古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「都督歴」と「年代歴」

2024年05月31日 | 古代史
 ところで、「三善為康」は『二中歴』を書く際に当然かなり古い資料を参照したと思われますが、この「都督歴」について言うと、この「藤原元名」付近で一旦まとめられた資料があり、そこまでの分を「省略」し、その以降の未整理の分について自ら書き継いだと言う事ではないでしょうか。
 この『二中歴』は「百科事典」のようなものと言われ「有識故実」について書かれているとされますが、今で言う「現代用語事典」的あるいは「広辞苑」的なものではなかったかと考えられ、それらと同様にその時点における最新の知識が随時追加されていたのではないかと思われます。
 「故・中村氏」はまた『…二中歴は八十二の「歴」により構成され、各歴毎に原記(書き継ぎではない)と推定される記事に年代の異同があり、八十二歴全体が一挙に編集されたものではなく、各歴により成立年代が異なっていたと推定され…』とされており、『二中歴』が一気に書かれたものではないことに言及されていますが、さらに言えば、(彼の意見とは異なり)時代と共に書き足されていったものと言う可能性が考えられるものであり、「三善為康」はその意味でいわば「アンカー」を務めたと言えるではないでしょうか。
 このようなことは「都督歴」だけではなく『二中歴』の各所に起きていたものと思われ、そうであれば「年代歴」にもそのような可能性が考えられるでしょう。つまり「都督歴」の「國風」以降と以前に「区切り」があるように「年代歴」には「九八七年時点」付近に同様に「区切り」があるのではないかと考えられるわけです。
 この「区切り」の場所が「都督歴」と「年代歴」では若干異なるものの(三十年程度か)、年代としては大きくは違わないものであり、いずれも『二中歴』の編集段階とされる時期(平安末期)をさらに遡上する「十世紀後半」であることも重要と思われます。これは「都督歴」の旧編集者と「年代歴」の「旧編集者」とが同一人物かあるいは「親子」である可能性を感じさせます。
 「都督歴」についての旧編集者は、「省略」された「都督」中の最終人物である「藤原元名」と同世代であったのではないかと思われ、その場合「藤原元名」が「康保元年」(九六四年)に「八十歳」で死去していることを考えると、編集者である彼も同様に「九六〇年代」にはせいぜい「七十代後半程度」と見られることとなるでしょう。また、「年代歴」の方の旧編集者はその一世代後の人物ではないかと思われ、「一条天皇」の即位付近で一旦資料としてまとめられたものと考えることができそうです。
 これについては「三善氏」として最初の算博士となった「三善茂明」が「三善氏」を名乗ったのが「貞元二年」(九七七年)とされていますから、彼がこの編集に関わった可能性は非常に高いと思料します。(他の資料からも「平安時代」に存在していた「同種」の記録に基づくものという考え方がされています。)
 「算博士」でありながら『二中歴』という「百科事典」様の書物を記したり、『拾遺往生伝』などという仏教史料を著した「三善為康」の一種「特異性」は彼自身の能力の発露と言うより「三善家」に伝わる「原・二中歴」があって始めて成し遂げられたものと言うこともできると思われますが、さらにいえば彼が依拠した史料は「九条家」に伝わるものであったという可能性も考えられます。なぜなら「三善氏」は代々「九条家」の「家司」(けいし)であったと思われるからです。
 「家司」とは主人筋の家に(ちょうど「執事」のような形)で出入りして家事全般の面倒を見る立場の人間であり、「九条家」の「家司」は「三善氏」であったと推定されています。
 「為康」の次代の「三善家」当主と思われる「為則(為教とも)について当時の「関白」「九条兼実」の日記に「臨時で任命した越後の介を解任する」という記事があり、そのことからも彼が「九条家」に深く関係する人物であったという可能性が考えられています。(※)
 この「越後の介」任命は当時起きた「法然」と「親鸞」及びその他当時の「浄土宗」の関係者に対する弾圧の際に「九条兼実」の差配によって行われたものと思われ、「親鸞」に対する「保護」が目的であったと見られています。
 「法然」や「親鸞」など浄土宗教団については「承元元年」(一二〇七年)二月「後鳥羽上皇」から「弾圧」を受け、一部のものは死刑、その他関係者は各地へ配流となりました。この時「親鸞」と「法然」も配流となったものですが、「法然」は「九条兼実」自身が深く帰依していたものであり、彼が配流先を「土佐」から「讃岐」へ変更させたものです。「讃岐」には「九条家」の領地があったものであり、そこで「法然」は厚く遇されたとされます。そうならば「親鸞」についても「九条家」の保護の手が入ったと考えるのは不自然ではありません。
 「親鸞」は「越後」に配流となっていたものであり、その「親鸞」の保護兼監視役として「越後の介」として「三善氏」が(臨時に)配置されていたらしく、そのことからも「三善氏」と「九条家」の間に深い関係があると見られるわけです。
 「為康」も「為則」と同様「越後の介」に任命されたことがあり、それについても「九条家」の計らいがあった可能性があり、そのような関係であれば「九条兼実」が蔵していた各種史料を彼が見る機会もあったものと思われ、それらを活用したという可能性も考えられるものです。
 このように考えると、『二中歴』に書かれた「年始」についての理解が「五世紀の始め」とみて不自然ではないと思われるものです。

(※)「九条兼実」の日記『玉葉(ぎょくよう)』の治承二年(一一七八年)正月二十七日条に「除目」の発表についての記事があり、そこには「越後介正六位上平朝臣定俊、《停従三位平朝臣盛子去年臨時給三善為則改任》」とあります。(《》間は小文字二行書き)

(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2023/06/04)
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「都督」「太宰」と「倭国」

2024年05月31日 | 古代史
以下に「都督歴」に対応する「大宰府」に派遣されていた人物たちの記録を書出します。

藤原元名    大宰大弐
天徳二年条 参議 従四位上 藤元名 七十四 仁和元年生。/三木従三位清経三男。 延木五二十七兵庫助。十四年正七従五下(陽成院御給)。十七年九月玄蕃頭。廿一年八十一能登守。延長五正十二備後守。三月廿六日従五上(治国)。承平二正廿七伊與守。同六八十五大和守。同七正七正五下。天慶四正九従四下。同五三廿九美乃権守。同十二一丹波守。天暦六正八従四上。同十一日民部大輔。同七正廿九山城守。同八三十四大宰大弐。天徳二閏七廿八三木(大弐如元)。
天徳三年条 参議 従四位上 藤元名 七十五 月日去大弐。

藤國風 記録なし

小野好古 大宰大弐
天徳四年条 参議 正四位下 野好古 七十七 左大弁。弾正大弼。正月廿四日兼備中守。四月廿三日任大宰大弐。止弁弼等

藤佐忠 記録なし

橘好古 大宰権帥
天禄元年条 中納言 従三位 橘好古 七十八 民部卿。正月廿五日兼大宰権帥(去卿)。

藤國光 記録なし

藤國章 大宰大弐
貞元二年条 非参議 従三位 藤国章   正月七日叙(造八省院廊功)。太宰大弐如元。/故三木元名朝臣四男。母同文範卿。

菅輔正 大宰大弐
正暦三年条 非参議 従三位 菅輔正   二月十五日叙(持朱雀院御骨賞)。式部大輔如元。/右中弁正五位下淳茂孫。従四位上勘解由長官在躬朝臣一男。母従五位上常陸介菅景行女。 天暦ー給料。同四ーー文章得業生(年廿六)。同五正卅播磨権少掾。同八十廿七課試。同九正ー判(卅一才)。壬九月ー刑部少丞。同十一正廿七式部少丞(卅三才)。天徳二壬七廿二転大丞(弘親卒替)。同四正七従五下(策。卅六才)。二月十九但馬権守。四月廿二日民部少輔。応和元十十三式部少輔。同三正廿八左衛門権佐。二月宣旨。倫寧任河内守替。同四四一次侍従。康保二正十七止次侍従(依国府前使也)。同三正七従五上(策。四十二)。廿七任権右少弁。同四九一東宮昇殿。同五二五左少弁。安和元十二十八大学頭。同二六廿三左少弁。八月十三東宮学士。九月二日昇殿。天禄元八五文章博士。十一月廿日正五下(弁労)。同二正廿九越前介。十二月十五日右中弁。同三正七従四下(弁労)。壬二月廿九美作権守。同四七廿二権左中弁(学士博士如元)。貞元二八二従四上(造宮行事)。十二月十日周防権守。同三十十七左中弁。天元二十十七昇殿(石清水行幸行事以下加階聴昇殿)。同四正廿九大宰大弐。二月十七日昇殿。同五正七正四下(弁労)。三月五日式部権大輔。永観二八廿七以本宮侍臣昇殿(但身在任所)。九月十四日聴雑 。寛和二六廿二止昇殿(譲位)。正暦二四廿六丹波権介。五月二日昇殿。廿一日転式部大輔。

藤為輔 大宰権帥
寛和二年条 権中納言 正三位 藤為輔 六十七 正月廿八日任(加階)。同日大宰権帥。八月廿六日薨。号甘露寺中納言。又松崎帥(参木大弁十二年。中納言一年)。

藤共政 記録なし

藤佐理 大宰大弐
正暦二年条 参議 従三位 藤佐理   兵部卿。正月廿七辞三木并卿。任大宰大弐。

藤有国 大宰大弐
長徳三年条 非参議 正三位 同〈藤原〉有国 五十五 大宰大弐。

平惟仲 大宰権帥
長保三年条 中納言 正三位 平惟仲   正月廿四日大宰権帥(或本云。給左右近衛各二人為随身)。

藤高遠 記録なし(左兵衛督)

平親信 筑後権守
長保三年条 非参議 従三位 平親信 五十七 十月十日〔叙〕(東三條院御賀。院司賞)。/故中納言時望卿孫。故従四位下行伊勢守兼以朝臣二男。母従五位下越後守藤定尚女。 康保四ーー東宮雑色(宮初)。安和二八ー為内雑色(踐祚)。天禄二九廿六文章生。同三正廿六蔵人。四月廿九左衛門少尉。四月十一遷右衛門少尉。天延二二二検非違使。同三正七従五下(蔵人)。廿六筑後権守。貞元二正廿阿波守。八月二日従五上(造宮功)。永観二十廿右衛門権佐。十一月日使宣旨。同三二ー防河使。寛和元九十四近江権介(受領)。防鴨河使如元。十一月ー正五下(悠紀国司)。二十一十八叙従四下(悠紀国司)。永延二十四辞。同三正廿八従四上(造勢多橋賞)。正暦二六一越前守(乗方辞替)。

藤隆家 記録なし

藤行成 大和権守
長保三年条 参議 正四位下 藤行成 三十 八月廿三日任。右大弁大和権守等如元。元蔵人頭。十月三日侍従。同十日従三位(東三條院御賀。院司賞)。/故太政大臣(伊尹公)孫(但為子)。右少将義孝一男。母中納言源保光卿女。 永観二正七従五下(春宮明年御給)。寛和元十二廿四侍従。同二二八昇殿。八月十三左兵衛権佐。同三正七従五上(恵子女王御給)。永延元九ー昇殿。永祚二正廿九備後権介。正暦二正七正五下(佐労)。同四正九従四下(女叙位次。佐労)。ー昇殿。長徳元八廿九蔵人頭(従四下。備後権介)。同二正廿五式部権大輔。四月廿四権左中弁。同年八月五日転左中弁。同三正廿八備前守。四月十一従四上(臨時)。十月十二右大弁。長保元正廿九備後守。三月廿九大和権守。同二十十一正四下(書額賞)。長保三八廿三三木。

源経方(房) 大宰権帥
寛仁四年条 権中納言 正二位 源経房 五十二 皇大后宮権大夫。十一月四日去権大夫イ。同廿九日兼任大宰権帥(去大夫)。

源惟憲 大宰大弐→源ではなく藤原
治安三年条 非参議 従三位 同〈藤原〉惟憲 六十一 十二月廿六日叙(長和五大嘗会国司賞)。大宰大弐如元。/中納言為輔卿孫。駿河守惟孝一男。母従四位下伴清廉女。 年月日近江掾。寛和元十一廿従五下(悠紀)。ーーー大蔵大輔。ーーー従五上。ーーー正五下。長保三正廿四因幡守。寛弘二正廿五得替。同三正廿八甲斐守。同四正廿従四下(造安殿賞)。同七二十六去任。同八十十五従四位上(治国。御即位)。長和二九十六正四下(行幸中宮。左大臣家司)。十一月廿四日近江守。ーーー左京大夫。寛仁元八九春宮亮。同二正ー去任。同四正卅播磨守(大夫亮如元)。治安三十二十五任大宰大弐。

源道方 大宰権帥
長元二年条 権中納言 従二位 源道方 六十二 宮内卿。正月廿四日兼大宰権帥。八月十八日叙正二位(赴任賞)。

藤実成 大宰権帥
長元六年条 中納言 正二位 藤実成 五十九 四月九日勅授帯劔。十二月卅日兼大宰権帥。

藤隆宗 記録なし

藤重尹 大宰権帥
長久三年条 権中納言 正三位 同〈藤原〉重尹 五十九 正月廿九日任大宰権帥。止中納言。七月三日叙従二位(赴任日)。永承六年三月八日薨。

藤経通 太宰権帥
永承元年条 権中納言 正二位 藤経通 六十五 治部卿。左衛門督。二月廿六日兼太宰権帥(止督)。

藤資通 太宰大弐
永承五年条 参議 従三位 源資通 四十六 左大弁。播磨権守。九月十七日兼太宰大弐(去左大弁)。十一月十一日正三位(赴任賞)。

高成章 太宰大弐
天喜三年条 非参議 従三位 高階成章 六十六 七月十九日叙。太宰大弐(赴任賞)。/天武天皇之後。左大臣長屋王十世之孫。故春宮亮業遠四男。母修理大夫業平女。 年月日主殿権助。ーーー春宮蔵人。長和五正廿九内蔵人(太子登極日。廿七)。十一月廿六日式部少丞。同六正七従五下(蔵人。筑後権守)。寛仁三正廿三紀伊守。治安三二十二去任。万寿三四廿七従五上(治国)。同四三十七春宮大進。長元九四ー止大進(太子登極)。七月十日正五下(馨子内親王御給。即位日)。長暦元八十七春宮権大進。長久三正七従四下(春宮去長久四年未給)。廿九日主殿頭。同五正ー阿波守。永承三十一ー止守。同四十二ー伊與守。同五十一十三従四上。同六正廿七正四下(造貞観殿功)。天喜二十二二任大弐。

藤経輔 太宰権帥
康平元年条 権中納言 正二位 同〈藤原〉経輔 五十三 中宮権大夫。四月廿五日兼太宰帥。七月卅日加権字。

藤師成 太宰大弐
康平六年条 非参議 従三位 藤師成   七月廿六日叙(永承大嘗会主基)。八月十九日正三位(赴任賞)。太宰大弐如元。/故中納言通任卿一男。母従三位藤永頼卿女。 寛仁五正七従五下(皇后御給)。ーーー美乃権守。万寿元十十七侍従。同三十一廿七右兵衛佐。同五二十九従五上(佐労)。同日左少将。長元二正廿四兼伊與権介。同四十十七兼加賀権守(受領。小一條院分)。十一月十九日正五下(少将労。朔旦)。同六正七従四下(少将労)。長暦二正廿従四上(治国)。長久二十二十九正四下(行幸内大臣二條家家賞)。同三十廿七任兵部権大輔。寛徳二四十二備中守(任中公文一)。永承四二五去任。天喜四十廿九丹後守。康平三二廿五去任。同五正卅近江守。同六二廿七太宰大弐。

藤顕家 太宰大弐
治暦三年条 参議 従三位 藤顕家 四十四 讃岐権守。七月一日兼太宰大弐。八月廿二日正三位(赴任賞。超資綱)。

藤良基
延久三年条 参議 従二位 同〈藤原〉良基 四十八 春宮権大夫。周防権守。四月九日兼大弐。

平経平 大宰大弐
承暦四年条 参議 正四位下 藤公実 二十八 十二月六日任。左中将如元。元蔵人頭。/春宮大夫実季卿一男。母前大弐経平朝臣女。 治暦四七廿一従五下(良子内親王御即位給)。延久二十二廿八左兵衛佐。同四正七従五上(佐労)。十二月八聴禁色。為蔵人。同五正卅遷左少将。同六正廿八正五下(少将)。同日兼備前介。承保元十一十八従四下(大嘗会)。同二正十八従四上(行幸東三條第日賞)。同六月十三転中将。同四正六正四下(陽明門院御給)。同二ー兼中宮権亮。承暦四正十八蔵人頭。十二月六日任三木(中将如元)。

藤資仲 大宰帥→大宰権帥
承暦四年条 権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十 正月廿八日罷職。任大宰帥。(大宰権帥の誤り)
承暦四年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十 正月廿八日罷所職。大宰権帥。
永保元年条 前権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十一 大宰権帥。
永保二年条 前権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十二 大宰権帥。
永保三年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十三 太宰権帥。
応徳元年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十四 大宰権帥。四月日辞帥。同日出家(六十四才)。寛治元十一ー入滅。

藤実政 大宰大弐
応徳元年条 参議 正三位 同〈藤原〉実政 六十六 左大弁。勘解由長官。式部大輔。讃岐権守。六月廿三日遷任大宰大弐。

藤伊房 記録なし
延久四年条 参議 正四位上 藤伊房 四十三 右大弁。十二月二日任。/故参議行経卿一男。母前土左守源貞亮女。 長元四正六従五下(東宮御給)。ーーー但馬権守。寛徳二十二廿五侍従。永承元十一十三従五上(殿上一)。同二十一十三左兵衛佐。同三正廿八遷少納言。同四二五兼紀伊権守。同七正五正五下。天喜四年十一ー補蔵人。同六四廿五遷右少弁。同十一月八日転左少弁。康平五十一ー兼木工頭。治暦元十二ー転権左中弁(木工頭如元)。同二正五従四下(弁)。同廿八日氏院別当。三月廿二日造興福寺長官。同三二六任安芸介。廿五日従四上(興福寺供養日)。四月十六正四下(丈六画像御仏供養行事)。延久元六十九補蔵人頭。同十二月十七日任左中弁。同三三廿七為修理左宮城使。同四二一正四上(臨時)。同十二月二転右大弁。同日任三木(元蔵人頭左中弁)。同月ー為氏院別当。

藤長房 記録なし
永保三年条 参議 正三位 同〈藤原〉長房 五十四 正月廿六日任。大蔵卿如元。/故入道権大納言経輔卿二男。母式部大輔資業卿女。 長久二十廿七従五下(上東門院臨時御給)。同三十廿七侍従。同四九ー右少将。同五正五従五上(少将)。寛徳二四ー兼備前介。永承二正ー正五下。同三四五兼斎院長官。同四正五従四下(少将)。同五二ー兼美作介。同六正ー遷右少将。天喜三二ー兼周防介。同五正ー正四下(上東門院御給)。同六正ー兼左京大夫。康平三二廿二兼備中介。同四二ー転左中将(大夫如元)。同六四卅従三位。治暦二二ー兼周防権守。延久元十二ー辞大夫。同四二ー任兵部卿。承保二六ー遷大蔵卿。同四正十一正三位(行幸陽明門院。院司賞)。


大江匡房 永長2年(1097年)、大宰権帥に任ぜられ、翌承徳2年(1098年)、大宰府へ下向する。康和4年(1102年)には大宰府下向の労により正二位に叙せられるが、まもなく大宰権帥を辞任した。

藤原保実 康和4年(1102年)正月:大宰権師→三月に死去


藤原季仲 康和4(1102)年大宰権帥

藤顕季 天仁2年(1109年)太宰大弐、修理大夫

源基綱 永久4年(1116年)正月30日:太宰権帥、11月7日:赴任

藤原重資 記録なし

藤原俊忠 記録なし

藤原長実 長承2年(1133年) 兼大宰権帥

藤原経忠 大治3年(1128年)正月24日:大宰大弐

藤原実光 長承2年(1133年)2月22日:大宰大弐(去大弁)
保延2年(1136年)11月4日:権中納言、大宰権帥

藤原顕頼 保延5年(1139年)(46歳)正月5日:正三位正月24日:大宰権帥兼任

平実親 記録なし

藤原忠能 『兵範記』の保元二年冬記の紙背文書に見られる、「鎮西凶悪輩、可レ令二召進一之由、雖下被レ下二宣旨一候上、大弐卿、依二被レ申事候一、如二只今一者、未レ定候、可二定下遣一之時、可レ申二案内一候歟、謹言 正月十八日 播磨守」という記事。播磨守清盛から摂関家の家司であった平信範に送られてきた保元二年正月十八日付の文書で、鎮西の凶悪の輩の追討宣旨が出されたが、太宰大弐藤原忠能の申し出により追討使の派遣は控えているので、派遣の折はお知らせしますという内容。

藤原季行 大治5年(1130年)に阿波守に任ぜられて以降、能登国・因幡国・武蔵国・土佐国・讃岐国等の国司や大宰大弐など地方官を歴任する。

平清盛 1158年(保元3年)に平清盛が大宰大弐

藤原顕時 1162-1164 大宰権帥

藤原隆季 治承3年(1179年)11月20日:大宰権帥兼任

藤原実清 記録なし

吉田(藤原)経房 文治元年(1185年)10月11日:大宰権帥を兼任

藤原頼能 建久元年(1190年)従三位・大宰大弐に叙任される。

藤原季能 記録なし

平宗頼 記録なし

平頼盛 永万元年(1165年)7月に大宰大弐となり、仁安と改元された8月27日には従三位に叙せられて、平氏で3人目の公卿となった。

平信隆 記録なし

平重家 記録なし

延べ六十四名のうち「大弐」二十一名、「権帥」二十四名、「記録なし」が十七名







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「年代歴」の冒頭の「年始」について

2024年05月31日 | 古代史
 『二中歴』の「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。それに続いて「継体五年元丁酉」から始まり、「大化六年乙未」に終る年譜が記されています。
 ここで「無号」といっているのは「年号」のことと思われますが、「年始」の「年」は「年号」ではありません。つまり、「年始」を「年号が始まった年」と解釈するのは正しくないわけです。(論理上も成立しません)これは、ある時点から「年」を数え始めた、ということであり、その最初の三十九年間は「年号」はなく「干支」もなかった、ただ「結縄刻木」していただけだった、というわけです。(この事から「結縄」あるいは「刻木」のいずれかが「暦」の役割をしていたことが窺えます。)
 そして、その後に「継体元丁酉」から始まる「年代歴」が接続されるわけですが、ここでは「継体」という年号と「丁酉」という「干支」が表記されているわけですから、その前段から意味が連続していることとなります。この時以来(それまでなかった)「年号」と「干支」併用し始めたということとなるのは当然でしょう。
 (これについては以前「年始」を古田氏の見解をなぞる形で「紀元前」に求める記述をしていましたが、『二中歴』のこの部分を正視すると「無号不記干支」の終わりと「継体元丁酉」が接続されているという(当然ともいえる)知見を得たため、この「継体元丁酉」という年次の「三十九年前」に「年始」を定めるべきというように見解を変更しました。これは「丸山晋司氏」の見解と結果的に同じとなります。)
 この「年代歴」冒頭部分は当然その直後の「年号群」につながっていますから、意味的にも連続していないと不審といえます。前段の文章が後段と「没交渉」とは考えられませんから、「意味内容」として連続しているとみるのは不自然ではありません。
 たとえば、この「年始」を「大宝建元」のことと理解するなら(これは故・中村幸夫氏の論)、この部分から「年代歴」中程の「大化」年号の後に書かれている「已上百八十四年~」という部分まで「飛ぶ」こととなります。しかし、それは読み方として「恣意的」に過ぎるでしょうし、また古田氏等のようにこれを紀元前まで遡上させた場合(※1)そこから数えて「三十九年」以降「継体」までの間のことに全く言及していないこととなりそれもまた不審と思われます。
 更に古田説によれば、この当初の「三十九年」以降「結縄刻木」がなくなったとするなら、民衆は「太陰暦」を理解し使用していたこととなりますが(「結縄刻木」は「暦」の役割も果たしていたはずですから)、もしそうなら『魏志』(というより引用された『魏略』)に「正歳四節を知らず」と書かれることはなかったでしょう。この記事からみて「卑弥呼」時点では「太陰暦」が一般化していないことは明らかですから「結縄刻木」は存続していたとみるべきであり、それは古田氏の理解とは食い違うものです。またそれは同じ『二中歴』の「明要」の箇所に「結縄刻木」が止められたという記事があることとも齟齬します。これは当然それ以前に「結縄刻木」が行われていたことを示すものであり、それもまた古田氏の理解とは食い違っているといえるでしょう。(「細注」が間違っているとするなら別途証明が必要と考えます。)
 また、これについては当初の「三十九年」が「二倍年暦」としての表記であるという考え方もありますが、そうは受け取れません。そうであるなら「年始五百六十九年」さえも「二倍年暦」であることになるはずです。(三十九年はその中に包含されているのですから)しかし誰もそのような議論はしていません。
 古田氏は「継体元年」である「五一七年」から「五百六十九年」遡上した「紀元前五十二年」を「年始」としているわけですが、『二中歴』によれば「結縄刻木」は「明要元年」まで行われていたものであり、その時点まで「二倍年暦」であったとすると、「紀元前五十二年」から「五四二年」まで全て「二倍年暦」であるということとなり、そうであるなら「年始五百六十九年」という数字全体が「二倍年暦」であることとなってしまいます。もしこれを「二倍年暦」であるとすると、「五百六十九年」ではなく、実際には「二百八十年」ほどとなってしまいます。「継体元年」から「二百八十年」遡上すると「二三七年」となり、これは「卑弥呼」の治世の真ん中になります。こう考えて「年始」を「卑弥呼」の時代に置くというならそれも一考かも知れませんが、現在のところそのような見解はないようです。(そもそもこれでは「紀元前」に年始が来ません。)
 これについてはこれらの年数は「一倍年暦」時代に書かれたものであり、すでに「換算」が終えられた段階の記述と考えるのが正しいと思われます。つまりこの「年代歴」の冒頭部分では「年始」からの年数に関していわば『二中歴』作者の公式見解とでもいうべきものが書かれていると思われ、その中の「五百六十九年」や「三十九年」は「生」の数字ではなく、彼の立場ですでに整理されたものと思われ、「二倍年暦」などがもしあってもそれを太陰暦に変換した上で述べているのではないかと推察するわけです。
 結局自国年号を使用開始した時点(『二中歴』の記事を「六十年」遡上した年次として修正して考えると「四五七年」)から遡る年数として「三十九」という数字が書かれていると判断できるものであり、これを計算すると「年始」とは「四一八年」となります。この時点を「起点」として「年を数え始めた」というわけですが、これは既に見たように仏教の伝来とされる年次とまさに一致します。
 つまりこの時点で仏教の流入と共に「年」を数え始めたというわけであり、それは『「仏教伝来」からの年数』を把握する意味もあったのではないかとも思われます。つまり「倭国」における「年」の意識は元々仏教に結びつけられたものであったという可能性があると思われるわけです。そしてそれはその後「年号」に仏教関係のものが著しく多いこととなって現れたといえるのではないでしょうか。
 そして、『二中歴』でその基準年とされているのが「四一八+五六九=九八七年」であったということであり、この『二中歴』の「年代歴」記事は元々「十世紀」の終わりに書かれていたものを下敷にしたという可能性が高いと考えられることとなるでしょう。
 このように現行『二中歴』に先行する史料があったと考えるのはこれも「丸山晋司氏」にも通じるものですが(※2)、彼の場合はその徴証となる史料が見いだせないとして故・中村氏から反論が寄せられていました。(※3)しかし、この場合「徴証」といえるものは同じ『二中歴』の中の「都督歴」ではないかと思われるのです。

(※1)古田武彦「独創の海――合本『市民の古代』によせて」合本『市民の古代』(新泉社)第一巻(第1集~第4集)所収
(※2)丸山晋司『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』
(※3)誌上論争「二中歴年代歴」市民の古代研究「二十二、二十四、二十五号」昭和六十二~六十三年

(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2017/07/23)
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「舞遊始」とは

2024年05月31日 | 古代史
 引き続き『二中歴』の「年代歴」について年次移動を想定して考察します。
 「教倒」の項に書かれた「教倒五元辛亥舞遊始」という記事についても、これを通常「五三一年~五三五年」と理解するより六十年遡上した年次である「四七一年」と見る方が妥当ではないかと思われることを以下に示します。
 この「教倒」年間は年次移動を想定すると「四七一年~四七五年」のこととなり、この「年次」はすでに見たように「斉」と「興」が共に亡くなり「武」が跡を継いだとされる時期に相当します。
 「武」が「四七八年」に提出した上表文では「奄喪父兄」と書かれ、「父」(斉)と「兄」(興)の両者を「同時」に失ったように書かれていますが、実際には「四六二年」の「興」の遣使の時点では「斉」は死去しているとされ、また「興」自身も彼は「将軍号」を授号されていますから、当然同時には亡くなっていないこととなります。しかし、それほど長年月にわたって彼が存命したということでもないものと思われ、その死去した年次は「四六二年」以降の「四七八年」までのどこかと考えられます。そうすると、この『二中歴』に書かれた「舞遊」は彼らの「葬儀」と「鎮魂」あるいは「新倭国王」の即位に関するものと考えることもできるのではないでしょうか。
 ところで、「筑紫舞」を伝えた「傀儡子(くぐつ)」の伝承によれば「高貴な方の前で」舞う、あるいはそれら高貴な方の墓である「古墳」で舞うという事が彼らの職掌であったようです。(福岡県にある「宮地嶽古墳」などで実際に行われていたもの)
 このことは彼らの舞が、元々高貴な方が主催する「祭祀」などで「舞う」=「歌舞」する、というものであったのではないかと思えます。そもそも、「古墳で舞う」と云うことは「死者」を鎮魂するのが目的であり、さらに新王者への継承を「鬼神」(死者)に対して報告する意義があったものと見られ、「前方後円墳」にという祭祀場における必須の鎮魂作業であったと思われます。
 『大宝令』の「解釈集」である『令集解』には「遊部」という項目があり、それによれば、「遊」とは天皇の崩御に伴う「殯(モガリ)」に奉仕することであり、「鎮凶癘魂」を「殯」の場所で行うのが職掌でした。つまり「舞遊」とは単なる歌舞ではなく、古墳時代以前からの「殯」につながっていたものです。

「太政大臣。…以外葬具及遊部。
謂。葬具者。帷帳之属也。遊部者。終身勿事。故云遊部也。釈云。以外葬具。帷帳之属皆是。遊部。『隔幽顕境。鎮凶癘魂之氏也。』…」(『令集解』喪葬令の太政大臣条)

 同様に『令集解』では遊部についての「古記」の文章があります。

「古記云。遊部者。在大倭国高市郡。生目天皇之苗裔也。所以負遊部者。生目天皇之?。円目王娶伊賀比自支和気之女為妻也。凡天皇崩時者。比自支和気等到殯所。而供奉其事。仍取其氏二人。名称祢義余比也。祢義者。負刀并持戈。余比者。持須(酒)食并負力(刀)。並入内供奉也。唯祢義等申辞者。輙不使知人也。後及於長谷天皇崩時。而依〓(手篇に蔡)比自支和気。七日七夜不奉御食。依此阿良備多麻比岐。尓時諸国求其氏人。或人曰。円目王娶比自岐和気為妻。是王可問云。仍召問。答云。然也。召其妻問。答云。我氏死絶。妾一人在耳。即指負其事。女申云。女者不便負兵供奉。仍以其事移其夫円目王。即其夫代其妻而供奉其事。依此和平給也。尓時詔自今日以後。手足毛成八束毛遊詔也。故名遊部君是也。但此条遊部。謂野中古市人歌垣之類是。」

 これによれば『遊部』は以前の「祢義」であり「余比」であるとされ、「天皇」の葬儀の際に「刀剣」を負い、「御酒」を侍して供奉するとされています。
 『隋書俀国伝』には「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞」と書かれており、葬儀の場で「歌舞」すると書かれています。
 これらのことから「舞遊始」とは「葬儀」に関わる儀式であったものが「原初型」ではないかと推察されるものです。
 また「本居宣長」の著書「玉勝間」には「體源抄」(豊原統秋著)という書籍からの引用として以下の文章があります。

 「丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり」

 ここには「東遊」の起源が書かれていますが、「教到六年」という「九州年号」が見え、「東遊」という語からもわかるようにここに書かれた「天人」とは「九州王朝」の配下にあった「東国」から派遣された「哥舞」を為す人たちであり、彼らにより、伝えられたものが「東遊」の起源となったと思われます。つまり元々「東国」の舞であると思われるわけです。
 ここでは「江浦の夕ヘ」、つまり「日の暮れる頃」になって「浜」に船が着き、そこから下りてきた人々により「歌舞」が行われたもののようであり、これは「日の暮れる頃」という時間帯でもわかるように「儀式」、特に「葬送儀式」にまつわるものと考えられ、前述したように、倭国王「斉」と「興」の「葬儀」や「鎮魂」の儀式と関連して行われたものではないかと思料され(「九州年号」の「教倒」は「五年」までで「丙辰」の年は「僧聴」に改元されたことになっており、年号の切り替わりと重なっているのもそのことを示唆します)、東国から「弔使」として派遣された人々により「鎮魂」のための舞として「九州王朝」に奉納されたものと思われるわけです。
 (『常陸国風土記』の「建借間命」の「国栖」征伐のシーンに出てくる「七日七夜 遊楽歌舞」というものも「葬送」に関わるものではないかと考えられ、これと同種のものであったかと推察されます)(※)
 この「東遊」はその後も「宮中」で保存され、その名の通り起源が「東国」にあるとされていて、伴奏にも「和琴」つまり「六弦琴」が使用されるなど東国(関東)起源と考えられます。
 この「駿河」の「宇戸ノ濱(宇土浜)」は「東海道」がまだ伊豆箱根を超えるルートが開拓されていない時代にはここまでが陸路でここからは海路であったとみられ、「房総半島」やその背後の「常陸国」など関東諸国との間の交通の要衝であったと思われます。この至近には「屯倉」も設置されていたものであり(「稚贄屯倉」)、この「屯倉」を「邸閣」つまり「兵糧の集積場所」という一種の軍事的拠点としていたとも考えられ、ここから東国に対して軍事力を背景として統治行動を起こしていたものと推定され、また戦いが終結した後は新規開拓された土地からの貢納物の集積場所として機能したと思われますが、ここに「船」が着いたということは「関東」側からの到着を示すものであり、この「東遊」が関東起源とされることとつながります。それを「九州」の倭国王権が受け入れて自家のもとしたということではなかったでしょうか。
 時代としても「武」の前代の頃と考えれば、「関東」へ「倭の五王」が進出した時代に相当すると思われますから、関東側からの一種の服属儀礼として「新旧」の「倭国王」に対して「舞」を奉納したという事を示すものではないかと推察されます。(中国において夷蛮の地域から「舞楽」を貢納するケースと近似していると思われます)
 それに関連して注目されるのが「埼玉稲荷山古墳」から出土した「鉄剣」です。
 その鉄剣には「金象眼」が施されており、その解読からそこには「辛亥年」という表記が確認され、これは「五三一年」か「四七一年か」で議論がありますが、そこに使用されている「万葉仮名」から考えて「四七一年」と考えるべきであり、『二中歴』の年次遡上を考慮するとまさしく「教倒」改元の年に一致することとなります。
 この「剣」に書かれた「辛亥」は当然この「鉄剣」が鍛造された年次であると思われますが、それはその鉄剣の持ち主と思われる「乎獲居臣」の主たる「関東王朝」の「王」の死に関係していると思われ、彼はその「王」に培葬されているわけですから、「殉死」したということが考えられます。
 そして、この「関東王朝」の「王」の死は上に見たように「倭国王」の死と同じタイミングであり、その間に深い関係があると思われます。つまり「関東」の王が「倭国王」の身内であり、「皇子」の一人であったという可能性を考えさせるものです。
 関東を「征服」させる過程は「騎馬」によるものであったと思われ、騎馬集団が直接「征服行動」を行っていたと見られますが、「武」の上表文の中でも「…自ら甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧処に暇あらず…」と表現されているように「倭国」における伝統として「倭国王」ないしは彼の「皇子」による「親征」であったということが考えられます。そう考えると、関東の地に「倭国王」や「皇子」が「関東」の王として君臨することとなったとしても不思議ではありません。(これも一種の「天下り」と言えます)そうとすれば「乎獲居臣」も「佐治天下」というようなことを広言する根拠を全く持たないわけではないこととなります。
 この「関東」の「王」が「済」の皇子である「興」であり、主と仰ぐ人物が亡くなったとしたら「乎獲居臣」も「殉死」せざるを得ないという状況もまたあり得ると思われます。
 この「丙辰」の年は「教倒」から「僧聴」へと改元された年であり、「教倒」改元から六年経過しています。これはその期間「殯」あるいは「喪」に服していたと見れば、「改元」は「新倭国王」の即位に関連しているという可能性も出てきます。つまり「東遊」は「前倭国王」に対する弔意を表すものであると共に「新倭国王」に対する祝意をも表すものではなかったかと推察されることとなります。
 「宇戸ノ濱」には「屯倉(稚贄屯倉)」があったわけですが、その「屯倉」は単なる倉庫ではなく「中央官庁」の「出先機関」として「政所」的役割を与えられていたものであり、そうであればその「屯倉」の前で「弔使」としての舞を奉納するというのはあり得べきこととなるでしょう。それを「受ける」立場の人達の前で「舞われた」と考えることができ、それもまた朝貢の一種であったとも考えられます。
 「東遊」はその後(平安時代)も宮中の「祭祀」(特に神武天皇を祀る際に)舞われていたことが確認でき、「新日本国」の王権にとって重要な意味を持っていたことが窺えます。(東方を制圧した人間との深い関連が伝承されていたという可能性が考えられるものです)
 「装飾古墳」に明確なように「貴人」の葬儀の場合は「死者」を船に乗せ「陸上から引っ張って陸地に上げる」儀式を行っていたと見られ、この「東遊」とされるものも本来、同様の趣旨のものであった可能性が高いと考えられるものです。そうであれば「九州」との関係も理解できるものです。
 推測によれば「済」や「興」の生前の業績と関連の深い場所が何カ所か選抜されて各地で「葬送の儀式」が行われたのではないかと考えられ、そこに諸国から「弔使」が派遣され、「歌舞」が行われたものと考えられます。(天女伝説のいくつかは同様の趣旨のものではなかったでしょうか)
 このような儀式には参加者(「周瑜」に例えられていますから、「男性」と考えられます)が「白衣」等を身につけ(当時「喪服」と言えば「白」(麻)と決まっていたようです)、「歌舞」するものと思われ、それを見ていたものがいたのでしょう。
 このような儀式は(特に高貴な方の葬儀など)、関係者以外は「参加」できないものであったとも考えられ、それを「或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見」ていたことが「丙辰記」に書かれたものと推察されます。
 つまり、この「東遊」の起源となったとされている「教到六年」も「通常の理解」である「五三六年」ではなく、「六十年」過去に移動した「四七六年」である可能性が高いと考えられるわけです。

(※)富永長三『常陸国風土記』行方郡の二つの説話をめぐって「市民の古代」第13集 1991年 市民の古代研究会編

(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2021/01/06)
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『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次について

2024年05月31日 | 古代史
 前稿までの推論は『二中歴』の記事について「干支一巡」の移動を考慮することが必要であることを示すものですが、さらに他の例で検討してみます。
 たとえば『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次についての混乱も『二中歴』と同様「六十年」ずれているという可能性を示唆します。
『継体紀』には以下のように書かれています。

「(継体)廿五年歳次辛亥(五三一年)崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。」

 つまり、『百濟本記』には「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事があり、こちらのほうを信用して『書紀』もこれにならったというわけです。しかし、近畿王権の国内伝承にはこの時点でそのような「王の一家の主要な人物が一斉に死去した」というものは存在していなかったのです。このため「編纂者」(これは「唐人」「続守言」でしょうか)も困惑していると見られるわけですが、これは「干支一巡」(=「六十年」)のズレが招いたものではないでしょうか。
 当時の「百済」の記録は「干支」によっていたため「六十年」単位で移動する可能性があると思われます。(「百済」には年号使用の形跡がありませんから(※)、年次記録は「干支」しかないものと思料され、「定点」がないためある程度年数が経過して、他の資料などが散逸し始めると年次を誤認する可能性が高くなります)
 また『百濟本記』は「現存」しておらず、『書紀』などに引用される形でしか残っていません。このため、「記事」が正しいかどうかはある意味「不確定」であるわけです。
 この記事を「六十年」過去に移動すると「四七一年」となりますが、『二中歴』も「六十年」移動しているので、この『書紀』-『二中歴』の関係はそのまま維持されることとなります。つまり、移動した「辛亥年」は「四七一年」となり、それは「教倒」改元の年であるわけで、さらに「南朝」の皇帝に対して「武」の上表文が書かれる七年前のこととなります。そして、その上表文の中では「倭国王」と「皇太子」が「ともに」亡くなっている、と書かれているわけですから、『百濟本記』の記事にかなり近似していることとなるでしょう。つまり、ここで示された「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事は「武」の上表文に書かれた「奄喪父兄」という「倭国王」「済」と「興」の死亡に関する記事と強く関係していると推量します。
 この「武」の上表文の「記事」以外には『百濟本記』の「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事と合致するものは全く確認されないわけであり、これは『百濟本記』に「誤伝」した可能性が強いものと考えられます。というより、『二中歴』も「六十年」時期が下る方向で「ずれている」わけですから、そのことと『百済本紀』が同様に「ずれている」と推定されることとは深い関係があると思われます。つまり、いずれも「原資料」が共通していて、その「原資料」段階で既に「ずれていた」という可能性です。元の資料は同じであったという可能性があるように思われます。 
 また、上のように「武」の上表文に書かれた内容と『書紀』(『百済本紀』)とが同一であるという推定をした場合、「武」の上表文が書かれるまで「時間」(年月)がかかっているようにも思えますが、これは「武」が当時まだ「未成年」であったため、「成人」を待っていたと言うこともまた可能性としてあると思われます。
 「興」以外にも兄がいて「父兄」とは「済」と「興」だけではなく、他の「兄」も含んだ表現であるとすれば、「武」は「末子」であったという可能性があり、まだ幼少であったためにすぐ即位できず、成長を待って「即位」し「上表」する事となったということではないでしょうか。(『百濟本記』でも亡くなった中には「太子皇子」がいたらしいことが書かれてあり、上の推定を裏付けるものです)
 また「父」と「兄」の「服喪期間」があったために「上表」して「称号」を受けるまで時間がかかったという可能性もあります。この時代はまだ「三年以上」の「殯」の期間があったと考えられ、「父」と「兄」とが相次いで亡くなったとすると計六年分あったこととなれば、「上表」までの年数も整合的となるでしょう。
 この「継体紀」における「日本天皇及び太子皇子ともに崩薨」という記事について古田氏は「磐井の乱はなかった」という趣旨の論を述べた際の「質疑応答」の中で「干支一巡」の移動で考察できる可能性を示唆されていました。

「質問三 磐井の乱ですが、今まで継体の反乱と理解していました。それで質問なのですが継体が死んだ年と朝鮮の記録との時期のずれ、そのあたりはどのように理解したらよいのでしょうか。

 回答
 これも大事な質問です。
 継体紀の最後に、「日本の天皇及び皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は二十五年に當る。後に勘校へむ者、知らむ」という百済本紀の記事があります。
 今考えてみますと、『失われた九州王朝』『古代は輝いていた 三』などを書いた人間として、間違いというか論理の飛躍があったと、今は考えています。結局百済側が伝える事件があったことは間違いがない。あそこに干支も書いてある。それも間違いがないと思う。ですがそれが磐井であるという証拠はない。磐井以外のケースで、そういう問題が起きえたケースがあったか。たとえば倭の五王。上表文のところで、悲痛なことを言っています。父が亡くなった。兄が亡くなった。自分が頑張らねば、そのように言っています。そのような背景に、この事件があっても不思議ではない。そういう目で、もう一度再検討したらよい。磐井にこだわらず、いったんこの事件を保留して、もう少し時間帯を自由に動かしてみたらどうか。六十年単位に動かしてみたらどうか。動かせば、何か引っかかるかところが見つかるかも知れません。大事な保留問題と考えています。」(古田武彦講演記録 二〇〇四年一月十七日「「磐井の乱」はなかった ロシア調査旅行報告と共に」『古代に真実を求めて第八集』より(明石書店二〇〇六年)

 これによればこの『継体紀』の「日本天皇及び太子皇子」同時死去記事については「磐井の乱」との関係を考える必要がないというわけであり、その意味でこの記事自体が「流動性」を持って考えられることとなったようです。上に述べた当方の視点とは全く異なりますが、いわば「結果的に」当方の意見と同じとなるわけであり(申し訳ないことに上記古田氏の意見には後で気がついたものであり、当初全く念頭にありませんでした)、それほど的外れとも言えないということとなる模様です。(ただし私見では「磐井の乱」はあったとみていますが)

(※)古賀達也氏などにおいては「百済年号」の存在を想定しておられるようですが、その確たる根拠はないと思われ、実際には以下の「斯麻王」の墓碑などで判明するように「干支」をその年次表記として使用していたことが推定されています。
「百済武寧王とその王妃の墓誌」
〈ウラ面〉「銭一万文右一件/乙巳年八月十二日寧東大将軍/百済斯麻王以前件銭詢土王/土伯土父母上下衆官二千石/買申地為墓故立券為明/不従律令」
(以上は『李宇泰「韓国の買地券」都市文化研究十四号二〇一二年』によります)

(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2017/07/10)
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