『周禮』という古典があります。そこには「周王朝」の第二代の王である「成王」の摂政であった「周公」が死んだ際に、死後も祀りを絶やさぬよう、「天子の礼楽」を以ってせよ、という「成王」の指示が書かれている部分があります。そしてその「礼楽」とは「夷蛮の楽」を大廟に納める意であることが示されています。つまり「四夷」の中で特に「夷」(東)と「蛮」(南)の二方向だけが、奉納するべき天子の楽とされているわけですが、その理由は、「後漢」の「王充」が表した書「論衡」に書かれています。
「周の時(紀元前十二世紀)、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」( 「論衡」巻八、儒増篇)
「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す」(「論衡」巻十九、恢国篇)
この故事にちなみ、「夷」「蛮」の領域には「周公」の治政の正しさが伝わったもので、そこからの奉納を「周公」が死んだ後も続けることが彼を「祀る」ことになると考えたものと推量されます。
このとき貢納された「鬯草」あるいは「暢」(草)とは一種の「薬草」と思われ、これを食(服)すると長寿が期待されたというものです。
この「貢献」は独自に行ったものではなく当時半島「箕子朝鮮」の影響あるいは指導に依ったという可能性が高いと考えられます。
従来このような「縄文時代」の「貢献」などあり得ないと即断され、これらの話は「架空」というのが「定説」でした。それが単なる「先入観」に過ぎなかったことは「殷虚」の発掘の成果から明らかとなりました。
発掘中の「殷」の都の遺跡から「甲骨文字」が書かれた亀の甲羅や牛の肩胛骨が発見されたものであり、そこには『史記』の「殷本紀」の記述と整合する内容が書かれていたのです。そしてそこに「箕氏」の名前も書かれていました。
「箕氏」というのは「殷王朝」の有力者であったものが、「紂王」に憎まれ、「牢」に繋がれる身となっていたものであり、「周」の「武王」による「紂王」の打倒により解放されたものです。その後彼は周王朝(武王)から朝鮮に「封」ぜられ、東夷に「周王朝」への従順を説いたとされています。この功績により「倭人」が周王朝へ「貢献」する、ということが行われたとみられるわけです。そしてこのようなストーリーが『史記』に書かれたものですが、それを示す資料が「殷」の遺跡から出たというわけです。
このことから「倭」の各地域に「周」の文物が導入され、「周」の制度に基づく官僚制度などを備えたクニも成立していたと考えて不思議はないこととなりました。
「周」の「武王」の死後「成王」の即位を祝するために「箕氏」が「周」の都「鎬京」をめざし「殷虚」を通ったとされていますが(このとき「麦秋の詩」を詠ったとされる)、この時「箕氏」は「鬯草」を持参し「舞」を奉納することを予定していた「倭人」と一緒であった可能性が非常に高いと考えられます。彼はこのとき「倭人」を引率して「周」の都へ来たったものであり、「成王」の即位記念の「奉祝」として「倭人」を引き連れ朝見し「舞」と「鬯草」を奉納したと見ることができるでしょう。そしてこの時の「倭人」が「どこの」「倭人」かというのは、その朝貢物が「暢草」という一種の「薬草」であったとみられることから推測できます。それは「出雲」の王権です。
そもそも『出雲風土記』には大量の「薬草」となる「草木」の名前が列挙されており、他郡を圧倒しています。まさに「薬」の「特産地」であることが示されています。その後も『続日本紀』等の史料には「出雲臣」とその子孫が「各代」の天皇の「侍医」を勤めていることなどが書かれ、「出雲」と「医術」の関わりが深いものである事及びその背景に「医」と「薬」に関する長い伝統があることを推定させるものとなっています。
また「大国主」と共に国造りをしたとされる「少彦名命」は、「薬」に関係した神とされています。彼は『書紀』では「カガミ」(これも薬草の名前と考えられています)の皮で造った舟に乗ってきたとされていますし、『書紀』の「神代第八段一書第六」では「大国主」と共に人間や益のある動物のため、病を治す方法を定めたとされています。
「一書第六曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神 夫大己貴命與少彦名命戮力一心經營天下 復為顯見蒼生及畜? 則定其療病之方 又為攘鳥獸昆蟲之災異 則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩賴。」
さらに、「大国主」と「少彦名」については各地の伝承として「薬」と共に「温泉」の治療効果を人々に教えたとされています。
『伊豫国風土記』(『釈日本紀』に引く逸文)には「大分の速見郡の湯」により「死んだはず」の「少彦名」を「大国主」が生き返らせる話が書かれています。
『出雲風土記』にも後の「玉造温泉」へとつながる記事があります。そこに出てくる「温泉」は「大国主」の御子である「阿遅須枳高日子」が言葉が話せずにいたものが「快癒」した事とつながっているものであり、「温泉」の効能が「大国主」や「出雲」という地域との関連で語られていることとなります。
また「アイヌ」が狩りに使用していたことで有名な「トリカブト」という「毒草」があります。この「根」の部分の毒は特に強烈で「フグ毒」に次ぐとされています。しかし、この部分は「加熱」などの加工を加えると「減毒」される事が知られており、そのようにしたものは「痛み止め」あるいは「麻酔」としての効果があるものとされ、実用されていたようです。
「トリカブト」を意味する「鳥頭」「付子」「木勇」については、いずれもその「和名」は「於宇」であるとされています。これは「出雲」にある「意宇郡」という地名との関連が強く示唆されるものであり、(「意宇郡」も「於宇」と発音されていたものです)本来「出雲」の特産であったという可能性があるでしょう。『出雲風土記』の中でも「意宇郡」が最も多くの薬草記事があることもそれを示唆しています。このことから、「トリカブト」も「意宇郡」の特産であった可能性が高いと考えられます。
これら「鳥頭」や「附子」は「漢方」の世界では古くから「鎮痛」「温熱」「利尿」など有効性の高い治療薬として著名であったものです。
中国で「一九七三年」に発掘された「馬王堆」漢墓からは、「薬」等についての記録が発見されていて、それは「五十二病方」と呼称されていますが、その中の記載では圧倒的に「鳥喙」(「鳥頭」と同義であり「トリカブト」のことを指す)関連記事が多く、それは当時から「鎮痛」などに対してかなりの「有効性」が認められていた事を示すものと思われ、このような「医薬」についての知識が「倭」にかなり早期に伝えられていたとみて不自然ではありません。そうであれば「出雲」に中国の医薬の情報が入ったのは漢代以前が考えられ、一番契機となった時点は「箕子朝鮮」により「周王朝」と関係ができた時点付近ではなかったでしょうか。
当時は「医薬」の知識は現代の医者のように「技術的な」範囲に収まるものではなく、「呪術」とリンクした形で行われていたとみられますが、その「呪術」の一環として「銅鐸」があったという可能性があると思います。
「銅鐸」が何らかの「祭祀」に使用されたとみる点ではおおよそ一致していると思われますが、それが具体的に示すものについてはあまり詮索されていないようです。
そもそも「宗教」の原初的な意義は「現世利益」あるいは「現世救済」です。「救済」とはすなわち「命」が助かることを意味していたものです。
当然「呪術」を行う「霊的能力」を持つと考えられた人物(祈祷師)に最も期待された能力は「病気」(あるいは「傷」)を治すことであり、その中でも「痛み」の解消であると思われます。「ケガ」であれ、「病気」であれ、痛みを伴わないものは皆無とも言えますから、「痛み」を和らげられるものが一番「珍重」されたものと考えられ、そのための「特効的」なものとして「トリカブト」が用いられたものではないでしょうか。
つまり当時「祈祷師」は医者を兼ねているわけであり、「ムラ」などには「病院」のような場所があり、そこで「祈祷師」が病人に対し治療を行うわけですが、その際に「銅鐸」が鳴る中で「呪術的動作」などが行われ、「治療」も行われるということではなかったでしょうか。
このような人物を示すものとして「弥生時代」の遺跡から「鳥人」と呼ばれる人物が描かれた土器などが出ることがあります。両腕に「翼」のようなものをつけた「女性」と思われる人物の絵が土器側面に線刻されているものです。この「絵」が具体的に何を示すのかについては現在まだ確定したものはありませんが、一般的に人体として示される形状ではないことが重要であり、明らかに何らかの特異な「衣装」を身に着けているらしいことが推定されています。それもまた「呪術」の一環であるように思われ、このような人物が「トリカブト」などを使用して「痛み」を軽減するような「呪術」を行う際に、「銅鐸」を鳴らす行為を行っていたとみることもできるのではないかと思われます。実際に「銅鐸」を鳴らす実験などを見るとかなり高い音がしており、ちょうど鈴のような音域にも感じられ、痛みや苦しみを持った人々にはヒーリング効果が期待できたのではないでしょうか。