函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、堪忍袋の緒が切れた信玄!!

2023-05-01 | 歴史

信玄との戦いが始まろうとしているのに煮え切

らない家康

弱気が極限状態の家康に、何もかもくれてやっ

て、信玄のもとでみじめに生きていけばいい」

などと言いたい放題 

武田軍と戦えば「十に九つは負ける」と絶望を

口にする家康にですが… 

「十に一つは勝てる。その一つを信長は桶狭間

でやりましたぞ」と本多忠勝起死回生の一言

ようやく信玄と戦うのを決断した家康ですが、

家臣達は最初から戦うのを決断していた見たい

ですね

それにしても …

源三郎・勝俊、最初は今川、次に武田とまるで

人質になる為に産まれて来た様なもの 

武田から逃げ出す時、両足に凍傷を負ったと言

われています

何とか三河には戻れましたが、凍傷のため両足

の指を切断したので武人として戦場に出る事も

出来ず失意のうち32歳の若さで亡くなります 

人質生活を送るうち、精神的にも肉体的にも限

界に達していたのでしょうね。 

同情を禁じえません

 

ところで、信玄は何のために西上したのでしょ

うか? 

足利義昭を盟主とした、朝倉・浅井・石山本願

寺などの信長包囲網に加わり、信長亡き後の主

導権を握ろうとしたからなのでしょうか? 

しかし、義昭が反信長の態度を明らかにしたの

が1573年で、信玄が西上したのが前年の1572年

です 

信玄が甲府を発った時点では信長包囲網があり

ませんでした。 

勿論、信長包囲網が必ず出来るとの確信の上の

出陣と言えなくもありませんが、出来てもいな

い信長包囲網に加わる為に態々大軍を動かすほ

ど信玄は愚かではありません

信玄が西上した一番の要因は徳川と上杉との同

盟が原因だったのではないのでしょうか? 

背後に控える上杉が信玄にとって最も脅威だっ

たのは間違いありません

しかし、北条氏康が亡くなり、後を継いだ氏政

は180度方向転換し信玄と同盟を締結

これをきに上杉への押さえとして北条が動き始

めます 

これで背後から攻められる心配がなくなった信

玄は、目先の瘤・徳川を取り除くため出陣した

のです

勿論、その先には信長殲滅も視野に入っていた

筈です

周りを敵に囲まれて身動きが取れない状態だっ

た信玄の堪忍袋の緒が切れたと言った感じでし

ょうか

ドラマでも体調の悪化が描かれていましたが、

その辺りも西上を急がせた要因なのかも知れま

せんね

 

 

 

コメント
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