まだ天正十一年なんですね
武田が滅亡し、信長が殺され、信濃に限らず日本全土が混沌としていた
激動の一年、これほど濃密な一年は無かったかも知れません。
混乱に乗じて岩櫃・沼田を押さえた昌幸ですが、一益にとって岩櫃・沼田
の事なんてどうでも良かった筈です
何としてでも清州会議に間に合わせなければの一念だったのでは…。
もし?木曽義昌の邪魔がなければ清州会議に間に合っていたかも知れま
せん
真っ先に武田を裏切り織田に寝返った義昌が織田軍たる滝川一益を通さ
ないとは、全く意味が分かりません
「武田家を滅ぼした織田は親の仇」、その言い訳には全く脈絡を感じません
人質の前で「何れわしは信濃の大名となる」とのたまうくだり…
こまで来ると笑うしかありませんよね
昌幸の上をゆく節操の無さです
ところで…勝頼を最初に裏切ったのは木曽義昌だと言われていますが、穴山
信君(梅雪)、小山田信茂など次々と裏切り者が増えていきます
滅亡する時はそんなものなのかも知れませんが、あまりにも多過ぎる気がして
なりません。
戦国時代は裏切りが日常茶飯事だとはいえ、一門衆から総スカンされていた勝
頼には何か問題があったのかも知れません。
義叔父・穴山信君もそうですが、叔父・武田信廉や従弟・武田信豊などは表だっ
て裏切ってはいませんが、長篠の戦では殆ど戦わず逃げ帰ったと言われていま
す
長篠の戦の後、留守居だった高坂雅信からは信豊と信君の切腹を進言されてい
るくらいですから間接的な裏切りといってもいいのかも知れません
信君が裏切った理由ですが…
勝頼の娘を信君の嫡男に貰い受ける約束をしていたにもかかわらず信豊の子供
に嫁がせた事が裏切りの原因だとか
勝頼は人との関わり合いに対して凡庸な一面があったのかも知れません。
勝頼は決して凡将ではなかったと思いますが、人心掌握術が…
父・信玄よりはるかに劣っていたのでしょうか
偉大な父を持った悲劇なのでしょうかね
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