で臨済宗妙心寺派専門道場師家である山田無文老師がかかれてあります。
この長い年月に名をなさしめたのは、各地の離島への遠征で有名になった森岡秀泰氏でしょう。男女群島、草垣、銭州、トカラ列島などの未開拓の磯を次々と切り拓いていかれました。
他方、大物釣りで有名な方としては、磯の上に寝泊りしながら一人で大型のクエを狙っておられた天満磯釣クラブ会長の大井厳氏や、OACの堤野嘉之氏、守口荒磯の平岡義親氏、田辺磯クの村上雅英さん、グレ釣りでは和歌山荒磯クラブの島慶一郎氏らが名を名を連ねます。
昭和52年6月、この関西の磯釣り界を20年近く引っ張ってこられた三木会長が他界されました。
その最期に書かれた著書が「釣り三昧」という本でした。この本には人生の半分を釣りに呆けていた男の釣日誌としてかかれています。そして最後に院長に「8月まで生かして置いて下さいよ」と書かれているのですが、6月に残念ながら亡くなられました。
何かまだやりたいことがあったのかなと思っています。この年、会長は71歳、今の私と同じ年なのです。大変苦労されたので、早くに亡くなられたのだと思います。残念なことです。
この慰霊碑の建立は、当時、三木会長がサイパン島へ釣りに行かれた時に、米軍兵士の慰霊碑は立派に立てられているのに、日本人の碑はあまりにもお粗末だったことが発端でした。
この島で5万人もの人が亡くなったのに・・・との思いから釣り人に呼びかけて有志を募り、募金カンパ等により150万円ものお金が集まりました。
そのお金を基にサイパンのバンザイクリフに拓殖大学の学生さんによる勤労奉仕で慰霊碑が出来上がりました。
そのデザインは自由美術家協会の吉村主税氏によるものです。そしてこの年には、連盟の会員数も1万人を超えたのでした。
昭和46年2月12日に全日本釣り団体協議会が社団法人としての創立総会が大阪府商工会館にて行われました。この日は偶然にも私の33歳の誕生日でした(あまり関係がなかったな?)。会長は原健三郎代議士でした。
昭和51年には釣人の手による魚塚が、串本の潮岬の先端に立てられました。これは今も釣り人の手によって守られていて、日本の釣り場では他に例のない慰霊碑でしょう。
碑文には「一切魚族霊」と花園大学学長で臨済宗妙心寺派専門道場師家である山田無文老師がかかれてあります。
この長い年月に名をなさしめたのは、各地の離島への遠征で有名になった森岡秀泰氏でしょう。男女群島、草垣、銭州、トカラ列島などの未開拓の磯を次々と切り拓いていかれました。
他方、大物釣りで有名な方としては、磯の上に寝泊りしながら一人で大型のクエを狙っておられた天満磯釣クラブ会長の大井厳氏や、OACの堤野嘉之氏、守口荒磯の平岡義親氏、田辺磯クの村上雅英さん、グレ釣りでは和歌山荒磯クラブの島慶一郎氏らが名を名を連ねます。
昭和52年6月、この関西の磯釣り界を20年近く引っ張ってこられた三木会長が他界されました。
その最期に書かれた著書が「釣り三昧」という本でした。この本には人生の半分を釣りに呆けていた男の釣日誌としてかかれています。そして最後に院長に「8月まで生かして置いて下さいよ」と書かれているのですが、6月に残念ながら亡くなられました。
何かまだやりたいことがあったのかなと思っています。この年、会長は71歳、今の私と同じ年なのです。大変苦労されたので、早くに亡くなられたのだと思います。残念なことです。