軍師官兵衛、最初で最後の天下取りの始まりです
東西両軍が関ヶ原で睨み合いをしている間に九州を平定し
東へ向かおうと言うのが如水の考え
短期間に集めた兵も決して農民達ばかりではありません。
秀吉の九州征伐で取り潰された豪族の家臣や元兵士の地
侍や浪人なども多数いました。
名の有る猛者もおり中々のもの。
決して素人集団ではないのです
黒田軍の主力は長政が率いていたとはいえ、歴戦の勇士は
中津に残っています
残っていると言うよりは残したと言った方が正しいのかも知れ
ません。
大友軍を黒田討伐へ差し向けた三成ですが、逆に如水に口実
を与えただけ。
如水からすれば東軍の為に戦っているとの大義名分がたちます
火に油を注いだ感じですね
頭脳明晰な三成は机上で戦をしている感じがします
最終回は関ヶ原の戦いを描くのでしょうが、1話で如水の死まで
描くとなれば詰め過ぎの様な感じがしないでも
ナレーションだけでスルーする場面も多そうです。
ところで
関ヶ原の戦いで徳川秀忠は何故?遅れたのでしょうか?
真田の上田城などほっといても良かったのではないでしょうか?
小山評定の後、秀忠は宇都宮に残り上杉景勝に備えていました。
西軍についた上田城の真田を討つよう家康から命令が下りますが、
あくまでも家康の命令です
8月24日に宇都宮を発ち上田城を攻めます
上田城攻撃が秀忠の独断のような言われ方をされていますが、あく
までも家康の命令なのです。
8月26日、東軍が岐阜城を落としたとの知らせが江戸にいた家康の
許に届きますが、勝ちに乗じて一気に攻めようと考えた家康は出陣
を9月1に決め大久保忠益を使者にして秀忠に上田城攻撃を中止し
て東軍に合流するように命じます
何事も無ければ予定通りに進んだのですが…
使者の大久保忠益は利根川の増水で身動きが取れず秀忠の許に
到着したのが9月9日。
命令を聞いた秀忠は翌10日に上田を出発、一路赤坂を目指します。
ここでまた不運が…
折からの大雨で道はぬかるみ行軍を阻止します。
戦場に着いたのが9月20日、戦いは既に終わった後でした
結果的に戦いに参加出来なかったので、参加した武将達の手前面会
を許されなかっただけで、あくまでも建て前。
秀忠軍か遅れたのは大久保忠益が増水のため足止めを余儀なくされ
たのであって秀忠にも忠益にも過失はなかったのです
その証拠に、秀忠も従っていた大名も忠益もその後処罰されていません。
秀忠軍の主力は殆どが徳川譜代の武将です
そこに何か意味が有る様な気もします
上田城を素通りしていれば家康と合流し一気に西軍を叩き潰す事が出来
たかも知れませんが、家康自身も戦が長引く可能性が大きいと考えていた
のではないでしょうか?
上田城を攻撃させたのは時間稼ぎだったのかも知れません
関ヶ原での戦が始まっても膠着状態が続くとすれば、秀忠軍3万7千は勝敗
に決定的な意味を持ちます
家康もここまで到着が遅れるとは思っていなかったでしょうが、遅れる事自体
は織り込み済みだったのでは?
如水同様、家康も人並み外れた知将です。
次の一手だけを考えていたのではなく、次の次の次まで考えていた筈です。
石橋を叩いて渡るほどの家康が仕掛けた大勝負
負けるわけにはいかなかったのです
「今や水を得た魚、名前の通り自在にされているのです。水の流では誰にも
止められません。」
光の発した言葉通り如水にとって生涯で1番輝いていたのが九州での戦い
だった筈です
九州での如水の戦いをもう少し詳しく描いて欲しと思っているのは僕だけでし
ょうかね