古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「高麗國大興王」とは誰か

2024年12月22日 | 古代史
これは以前投稿したものですが、改めてここに再度投稿し、問題を提起したいと思います。

 『推古紀』と「元興寺縁起」の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼はこの「仏像」の「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。

(再掲)
「(推古)十三年(六〇五年)夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。『高麗國大興王』聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」


「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰 以銅二萬三千斤 金七百五十九兩 敬造尺迦丈六像 銅繍二?并挾侍 『高麗大興王』方睦大倭 尊重三寳 遙以隨喜 黄金三百廿兩助成大福 同心結縁 願以茲福力 登遐諸皇遍及含識 有信心不絶 面奉諸佛 共登菩提之岸 速成正覺 歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之 明年己巳四月八日甲辰 畢竟坐於元興寺…」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)

 この「高麗國大興王」というのが誰を指すのかは、この年次から考えると「櫻陽王」以外いないとされますが、彼にはそのような名があったとはどこにも書かれていません。『三国史記』『隋書』その他の史料を見ても「元」という「字(あざな)」以外は何も書かれていません。これについては「岩波」の「大系」の注でも「櫻陽王の生時の呼名と思われる」とされるものの、その根拠は特に示されず、ただ「元興寺丈六銘にもある」とだけ書かれています。
 そもそも「高麗王」について「大興」というような呼称が付加されている例は他にありません。
 「高麗」の「王」について『書紀』では以下の例が確認できます。

(応神紀)「廿八年秋九月。『高麗王』遣使朝貢。因以上表。其表曰。『高麗王』教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表。怒之責高麗之使。以表状無禮。則破其表。」

(応神紀)「卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。『高麗王』乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」

(雄略紀)「八年春二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。…由是『高麗王』遣精兵一百人。守新羅。有頃高麗軍士一人取假歸國。…遣使馳告國人曰。人殺家内所養鷄之雄者。國人知意。盡殺國内所有高麗人。惟有遣高麗一人。乘間得脱逃入其國。皆具爲説之。『高麗王』即發軍兵。屯聚筑足流城。或本云。都久斯岐城。遂歌■興樂。於是。新羅王夜聞高麗軍四面歌■。知賊盡入新羅地。乃使人於任那王曰。『高麗王』征伐我國。…。」

(雄略紀)「廿年冬。『高麗王』大發軍兵。伐盡百濟。爰有少許遺衆。聚居倉下。兵粮既盡。憂泣茲深。於是高麗諸將言於王曰。百濟心許非常。臣毎見之。不覺自失。恐更蔓生。請遂除之。王曰。不可矣。寡人聞。百濟國者。爲日本國之官家。所由來遠久矣。又其王入仕天皇。四隣之所共識也。遂止之。…。」

(欽明紀)「(五五三年)十四年…冬十月庚寅朔己西。百濟王子餘昌明王子。威徳王也。悉發國中兵。向高麗國。築百合野塞眠食軍士。是夕觀覽。鉅野墳腴。平原濔■。人跡罕見。犬聲蔑聞。俄而脩忽之際。聞鼓吹之聲。餘昌乃大驚打鼓相應。通夜固守。凌晨起見。曠野之中覆如青山。旌旗充滿。會明有着頚鎧者一騎挿鐃者鐃字未詳。二騎。珥豹尾者二騎并五騎。連轡到來問曰。小兒等言。於吾野中客人有在。何得不迎禮也。今欲早知。與吾可以禮問答者姓名年位。餘昌對曰。姓是同姓。位是杆率。年廿九矣。百濟反問。亦如前法而對答焉。遂乃立標而合戰。於是。百濟以鉾。刺堕高麗勇士於馬斬首。仍刺擧頭於鉾末。還入示衆。高麗軍將憤怒益甚。是時百濟歡叫之聲可裂天地。復其偏將打鼓疾闘。追却『高麗王』於東聖山之上。」

(欽明紀)「(五六二年)廿三年八月。天皇遣大將軍大伴連狹手彦。領兵數萬伐于高麗。狹手彦乃用百濟計。打破高麗。其王踰墻而逃。狹手彦遂乘勝以入宮。盡得珍寶■賂。七織帳。鐵屋還來。舊本云。鐵屋在高麗西高樓上。織帳張於『高麗王』内寢。以七織帳奉獻於天皇。以甲二領。金餝刀二口。銅鏤鍾三口。五色幡二竿。美女媛媛名也。并其從女吾田子。送於蘇我稻目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以爲妻居輕曲殿。鐵屋在長安寺。是寺不知在何國。一本云。十一年大伴狹手彦連共百濟國駈却『高麗王陽香』於比津留都。」

(推古紀)「(六一〇年)十八年春三月。『高麗王』貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造碾磑。盖造碾磑始于是時歟。」

(推古紀)「(六二五年)卅三年春正月壬申朔戊寅。『高麗王』貢僧惠潅。仍任僧正。」

(天武紀)「(六八二年)十一年六月壬戌朔。『高麗王』遣下部助有卦婁毛切。大古昴加。貢方物。則新羅遣大那末金釋起。送高麗使人於筑紫。」

 これらの例を見ると「黄金」を助成したという「高麗大興王」という表現は『書紀』の中ではかなり特異なものであることがわかります。
 上の諸例の中では「欽明紀」の「高麗王陽香」という呼称が目に付きますが、これは「陽原王陽崗」と同一人物と解されるものであり、その表現法は「王」の呼称(称号)の後に「名前」が入っている形となっており、「高麗大興王」という表記とは明らかに異なるものです。この「大興王」は「名前」ではなく明らかに「称号」であることを考慮すると、該当すると思われる「高麗王」が「嬰櫻王」という称号をすでに持っていることと矛盾するわけであり、また他に同様の形式で称号を付加された例がないことからもこの「大興王」という呼称とその人物については甚だ不審といえるものです。
 また『三国史記』(高句麗本紀)を見ても同様であり、「嬰陽王」に「大興王」というような「異称」「別称」は確認できません。わずかに「大元」という「諱」が異称として書かれていますが、これはあくまで「諱」であり、公的な場所で使用されるとは考えられません。

「嬰陽王 一云平陽 諱元 一云『大元』 平原王長子也三國史記」(『三国史記』卷第二十高句麗本紀第八 嬰陽王)

 以下歴代の王の「別称」(あるいは「諱」)と思われるものを書き出しますが、いずれにも「大興」というような名称は確認できません。

「文咨明王 一云明治好王 諱羅雲 長壽王之孫」(三國史記 卷第十九 高句麗本紀第七 文咨明王)

「安臧王 諱興安 文咨明王之長子」(同 安臧)

「安原王 諱寶延 安臧王之弟也」(同 安原)

「陽原王 或云陽崗上好王 諱平成 安原王長子」(同 陽原王)

「平原王 或云平崗上好王 諱陽成 隋唐書作湯 陽原王長子」(同 平原王)

  ほぼ同時代あるいはそれに先行する時代の王について調べた結果以上のように「大興」というような別称を持っている王は存在していないのです。ではこの「大興王」とは一体誰のことでしょうか。
 また「高麗王」がこのように「黄金」を寄進する理由も不明であると思われます。
 この年次の少し前に「櫻陽王」(元)は「隋」の「高祖」(文帝)から「叱責」を受けています。それは隋」が「陳」を征服した時点で次に矛先が回るのは「自分たち」であるという恐怖から、「国境」を封鎖し、武力を蓄える戦術をとったからです。これを「文帝」に咎められたわけですが、一般にはこの「元興寺」に対する援助は「倭国」に対して「連係」して「隋」に対抗する意味であり、また「隋」と「倭国」の接近を阻止しようとするものであったようにも理解されているようです。しかし、そのような「軍事」的な目的であれば、「麗済同盟」のようなもっと純粋な軍事的結合関係を構築すればよいわけであり、仏教を介在とした関係の構築というのは、「隋」の圧力に対抗するという目的のためにはかなり迂遠な方法であると思われます。
 そもそも仏教は「隋」の国教のようなものですから、仏教を介して「倭国」と接近するというのは「隋」と倭国」に「割り込む」方法論としては成算が見いだしにくいものではないでしょうか。(たとえば仏教に対抗して、「道教」的世界観を共有する様な方法をアプローチする方がまだしも効果的と思われます)
 またこの時点付近の「高麗王」がそれほど仏教に熱心であったという記録もありません。「高麗」から僧が派遣されているのが事実としても、それと「黄金三百二十両」とはバランスしないものではないでしょうか。
 また、この当時「高麗」と「倭国」の関係がそれほど強固なものであったとも考えにくいと思われます。
 『隋書』の「開皇二十年」記事には「百済」と「新羅」については「恒に往来」とされているものの、「高麗」との間については何も触れられていません。これは「倭国」からの使者に対して「皇帝」から下問があり、それへの返答をまとめたものと思われますから、「倭国」と関係の深い国として「高麗」が入っていないのは「隋」による「推理」や「憶測」ではなく、事実であったと考えられますから、そのような中で「黄金」が大量に「助成」されるというのは非常に考えにくいものです。
 「半島諸国」の中でこの当時「黄金」を算出していたのは「高麗」だけであったらしいことは確かですから、この時の「黄金」が「高麗」の産という可能性もあることは一概に否定できませんが、「高麗王」が「黄金」を「倭国」に助成する「必然性」が理解しにくいことは事実と思われます。
 そもそも「高麗」は「北朝」と関係が近しいわけですから(地理的な部分はもちろん大きいと思われますが)仏教的な部分でも「倭国」より先進的であったとして不思議はないものの、この時の「高麗王」の行為は「見返り」ともいうべきものが見られないように思えます。つまりこの時「高麗王」が「黄金」(他に「僧」なども)を「助成」したという行為は、ほとんど「下賜」に近いのではないかと思われるのです。しかしそれほど「倭国」と「高麗」の関係が一方的なものであったとは考えにくいものであり、まして国交があったかも不明な関係の両国においてこのような行為があり得るのかというのは大変疑わしいと思われます。
 また、「大興」という意義が「大いに興す」という事ならば、例えば「広開土王」のように「国土を広げた王」というような実績がこの「嬰陽王」の時代にあったかというとそれも疑問です。彼の時代に領土が広がったとか、大きく繁栄したというようなことも史料による限り何も確認できません。
 また「高句麗」の地に「大興山」(山地)がある(あった)ことは事実ですが、そのように国内の地名などをその「称号」としている王が他に見あたらないことや、『三国史記』には「大興山」についての記事が全く見られないという事実からも、この時の「櫻陽王」と「大興山」との関連も全く不明であると思われ、「大興王」が「大興」という山の名前と関係があるとはいえないこととなるでしょう。
 つまり、これらのことは「大興王」というのが誰を指すのか、それは本当に「高麗王」なのか、強く疑問の発生するところであると思われます。
コメント

「倭国」の「軍楽隊」と「裴世清」

2024年12月22日 | 古代史
「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。

「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。」

 これを見ると、餝船(飾り船)三〇艘とあり、また餝騎(飾り馬)七十五疋とありますが、その主体が「軍」であったのは疑えないでしょう。いずれも「倭国王」直属の「兵士」であり、「舎人」のうち「警衛」に特化した者達ではなかったかと思われます。額田部連比羅夫はその長(率)でしょうか。
 これを『隋書』(俀国伝)に見ると以下のように書かれています。

「倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞。」

 この両者が同一の出来事を指すものとは思われないのはその内容を見ると明らかですが(すでに述べましたが)、それは別としてこの時の歓迎の人々を見ると、「設儀仗」とされていることからも「兵士」を含んでいることは明らかであり、それは「鼓吹を鳴らして」という表現にも表れています。
 『隋書俀国伝』には「倭国」(俀国)の楽器として「鼓」や「吹」があるとは書かれていません。そこには「樂有五弦、琴、笛」としか書かれておらず、これでは「鼓吹を鳴らして」歓迎はできないはずです。これについてもすでに検討しましたがこの『隋書俀国伝』に書かれた記事が第一回目の来訪記事ではないという点にあるでしょう。それ以前に「隋使」(裴世清)は来ており(その時点での官位が「鴻臚寺掌客」であったもの)、その時点において「鼓吹」を持参し「隋使」との交渉時にそれを使用して歓迎するという「隋」の儀礼を教授したものと推察されます。そしてその「鼓吹」を使用しての歓迎は「隋」において「軍」の行うべきこととされ、いわば「軍楽隊」が存在していたことと推察されるわけですが、同様に「倭国」においても「軍」が「鼓吹を鳴らして」歓迎する役割を与えられていたと見られるものです。(※1)その意味でもこの時の「阿輩臺」が率いていた「数百人」の一部は確実に「軍関係者」であり、「兵衛」であったろうと推察されるわけです。ここでいう数百人は「六-七〇〇人」ではなかったかと思われます。それは「釆女」と同様「伊尼翼」の子弟から徴発された人達であり、人数も同様と見られるからです。
 またここで「小徳」という官位の人間が来迎の指揮を執っていますが、倭国には「小徳」を含む「内官」の制度があるとされており、「内官」が「隋」など中国で「王権内部」(というより「京域」ともいうべき地域)における人事階級制を示すものですから、彼も「京師」に所在する立場の人間であったことが推定できます。また、そのことから「京師」がこの段階で存在している事は確実ですが(それはこの記事で「入京」とされていることでも分かりますが)、「阿輩臺」も「京師」に所在する役職であり、ここで書かれた「数百名」が兵士が主体であるなら、それらを率いている彼(阿輩臺)は文字通りその「率」と思われます。
 また「臺」は「楼台・天文台」等の名称と同様の「政府の役所」という意味と思われ、また「倭国王」が「『阿輩』[奚+隹]彌」と自称していることから「阿輩」が「倭国王」に関わるものであることが推定でき、その意味で「阿輩臺」は個人名と言うより「職掌」であって「倭国王」に直結する組織(兵衛)であった可能性があるでしょう。つまり彼は「兵衛率」であったと見られるわけです。
 ところで少なくともこの時点ですでに「京師」を含む「畿内」とその他の地域(畿外)の別なく一律の「制度」として「階級制」があったと見るべきでしょう。(※2)なぜならそれ以前に「倭国」という政府組織そのものは(それほど中央集権的ではなかったにせよ)あったと見られるわけですから、そこに属する者達の「差別化」は指揮命令系統の構築という意味でも絶対に必要だったはずだからです。それを示すのが「平安時代」に「大江匡房」が著したという『江談抄』の中に「物部守屋と聖徳太子合戦のこと」という段があり、その中で「中臣國子」という人物について書かれた部分に以下のことが書かれていることです。

「…太子勝於被戦畢于時以『大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公』奉勅使今祈申於天照坐伊勢皇太神宮始リト云フ。」(『江談抄』巻三より)

 また、同様の内容の記録は『皇太神宮諸雑事記』(『続群書類従』所収)などにもあり、これをみると「対物部守屋」の戦い時点以前に「大錦上」という肩書きと「小徳」という階級とが併存している様子が窺えます。このうち「小徳」については『隋書俀国伝』では「内官」に十二等あるとされている中にあり、その「内官」とはすでに見たように「隋」「唐」においては「在京」の官人を指すものでした。そう考えると「遣隋使」が「内官」という用語を使用した裏にはこれらの「隋」における体制が念頭にあったと見られ、これらの十二階の冠位が「隋」においてもそうであったように「京内」の「諸省」の官人に対するものであることが推定できるでしょう。では「京」の外部の人たちには「階級制」はなかったのかと云うこととなるとそれは考えられません。「内官」という表現自体が「外官」の存在を前提にしていると思われ、「外官」に対しても何らかの階級制度があったものと見るべきこととなるでしょう。つまり「大錦上」のような「官位」が本来「内官」「外官」の別に関わらず付与されていたと推定されるものです。
 (ちなみに「内官」という階級的制度は『隋書』の夷蛮伝を渉猟しても当時東夷では「倭国」だけにあったものであり、その意味では「倭国」の統治体制がかなり中央集権化していたことが示唆されます。)

(※1)元京都府立大学学長の渡辺信一郎氏はその著書『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』(文理閣 二〇一三年)の中で同趣旨のことを主張されており、それでは「遣隋使」自体が早期に送られていたこととなるとして波紋を呼んでいるようです。(ただしその主張は六〇〇年の遣隋使の実在を主張するもののようですが)
(※2)同様の議論はすでに「大越邦夫氏」によって行われていますが(大越邦生「多元的「冠位十二階」考」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年新泉社))、『隋書』に書かれた「内官」の制度と、「冠」をかぶることを制度として定めたと言う事は一見同じことを指しているようですが、その『隋書』の中の現れ方は全く異なる文脈において現れているものであり、そのことはこの二つは全く別のことではないかと思われることを示します。少なくとも『隋書』の中では「隋に至って」から「内官」の制度が始められたというようなことは書かれていないことは重要と考えます。
コメント

「遣隋使」と「法華義疏」との関連

2024年12月22日 | 古代史
 これは以前投稿したものの祖型となった文ですが、端的に真意を説明しているのでここに投稿します。

 「法華義疏」については従来「聖徳太子」と関連づけて語られていますが、「古田氏」も言われるように(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)その「法華義疏」の分析からは「天台大師」も「嘉祥大師」もその存在がほぼ確認できないとされます。確認できるのは「南朝」(「梁」)の「法雲法師」です。というより「古田氏」がいみじくも指摘したように「人名(注釈学僧)はすべて、法雲の「法華義記」中に現われるものに限られる」のです。すなわち「梁」の時代以降の人名を見出すことができないように見えます。
 この事はこの「法華義疏」の著者が「南朝」に深く関係した人物であることを推定させるものですが、それはやはり「古田氏」が言うように、この「法華義疏」という書そのものが「天台大師」が登場する以前の段階の法華経についての注釈書であることを示すものです。
 「法華義疏」についていうとその著者は「聖徳太子」ではないのは間違いないと思われ、それらはいずれも「古田氏」の主張が正しいことを示していますが、その論旨の中で「遣隋使」が持ち帰った経典やその「疏」を題材にしているなら「天台大師」や「嘉祥大師」の著作が引用されて然るべきであるのにそれがないのは不審とされ、それも「遣隋使」が実際には「遣唐使」である証拠という文脈で語られていますが、最も説明として矛盾がないのは「天台大師」や「嘉祥大師」の時代よりも「以前の教学」が参考とされているのではないかと言うことであり、それらが「倭国」に流入したのは「隋」が「陳」を滅ぼして「南朝」の「楽」や「仏教」に関する経典や「僧」が「隋」の都へもたらされた時点ではないかということです。
 また氏は「…なぜなら、それ以前は、前代(第一代)の文帝(ぶんてい)の治世であるから、その時期の仏教保護政策を指したのでは、現在の天子(第二代)たる煬帝に対して「菩薩天子」の敬称を呈すべきいわれは存しないからである。…」(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)とされましたが、この「菩薩天子」や「重興仏法」というのは「大業三年記事」に現れるものであり、氏はこの皇帝を「煬帝」として疑っていないように見えます。しかし、これらは「煬帝」が強く仏教に関連した存在であることを示すものではあるものの、それが「重興仏法」の語に整合しているかというと疑問であると思われるわけです。つまり、いみじくも文中で触れているように、この時の「皇帝」を「煬帝」と見なすと矛盾であることも、「文帝」と見なしたその瞬間に「菩薩天子」の称号も「重興仏法」という用語もまったく違和感のないものになると同時に、彼の時代(特に前半)であるなら、未だ「天台大師」も「嘉祥大師」もその才覚を現しておらず、経典に対する「疏」も書かれていない時期ですから、彼らの文章を引用することも批判することも適わないのは当然とも言えることとなります。このことは、「法華義疏」の元となった「法華義記」と「法華経」が「煬帝」以前に「倭国」にもたらされたものであることを強く示唆するものではないでしょうか。そしてそれは「遣隋使」の派遣された時期に関係してくると言えるでしょう。
 それまで「南朝」の方が仏教は優位であり、優れた教学は「南朝」の側にあったものです。確かに「鳩摩羅什」に始まる「北朝仏教」も大きく発展していましたが、その仏教界にも「南朝」の仏教が「本場」のものという意識があったものです。「平陳」以降「隋」が中国全体を制圧した中で「仏教」についてもその中心が「隋」の都である「洛陽」に移ったものであり、その時点では「南朝」仏教も「洛陽」に多く存在することとなったのです。それは「文帝」の仏教振興策の一環であったと思われ、「南朝」の僧を「洛陽」に多数招聘し、「隋」における仏教振興に「南朝」仏教を介在させて一種の起爆剤としたように見受けられます。そうすると「隋」と国交を樹立した段階で「倭国」に流入した仏教が「南朝系」のものであったとしても不思議ではないこととなるでしょう。この「南朝仏教」優位の状態を前進させたのが「天台大師」であり「嘉祥大師」であったと見られ、彼らにより新しく「北朝」的解釈が施されていったものと思われますが、その様なものを参照したとすれば、「法華義疏」は「北朝」的なものとなっていたはずです。
 もしそう考えなければ「隋」以前に「南朝仏教」が流入したこととなりますが、「南朝」との関係は「梁」からの「授号」が「梁書」に書かれた以外は記録上確認できませんから、「南朝仏教」が「直接」「隋」以前に「倭国」へ伝来していたとは考えにくいこととなります。
 そう考えると「百済」から伝来したという考えもできそうですが、しかし「百済」の仏教は北朝系のものであることが知られており、それは「高麗」を通じて北朝から伝来したものと考えられています。そうであればその時点で「北朝系」の仏典が流入し、それを原資料として「法華義疏」が書かれて当然と思われるわけですが、実際には上にみたように「南朝」に偏っているわけですから、これが「六世紀半ば」という時点付近で「百済」から伝来したものとも考えにくいこととなります。
 そうすると「法華義疏」の原資料となった「法雲」による「法華義記」などの「南朝系」資料の伝来時期としては、「隋」が「中国」を統一し「南朝」の仏教文化が「隋」の首都洛陽に集められた時点付近で「倭国」へ伝来したということ以外に考えにくいこととなるでしょう。そうであれば「遣隋使」の派遣された時期としては「隋初」以外に考えられないということにもなるわけです。 
 また、これが「初期型」法華経に基づく「疏」であるのは、その中に「提婆達多品」が欠落していることからも分かります。「提婆達多品」は「天台大師」によってそれまでの「法華経」に補綴されたものであり、それが「法華義疏」に脱落しているということだけでも、それが「天台」以前のものであるという事が了解できるものと思われます。つまり「法華義疏」の原資料となったものは「天台大師」以前に「倭国」に流入したものであり、それは「隋初」の「遣隋使」によってもたらされたという想定がもっとも考え得るものなのではないでしょうか。
コメント

「天子在東京」について

2024年12月21日 | 古代史
 以下はかなり以前投稿したものですが、最近新たな視点から別の見解に至ったことから再度投稿します。
 新たな視点とは七世紀半ば以降「難波日本国」と「筑紫日本国」の二つの「日本国」が存在していたという最近の見解です。この視点を導入し再度考察してみます。

 『書紀』の「斉明紀」に「伊吉博徳」という人物の「遣唐使」として派遣された際の「日記風」の記録が引用されています。そこに「東京」という表現が出てきます。

「(斉明)五年(六五九年)…秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到『東京』。天子在『東京』。…」(斉明紀)

 この「東京」とは「洛陽」を指す表現です。この表現は「後漢」が「洛陽」を都として以来連綿として続いていたものですが、「隋代」に「煬帝」によって「東都」と改称されたとされます。

「(大業)五年春正月丙子,改東京為東都。…」(『隋書』/帝紀 凡五卷/卷三 帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 これによれば「洛陽」は「煬帝」によって「東都」と改称されたものであり、それは「大業五年」のことであったこととなります。更にこの「東都」はその後も継続して使用され、「唐代」(七四二年)に「玄宗皇帝」によって「東京」と旧名に戻されるまで一三〇年余りに亘って使用されていたものです。

「(天寶元年)二月…丙申…莊子號為南華真人,文子號為通玄真人,列子號為沖?真人,庚桑子號為洞?真人。其四子所著書改為真經。崇玄學置博士、助教各一員,學生一百人。桃林縣改為靈寶縣。改侍中為左相,中書令為右相,左右丞相依舊為僕射,又黄門侍郎為門下侍郎。東都為東京,北都為北京,天下諸州改為郡,刺史改為太守。…」(『舊唐書』/本紀第九/玄宗 李隆基 下)

 このような中で「高宗」の代の「唐」に派遣された「伊吉博徳」は「洛陽」に対して「東京」という呼称を使用しているのです。つまり「伊吉博徳」の常識として「洛陽」は「東京」であったものであり、「東都」という名称に対する認識がなかったこととなります。
 彼の知識と教養はそれまでの「隋」「唐」との交流の中で形成されたと見るべきですから、「煬帝」が「東都」と改称した「大業五年」以降の「洛陽」に対する知識がなかったこととなってしまいます。ところが『隋書』では「大業六年」に「倭国」からの使者が朝貢に訪れたことが書かれています。

「(大業五年)十一月丙子,車駕幸 東都。」
「六年春正月癸亥朔,旦,有盜數十人,皆素冠練衣,焚香持華,自稱彌勒佛,入自建國門。監門者皆稽首。既而奪衞士仗,將為亂。齊王?遇而斬之。於是都下大索,與相連坐 者千餘家。丁丑,角抵大戲於端門街,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。 己丑,倭國遣使貢方物。
」(『隋書』/帝紀 凡五卷/卷三 帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 このように「大業六年正月」に「倭国」から使者が訪れたように書かれていますが、その前年の十一月から「煬帝」は「東都」に所在しており(冬至の儀式を行っていたのではないか思われます)、「倭国」からの使者も「東都」であるところの「洛陽」を訪れたものと考えるべきでしょう。そうであるならその後の「遣唐使」である「伊吉博徳」が「東都」といわず「東京」と称していることは矛盾ということとなります。
 この時「鴻臚寺」は「副都」である「洛陽」にも存在していました。当然首都である「大興城」にもあり「倭国」からの使者は「洛陽」ではなく(それ以前の遣隋使同様)「大興城」に至ったと見る事もできるかもしれませんが、仮にそうであったとしても「洛陽」が「東都」と呼称が変更になったという情報を得なかったとすると不審と云うべきでしょう。しかも日付から考えても「正月」のお祝いに各国からの使者が来ていたはずですから、彼らが「煬帝」のいた「洛陽」ではなく「長安」(大興城)に行っていたとすると不審極まるものであり、倭国からの使者も当然「洛陽」つまり「東都」を訪れたはずであると思われることとなります。いわゆる「元會之儀」も「洛陽」で行われたであろうと見るべきですから、夷蛮の国も含め諸国の使者達が「洛陽」にいたはずであるというのは確かでしょう。しかも上に見るように、この時の「倭国」からの使者記事の直前に、「瑞門外」において「天下奇伎異藝」つまりあらゆる地方からのあらゆる雑伎についてのカーニバルとでもいうべきものが開催されたらしいことが書かれています。

(再掲)「…丁丑,角抵大戲於『端門街』,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。…」

 この「瑞門」は洛陽の宮城の南端にある門を指す語で有り、これが洛陽での出来事であることが明示されています。またこのような催し物が当の皇帝である「煬帝」が見るべきものであったと思われると同時にも元日の祝賀に集まっていた各国からの使者達に見せる予定のものとして開催されたことは疑えず、その中に「倭国」からの使者も加わっていたであろうことも疑えません。そのことは同じ『隋書』の「禮義」の部分にも書かれています。

始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。蓋秦角始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。蓋秦角

 これをみると「隋代」以前から「百戯」と称される「雑伎」を行うもの達が「正月」に都に集合していたものであり、「煬帝」になってからその規模が拡大されたらしいことがしられます。その時点で「毎歳正月,萬國來朝,留至十五日,於端門外,建國門内,綿亘八里,列為戲場。百官起棚夾路,從昏達旦,以縱觀之。」と「萬國来朝」という表現から、当然「倭国」からの使者も含まれていたと見るべきこととなり、その「使者」は必ず「東都」と改称された「洛陽」を訪れていたこととなります。(上に見える倭国からの使者の訪れた日付である「己丑」は二十七日になりますが「百戯」は「終月」つまり「三十日」まで行われたとされますから当然これを見ていたであろうと思われることとなります)
 『書紀』の信憑性とは別の次元のこととして『伊吉博徳書』は考える必要があり、この『伊吉博徳書』は伝聞ではなく彼自身が見聞した実体験に基づいている点などを考えると信憑性としては高いものと推量されますから、その意味で「東京」と書かれている意味はかなり重大であると思われます。このことは以前考察したように一見「倭国」からの使者はまだ「東京」と称していた時代以外には「洛陽」を訪れていないという可能性に考えが至ることとなるわけですが、今回「博徳」達が「(難波)日本国」からの使者であるという視点を新たに得てみると、彼らは以前「外交」に関する権能を全く持っていなかったのですから、「洛陽」について「東都」と改称されていたという知識を持っていなかったとして不思議ではないことに気がつきました。
 上に見るように「伊吉博徳」以前の「遣隋使」は「東都」と改称して以降の「洛陽」を訪れているとされるわけですから、その時点で「洛陽」が「東京」から「東都」と改称されたという情報を入手できたはずです。つまり「日本国」として「遣唐使」を送る以前については外交知識がなく、また「日本国」としての「遣唐使」以降は「長安」にしか行っていないこととなります。このことから「洛陽」を「東京」と呼称している(誤解している)こととなると言えそうです。
 「白雉四年」の「日本国」としての遣唐使は「長安」に行ったものと思われ(「博徳」達も一旦「長安」に行っている)、『旧唐書』を見てもこの時「高宗」が「洛陽」に行ったという記事がありません。
 そもそも「唐代」以前の「倭国」からの使者は「北朝」の都である「長安」には行ったことがなく、経験があるのはずっと以前の「魏晋朝」時代の「卑弥呼」や「壹與」の頃に「洛陽」を訪れたものでした。「五世紀」の「倭の五王」は「南朝」の都「建康」へ行ったものであり、「洛陽」についての知識は「長安」に比べて豊富であったと思われるわけです。つまり「洛陽」が「東京」から「東都」と改称されたということは「倭国」として把握していたものであり、それは「遣隋使」が「洛陽」を訪れていたことと関係しており、それを「知識」として帰国していたものです。それを「倭国」つまり「筑紫日本国」の宮廷内官人は教養として共有していたものと思われるわけです。しかし「伊吉博徳」は「難波日本国」の立場で「唐」に向かったわけであり、その知識を共有する立場になかったものと思われ、そのため「洛陽」について「東京」と呼称したという流れが考えられるわけです。
コメント

「伊吉博徳」の官位について(改訂版)

2024年12月20日 | 古代史
 以前「伊吉博徳」の冠位の停滞について書きました。その記事を訂正して改めて提示します。訂正の主な点は「伊吉博徳」の政治的立場についての見解の変更です。以前は彼を旧倭国の関係者と看做していましたが、今回改めて検討した結果「難波日本国」の関係者であったが故に「天武(つまり薩夜麻王権)の元では冷遇されていたことが理由で昇進がなかったと見解を変更することとします。それは「難波日本国」(これは「唐」から見て「日本国」とされていた)と「筑紫日本国」(これが「唐」から見て「倭国」とされていたもの)という二つの「日本国」が存在していたという最近の研究成果を反映したものです。

 以前「貧窮問答歌」について考察しました。そこで「山上憶良」が「遣唐使」段階で「无位」であったのは「旧王権」に忠誠を示した結果であるとしました。その際「比較」として「伊吉博徳」について触れたわけですが、そこでも述べたように彼の「官位」の変遷については明らかな「停滞」があります。その点について述べてみます。

 「伊吉博徳」という人物が『斉明紀』に出てきます。彼は遣唐使団の一員として「六五九年」に派遣され、その時の一部始終を記録した「書」が『書紀』に引用されていることで知られています。そこに参加した時点の「官位」は不明です。(可能性としては「无位(無位)」であったかもしれません。) 
「白村江の戦い」後の「六六四年」に当時「百済」を占領していた唐軍の将である「劉仁願」の配下の人物である「郭務宋」が「表函」を提出した際の応対に「壱岐史博徳」の名前が見えています。彼はこのとき「筑紫太宰の辞」と称して「郭務悰」と対応しています。

「六六四年」「(天智三年)夏五月戊申朔甲子(一七日)、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣して、表函と献物を進る。」

さらに、この記事については『善隣国宝記』が引用する『海外国記』という書物に経緯がかなり詳しく載っています。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・『大乙中伊岐史博徳』・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 この記事を見ると、「郭務悰」については唐皇帝からの「正式」な使者ではないし、「書」も皇帝のからのものではない(「表」つまり「国書」ではない)と言うことで、受け取りと「倭国王」との面会を「拒否」しています。この時対応した人物として「伊岐史博徳」の名前が出ています。
 そしてその翌年に「劉徳高」や「郭務悰」などの唐国からの使者が「筑紫」に来た際に、彼らの帰還に併せて「守君大石等」が唐国に派遣されていますが、(六六七年になって)彼らの帰国を「劉仁願」の使者「司馬法聡」が「筑紫都督府」に送ってきた際の「返送使」として「司馬法聡」を送り返す役で「伊吉連博德」が登場したというわけです。

「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 この時点で「史」から「連」になっていることがわかりますが、また官位も「大乙中」から「小山下」に昇格しており、これは二十六階中十八位であり二階級特進となります。それはこの時の「唐使」との対応などに活躍したことが認められたものと思われます。
 それ以前(六五九年)に「遣唐使」として派遣されそれから八年後には「小山下」という官位に就いているわけですが、更にその後『持統紀』に「大津皇子」の謀反に連座したという記事があります。

「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔丙午。天渟中原瀛眞人天皇崩。皇后臨朝稱制。
冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反發覺。逮捕皇子大津。并捕爲皇子大津所■誤直廣肆八口朝臣音橿。『小山下壹伎連博徳』。與大舍人中臣朝臣臣麻呂。巨勢朝臣多益須。新羅沙門行心及帳内砺杵道作等卅餘人。
…丙申。詔曰。皇子大津謀反■誤吏民帳内不得已。今皇子大津已滅。從者當坐皇子大津者皆赦之。但砺杵道作流伊豆。又詔曰。新羅沙門行心。與皇子大津謀反。朕不忍加法。徙飛騨國伽藍。」

 これを見ると「伊吉博徳」と同一人物と思われる「壹伎連博徳」の官位が「小山下」とされ、十九年経過していても全く官位が加増されていないことに気がつきます。通常よほど不手際や失策などがない限り四年程度の期間を経ると一階程度の上昇があって然るべきですから、彼の場合は不審といえるでしょう。
 たとえば「當摩眞人國見」の場合を見てみると、「直大参」から「直大壱」まで十三年で上昇しています。

(六八六年)朱鳥元年…
九月戊戌朔辛丑。親王以下逮于諸臣。悉集川原寺。爲天皇病誓願云々。
丙午。天皇病遂不差。崩于正宮。
戊申。始發哭。則起殯宮於南庭。
辛酉。殯于南庭即發哀。當是時。大津皇子謀反於皇太子。
甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次『直大參』當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。

(六九七年)十一年…
二月丁卯朔甲午。以『直廣壹』當麻眞人國見爲東宮大傅。直廣參路眞人跡見爲春宮大夫。直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。

(六九九年)三年…
冬十月…
辛丑。遣淨廣肆衣縫王。『直大壹』當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。

 この間の位階数は四段階であり(直大参-直廣弐-直大弐-直廣壹-直大壹)それであれば十三年という年数はそれほど不審ではありません。このような官位の加増の程度と比べると「伊吉博徳」の十九年間の官位の停滞は、海外使者の送使という重要任務を果たしていることを考えると疑問が出る所です。しかも官位が上昇していないのは実際にはこの期間を超えているのです。それは「六九五年」に「遣新羅使」として派遣された際の官位に現れており、そこでは「務大貳(弐)」とされていますが、この官位も「小山下」とほぼ同じレベルのものなのです。

「(六九五年)九年…
秋七月丙午朔…
辛未。賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。『務大貳』伊吉連博徳等物。各有差。」

 ただしこの間「大津皇子謀反」という事件に「連座」するという失態を犯していますから(「赦免」はされたものの)、そのために昇格が遅れたとも考えられる部分はありますが、その後「新羅」への使者という重責を担っていることもあり、朝廷内では「外交のベテラン」としての地位が失われたわけではないことがわかります。しかしそれでも「六六七年」から「六九五年」までの合計「二十八年間」全く官位が上昇していないこととなり、これはかなり異常な事態と言うべきではないでしょうか。しかもその後今度は「急上昇」ともでも言うべき「官位」の増加が記録されています。
 彼はこの『持統紀』の遣新羅使としての任務帰朝後「律令」の撰定という国家的任務に従事し褒賞を得ており、その段階で「從五位下」という位階であったことが知られています。

(七〇一年)大寳元年…
八月…癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。

「小山下」と「務大貳」はほぼ同レベル(七位クラス)と思われますから、「従五位下」という官位までには「十一段階」ほどの上昇が必要です。これはその期間である「六年」という年数を考えると、今度は逆に異常な出世と言うべきでしょう。
 同じ「遣新羅使」として一緒に派遣された「小野朝臣毛野」の場合、この派遣の際に「直廣肆」であったものが死去した際には「従三位」という官位に上がっています。彼の場合は「十九年」に「八段階」ほどの上昇となり、「遣新羅使」という重責を担った後に多少の位階上昇が「褒賞」として与えられたとみれば自然なものといえます。しかし「伊吉博徳」の場合はそれと比べても急激な位階の上昇といえるでしょう。このことはそれ以前の長期の「停滞」が何か重要な意味を持っていることを想起させます。

 そもそも「伊吉氏(壱伎氏)」は「天武紀」において「史」姓から「連」姓への(他の多くの氏族と共に)改姓されています。

「(六八三年)十二年…
冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。『壹伎史。』娑羅羅馬飼造。菟野馬飼造。吉野首。紀酒人直。釆女造。阿直史。高市縣主。磯城縣主。鏡作造。并十四氏。賜姓曰連。」

 確かに「壬申の乱」記事において「壱伎史韓国」という人物が「近江朝廷」の側の武将として活躍しており、その点「連姓」を賜与された年次とは齟齬していません。しかし「博徳」の場合は「改姓」年次である「六八三年」以前の「六七六年」という時点ですでに「連」が付与されて記述されています。

(再掲)
「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 しかし、ここで「伊吉博徳」と一緒に派遣されている「笠臣諸石」についてはその後行われた「八色の姓」制度により「臣」から「朝臣」へと改姓されていますが、この「六六七年」という時点での「姓」としては齟齬がありません。

「(六八四年)十三年…
十一月戊申朔。大三輪君。大春日臣。阿倍臣。巨勢臣。膳臣。紀臣。波多臣。物部連。平群臣。雀部臣。中臣連。大宅臣。栗田臣。石川臣。櫻井臣。采女臣。田中臣。小墾田臣。穗積臣。山背臣。鴨君。小野臣。川邊臣。櫟井臣。柿本臣。輕部臣。若櫻部臣。岸田臣。高向臣。完人臣。來目臣。犬上君。上毛野君。角臣。星川臣。多臣。胸方君。車持君。綾君。下道臣。伊賀臣。阿閇臣。林臣。波彌臣。下毛野君。佐味君。道守臣。大野君。坂本臣。池田君。玉手臣。『笠臣』。凡五十二氏賜姓曰朝臣。」

 なぜ「博徳」の場合「改姓」に先立つ時点ですでに「連」姓となっているのでしょうか。なぜ位階の上昇が不自然なのでしょうか。
 これについては「山上憶良」の位階上昇と比較するとわかりやすいかもしれません。彼も「遣唐使」として派遣された段階で「無位」であったものが「従五位下」まで位階が上昇し「東宮侍従」等要職を歴任した後「筑前国守」として赴任している実態があります。

「大寶元年(七〇一年)春正月乙亥朔丁酉条」「以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。」

「(和銅七年)(七一四年)春正月壬戌。二品長親王。舍人親王。新田部親王。三品志貴親王益封各二百戸。從三位長屋王一百戸。封租全給。其食封田租全給封主。自此始矣。
甲子。授正四位下多治比眞人池守從三位。无位河内王從四位下。无位櫻井王。大伴王。佐爲王並從五位下。從四位下大神朝臣安麻呂從四位上。正五位上石川朝臣石足。石川朝臣難波麻呂。忌部宿祢子首。正五位下阿倍朝臣首名。從五位上阿倍朝臣爾閇並從四位下。從五位上船連甚勝正五位下。正六位上春日椋首老。正六位下引田朝臣眞人。小治田朝臣豊足。『山上臣憶良。』荊義善。吉宜。息長眞人臣足。高向朝臣大足。從六位上大伴宿祢山守。菅生朝臣國益。太宅朝臣大國。從六位下粟田朝臣人上。津嶋朝臣眞鎌。波多眞人餘射。正七位上津守連道並從五位下。」

「(靈龜)二年(七一六年)…
夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。『從五位下山上臣憶良爲伯耆守。』正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。」

「(養老)五年(七二一年)春正月戊申朔…
庚午。詔從五位上佐爲王。從五位下伊部王。正五位上紀朝臣男人。日下部宿祢老。從五位上山田史三方。從五位下山上臣憶良。朝來直賀須夜。紀朝臣清人。正六位上越智直廣江。船連大魚。山口忌寸田主。正六位下樂浪河内。從六位下大宅朝臣兼麻呂。正七位上土師宿祢百村。從七位下塩家連吉麻呂。刀利宣令等。退朝之後。令侍東宮焉。」

 この「憶良」の位階上昇とよく似ている気がするのです。
 「山上憶良」の場合には元「倭国」つまり「筑紫日本国」の官僚であったものが(地震の影響の評価をするための使者として諸国に派遣されたもののひとりであったと推定しています)、一旦新日本王権への態度などから「冷遇」されていたと考えたわけですが、「伊吉博徳」の場合には少々異なる事情があったとみられます。例えば「連」姓を以前から名乗っているわけですがこれは「難波日本国」からの下賜であったと見るべきものです。
 「伊吉博徳」は「日本国」からの「遣唐使」として帰国後「朝倉朝廷」から「寵命」を受けられなかったと『書紀』に書かれていますが、これは「朝倉朝廷」というものが「百済を救う役」終了後の「筑紫日本国」の代行としての朝廷であった可能性があり、「薩夜麻」捕囚後の「筑紫日本国」の「留守居役」としてのものであった可能性があります、とすれば彼らに「褒賞」としての「官位」の増加などが与えられることはなかったと思われ、その後の昇進にブレーキがかかるひとつの理由であった可能性があります。
 「伊吉博徳」達の遣唐使団は「倭国」つまり「筑紫日本国」と一緒に(あるいは合同として)行動しており、イニシアチブは「筑紫日本国」側にあったとみられ、彼らが選んだルートで唐へ向かったとみられます。「筑紫日本国」は「新羅」との関係が悪化しており、「新羅」を経由するルート(「北路」と称する)ではなく「東シナ海」を横断するルートを選んでいます。そして「洛陽」において「唐」官憲の尋問を受けた中で「倭種韓智興の供人西漢大麻呂」から「讒言」されたことから彼ら「両日本国」の使者は各々「洛陽」と「長安」に別々に幽閉され、その間に「百済」滅亡という事態が発生したわけです。帰国後の「朝倉朝廷」はいわば「臨時」の朝廷であり、緊急事態に対応するために急遽仕立てられたものと思われます。彼らは「薩夜麻」率いる「筑紫朝廷」と基本的に同じ立場であり、「博徳」達とは異なる立場であったものであり、「難波日本国」としての彼等に対して厳しい態度であったのも当然と思われるわけです。
 「博徳」の昇進が停滞している時期はちょうど「薩夜麻」帰国以降に当たっており、「薩夜麻」帰国時点ではすでに「難波日本国」が列島全体に対して統治行為を行っていたと思われ、その出先としての「筑紫」に置かれた「都督府」高官として彼は存在していたと見られる訳ですから、その彼に対してその後の「薩夜麻王権」から冷遇措置があったとして不思議ではありません。(ちなみに彼と一緒に遣唐使として派遣された「津守連吉祥」も「都督府」高官として存在しています)
 彼は「壬申の乱」では記事中に戦いに参加してるようには書かれていませんが、彼の同族と思える「壹伎史韓國」は「近江方」として参加ししているようで、大坂に陣があったように書かれています。
 少なくとも彼も「難波日本国」としての「遣唐使」であったとみられますから、本来「近江方」であるはずですが、理由は不明ですが戦いには参加していないように見えます。推定される理由として彼はこの戦いが発生する時点でまだ「筑紫」にいたため戦いに参加できなかったという可能性があり、当時筑紫大宰として存在していたという「栗隈王」が彼の行動を制限していたということも考えられます。
 「唐」においても「都督府」には最終的には「現地」の有力者を「都督」とするという原則があったようですから、一時的に「難波日本国」の高官としての「蘇我赤兄」が「筑紫大宰」であったようですが、それも在地有力者としての「栗隈王」に変わっていたものと思われます。その時点でいわば「目付役」として「博徳」が「筑紫」にそのまま残っていたという可能性があると思われます。
 「博徳」は「唐」が「薩夜麻」を再度列島全体の統治者としようとしていたことは承知しており、それが「唐」の意志である以上反対することはしなかったとも考えられ、「唐」の意志が実行されるよう「薩夜麻」をサポートしていたものではなかったでしょうか。ただし軍事行動には、それが戦乱となると双方に傷が残ることから反対していたと思われ、それを双方が振り切ってた戦いに発展したことを憂いていたものであり、どちらかの立場に立つことをしなかったものと思われます。
 「栗隈王」は「大海人」つまり「薩夜麻」と懇意であったという趣旨の記事が『書紀』にありますから、「乱」発生時点での立場は「薩夜麻」寄であったものであり、その意味でも「博徳」は「筑紫」から動くことができなかったと考えます。
 いずれにせよ、彼は「難波日本国」の人間であり、このような理由から「薩夜麻」が再度最高権力者となった時点以降疎まれていたという可能性があります。「大伴部博麻」がなかなか帰国できなかったのと同様に彼もなかなか昇進できなかったということではなかったでしょうか。
コメント