函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

平清盛、名前が分からないようです??

2012-02-20 | 歴史

鱸丸改め平盛国の誕生です

清盛が亡くなったのが盛国の屋敷だと伝えられているくらい

ですから、清盛と盛国の絆は相当深かったのでしょうね

 

それにしても清盛の衣装が酷過ぎます

家来の盛国と比べてもどちらが主なのか分かりません。

院にお礼の挨拶に行く時の姿は盗賊と変わらないようにも見

えました

平家の御曹司とはかなりかけ離れた姿ですね。

うつけと呼ばれのちに天下をとった織田信長。

破天荒な振舞いの多かった信長をイメージしているのでしょ

うか??

実際の清盛がどうだったか確信はありませんが、少なくとも

あそこまで酷かったとは思われませんね

 

ところで

清盛の最初の妻・明子が高階基章の娘という事は分かってい

ますが、実のところ名前がわかっていないのです。

高階基章は貴族とはいえ忠盛や清盛からすればかなりの格下。

忠盛、忠正を含めた平家の重臣がこの婚儀を認めたのには何

か裏がありそうです

普通に考えると平家の御曹司で次期棟梁となる清盛の妻に、

高階基章の娘を迎えるのにはかなりの反対を押し切らなけれ

ばならないのです

清盛の一回目の結婚にあたり大してもめていないところを見

ると、高階基章の娘を清盛の妻にすることによって平家及び

平家の誰かにとって得があったとしか考えられません。

考えられるのが忠正?もしくは家盛の陰に隠れている誰か?

家盛こそ将来の棟梁と思っていたのが忠正だとすれば、高階

基章の娘を妻に迎えた方が好都合。

この時代、妻の実家の力の大きさが出世に大きな影響があっ

たのです。

忠正らが次期棟梁に家盛を担ごうとして…

個人的な意見ですが、まんざら有り得ない話ではないと思う

のですが……

 

高階基章の娘は早死にしますが、重盛、基盛の二人の息子を

もうけています。

二人とも清盛より先に亡くなりますが、武人としては卓越し

た能力があったと言われています

 

重盛が平治の乱で味方の士気を鼓舞する為言ったとされる言

葉が残っています。

「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じだ、ならば

敵を平らげよう」。

究極のこじつけですね

 

 

 

コメント
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