古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「薩夜麻」の帰国と「大海人」の動向(一)

2024年11月24日 | 古代史
 『書紀』によれば「六七一年」になって「捕囚」の身となっていた「薩夜麻」が帰国します。すでに述べたように「薩夜麻」は「筑紫日本国王朝」の「王」であり、「筑紫君」である彼の直接統治領域に軍を徴発して「高麗」に救援軍を率いて遠征していたものであり、その戦いの中で捕われていたものです。彼がそのような「権威」と「力」を身に着けていたとすると、彼の帰国は政治的、軍事的変動を列島内にもたらしたことは疑えません。特に「天智」率いる「難波日本国朝廷」にとって「激震」をもたらしたのは間違いないと思われます。
 『書紀』では「天智十年十一月」に「薩夜麻帰国」の記事があります。

天智十年(六七〇年)十一月甲午朔癸卯。對馬國司遣使於筑紫太宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩夜麻。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。

(この時派遣された「唐使」以下の「六百人」は「唐人」であり、「送使沙宅孫登」以下の「一千四百人」は「百済人」と考えられ、いずれも「熊津都督府」から差し向けられた人員と考えられます。またこれらの人員はほぼ全員「戦闘員」と考えられ、「平和目的」とばかりは言えないと考えられるものです。)
 この「薩夜麻」の帰国に関して「近江朝廷」からは何のコメントも出ていません。後に「六九〇年」になり帰国した「大伴部博麻」やほかにやはり「唐」で捕囚生活を送っていた人物など、「百済を救う役」で「捕虜」となった人物達の帰国に際しては「顕彰」する「詔」と共に「多大な褒賞」が与えられています。その先駆けとも言うべき「捕囚」からの帰国という事案に対し、当時の「天智」達は『書紀』の上ではこれを「無視」したこととなっています。しかしそのようなことがありうるでしょうか。
 彼という存在の重要性に鑑みると、帰国した「薩夜麻」にも「褒賞」なりが与えられたり、その長期の「捕囚生活」をねぎらう「詔」が発せられて当然と思われ、明らかに『書紀』はこれらの記事を「隠蔽」し、「なかったことと」しています。それはそもそも「薩夜麻」達の出発に関する記事が全くないことと軌を一にするものです。
 また「大伴部博麻」が「顕彰」された最大の理由は「薩夜麻」等に対する「献身」であったと思われる訳ですが、その対象が「ただの人」などではなかったことが重要であったわけであり、その「献身」の対象が「至高の存在」であったことが「博麻」を高く顕彰することとなった最大の理由であったと思われる訳です。つまり「持統」の判断としては「博麻」が「献身」した事により「薩夜麻」の意図が当時「筑紫」を制圧していた「難波日本国王権」に届いたというわけであり、そのことにより「日本国」が維持できたこととなったというわけではなかったでしょうか。このとき「熊津」を占領していた「劉仁願」などの勢力による「陰謀」とも言うべき計画があったとみられ、そのような国家危急に際し「身体」を張って貢献したことが「希有」な事であるとして特に「詔」を出し、またそれを『書紀』に特記する(させる)こととなった理由であると思われる訳です。
 『書紀』には何も記載されていない(というより「天智」は死去したこととなっているが)わけですが、実際にはこの時「天智天皇」はまだ生存中で「筑紫」に「薩夜麻」を歓迎するために「本人」が直接「筑紫」へ向かったのではないかと思われます。少なくとも彼の帰国を無視して、何の意思表示もせず「近江」に居続ける事はできなかったでしょう。そしてそれは「天智」にとって厳しい現実となるであろう事が予想できたものと推量されます。それを示すと思われるのが、「帰国記事」の「直後」の記事である、『書紀』の十一月「丙辰」(二十三日)と思われる条の記事です。

天智十年(六七〇年)十一月丙辰。大友皇子在内裏西殿織佛像前。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。大友皇子手執香鑪先起誓盟曰。六人同心奉天皇詔。若有違者。必被天罸。云々。於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起。泣血誓盟曰。臣等五人。隨於殿下奉天皇詔。若有違者。四天王打。天神地祇亦復誅罸。卅三天證知此事。子孫當絶。家門必亡。云々

 ここでは、「大友皇子」が「右大臣」「左大臣」など重要閣僚を集め、「泣血誓盟曰」をしていますが、そこには「天智」が存在していません。
 また、ここで彼らが行った、「天智」の「詔」を互いに奉じる事を確認するために行った「誓いの儀式」は、はなはだ「異例」であり、これは「手に香廬を持って」、と表現されているように「仏教儀式」として厳格さを要求されるものであり、裏切りや寝返りをきつく戒める意図であったものと思われ、天智と「難波日本国」に対する忠誠を誓約させるものであったものと思われるのです。このことは「天智」が実際に死去したか、すでに死を覚悟して「近江」を離れたかどちらかの状況であったと考えられ、「大友皇子」に何らかの「遺詔」を残していったものと推察されます。
 『書紀』によれば「薩夜麻」は「壬申の乱」の前に帰国しています。しかし、以降の消息は『書紀』には書かれていませんが、特に「死去」したというような情報がないところを見ると、「壬申の乱」当時存命していたと考えるのが妥当と思われます。特に彼に対して「敗戦」の責任を問うて「死」を賜ったと書かれているわけでもありません。「流罪」になったというわけでもありません。ということは「筑紫の君」として「復帰した」と考えるのが妥当なのではないでしょうか。
 ところで、「壬申の乱」では「大海人」は「吉野」に「隠棲」したとされています。しかし、この「吉野」が「奈良」の「吉野」ではなく、「佐賀」の「吉野ヶ里」であるとする論を以前古田史学の会に投稿したわけですが(吉野が「えしの」と呼ばれている点を捉えての論)、「吉野ヶ里」は(現在は「佐賀」ですが)当時「筑後」にあったわけであり、「筑後」は「筑紫君」の統治下の領域であるわけですから、すくなくとも「薩夜麻」の「了解」や「支援」なしに「大海人」が立て籠もったり、軍備を整えたりするというようなことは「不可能」であると思われます。
 しかし、『書紀』の「薩夜麻帰国」という記事の直後が「大海人吉野入り」なのですから、この記事配列には「意味」があると考えられるものです。つまり、帰国してまもなく「薩夜麻」は「列島」の情勢を把握し、軍事的圧力を「難波日本国朝廷」(この場合は「近江朝廷」となる)にかける必要があることを理解したために、吉野に入ってその準備を整える行動に出たものと考えられ、記事の意図するところはそういうことであると考えられるものです。(つまり「大海人」と「薩夜麻」が同時に記事の中で存在しないように配列されているのです)
 また、「壬申の乱」の際に「栗隈王」及び「子息」とされる「三野王」「武家王」が「近江朝廷」からの参戦指令に従わなかったとされています。
 以下『書紀』の「壬申の乱」の記事より抜粋

「(佐伯連)男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。」

 このことはある意味「当然」であると考えられます。「太宰率」であったとされ、また「太宰府」に所在していたとされる彼らは「筑紫君」と深い関係にあったと考えられるからです。本来「筑紫君」の統治領域は「太宰府」の存在を包括していると考えざるを得ません。しかしこの時点では「難波日本国」が筑紫を含め列島全体を支配していたとみられますから、「太宰」も「難波日本国」の指揮下にあったとみられます。
 上に見るように「壬申の乱」時に「近江朝」から「参戦指示」が出された際にこれを「栗隈王」が拒否する訳ですが、この時のシーンから考えて彼は「赴任」しているというわけではなく、「地場」の勢力としてこの「筑紫」に存在していたと考えられ、彼の「本拠地」ともいうべき場所は「筑紫」であったと考えられるものです。
 「近江朝」(大友)は彼について指示に従わない可能性を感じていたわけですが、「筑紫」の地場勢力と思われる彼らと「薩夜麻」の間には当然深い関係があったものであり、「薩夜麻」が「捕虜」となる以前には「栗隈王」は「薩夜麻」を「天子」と仰ぐ立場にいたと思われ、いかに「補囚」からの帰国であったとしても「大義名分」の重さはいささかも変わることがなかったと考えられ、「近江」側に援軍するということはあり得なかったものであり、それを「近江朝」では危惧し、また予想していたものと思料します。その彼と「以前から」友好的であったという『書紀』の記述からみても「大海人」は「筑紫」に勢力を張っていたという可能性が強いといえるでしょう。
 さらに、「大海人」が「筑紫」に関係が深かったと考えられるのは「天武」の葬儀において「壬生」として「誄」を奏しているのが「大海氏」であり、彼は「阿曇氏」と同族であったとみられる事からもいえます。

「(朱鳥)元年(六八六年)…九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。…」

 彼を含む「大海(凡海)氏」は『新撰姓氏録』(右京神別下など)では「阿曇(安曇)氏」と同祖とされており、その「阿曇氏」の本貫が「筑紫」にあったことはその祖先神が「海神」とされ、また「綿津見」とされていることなどから見ても「大海人皇子」自体も「筑紫」に深い関係を持っていたと見て当然でしょう。

 以下『新撰姓氏録』より
477 右京 神別 地祇 安曇宿祢   海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
479 右京 神別 地祇 凡海連   同神男穂高見命之後也
610 摂津国 神別 地祇 凡海連 安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也

 また「天武」の即位の際の「妃」とその子供達の列挙記事においても彼の出身についてのヒントが窺えます。

「(六七三年)(天武)二年…二月丁巳朔癸未。廿七天皇命有司。設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮。立正妃爲皇后。々生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女。生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女。生舎人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘。生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘。生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大甦娘。生一男。二女。其一曰穗積皇子。其二曰紀皇女。其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女。次納胸形君徳善女尼子娘。生高市皇子命。次完人臣大麻呂女擬媛娘。生二男。二女。其一曰忍壁皇子。其二曰磯城皇子。其三曰泊瀬部皇女。其四曰託基皇女。」

 ここに出てくる「天武」の「妃」達についての記事から、彼の出身地、あるいは勢力範囲などについておおよそ推定出来るといえます。
 まず後半に書かれている「初めに娶る」とされるのが「即位」以前の婚姻関係であり、「鏡王」の「女」(娘)「額田姫王」を娶ったのが最初とされますが、これは本拠がどこかやや不明ですが彼女との間には「女子(十市皇女)」しかおらず、ついで娶ったのは「筑紫」に拠点があった「胸形君徳善」の「女」である「尼子娘」であり、「高市皇子」が儲けられています。さらに「完人臣大麻呂」の「女」である「擬媛娘」との間に「忍壁皇子」「磯城皇子」と男子がいますが、この「完人臣」とは「獣肉」を調理する立場の「完人部」(宍人部)の長と思われ、当時「猪」などの肉は王権に輸送された後に解体し調理されるものであり、彼はそのような職掌の長たる立場と理解できます。
 「磐井」の墓と称される「岩戸山古墳」にあったとされる「別区」には「猪窃盗犯」に対する裁判風景が描写されているなど(『風土記』による)、「屯倉」から運ばれる「猪」の送り先は「磐井」という「筑紫」の王権であったと思われ、「完人部」(宍人部)は送られてきた猪を解体するのが職掌とすれば、どの地域にでも存在していたというわけではなく、「磐井」のごく近くにしかいなかったこととなります。
 これらのことから彼(大海人)が「即位」以前に「筑紫」と深い関係があったことはは確実と言えます。そうであれば「天武」つまり「大海人」が「筑紫君」とされる「薩夜麻」と深い関係があって当然ともいえる事となります。
 同じ事は「百済を救う役」の「倭国軍」の出発地はどこか、という分析にも言えます。「九州北部」に基地があったという可能性が非常に高いと思われますが、「玄界灘」に面して多量の船が集結したと考えるより、背後の「筑後」に基地があったと考える方が軍事的な常識に沿っているのではないでしょうか。であれば、この基地もまた「筑紫君」の統治下にあったと考えられるものであり、このことから倭国軍を指揮していた「指導者」は「筑紫君」であったと推察されるものです。
 そもそも「大海人」は「百済を救う役」でも、それ以前も全く姿を現しません。「大皇弟」という表記で最初に現れるのが「六六四年」のことであり、「薩夜麻」が「書紀中」で確かに「捕虜」となっているのが確実な「天智四年」より前には姿がないのです。(「大伴部博麻」を顕彰する「持統」の詔の中に「天智四年」という表記で「薩夜麻」が「捕虜」となっているという記事がある)そして彼が帰ってくるタイミングで吉野へ姿を消すのですから、『書紀』は慎重に「大海人」の出現タイミングについて「薩夜麻」とかぶらないようにしていると思われるのです。
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「百済を救う役」と筑紫王権(二) ー 高麗への援軍と「薩夜麻」の捕囚

2024年11月21日 | 古代史
 確かに「倭国」が「高麗」に援軍を送っていたことは『書紀』からも明らかです。

(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。

是歳。播磨國司岸田臣麿等獻寶劔言。於狹夜郡人禾田穴内獲焉。又『日本救高麗軍將等』。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。

 ここには「日本救高麗軍將」と書かれており、「高麗」に援軍を派遣していることは明らかです。「大系」の注でも「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが、下文元年・二年の関係記事からも確かであろう」としており、高句麗へも軍を派遣したらしいことを推定しています。 
 以上と「大伴部博麻」への持統の詔により「薩夜麻」達が「高麗」支援のため向かったところで唐軍と戦い捕囚となったことが窺えますが、それは『書紀』に明記されておらず、また書かれている「対新羅」や「百済救援」とは異なる戦略を「薩夜麻」達がとっていることが窺えることとなります。このことから「薩夜麻」達は「斉明」とは異なる指揮系統にあり、独自に戦っていたと思われます。さらに言えば「薩夜麻」達の指示により「斉明」たちが動いているということではなかったでしょうか。なぜなら「斉明」達は「筑紫」に来ても「大宰府」に入っていません。より後方の「朝倉」に陣取っています。ここには「宮」も何なかったものであり「朝倉神社」の神木を切って建物を作るという、いわば「暴挙」を行ったわけですが、これは「斉明」たちが「応援部隊」であることを意味していると思われ、また「朝倉神社」に対する「敬意」のかけらもないことから「朝倉」引いては「筑紫」に対するその土地の宗教的環境にも全く無知であったことが窺え、あくまでもは自分たちは「応援部隊」、主たる部隊は「筑紫朝廷」の直轄部隊であったという推定につながるものです。 
 また「日本救高麗軍將等」というのが「筑紫」地域を含む直轄統治領域とその至近の諸国だけの軍であったと思われることは「唐軍」の捕虜となっていてその後帰国した人物として以下の記事の人物が『書紀』『続日本紀』に現ることから推定できます。

①(六八四年)(天武)十三年…十二月戊寅朔…癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

②(六九六年)(持統)十年…夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人?四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

③(七〇七年)四年…五月…癸亥。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴■餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。

 彼らは「筑後」「筑紫」「肥後」「讃岐」「伊豫」等のほぼ「直轄統治領域」の人々であり、(「陸奥」(壬生五百足)が入っていますが彼は当時「防人」として徴発されて「筑紫」にいたのではないかと思われ、そのまま遠征軍に参加させられていたものと推定します)あくまでも「筑紫君」の直接統治可能な範囲だけの軍であったらしいことが推定されます。
 また③の記事では「初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸」とされていますから明らかに「白村江の戦い」で捕虜となったわけではなく、それ以前に「唐軍」に囚われていたというわけであり、そのことは「薩夜麻」の指揮下にあって「高句麗」支援の戦いの中で「唐軍」の捕虜となったことが窺われることとなります。同じことは「大伴部博麻」に対する「持統」の「詔」の中にもうかがえます。そこでは「博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。…」とされ「博麻」と「汝」(土師富杼等)とが同じ「本朝」に属していることが窺え、それは即座に「筑紫朝廷」を指すと見られることから、この時の「薩夜麻」と同時に捕囚となっていた人たちもやはり「筑紫君」の統治範囲の外部の人間ではないことが窺え、軍の構成として「筑紫」とその周辺地域からしか編成されていないことが強く推測できます。
 またそのことは「筑紫朝廷」自身が「難波日本国王権」への帰属を承認していない領域として(これが旧倭国領域として彼らが認識ししていた領域)がかなり狭くなっていることは重要であり、他地域の統治行為を別の権力者により行われていたたという可能性を考える必要が出てくるものであり、それが「難波朝廷」に本拠を構える「日本国王権」であり、実質として「近畿王権」であったとみることができるでしょう。
 ちなみにこの時「薩夜麻」と一緒に捕虜となっている人物として上に見たように「大伴部博麻」がいます。「大伴部」は「大伴氏」の部民であり、「大伴氏」が出陣するときは必ず彼の配下の軍として戦地に赴いたはずです。さらに「大伴氏」が「倭国王」の親衛隊の長であるのは自明であり、「大君の辺にこそ死なめ」と歌った「陸奥出金詔歌」に明らかなように「大伴氏」は必ず「倭国王」と同行していたはずであり、彼の率いる「大伴部」という部民も同様に倭国王の身辺警護に当たっていたはずです。そのことから「大伴部博麻」が「筑紫君」である「薩夜麻」と一緒に捕虜となっているという事実は「薩夜麻」が「大伴氏」とその部民である「大伴部」により警護されるべき「倭国王」であることをいみじくも示していると言えるでしょう。
 ちなみにこの捕虜の様子は、この時の戦いで「博麻」達を率いていた「大伴氏」(個人名は不明)も戦いの中で亡くなったことを示唆するものと言えます。ところで『公卿補任』を見ると「大伴御行」と「大伴安麿」の二人が大伴長徳の子供として書かれています。

大伴宿祢御行…難波朝右大臣長徳連之五男
大伴宿祢安麿…安丸者難波朝右大臣大紫長徳之第六子。

これを見ると「長徳」には六人子供がいたように書かれており、「御行」を「五男」と書いているところを見ると上の四人も男子であった可能性が高いものの、『書紀』にも『続日本紀』にも名前が明らかになっていません。また「御行」の死去した年から考えて「百済を救う役」付近ではまだ十五歳程度と思われますから、「兵士」にはなれず、逆にそれが理由で生き残ったとも言えるでしょう。上の兄たちは倭国王の親征に同行したと思われ、戦死したものと考えるのが相当と思われます。
 ところで「大伴氏」の倭国王に対する忠誠を歌った「陸奥出金詔歌」では「海行波(は)美(み)豆久(づく)屍,山行波(は)草牟須(むす)屍,王乃(の)幣(へ)爾去曾(にこそ)死米(め),能杼(のど)爾波(には)不死 止(と)」というように書かれていますが、これはこの「百済を救う役」の際の戦いの描写ではないかと思われ、海でも山でも多数の戦死者を出したことが書かれており、これは言ってみれば決して勝ち戦の描写ではなく負け戦に他ならず、その意味でも「薩夜麻」が捕虜となった戦いがそれに該当すると思われるわけです。
 大伴長徳は難波朝右大臣というように書かれており、東方に進出した際の「倭国王権」を支えた重臣と考えられますが、「倭国王」の急進的政策に反対の態度を取り、倭京つまり筑紫へ戻ったものとみられ、そのまま筑紫王権で(新たに選ばれた)倭国王(これが「薩夜麻」と考えられる)の警護の役割を果たしていたものと思われます。



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「日本」は「やまと」になったが、その前の「日本」は「ひのもと」である。

2024年11月21日 | 古代史
『日本書紀』(あるいは『日本紀』)はその史書名に「日本」という名称(国号)がついているのが注目されます。これら『日本書紀』『日本紀』とも「歴代」の「中国」の史書の例に漏れず「前史」として書かれたものと思料されます。
 「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。
 『漢書』は「後漢」に書かれ、『三國志(魏志)』は「晋(西晋)」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、『日本紀』が書かれるに至った理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。その場合「前王朝」であるところの「日本国」と、新王朝であるところの「日本国」が存在していたこととなり、共に「日本」であるところが重要です。再三書いているように「新日本国」と「旧日本国」が同じ国号なのは、同じ日本国から二つに分かれたからであり、それが分かれたのは「白雉五年記事」の 遣唐使派遣時点であると思われるわけです。
 八世紀に入ってからの「旧日本国」から「新日本国」への権力移動が「禅譲」なのか「革命」なのかが問題となりますが、『書紀』『続日本紀』とも「持統」から「文武」へという禅譲を謳っています。しかし「年号」は「大宝」において「建元」とされていますから、実態としては「前王朝」とは隔絶していることとならざるを得ません。
 「中国」の例でも「禅譲」による新王朝創立の場合(たとえば「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など)は「改元」されていますが、「改元」とはそもそも「天子」が不徳の時、「天」からの意志が示された場合(天変地異が起きるなど)それを畏怖して「ゼロ」から再スタートするとした場合「改元」するものです。さらにそれにも従わないとすると「天」は有徳な全く別の人物に「命」を下し「受命」させるものであり、この場合は「新王朝」樹立は「革命」であり、「建元」となります。
 このようなことを考えると、「禅譲」はまだしも「天」の意志に沿っているともいえるものであり、この場合は「改元」されることとなります。つまり、「禅譲」は「前王朝」の権威や大義名分を全否定するものではありませんから、「改元」は妥当な行為といえるでしょう。
 たとえば『旧唐書』などに、「初唐」の頃に「江南地方」(旧「南朝地域」)などを中心に各所で「皇帝」を名乗り「新王朝」を始めたという記事が多く見受けられますが、それらは全て例外なく「建元」したとされています。これらの新王朝は「受命」を得たとし、新皇帝を自称して「王朝」を開いているわけですが、そのような場合には当然「建元」されることとなるわけです。このことの類推から、『日本紀』という史書の国号として使用されている「日本」は「前王朝」のものであり、それとは別に全くの新王朝として新しく「日本」が成立したと見るべきこととなります。この場合、「新王朝」と「前王朝」の国号は一見同じに見えますが、当然異なるはずです。(別の王朝なのですから当然です。)それを示すのが『書紀』の中で「日本」について「やまと」と読むようにという指示です。これは『書紀』編纂時点における新王権のイデオロギーによるものと言えます。
 たとえば中国の場合新王権の旧領地の地名が新王朝の王朝名となっている例が多数です。「隋」も「唐」も高祖(初代皇帝)の旧領地の地名です。ただし日本の場合「日本」という漢字が「孝徳朝」時代にすでに決められ固定されていたものと思われ、「読み」だけが旧領地を意味することとなったものと思われるのです。
 『旧唐書』にいう「日本は旧小国」というのはその日本国(これは「難波王権」であり、新日本国と同系統王権)の旧領地が小国であったことを意味する
ものです。その意味で新王朝が「やまと」を国名にしているということとその実態が「難波日本国」であるということは直接つながっているのです。それに対し旧王朝であるところの「持統朝」が「やまと」であるはずがないこととなります。彼らはあくまでも「やまと」は違う旧領地をその統治範囲としていた国ですから「やまと」ではないことは明白です。
 可能性としては「日本」と書いて「ちくし」と読むのではなかったでしょうか。(これは古田氏も言及していたように覚えています)
 ところで「白村江の戦い」後「唐」は倭国に対し「驥尾政策」が行われたという議論があります。しかし私見ではそのようなこととがあったとは全く思われません。
 確かに「都督府」や「都護府」が置かれるのは「戦争当事国」の首都である例がほとんどであるが、あくまでもその当事国自体が「戦闘領域」となった経緯があるのが前提であり、その意味で倭国(筑紫日本国)は戦争当事国でなかったとは言わないまでも、少なくとも「戦闘領域」ではなかったものであり、そのような場所に都督府が設置された例がないことを考えると、この時「筑紫」に「都督府」を「唐」が設置するとは考えられのません。
 「熊津都督府」が一時孤立した例を考えても「遠隔地」に「都督府」を設置して万が一「百済」のように当事国の国内勢力が「唐」に対して反旗を翻す自体を想定すると、援軍を送る手段とそれに要する時間の困難さを考えると、このような遠隔地に都督府を設置するとは考えにくいのです。
 たとえば「唐代」(太宗の時代)に反旗を翻した「高昌国」を討った際、「太宗」は「高昌国」を「府県制」に置こうとしましたが側近の「魏徴」に以下のように反対されたとされます。

「(貞観)十四年(庚子、六四〇)秋八月庚午」「作襄城宮於汝州西山。立德,立本之兄也。…上欲以高昌爲州縣,魏徴諫曰:「陛下初即位,文泰夫婦首來朝,其後稍驕倨,故王誅加之。罪止文泰可矣,宜撫其百姓,存其社稷,復立其子,則威德被於遐荒,四夷皆悅服矣。今若利其土地以爲州縣,則常須千餘人鎭守,數年一易,往來死者什有三四,供辧衣資,違離親戚,十年之後,隴右虚耗矣。陛下終不得高昌撮粟尺帛以佐中國,所謂散有用以事無用。臣未見其可。…」(『資治通鑑』巻百九十五による)

 ここでは「高昌国」に対して「唐」の「府県制」を適用しようという「太宗」の考えに対して「魏徴」が、「高昌国」の鎮守のためには常に千人以上の兵が必要であり、また頻繁に交替させる必要があるなど軍事的負担が大きすぎるとして反対しています。これは基本として「遠距離」であることが最大の原因であり、「高昌王」がここは「唐」の支配領域から遠く、その間に砂漠があるなど地の利を誇っていたこと(以下の記事)を間接的に認めるものです。

「(貞観)十四年夏五月壬寅」「高昌王文泰聞唐兵起,謂其國人曰:「唐去我七千里,沙磧居其二千里,地無水草,寒風如刀,熱風如燒,安能致大軍乎」」

 これは「倭国」の場合とは異なるものの「遠距離」であって「海を隔てる」などの不利な点があり、「軍事的負担」となる可能性が高いという点で共通します。
 以上からこの「筑紫都督府」は「唐」ではなく「難波日本国」が設置したと考えるのが相当です。
 「都督府」が征服した王朝の首都におかれるものと考えると、「筑紫」地域は「難波日本国」と別国であり、倒れた(あるいは倒した)国である「筑紫日本国」の首都であると推定できます。
 「筑紫日本国」が高麗の援軍に行きほぼ全滅したらしいことを考えると、筑紫地域周辺は彼らによる軍事的勢力はほぼ皆無であった可能性があり、日本国がその空白を埋めるべく軍事的に占拠した可能性があり、その際首都防衛軍の長である「阿倍比羅夫」(大宰府長官とされる)さえも出動していたのは記録からも明らかであるから、ほぼごく少数の勢力しか残存していなかったと思われ、彼らと「難波日本国」の占領軍との間で戦闘が行われたとして不自然ではなく、またそれは圧倒的に「筑紫」側に不利に進行したであろうことが推定できます。
 これに関しては「壬申の乱」の際に大友皇子から当時の筑紫太宰とされる栗隈王に対して行われた軍出動指令について、これを断るシーンで彼は重要な指摘をしています。

「…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。…男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。…」

 つまり「筑紫」は外敵からの防衛を任務としており、もし軍を出して国を空にすると社稷が傾く恐れがある」というわけです。この発言は上に見るように「筑紫太宰」であった「阿倍比羅夫」が「筑紫」の守りをせず「軍」を出して「国」が空になり、社稷が傾いた(つまり筑紫日本国が滅びた)前例を踏まえていると思われるわけです。
 「筑紫」を制圧した「難波日本国」はそこに「唐」をまねて「都督府」を設置したとみることができるでしょう。彼らは自称として「鎮西筑紫大将軍」と称したものと思われ、それが『善隣国宝記』に引かれた「海外国記」に書かれた「筑紫太宰の言」として記録されたものと思われます。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著『鎮西将軍』。『日本鎮西筑紫大将軍』牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 ここでは「日本鎮西筑紫大将軍」という呼称をしていますが、これはすでに述べた推定を明確に反映しているものであり、「日本」は「難波日本国」を指し、「鎮西」は「難波日本国」から見て西の「筑紫」を制圧している意味であり、その「筑紫」に所在する軍事的勢力の長として「筑紫大将軍」という人物がいることを強く示唆する称号となっているのです。
 この後「唐」から「倭国王」であった「薩夜麻」が帰国したことにより政変が起き、「難波日本国」から「筑紫日本国」が一旦政権を奪取するという「壬申の乱」が起き、これが持統朝まで継続していたものと思われますが、この場合元々は(隋代以降)「日本」と書いて「ちくし」と呼んでいた可能性があるものの、難波に東方統治を行うため進出した時点で「日本」を「ひのもと」と呼び変えた可能性があると考えます。
 しかし当時の「日本倭根子天皇」の政策が破綻し東方直接統治を諦めた時点で主たる勢力が筑紫に戻ってから以降、旧呼称である「ちくし」に戻ったかそのまま「ひのもと」と呼んだかは若干不明です。ただし少なくとも「持統時点」(庚寅年)の改革の一環で「朱鳥」と改元していますがこれを「あかみとり」と訓読みしており、これは国号が「にほん」ではなく「ひのもと」という訓読みであることと深く関係していると見るべきと考えると「東方統治」の時点から継続して「ひのもと」と呼んでいたという可能性の方が強いと言えるでしょう。つまり「日本」が「やまと」となる前の「日本」は「ひのもと」と呼んでいたという可能性が高いものと考えます。
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「百済を救う役」と筑紫王権(一)

2024年11月21日 | 古代史
 「唐」は「麗済同盟」に対抗するため「新羅」との間に「唐羅同盟」を結び、「百済」や「高句麗」の動きに神経をとがらせていました。そして「六五九年正月」になると新羅王「金春秋」から「麗済同盟」による攻撃を受けた連絡があり、唐は「程名振」「蘇定方」らを遣わして「高句麗」を攻撃させたものです。この時点で「倭国」が「高句麗」や「百済」と結託しているという疑いが「唐」側にあり、「倭国」からの使者が「質」にとられる事態となったものと思われるわけです。
 つまり唐は高句麗を攻める前提で百済をまず攻めたものであり、主たる目的は高句麗であったものです。このように朝鮮半島では「唐」と連係した「新羅」の勢力が非常に強くなり、「六六〇年」には「唐」「新羅」連合軍により実質的に「百済」という国は滅んでしまいます。
 「百済」の遺臣から救援要請が来たことで「於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役」が発動されることとなります。この「天豐財重日足姫天皇七年」とは「六六一年」を指すと思われますが、『書紀』で「救百濟之役」という言葉に実態が該当するのは「御船西征。始就于海路。」という部分がそうであるとみられています。(春正月記事)これ以外には派遣記事も戦闘記事も出て来ません。しかし実際にはこの時点ですでに「筑紫」からは軍が派遣されていたとみるのが相当です。それを示すのが同年の末尾記事として「是歳条」に「日本救高麗軍將等」の部分です。この記事は巧妙にこの「日本救高麗軍等」が派遣された日付を隠蔽していますが、これは「斉明」が「西征」を開始した時点と同時とみるのが相当であり、前年に出された「斉明」の開戦の「詔」とされるものも実際には「薩夜麻」が出したものとみるべきです。理由として「百済」が援軍を頼むとするとそれは「筑紫朝廷」以外に考えられず、「百済」と「倭国」の長年の関係を考えれば「百済」が「日本国」つまり「難波王権」に応援要請するとは考えられません。これは実際には「筑紫朝廷」に届いた要請であり、「筑紫朝廷」はそれに応え、軍を発動するととともに「斉明」の「難波王権」に対し支援するよう指示を出したとみるべきです。
 (以下「斉明の詔」とされるもの)

 「詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。」

 この中で「志有難奪可分命將軍百道倶前。」という記述がありますが「百道」というのは筑紫の地名であり、「干潟」となっていた場所と思われます。そこへ集合するようにという内容であり、これは「筑紫」から出された指示として了解しやすいものです。(岩波の「大系」では「多くの道から」と言うように理解しているようですが、明らかにこれは地名です)
 「近畿」から各地への集合指令とするならば、「百道」の前に「筑紫」なりの地名が前置されなければならないと思われのす。詔を出している側は「百道」が「筑紫」に存在しているのは自明なので前置していないというべきです。(同様の例として『二中歴』の「倭京」の項にある「二年難波天王寺聖徳造」に「難波」という地名が付いているのに対して「白鳳」の項にある「対馬採銀観世音寺東院造」があり、ここでは「観世音寺」に「筑紫」という地名が前置されていないというものがあり、このことから記事の視点が「筑紫」にあると推定でき、これと共通の構造といえる。)
 また「百道」への集合は「浜」への集合であり、「船舶」によることが前提の詔と理解できる。(現在でも「百道浜」と称され、「百道」は「浜」である)

(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。
九月。皇太子御長津宮。以織冠授於百濟王子豐璋。復以多臣蒋敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津。率軍五千餘衛送於本郷。於是。豐璋入國之時。福信迎來。稽首奉國朝政。皆悉委焉。
十二月。高麗言。惟十二月。於高麗國寒極泪凍。故唐軍雲車衝■。鼓鉦吼然。高麗士率膽勇雄壯。故更取唐二壘。唯有二塞。亦備夜取之計。唐兵抱膝而哭。鋭鈍力竭而不能拔。噬臍之耻非此而何。釋道顯云。言春秋之志正于高麗。而先聲百濟。々々近侵甚。苦急。故爾也。
是歳。播磨國司岸田臣麿等獻寶劔言。於狹夜郡人禾田穴内獲焉。又日本救高麗軍將等。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。

 『書紀』で言う「斉明」の「詔」はその内容から明らかなように「百済」を伐つために「新羅」を攻めるという意図であったものです。確かに(六六三年)二年記事として『書紀』には新羅の「城」を攻略したという記事が出てきます。これで見るように「斉明」の軍は新羅に攻め入ることを目的としており、また活動しているように思われます。しかし「薩夜麻」は「唐軍」捕虜となっています。このことは「唐軍」が活動していた地域に彼らはいたこととなりますが、想定されるその場所として決して新羅」でもなければ「百済」でもなかったと思われます。なぜならこの当時「唐軍」の主力はもちろん「新羅」にはおらず「百済」でも「熊津」にしかいませんでした。その時点で「唐軍」の主力は「高句麗(以下高麗という)」との国境沿いに展開していたわけであり、捕虜になる機会としては「高麗」の国境付近しかないものと思われます。
 「唐軍」はこの時先に「百済」を攻めて「高麗」への援軍を遮断する戦略をとっていたようであり、「百済」が陥落するという時点ではすでに「高麗」攻略にかかっていたものです。
 このことから考えて、「百済」が滅亡してしまった現在、日本にとって「高麗」救援が最優先なのは当然ではないでしょうか。「百済」が崩壊したということは「高麗」が孤立したことを意味しており、その状態は「唐」と「新羅」の両面からの攻撃を受けざるを得なくなることを意味しますが、これを放置すれば「高麗」の滅亡ひいては半島全体が「唐」により支配されてしまう可能性があり、それは「筑紫日本国」(倭国)にとって非常に好ましくない話であったと思われ、それを阻止すべく軍を「高麗」に派遣することとなったものと思われます。
 結局「斉明」の指揮下にある軍が「新羅」を攻めている間に「筑紫朝廷軍」が「高麗」へ支援の部隊として進行していたと考えられるのです。それを率いていたのが「薩夜麻」であったものと思われ、かれらは「平壌道」を進行してきた「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いとなり、捕虜となっていたものと推測されます。下記によれば「加巴利濱」に「泊った」ようですから百済の東側を海岸沿いに進行していたとみられ、その先で高句麗軍と合流したものと考えられるでしょう。
 「薩夜麻」は「筑紫君」であり「筑紫朝廷軍」の総帥と考えられますから、彼とその側近が捕囚となっていると思われる状況を考えると、ほぼ「高句麗」支援として派遣された部隊は全滅したものではなかったでしようか。
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「伊吉博徳」の遣唐使と日本国の関係

2024年11月21日 | 古代史
 『斉明紀』に見られる「伊吉博徳」が参加した遣唐使は「六五九年の七月」に「難波」を出発し「九月」の終わりには「餘姚縣(会稽郡)」に到着しています。そこから首都「長安」に向かったものの、「皇帝」(高宗)が「洛陽」に行幸していたため、その後を追い彼等も「洛陽」に向かい「十月二十九日」に到着し、「翌三十日」に皇帝に謁見しています。(これらの日付は既に指摘したように一日の錯誤があります)
(以下関係部分の『伊吉博徳書』の抜粋)

「秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。
潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。日本國天皇平安以不。使人謹答。天地合徳自得平安。天子問曰。執事卿等好在以不。使人謹答。天皇憐重亦得好在。天子問曰。國内平不。使人謹答。治稱天地。萬民無事。天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。使人遠來辛苦。退在館裏。後更相見。十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。所朝諸蕃之中。倭客最勝。後由出火之亂。棄而不復検。…」

 この記録によると、皇帝に謁見した翌日の「十一月一日」に「冬至之會」が行なわれたとあり、「諸蕃」と共に参加しているようです。通常の「冬至之會」にも「柵封国」は列席し、「正朔」つまり「暦」の頒布を受けるとされていたようですが、この時は「甲子朔旦冬至」という十九年に一度のイベントですから「柵封国」以外にも招請の声がかかったと見るのが相当と思われ、(唐側から見ての認識として)「倭国」及び「日本国」もその例外ではなかったものと思われます。(但し、「冬至之會」の実施を含め「中国側」の資料には何も書かれておらず、その意味では裏付ける史料はないわけですが、逆にそのためにこの『伊吉博徳書』に書かれた内容は重要な史料といえるでしょう。)
 上の「伊吉博徳」等の行程を見ても「十一月一日」には到着していなければならないというある種の逼迫性が感じられ、これは「十一月一日」までという「期限」が切られていた可能性を考えさせるものです。そう考えると、この時の「遣唐使」は「通常の」「遣唐使」ではなく「祝賀使」でもあったと推定されることとなります。それに「蝦夷」を引き連れていったのも、一種の「生口」のつもりであったかも知れません。
 このような「祝賀」の際には「珍奇」な「物品」や「動植物」を持参し貢上するのが習わしであったようですから、この場合も「蝦夷」の人を「珍獣」扱いしていたのかも知れません。(但し「唐」の方では彼らを「蝦夷国」の使者というまっとうな捉え方をしていたようですが)
 この時の「蝦夷」については『伊吉博徳書』の中で「…今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。…」とされており、ここで「本國之朝」という言い方がされていますが、これはつまり「本朝」ということであって、「持統天皇」の「大伴部博麻」への「詔」の中では「筑紫朝廷」を指す用語として使用されていると考えます。

「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」
  
 この「大伴部博麻」に対する「詔」では、「大伴部博麻」らは「唐人」の「計」を「奏聞」しようとしたものであり、そのために「大伴部博麻」が自分の身を売って「衣糧(食料と衣料)」を作ったとされています。ここで彼らが伝えようとしていた「唐人所計」というものが何を意味するかは不明ですが、目的は達したものと推察され、そのことは文中で「富杼等は博麻の計るところに依り「天朝」に通(と)どくを得たり。」と書かれている事でも解ります。
 ところで、ここで「博麻」の言葉として「本朝」と言い、「持統」の言葉として「天朝」と言っている事については以前考察した論を古田史学会報に掲載させていただきましたが、結論として「本朝」とは「筑紫朝廷」を指すとしました。
 「博麻」は「我欲共汝還向本朝」という言い方をしていますから、彼は、彼にとっての「我が国の朝廷」がある場所へ「還向」したいと言っていることとなります。
 「博麻」はそもそも「筑後」の「軍丁」であり、「筑紫」の人間でした。彼が「還り向う」と欲しているなら、その場所は「筑紫」以外には考えられず、そこには「我が国の朝廷」がある、という事とならざるを得ません。
 また彼は、同じく捕囚の身となっていた目前の「筑紫の君」である「薩夜麻」の部下であり、「本朝」とは彼の「口」から出た言葉なのですから、ここでいう「我が国の朝廷」とは「我が君」である「薩夜麻」が統治していた「筑紫朝廷」を指すものと考えるべきでしょう。
 また、「博麻」は「本朝」に「汝共」に「還向」と言っていますから、この「筑紫朝廷」が、彼にとってと言うよりそこにいる「富杼」達全員が「属している」「朝廷」であったものと考えられるものです。
 そして、「持統」はその「本朝」である「筑紫」へ還った(と考えられる)「富杼」達について「天朝」という表現をしているわけです。
 これらのことから「本朝」とは「筑紫朝廷」を指すと判断できるわけですが、他方この時の「蝦夷」達は「難波朝」に「入貢」していたと思われ、「難波朝」も「本朝」と呼称される「朝廷」であったこととなります。
 そもそも「蝦夷」は「難波」から出発した時点で搭乗していたと思われますから、彼らが「入貢」していたのも「難波朝」とみるのは自然です。(『書紀』にもそのような記述があります)このことはこの時点で「難波」が王権の所在地として「蝦夷」から認識されていたこととなりますが、この点については「日本国王権」としての「難波」であることが明確と言えます。
 既に指摘したようにこの段階では「難波」に本拠を置く王権としての「日本国」があり、それとは別に「筑紫」に本拠を置く「日本国」が別途存在していたと思われ、「難波津」からつながる地域は基本的に「倭王権」の直轄領域であったはずですが、そこを押さえたことで「日本国」が「倭国」を併合したという言い分につながっていると思われるわけです。
 「大伴部博麻」の言葉に出てくる「本朝」は「天命開別天皇三年」に発せられたわけですが、この「天命開別天皇三年」というのが何年の事なのかについては、諸説があるものの『書紀』中の「天命開別天皇の何年」という例は全て「称制期間」のことを指していると考えられ、ここでいう「天命開別天皇三年」も同様に「称制期間」と考えられるものであり、そうであれば「六六四年」のこととなると考えられます。また彼らは「天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜」というわけですから、「六六一年」のことであり、この時点で「筑紫」には「朝廷」が存在していたこととなりますが、それは「六五九年」に遣唐使が発した「本国の朝」とほぼ同時代の表記と考えれば、これらの年次を通じて「本朝」「本国之朝」が共通として使用されているわけですが、これは「六五二年」という年次で「白雉」改元が「難波朝廷」で行われたことと深く関係しているといえます。つまり「難波朝廷」も「筑紫朝廷」と同質の権威を持っていたこととなり、この時点で「難波朝廷」が「倭国王権」とは別に東方の統治者として機能していたと推定することができるでしょう。
 本来「近畿王権」は「倭国」を「宗主国」とする体制に「諸国」の一つとして組み込まれていたと思われますが、「難波宮」には「兵庫」があり「斉明天皇」が出陣に際して「御幸」「観閲」したとされていますから、この地点がいわば「最前線」であったことが推測できます。(ちなみに「兵庫」が作られたのは難波宮造成時点と思われ、それがその後もそのまま残っていたものと理解できます。)
 「武器庫」があったということは、いわば「仮想敵」と空間的に近接していることを示すものであり、その意味で「近畿王権」は「筑紫倭国王権」から「警戒」されていたと思われます。
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