函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、秀吉と昵懇の間柄だった恒興!!

2023-08-21 | 歴史

家康の天下を取るは大阪(大阪の陣)にあらずして

関ケ原、関ケ原にあにずして小牧にあり」と言われ

ていますが、それほど小牧長久手の戦いは家康が天

下人となるうえで重要な戦いだったともいえます 

信長が亡くなるまで織田・徳川の同盟は続いていま

 

事実上、織田の後継者と思われていた信雄を担いだ

戦いなので、大義名分は家康にあります 

秀吉の力が大きくなっていたのは事実ですが、天下

が収まった訳ではありません 

秀吉の勢いもいつまで続くか分からないのです。 

本能寺の変も然り、青天の霹靂の様な事が起きて不

思議の無い時代。 

伊達・北条・毛利・長曾我部や息を吹き返した上杉

など、虎視眈々と次を狙っている武将達も… 

兵数だけ見ると勝てそうな相手ではありませんが、

秀吉政権が固まっていない今なら全く無謀な戦いと

までは言い切れません 

局地戦で勝利した徳川軍ですが、秀吉を討ち取った

訳ではないのです 

桶狭間の戦いもそうですが、大将の義元を討ったか

らこそ勝利出来たのです。 

徳川軍にそれが出来たとも思われません

致命傷が、信雄と秀吉の和睦です 

家康に全く相談する事もなく信雄が独断で決したと

言われていますね 

信雄の領国、伊勢・伊賀を奪った秀吉の作戦勝ちで

しょうか 

小牧長久手の戦いは、信雄の凡庸さだけが際立った

戦いといっても良いのかも知れません 

「信雄、しっかりせぃ、信長の子供じゃろうが!!」

と言った家康の言葉か全てだった気がします

ところで 

母が織田信長の乳兄弟で、幼少期から小姓として

も仕えた池田恒興ですが… 

秀吉の援軍として毛利討伐の準備中に本能寺の変に

遭遇

秀吉の中国大返しの報を聞きつけ秀吉軍に合流した

と言われています 

山崎の戦でも功を立て織田家の宿老的な立場まで上

り詰めた様ですね 

勿論、損得もあったでしょうが、元々秀吉と誼を通

じていたみたいなのです

恒興の三男・長吉が秀吉の養子になっていますし、

三女は秀次の妻となっているのです 

恒興が清須会議で秀吉側に寝返ったのではなく、元々

秀吉と恒興は昵懇の間柄だったのは間違いなさそうで

 

もしかすると、柴田勝家や滝川一益とは違い、恒興は

秀吉と馬が合ったのかも知れませんね 

恒興は小牧長久手の戦いで長男と共に討ち死にしてし

まいす 

後を継いだのがまだ幼かった次男の輝政ですね。 

輝政は秀吉亡き後家康につき、関ケ原では東軍の武将

として大活躍

戦いの後、92万石の大々名となるのです

家康の娘婿として盤石の地位を得ています 

49歳で戦死した恒興ですが、子孫は徳川の親藩大名と

して続きます。 

もし、恒興が小牧長久手の戦いで戦死しなければ、大

々名としての池田家は存続出来なかった筈です。 

そういう意味で恒興は、絶妙のタイミングで亡くなっ

たとも言えますね

 

 

コメント
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