古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「倭京」とは「難波京」か

2024年12月30日 | 古代史
 『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか、という文を先日書きました。そこでは八世紀に入ってから新日本王権が「日本」について「やまと」と読むという、これはいわば宣言とも言えるものですが、逆に言うとそれ以前は「日本」は「やまと」ではなかったこととなると指摘しました。そしてそれと同様の理由で「倭」には「やまと」という読みの指定がないのだと書きました。つまり「倭」や「やまと」ではないというわけですが、そうなれば「倭京」は「やまとの京」ではなくなるわけであり、「倭姫」は「やまと姫」ではないこととなります。それらはいずれも歴代中国から見て「倭」と認定されていた国に冠せられる語であり、国内的には「筑紫」を中心とした領域であることもまた既に指摘しています。これらから「倭京」が本来「筑紫の京」であることは明確ですし、「倭姫」が「筑紫の姫」であることもまた明確と言えるでしょう。
 しかし「倭国」つまり「筑紫」に中心を持っていた権力が東方に進出し難波に副都として「京」を作った際に「日本」と国号を定めたと考えていますが、そうであれば「倭京」も移動したという可能性もあるように思います。つまり「難波」が新しい「倭京」となっていたという可能性です。
 「倭」が対外的に使用される国名であってまだ日本が国名として「唐」の承認を得ていないとすれば「難波京」が対外的に「倭京」という名称になったとして不自然とは言えないこととなります。国内的にも「倭京」の方が通用していたとも言えるでしょう。そうであれば「壬申の乱」において「難波京」が全く姿を見せない理由も明らかと言えます。
 「難波京」には「兵庫」つまり「武器庫」があったはずであり、それを誰も利用しようとしていないのはなぜかという疑問があったものですが、それは「倭京」という呼称で姿を現していたということであれば了解できます。
 この「倭京」についていうと、『書紀』では『孝徳紀』に「難波京」への遷都後に初出します。また『二中歴』の「都督歴」には「蘇我日向」が「筑紫本宮」で「大宰帥」として任命されたという記事があります。この記事は『書紀』では「筑紫本宮」という語が脱落した状態で現れますが、基本的には『二中歴』の記載が真実と見るべきであり、「筑紫」に「本宮」があったとみるべきこととなります。さらにこの記事は「倭京」初出時点に近接しており、「倭京」という呼称が使用されるようになる事情と「筑紫本宮」とが強く関連した事象であることを推察させるものです。これらから「倭京」とは「筑紫京」(筑紫本宮)ではないことが言えるでしょう。そして「難波遷都」後に「倭京」が出現することからも「難波京」がこの時点付近で新たに「倭京」となったということが言えそうです。
 以前「倭京」と「古京」が同一というのは不自然だという指摘をしました。(「大伴吹負」が「倭京将軍」と呼称されているが彼が守っているのは実際には「古京」であるという点など)
 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平安京」と対比して使用されているものであり、「古京」とは「遷都」する前の「京」を意味する用語であることが判ります。これは「倭京」と「古京」が別の「京」を指すと考えればその疑問は氷解します。つまり「倭京」が「難波京」で「古京」が「筑紫京」とみれば理解が可能なのです。
「古京」に関しては以下のように記事中に表されています。

「…壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。『古京是本營處也。』宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。…」

 「倭京」には「留守司」が置かれていたのは明らかですが(「高坂王」と「坂上直熊毛」)、上に見る「古京」にはそのようなものが置かれていたようには見えず、この点でも「倭京」と「古京」は異なる存在であったと考えられるものです。また「古京」について「本營處」と称されていることにも注目です。「本営」とは「本陣」と同じく通常「総大将」や「総司令官」の「軍営」を意味するとされますから、通常では「大伴吹負」の拠点という意味で使用されていると考えられているわけですが、それであればさらに「倭京」と「古京」が同一となってしまうこととなります。しかしそれは「矛盾」といえるものです。
 一般に「留守司」とは「倭国王」が行幸等で「京師」を離れる際に文字通り「留守役」として任命されるものです。この用語がここで使用されていることから判ることは、ここでいう「倭京」が「倭国王」の「京師」(首都)であること、「倭国王」はこの時点で存在(生存)しているものの、何らかの理由により「京師」を不在にしているらしいことです。
 「王」「皇帝」などが死去して後、次代の王などが即位しない間に「京」を預かる人間を「留守司」あるいは「留守官」「監国」などと呼称した例はありません。このことから、この時点において「倭国王」が生存している事を示しますが、その「倭国王」とは「天武」(大海人)ではあり得ないと思われると共に、「大友皇子」でもないと思われます。それはまだ「大友皇子」の即位が行われていなかった可能性が高い事と、もし留守司を任命したのが彼であるなら「近江京」という存在の意義がどこにあるか不明となることもあります。
 彼が「近江京」にいるにもかかわらず「倭京」があり、そこに「留守司」がいるということになります。「遷都」した結果「近江京」という存在になるわけですから、「近江京」はいわば「倭京」のはずです。しかし記事からは「近江京」は「倭京」とも「古京」とも違う位置にあったものであり、そう考えるとこの時の「倭国王」は誰でどこにいるかということとなります。「大海人」でも「大友」でもないとすれば(天智がすでに死去しているという前提ならば)可能性があるのは「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたという場合でしょう。
 「大海人」は「吉野」に下る際に「天智」に対して「倭姫」を「倭国王」とし、「大友」に補佐させるという案を提示しています。

「(六七一年)十年…冬十月甲子朔…庚辰。天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。踞坐胡床剃除鬢髮。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。」

 これが実現していたとするなら、彼女が「倭国王」として「高坂王」を「留守司」として任命したと理解できます。ただしその場合でも「明日香」に「留守司」を配置する理由が不明です。なぜなら「明日香」は「倭京」とは思われないからです。すると冒頭に説明したように「倭京」が「難波」であり「古京」が「筑紫」であったというケースが最も考えやすいと思われます。
 「難波」は私見では「難波日本国」の拠点とも言うべき場所であり、ここが「当時」倭京とされていたとみれば「倭姫」は「倭京」にいるからこそ「倭姫」であると言えるわけです。そして「天地」死去後「殯」のために「古京」たる「筑紫」に戻るという決断をしたものとすれば「倭姫」が「殯宮」に隠っていたという「新宮」は「古京」つまり「筑紫」の至近に存在したことが考えられるでしょう。
 「天智」の「殯」に関する記事は以下のものしかありません。

「(六七一年)十年十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
(同月)癸酉。殯于新宮。…」

 その後「山陵」の造営記事らしきものがそのおよそ「半年後」の「六七二年五月」に出てきます。

「(六七二年)元年夏五月是月条」「朴井連雄君奏天皇曰。臣以有私事獨至美濃。時朝庭宣美濃。尾張兩國司曰。爲造山陵。豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲。非爲山陵。必有事矣。若不早避。當有危歟。或有人奏曰。自近江京至于倭京。處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。天皇惡之。因令問察。以知事已實。…」

 上の『書紀』の記事では「新宮」という呼称がみられます。これは「殯」のために新たに(仮に)あつらえた「宮」であったと思われますが、それは「古京」つまり「筑紫」のどこかではなかったでしょうか。この記事では「新宮での殯宮」記事の日付は天智死去後「八日目」の出来事ですが、既に指摘したように「山陽道」を馬で行けば「筑紫」まで容易に到着できる日数です。
 「八世紀」段階の史料を見ると「山陽道」には(「筑紫」周辺の十一駅を加え)六十二駅あったとされます。『養老令』では「緊急」の場合(これは「海外から邦人が帰国した場合など」も含むとされています)「早馬」の使用が認められていたものであり、その場合は「一日十駅」の移動を認めていますが、これであれば「筑紫」~「難波」の移動に必要な日数は「一週間」程度ではなかったかと考えられます。(また実距離としても一日40km程度の行程を考慮すると「馬」に乗れば問題なく移動可能と推量できます。)
 「皇后」である「倭姫」は「殯宮」に籠もっていたものであり、それは「古京」たる「筑紫」のことであったと考えられることとなります。
 『書紀』の「殯宮」記事を見ると「宮」の「南庭」で行う事が非常に多く「殯宮」のために「新宮」をこしらえたとすると、「推古」の時代「敏達」の「殯宮」が前皇后の出身地である「廣瀬」に設けられた例がある位で基本的に珍しいといえるでしょう。つまりここで「新宮」を造ったとすればそれはそれまでの宮殿とは全く別の場所に造ったことを示唆するものであり、「倭姫」の場合も自らの出身地である「筑紫」の至近に「新宮」を作ったとすると、そこで「殯」の儀式を行っていたと考えられるのです。こう考えると「倭京」に「留守司」がいても不思議ではないこととなります。
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2024年度年末総括と古代史セミナー

2024年12月29日 | 古代史
 いつもこのブログを見てくださっている方(どれほどいらっしゃるかよくわかりませんが)には厚くお礼申し上げます。
 今年も押し詰まってきていますが、今年のもっともエポックメーキングなことは11月に行われた古田史学の古代史セミナーです。
 この古代史セミナーについては、その趣旨が「七世紀倭国の外交について」と言うもので、講演の依頼があった時点ではそれに関する研究の蓄積があまりなく、講演が可能なのか我ながら疑問であったものですが、せっかくお声をかけていただいたのですから、挑戦してみようと思った次第でした。ただし研究の蓄積が少ないので満足な内容にはならないと思い、そこからいろいろ資料を調べたり、思索を巡らせたりする作業を始めたのですが、なかなか思うように進まず、9月段階で一旦そこそこまとまったのでこれをベースにお話しさせていただこうと思っていたものです。(この時点でレジメとして送ったもの)
 この時点でシミュレーションした段階では普通に話すスピードであれば収まっていたのですが、その後(10月の中旬ぐらい)新しい知見がいくつか得られたことからそれを盛り込む必要ができてしまい、それに伴ってボリュームが一気に増大した結果「あふれ」が発生したものです。つまり時間に対して有り余る内容を盛り込んでしまった結果、趣旨が拡散したことととなりうまく伝わらなかった部分が多かったように思います。
 ただし「七世紀倭国の外交について」という趣旨からは当然「倭国」から「日本国」への転換という部分がもっとも触れるべき点であり、これが実際には短いタイミングで行われたことではないことから、その経緯を説明しようとすると時系列的にも触れるべき点が多くなってしまうのはある意味当然であり、その一部だけをピックアップするのでなければ情報量が多くなってしまい時間内に収まらないのもある意味当然でした。これらについては事前の検討が不十分と言えばその通りで、そういう意味では反省もありつつ、講演をするという目的がなければこの新しい知見は得られなかったと思われ、その意味でこのセミナーには深く感謝しています。

その新しい知見についてはすでにブログにアップしていますが、箇条書き的にまとめると、
①『旧唐書』の「日本国伝」記事と対応するのが『書紀』の「白雉四年」の遣唐使記事であるという点、
②この時の「遣唐使」が「日本国」としての最初のものであるという点
③『旧唐書』に言う「日本国は倭国の別種」という表現は、この時の「日本国」の使者の発言を疑った結果、「日本国」が「倭国」とは別の国であると「唐」として理解したということを意味すること
④これ以降「日本国」と「倭国」は並行して存在していたと「唐」として考えていたこと
⑤「倭国」は「難波」に宮殿を作った段階で「東国」に対して直接統治することを考えていたものであり、その時点で「日本」と国号を変更していたこと(これは「ひのもと」と読んだ可能性が高い)
⑥しかしこの時の「倭国王」の斬新で急進的な施策が周辺の反発を生み、離反された結果、倭国王がその座を降りてしまったこと
⑦その空位となった難波宮殿を「近畿勢力」が占拠、乗っ取ってしまた結果、本来の「日本国」とは別に「難波日本国」が生まれ、彼らが「遣唐使」を送ったとみられること(これが『旧唐書』に書かれた「日本国伝」の情報源となった)
⑧「伊吉博徳」の「遣唐使」も「日本国」としてのものであること(つまり彼は「難波日本国」の関係者とみられること)、この時同時に「倭国」(唐から見て)つまり「筑紫日本国」の使者も「唐」から招聘を受け派遣されていたこと
⑨「唐」が戦った相手はあくまでも「倭国」であり、「日本国」ではなかったこと(「倭国」と「日本国」は別なのだから)
⑩「百済を救う役」では「百済」から「倭国」つまり「筑紫日本国」に応援要請がきたこと、それに応じ「筑紫日本国」の「王」は「難波日本国」に対して「新羅」を攻めるよう指示したこと(斉明の詔は「百道」についての表現から薩夜麻が出したとみる方が正しい、また「倭国」は「唐の「高宗」から「一旦急あれば「新羅」を支援するように」と言う「璽書」を下されており、これに反する訳にいかなかったため)
⑩「薩夜麻」は「唐軍の捕虜」となったという表現から「新羅」を攻めるのではなく「高麗」への援軍に出動したと考えられること。
⑪そこで「大伴部博麻」と一緒に捕虜になっていることから「大伴部博麻」が「薩夜麻」の「親衛隊」のひとりであったとみられること、「大伴氏」が「倭国王」の親衛隊であり、常に行動を共にしていたと見られることからこの時も「大伴部」を率いて「倭国王」の護衛をしていたと思われること。
⑫『公卿補任』には「大伴御行」と「大伴安麻呂」が「五男、六男」と書かれており、彼らの上に複数の兄弟の存在が措定されるが『書紀』に記事がなく、彼らの動向について「薩夜麻」の護衛として「高麗」に行き、あるいは戦死したと思われること
⑬「百済を救う役」で捕虜となった人物の帰国記事から出征したのがほぼ九州と四国等の周辺地地域からであり、近畿等の地域からの派遣がなかった可能性が高いこと
⑭このことも含め「倭国」の統治領域の範囲として「筑紫」を中心とした地域が措定されること、及び『隋書俀国伝』記事の行程から「九州島」とその周辺が「倭国」の「直轄統治流域」と考えられること、さらに「倭の五王」のひとりである「武」の「南朝」皇帝への上表文からも「倭国」の範囲として「九州島」とその東方地域である「四国」と「中国」地方の半分程度が措定されることなどから、その領域の中心と考えられる「筑紫」において「君」と称されている「薩夜麻」が「倭国王」(筑紫日本国王)であったと考えるべきこと
⑮彼らが高麗で戦死したり捕虜となったりした結果「筑紫」において軍事的空白が埋まれ、それを埋めるように「難波日本国」が「筑紫」地域を軍事的に制圧した結果、彼らが「都督府」を設置したと思われること。その「都督」としての表現が『善隣国宝記』に引用された「海外国記」に出てくる「鎮西筑紫大将軍」という呼称と思われること、
⑯その後「唐」が「薩夜麻」を帰国させ再度「倭国王」として列島を統治させようとしたらしいこと、その際「日本国天皇」と「倭国王」へと2通の国書を持参し提出しており、「倭国」と「日本国」が別であるという認識をこの時点でも保持していたことが明確となっていること
⑰「薩夜麻」が「倭国王」として再度「統治」の実権を振うことに対して、「難波日本国」の一部が反旗を翻した結果「壬申の乱」が発生し「唐」の意志を体した「薩夜麻」が勝利し「天武」として統治を再開したこと
⑱その後「大地震」と「大津波」により疲弊した「薩夜麻日本国」を「持統」が継承したがそれは旧「難波日本国」勢力の支持があっものですが、「持統・文武」死去後は「難波日本国」が列島の全権を掌握し「やまと」と国号の呼称を変更したとみられること。
⑲「藤原宮」は「持統・文武」の旧王朝の都であったものであり、「延喜式」に見えるように「元明王権」は明確に「旧王権」否定して新王朝を開始したものであり、「文武」は「近畿勢力」の「傀儡」として存在していたとみられ、新日本王権の開始は「平城宮」遷都を以て完了したと思われること。

以上の流れを新たな知見として確認したのが本年の収穫と言えます。
また来年も何か新しいことを発見したり確認したりできたらいいなと思っています。

来年も多くの方のアクセスをお待ちしています。では皆様良いお年を。
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「隋」皇帝からの「訓令」について(二)

2024年12月24日 | 古代史
 「隋」の「高祖」「楊堅」は(諡「文帝」)は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。
 それまでの「周朝」(北周)が「儒教的雰囲気」の中にあり、学校教育の中身も「儒教」が中心であったわけですが、「高祖」はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」からもたらされた「最新」の仏教)を示しそれを国教とすべしとしたという可能性は高いものと推量します。それが「法華経」であったと思われ、そのため派遣した「隋使」にそれらを講説させたものではないでしょうか。
 これに関しては『二中歴』の「端正」の項に「唐より法華経始めて渡る」という記述がこの「訓令」に関連していると考えられます。

「端政五年己酉 自唐/法華経始渡」(「自唐」以降は小文字で二行書、また「/」は改行を意味します。)

 この「端正」は「五八九年から五九三年」までであったと思われますから、この年次以前に「遣隋使」が派遣され、その「表報使」として「隋」から使者が派遣されたことを如実に示すものといえます。彼が「訓令書」を携え、「倭国王」に対し「統治」の体制を見直すことを強く「指示」したというわけです。そしてその具体的方策として「法華経」が示された(講義された)ものと考えられるものですが、同時に「文帝」が「大興善寺」を都の中心に据えて仏教を国策の中心とするシンボルとしたように、「倭国」においても「国策」としての寺院を「都」に建設するべきという進言(あるいは勧告)をしたものではなかったでしょうか。そのために必要な技術と人材及び物資を「援助」したという可能性が考えられます。 
 既に考察したように「高麗大興王」という存在は実際には「隋帝」を意味するものであり、「高麗大興王」からの援助という黄金も実際には「隋帝」からの援助であったと思われるわけです。そしてその「黄金」が使用されて「丈六仏像」が完成したのが「元興寺」であったというわけですから、この「元興寺」は「隋」における「大興善寺」の役割を負っていたものと考えられます。(この「元興寺」については後述)
 ここで「隋使」が行ったと思われる「講説」を受けて「法華経」に基づく仏教文化が発展するわけであり、「六世紀末」から「阿弥陀信仰」が急速に発展すると云うところにこの「訓令」の影響があったものと思われます。(それは特に「法隆寺」に関することに強く表れているものであり、「玉虫厨子」の裾部分にも「阿弥陀像」が押し出しで描かれているなどのことに現れています。またその「法隆寺」には「瓦」などを初めとして「四天王寺」や「飛鳥寺」などのように「百済」の影響がほとんど感じられず、かえって「隋・唐」の影響があると見られることがあり、それらは深く関連していると考えられます。)
 このような仏教文化の発展には色々な要素があったものと思われますが、この時「文帝」から「訓令」されたことが一つの大きなインパクトになっていると考えられるものです。
 このような趣旨で「隋使」が「講説」を行ったとすると、それが行われた場所(地域)として「倭国王」の所在する場所であり、また「遣隋使」により「俗」として「如意寶珠」があり、「祷祭」が行われているとされた「倭国」の本国である「九州島」において、まず「新・法華経」が講説されたみられることとなるでしょう。すでに述べたように「鐘」についてその木型の作成が行われたのが「筑紫」においてであったものであり、そこで作製された鐘は全て黃鐘調の音階を発するものであって倭国王専用のものであったことが明らかですから、その意味でも隋使が講説をした場所も「筑紫」であったとみられます。
 「九州島」が「倭国」の本国であることは『隋書』の中でも「阿蘇山」を初めとする「九州島」内部の様子の描写が物語っているものであり、そう考えると「倭国」の主要支持勢力も九州島の中に求めるべき事となるでしょう。その筆頭にあげられるのは「海人族」であり、「住吉」「宗像」「安曇」などの諸氏です。(「如意寶珠」は海中の大魚の脳中にあるとされますから、海人族との関係が最も深いものと推量します。)
 そして特にその「法華経」(「堤婆達多品」の補綴されたもの)の内容が「九州」の有力者であった「宗像君」にとってはあたかも自分自身のことを言われたような衝撃を受けたとしてまた不思議はないと思われます。
 その新しい「法華経」の白眉としては「女性」が(でも)「往生」できるとする立場です。その典型的な場面は「女人変成男子」説話です。これは「提婆達多品」にあるもので「文殊私利菩薩」が「海龍王」の元に行き「法華経」を講説したところ「海龍王」の娘が悟りを開いたという説話であり、その際「娘」は「男性」に姿を変えた上で「悟り」を開いたとされます。(これ自体はそれ以前の仏教が抱えていた「女性差別」という欠陥に対するアンチテーゼとしての「男性」への変身であり、「法華経」自体の主張ではないとされます。)
 このような内容は「王権」やその支持勢力の女性達にとって「斬新」であり、興味をかき立てられたことでしょう。「宗像君」の周辺の女性達もまた例外ではなかったと思われ、積極的反応を示したのではないでしょうか。
 実際に「複数」の娘がいたと思われる「宗像君」にとってみればこの「法華経」の内容はまさに自分自身のことであり、「娑竭羅龍王」に自分自身を重ね合わせることはたやすいことであったものと思われます。そのため彼自ら「率先」して「法華経」に帰依したものと思われ、その結果彼の一族も挙って「法華経」の布教・拡大に乗り出すこととなったものと思われます。それはもちろん彼らにとっては「瀬戸内」の制海権を手に入れるという実質的利益を確保する狙いもあったものでしょうけれど、また「倭国王権」の意志に沿ったものであったのが大きいと思われます。
 ところで一般には『法華経』に「提婆達多品」が添付されたのは「六〇一年」に造られたとされる『添品妙法蓮華経』が最初であるとされますが、実際には「六世紀末」の「天台大師智顗」によるものであり、それは「南朝」が「隋」に滅ぼされる以前の(五八九年以前)であったと見られます。
 すでに以前の投稿で言及したように「五八八年」になり、「天台大師」が「光宅寺」で講説した「法華経文句」には「提婆達多品」への言及がありますから、この時点以降「法華経」に「提婆達多品」(及び「普門品偈頌」)が加えられ、「八巻二十八品」となったとされています。それが「隋」に渡ったのは「平陳」(五八九年)以降と思われ、その後派遣された「遣隋使」に対して、この「提婆達多品」が補綴された「法華経」を「隋皇帝」(文帝)が「下賜」したという想定は、「文帝」が仏教の発展に意欲を燃やしていた時点において「夷蛮」の国に対して「経典」を下賜したとした場合大変自然な行為であると思われます。それを示すのが『二中歴』の以下の記事でしょう。

「端政五己酉(自唐法華経始渡)」

 これによれば「唐」(これは「隋」を指す)から「法華経」が「始めて」渡ったとされ、これが「天台大師」により「提婆達多品」が補綴された「法華経」であると見られます。この「元年」である「己酉」は「五八九年」と思われ、「端正年間」としてはそこから「五九四年」までを指すものですが、「法華経」の伝来がそのいずれの年であるかは不明ではあるものの、少なくともこの年次付近に「遣隋使」が送られていたらしいことが推察されるものです。
 通説ではそれが「倭国」に伝来したのは一般にははるか後代の「九世紀」とされておりこの「六世紀末」から「七世紀」という時代には「流布」していなかったとされます。しかし「一般への流布」とは別次元のこととして「隋帝」から「倭国王」への「訓令」として直接伝えられたとする仮定はそのような通説と矛盾するものではありません。むしろこう理解した方が「龍女伝説」に対する解釈として適切であるように思います。
 つまりこの『提婆達多品』が補綴された『法華経』の伝来が「隋」との交渉の結果であり「開皇年間」であったとみるべきとすると、「厳島神社」などの「創建年次」が「五九三年」とされている事はまさに整合すると言えるでしょう。
 「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九三)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、『平家物語』等にも「厳島神社」については「娑竭羅龍王の娘」と「神功皇后」と結びつけられた中で創建が語られており、その内容は仏教との関連が強いものです。
 さらに「謡曲」の「白楽天」をみると以下のようにあります。

 「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。八大竜王は。八りんの曲を奏し。空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。手風神風に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。実に有難や。神の君が代の動かぬ国ぞ久しき動かぬ国ぞ久しき。」

 これによれば「厳島神社」だけではなく、「伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田」という多数の神社の「明神」は「娑竭羅竜王の第三の姫宮」というように考えられていたのがわかります。
 この「娑竭羅竜王の第三の姫宮」については、「法華経」第十二部「提婆達多品」の中に書かれており、それによれば「文殊菩薩」が竜宮に行き「法華経」を説いたところ八歳の竜女が悟りを開いた、と言うものです。その竜宮の主である「娑竭羅龍王」には八人娘がいて、この悟りを開いたという竜女はその三番目である、ということになっています。この伝承が「厳島神社」の創建伝承に現れるわけであり、神社の創建伝承に「法華経」が関与しているという一種不可思議なこととなっているのです。  
 つまり、これらの寺院の創建の年というのは、「遣隋使」(ないしは「隋使」)が「提婆達多品」の添付された「法華経」を持ち来たったその年であったのではないかとさえ考えられる事となります。もし「伝承」が後代に「造られた」(創作された)とするなら『書紀』の記述を踏まえるのは自然であり、それに沿った形で「伝承」を形作るものと思われ、『書紀』と食い違う、あるいは『書紀』の記述と反する「伝承」が造られたとすると甚だ不自然でしょう。その意味で「端正年間」という表現も含めて「厳島創建伝承」には『書紀』の影は見えないとみるべきであり、その意味で「独自資料」という性格があったとみるべきです。「伝承」だからという理由だけで否定し去ることは出来ないものと思われます。
 こうして「厳島神社」「伊豫三島神社」など「瀬戸内」の西側まで「宗像三姉妹」を核とした「法華経」が伝搬したものと思われます。
 この時点以前にすでに「市杵島姫」を初めとする「宗像三姉妹」に対する信仰は、特に海人族において篤かったものと思われますが、それが「法華経」という外来のものに結びつくことで伝搬力が増したという世界もあったのではないでしょうか。つまり「堤婆達多品」が添付された形で「隋」から伝わったと思われる「法華経」が、「宗像三姉妹」により受容され、在地信仰と一体化した形での強い伝搬(いわば「神仏混交」の発生といえるでしょうか)がこのとき発生したものであり、それ以前の「百済」からの純粋仏教とは異なる性質を持っていたものです。
 これら「宗像族」による「法華経」信仰とその拡大は「倭国王権」の意志に適うものであり、強く歓迎されたものと思われます。
 このように「訓令」により「統治体制」と「宗教」について改革が行われることとなったと思われるわけですが、さらにそれが現れているのが「前方後円墳」における祭祀の停止であり、「薄葬令」の施行であったと思われます。
 この「前方後円墳」で行われていた祭祀の中身は不明ですが、明らかに仏教以前に属するものであり、それと「兄弟統治」と解される「統治体制」が「古典的」と称すべき同じ時代の位相に部類するのは理解できるものです。
 「祭政一致」と云われるように「統治」と「祭祀」とは不可分のものであり、「訓令」により「統治」の根拠を仏教とすべしとされたなら、古来からの「祭祀」についても改革されるべき事となるのは当然であり、そのような「祭祀」が必須であったと思われる「前方後円墳」そのものの築造停止というものも国内諸氏に求められたものと思われます。
 「薄葬令」は「七世紀半ば」に出されたとすると遺跡などとの齟齬が大きく、これは「六世紀末」あるいは「七世紀初め」に出されたと理解するべきものであると思われ、これが「隋」の皇帝からの「訓令」の影響あるいは効果によるものであったと見る事ができると考えられるものです。
 ところで、既に述べたように「小野妹子」が「百済」国内で「国書」を盗まれたというのは「虚偽」であると考えられるわけですが、この「盗まれた国書」というものがこの「訓令書」であったというような理解があるようです。しかし、それもやはり従えません。「訓令書」についてもそれが「文書」という形態を取っていた場合は「国書」に準じた扱いであったと思われ、「隋使」が終始所持・保有していたと考えられます。「皇帝」の「勅使」としての重大性を考えるとそのような「訓令書」についても当然「隋使」が「肌身離さず」所持して当然であり、また「訓令」は本来「皇帝」が「倭国王」に対して直接行うものですが、遠距離のため皇帝の代理として「隋使」が「倭国」を訪れ「倭国王」に対し「訓令」することとなるわけですから、その瞬間まで「訓令書」が他の誰かの手に渡るはずがないこととなるでしょう。いずれにしても「小野妹子」の主張は真実ではなく、それは「文帝」が激怒した結果「使者」が「国書」を持参しなかった「言い訳」であったと判断できるでしょう。(ただしこの「訓令書」が「国書」と同一であったという可能性もあります。つまり「国書」の末尾に「訓令」が書き加えられていたという体裁であった可能性もあると思われるからです。その場合『推古紀』の国書には「続き」があったということとなるものと思われますが、詳細は不明です。)
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「隋」皇帝からの「訓令」について(一)

2024年12月23日 | 古代史
 以下も以前投稿したものですがあちらこちら見てもほぼ触れられることのないポイントのようですから、改めて問題として提起することします。

従来あまり重要視されていないと思われることに、派遣された倭国からの使者が国内における政治体制を紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。

「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」

 ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。

「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(「隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠」)

「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜?史侍郎,上?望之曰:「人倫儀表也。」凡有敷奏,詞氣抑揚,觀者屬目。陳使袁雅來聘,上令善就館受書,雅出門不拜。善論舊事有拜之儀,雅不能對,遂拜,成禮而去。後遷國子祭酒。上嘗親臨釋奠,命善講孝經。於是敷陳『義理』,兼之以諷諫。上大悅曰:「聞江陽之?,更起朕心。」賚絹百匹,衣一襲」(「隋書/列傳第四十/儒林/元善)

「華陽王楷妃者,河南元氏之女也。父巖,性明敏,有氣幹。仁壽中,為?門侍郎,封龍涸縣公。煬帝嗣位,坐與柳述連事,除名為民,徙南海。後會赦,還長安。有人譖巖逃歸,收而殺之。妃有姿色,性婉順,初以選為妃。未幾而楷被幽廢,妃事楷踰謹,?見楷有憂懼之色,輒陳『義理』以慰諭之,楷甚敬焉。…」(「隋書/列傳第四十五/列女/華陽王楷妃」)

 いずれも「道理」を示しそれにより「説得」あるいは「教諭」しているものと見られます。これらの例から考えて「高祖」は「倭国王」の統治の体制として「道理」がないつまり「筋道」として間違っていると見たものと思われますが、それは「天」と「日」の関係を兄弟とし、その「天」を自分自身に見立てている点にあったでしょう。
 中国的観点としては「天」とは「天帝」であり、「皇帝」に対応するものでした。ですから「倭国王」が「天」に自分自身を見立てているとすると「皇帝」と同格となってしまうわけです。もちろん「倭国」側にはその様な「対等」を表現する意図は(この段階では)なく「古代」から続く「天」(これは「夜」を意味するか)と「日」に対する意識を「統治」の実際に置き換えて表現しただけであったと思われ、それに何か問題があるとは考えていなかったものでしょう。これについては「高祖」は国交開始時点の段階であり、また絶域の夷蛮のこととして「訓令」により改めさせることに留めたものと推量されます。では、ここで行われた「訓令」とはいったいどのような内容を持っていたものでしょう。
 そもそも「訓令」とは「漢和辞典」(角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「隋帝」から「倭国王」に対して出された「倭国」の統治制度や方法についての改善命令を意味するものと思われます。
 「中国」の史書にはそれほど「訓令」の出現例が多くはありませんが、例えば『後漢書』を見るとそこに以下の例があります。

「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境?豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令蠶織』,為作法制,皆著于?亭,廬江傳其文辭。卒於官。」 (「後漢書/列傳 凡八十卷/卷七十六 循吏列傳第六十六/王景)

 ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、これは厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈の内容と察せられます。
 また『旧唐書』の例も同様の意義が認められます。

「二月戊辰朔…丙子,上觀雜伎樂於麟德殿,歡甚,顧謂給事中丁公著曰:「此聞外間公卿士庶時為歡宴,蓋時和民安,甚慰予心。」公著對曰:「誠有此事。然臣之愚見,風俗如此,亦不足嘉。百司庶務,漸恐勞煩聖慮。」上曰:「何至於是?」對曰:「夫賓宴之禮,務達誠敬,不繼以淫。故詩人美『樂且有儀』,譏其?舞。前代名士,良辰宴聚,或清談賦詩,投壺雅歌,以杯酌獻酬,不至於亂。國家自天寶已後,風俗奢靡,宴席以諠譁?湎為樂。而居重位、秉大權者,優雜倨肆於公吏之間,曾無愧恥。公私相效,漸以成俗,由是物務多廢。獨聖心求理,安得不勞宸慮乎!陛下宜頒『訓令』,禁其過差,則天下幸甚。」時上荒于酒樂,公著因對諷之,頗深嘉納。」(「舊唐書/本紀 凡二十卷/卷十六 本紀第十六/穆宗 李恆/長慶元年)

 ここでは「天寶」年間(玄宗皇帝の治世期間)以降「風俗」が「奢靡」(過度な贅沢)になり「宴席」において「ただ騒がしく」したりまた「音楽」に没頭するなどの様子が目に余るとし、そのような状況を「皇帝」が「訓令」してその行き過ぎを停めることができれば「天下」にとって幸いであると「諫言」したというわけです。
 また以下の例では「隋」の高祖の言葉として、「弘風訓俗,導德齊禮」することで「四海」つまり「夷蛮の地」を「五戎」つまり「武器」に拠らず「修めた」としています。

「閏月…己丑,詔曰:「禮之為用,時義大矣。?琮蒼璧,降天地之神,粢盛牲食,展宗廟之敬,正父子君臣之序,明婚姻喪紀之節。故道德仁義,非禮不成,安上治人,莫善於禮。自區宇亂離,緜?年代,王道衰而變風作,微言?而大義乖,與代推移,其弊日甚。至於四時郊祀之節文,五服麻葛之隆殺,是非異?,?駁殊塗,致使聖教凋訛,輕重無準。朕祗承天命,撫臨生人,當洗滌之時,屬干戈之代。克定禍亂,先運武功,刪正彝典,日不暇給。『今四海乂安,五戎勿用,理宜弘風訓俗,導德齊禮,綴往聖之舊章,興先王之茂則。』…」(「隋書/帝紀 凡五卷/卷二 帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽二年)

 この例では「俗」を「訓」したとするわけであり、そこでは一般論として「綴往聖之舊章,興先王之茂則。」というようなことが行われたとされますが、当然各国ごとに個別の事情があったわけであり、対応もまた個々の国で異なったものとなったでしょう。「倭国」の場合は「兄弟統治」と思しきものが「遣隋使」から語られたことで、「統治」の方法と体制という重要な部分について「前近代的」と判断されたものと思われ、そのため派遣された「隋使」の役割として「国交」を始めた段階における通常の儀礼行為を行うことに加え、「統治」に関して「旧」を改め「新」を伝授するという具体的な方策を示すことであったと思われます。
 ここでは「倭国王」は「天」に自らを擬していたわけですが、それはそれ以前の倭国体制と信仰や思想に関係があると思われ、「非仏教的」雰囲気が「倭国内」にあったことの反映でありまた結果であると思われます。確かに「倭国王」は「跏趺座」していたとされこれは「瞑想」に入るために「修行僧」などのとるべき姿勢であったと思われますから、「倭国王」自身は「仏教的」な雰囲気の中にいたことは確かですが、「統治」の体制として「天」と「日」の関係など「倭国」の独自性があらわれていたものです。それは「高祖」の「常識」としての「統治体制」とはかけ離れたものであったものであり、そのためこれを「訓令」によって「改めさせる」こととなったものと思われるわけですが、それは「統治」における「倭国」独自の宗教的部分を消し去る点に主眼があったものと推量します。
 そもそも「改めさせる」というものと「止めさせる」というものとは異なる意味を持つものですから、単に「倭国王」の旧来の「統治形態」を止めさせただけではなく「新しい方法」を指示・伝授したと考えるのは相当です。
 「高祖」は自分自身がそうであったように「政治の根本に仏教を据える」こと(仏教治国策)が必要と考えたものと思われ、そのために「最新の仏教知識」を東夷の国である「倭国」に伝えようとしたものではなかったでしょうか。そのため派遣された「隋使」(これは「裴世清」等と思われる)は「倭国王」に対して「訓令書」を読み上げることとなったものと思われますが、その内容は「倭国」の伝統に依拠したような体制は速やかに停止・廃棄し新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われ、その新体制というのが仏教を「国教」とするというものであったと思われるわけです。
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「大興王」と「隋」の高祖

2024年12月22日 | 古代史
 ここに出てくる「大興」という用語については、この時代「隋」に関してのみ使用されているものです。

「大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。…謀新去故如農望秋。龍首之山川原秀麗。卉物滋阜宜建都邑。定鼎之基永固。無窮之業在茲。因即城曰『大興城』。殿曰 『大興殿』。門曰 『大興門』。縣曰 『大興縣』。園曰 『大興園』。寺曰 『大興善寺』。三寶慈化自是『大興』。萬國仁風?斯重闡。伽藍欝?兼綺錯於城隍。幡蓋騰飛更莊嚴於國界。法堂佛殿既等天宮。震旦神州還同淨土。…」(『大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三四 歴代三寶紀十五卷/卷十二』)

 ここで見るように「城」「殿」「門」「県」「園」「寺院」などあらゆるものに「大興」という名がつけられたとされます。つまり、「大興」という語は「隋」(特に「高祖」)に関する専門用語ともいえるのです。
 たとえば「北周」の時代、まだ「高祖」(楊堅)が「北周」の皇帝配下の武将であった際に「大興」郡に「封じられた」とされています。

「…年十四,京兆尹薛善辟為功曹。十五,以太祖勳授散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司,封成紀縣公。十六,遷驃騎大將軍,加開府。周太祖見而嘆曰:「此兒風骨,不似代間人!」明帝即位,授右小宮伯,進封『大興郡公』。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅』より)

 また『隋書』の別の部分にも同様のことが書かれています。

「京兆郡開皇三年,置雍州。…大業三年,改州為郡,故名焉。置尹。統縣二十二,?三十萬八千四百九十九。大興 開皇三年置。後周于舊郡置縣曰萬年,《…高祖龍潛,『封號大興』,故至是改焉。》」(『隋書/志第二十四/地理上/雍州/京兆郡』より)

 ここでは「京兆郡」の下部組織としての「県」の設置の経緯などが述べられていますが、「大興」は筆頭に挙げられ、その記述に対する「注」として、「高祖」(文帝)が「北周」の時代、「龍潛」つまりまだ世に埋もれているときに「萬年」郡に封じられ、その地を「大興」と「号した」とされていますから、その時点で「大興郡公」となったわけですが、これは「大興王」という呼称の「原型」ともいえるものではないでしょうか。また、このことが後年「受禅」の後「大興」という「県」を設ける理由となったと見られ、彼はこの「大興」という語と地域について特別な感情を持っていたものと思われます。それは「楊広」(後の「煬帝」)を皇太子にする際の「文帝」の「詔」にも現れています。

「…(開皇)八年冬,大舉伐陳,以上為行軍元帥。及陳平,執陳湘州刺史施文慶、散騎常侍沈客卿、市令陽慧朗、刑法監徐析。尚書都令史?慧,以其邪佞,有害於民,斬之右闕下,以謝三?。於是封府庫,資財無所取,天下稱賢。進位太尉,賜輅車、乘馬,袞冕之服,玄珪、白璧各一。復拜并州總管。俄而江南高智慧等相聚作亂,徙上為揚州總管,鎮江都,??一朝。高祖之祠太山也,領武候大將軍。明年,歸藩。後數載,突厥寇邊,復為行軍元帥,出靈武,無虜而還。及太子勇廢,立上為皇太子。是月,當受冊。高祖曰:「吾以『大興公成帝業』。」令上出舍 大興縣。…」(『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上』より)

 ここでは「大興」の地において「帝業」を開始したという意味のことが書かれており、「皇帝」となった現在に至る中でこの「大興県」という場所が彼にとって特別な場所であったことが推察されます。
 また「北宋」の「志磐」が表した『仏祖統紀』という書物の中でも「文帝」については以下のように「大興」を城とした王とされています。

「…西天竺沙門闍提斯那來上言。天竺獲石碑■説。東方震旦國名大隋。城名大興。王名堅意。建立三寶。…」(『仏祖統紀』(大正新脩大蔵経)より)

 この「王」の名として書かれている「堅」とは「楊堅」つまり「隋」の高祖である「文帝」を意味しますから、彼が「大興城」に居する「王」として(「天竺」から見て)「大興王」と呼称されていたとして不自然ではないこととなります。
 また、同じ『元興寺伽藍縁起』には完成までに要した「黄金」の量として「金七百五十九両」とも書かれています。その一部がこの「高麗大興王」からの「三百二十両」であったとすると、残り(四百三十九両)はどの地域からの助成ないし貢上であったものが不明とならざるを得ません。
 この当時国内からは「金」が産生されていないと考えられますから、必然的に「高麗」以外の「百済」「新羅」「加羅」からのものと考えざるを得ませんが、「新羅」「百済」からはそれほど多くの金が算出していたという記録は見られません。
 『隋書東夷伝』の「冠」や「衣服」などの装飾に関する記事を見ても、「高麗」には「金銀」とあるものの、「百済」には「銀」に関するものはあっても「金」はなく、「新羅」に至っては「金」も「銀」も全く触れられていません。(「加羅」は「伝」自体が立てられていません)
 しかし、七世紀に入ってからの「倭国」と「新羅」との交渉記事には多く「金」(銀も)の存在が書かれており、そのことからこの「六世紀末」から「七世紀初め」という時代に「新羅」ではすでに「金」は産出されていたという可能性も考えられますが、この「三百二十両」を「高麗」からと考えるとそれより多い「四百両以上」の金を「新羅」「百済」「加羅」などから調達しなければならなくなりますから、そのようなことが可能であったかはかなり疑問と思われることとなるでしょう。
 しかしこの「三百二十両」が「隋」からのものと見ることができれば、残りを「高麗」をはじめとする半島諸国からのものと考えることにはそれほど無理はないのではないでしょうか。
 以上のことから、実際にはここに「大興王」とあるのは「隋」の「高祖」を意味する「暗号」あるいは「異名」のようなものではなかったと思われます。
 これが「高祖」であるとすると、「重興仏教」と偉業を讃えられる彼ですから、夷蛮の国が「仏像」を作るとしたなら、それに「助成」するというのはあり得ることと思えますし、その「黄金三百二十両」という量も「隋皇帝」ならそれほど苦にもならないものでしょう。(軍功を挙げた将軍などにたびたび多量の黄金を下賜している記録があります)
 そう考えると、「大興王」とは「隋」の「高祖」を指すものであり、「高麗」からという書き方は「隋」からと読み替える必要があると思われますが、その場合ここでは「隋」という国名が出されていないこととなります。それについては『書紀』ではそれ以外の記事においても「唐」「大唐」というように「隋代」でありながら、一切「隋」という国名を出していないことと関係していると言えるでしょう。つまり「隋」から「助成」を受けて「丈六仏」を完成させたということを(特に「唐に対して」)隠蔽しようとしていたのではないかと推察されるわけです。
 この時「隋」の高祖(文帝)が「黄金」を助成したと推定されるわけですが、それと関連していると考えられるのが「開皇二十年」記事の中にある「兄弟統治」とおぼしき表現に対して、これを「無義理」とし「訓令」によってこれを改めさせた、という記事です。
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