オテンバ於一には鶴丸城での堅苦しい生活に
中々馴染めない様ですね
そんな時、父・忠剛が焼き捨てた筈の菊本の
手紙が届けられましたね。
流石のオテンバ於一も心を改めようとします
が、性分が性分なだけに不安が過ぎりますよ
ね
浦賀にペリー艦隊が現れました
いよいよ近代日本の夜明けが始まろうとして
いるのです
今の日本もそうですが、外圧がなければ動け
ないのでしょうか??
日本人の国民性なのでしょうか??
斉彬は、自分の藩の事ではなく日本全体の事
を考えていたようです。
軍備の増強を図り国力を増し外圧に対抗しよ
うと考えていたのです。
いわゆる、攘夷の考え方でしょうね
その為には、幕府内での発言権を強めなけれ
ばならないのです
外様大名として、幕府の中枢まで入り込むの
は至難の業です。
尤もこの頃迄の斉彬の攘夷の考え方は、結果
的に間違っていたと云う事でしょうが…
ところで
ついに近衛家から於一の為に幾島が派遣され
ましたよね
幾島は薩摩藩島津家の奥女中だったといいます。
苗字を藤田と名乗っていた様です。
斉彬の叔母(養女だったらしい)の郁姫が近衛
忠熙の正室になった折、老女として遣わされた
そうなのです。
その郁姫が亡くなって得浄院と名乗ったのです
が、何故か故郷の薩摩へは戻らずそのまま近衛
家に残ったというのです??
よっぽど忠熙にかわれていたのか、それとも別
の理由があったか?
普通では有り得ない事なのです???
何れにせよ篤姫付きに決まると名を幾島と改め
るのです
幾島は斉彬の意向を受け一橋慶喜を将軍にする
為、大奥に派遣されたと云っても過言ではない
のです
言い換えれば斉彬のスパイだったのです
徳川家定の正室となる於一は、その場その場の
状況の変化に応じて態度を変えますが、幾島は
一貫して斉彬の意向を実現しようと一心不乱に
励むのです
結局、紀州慶福が徳川家茂として将軍に決定し
た事で幾島の仕事は終わったと云っても云い過
ぎではありませんが…
その後、幾島は病を得て天璋院のもとを去った
と云いますが、何歳で亡くなったのか?定かで
はないのです
一つの時代の変わり目に生きた幾島、名バイプ
レーヤーだったのかも知れませんね
中々馴染めない様ですね
そんな時、父・忠剛が焼き捨てた筈の菊本の
手紙が届けられましたね。
流石のオテンバ於一も心を改めようとします
が、性分が性分なだけに不安が過ぎりますよ
ね
浦賀にペリー艦隊が現れました
いよいよ近代日本の夜明けが始まろうとして
いるのです
今の日本もそうですが、外圧がなければ動け
ないのでしょうか??
日本人の国民性なのでしょうか??
斉彬は、自分の藩の事ではなく日本全体の事
を考えていたようです。
軍備の増強を図り国力を増し外圧に対抗しよ
うと考えていたのです。
いわゆる、攘夷の考え方でしょうね
その為には、幕府内での発言権を強めなけれ
ばならないのです
外様大名として、幕府の中枢まで入り込むの
は至難の業です。
尤もこの頃迄の斉彬の攘夷の考え方は、結果
的に間違っていたと云う事でしょうが…
ところで
ついに近衛家から於一の為に幾島が派遣され
ましたよね
幾島は薩摩藩島津家の奥女中だったといいます。
苗字を藤田と名乗っていた様です。
斉彬の叔母(養女だったらしい)の郁姫が近衛
忠熙の正室になった折、老女として遣わされた
そうなのです。
その郁姫が亡くなって得浄院と名乗ったのです
が、何故か故郷の薩摩へは戻らずそのまま近衛
家に残ったというのです??
よっぽど忠熙にかわれていたのか、それとも別
の理由があったか?
普通では有り得ない事なのです???
何れにせよ篤姫付きに決まると名を幾島と改め
るのです
幾島は斉彬の意向を受け一橋慶喜を将軍にする
為、大奥に派遣されたと云っても過言ではない
のです
言い換えれば斉彬のスパイだったのです
徳川家定の正室となる於一は、その場その場の
状況の変化に応じて態度を変えますが、幾島は
一貫して斉彬の意向を実現しようと一心不乱に
励むのです
結局、紀州慶福が徳川家茂として将軍に決定し
た事で幾島の仕事は終わったと云っても云い過
ぎではありませんが…
その後、幾島は病を得て天璋院のもとを去った
と云いますが、何歳で亡くなったのか?定かで
はないのです
一つの時代の変わり目に生きた幾島、名バイプ
レーヤーだったのかも知れませんね