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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「熟田津」の歌について(一)

2018年05月10日 | 古代史

 『万葉集』に「額田王」の歌として「熟田津の歌」が書かれています。

(万葉八番歌)「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜/熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」

 この歌の解釈は古今、諸説が入り乱れていますが、これを「伊予」の「道後温泉」のある地とする従来の解釈に対して近年「九州島」の中にこれを求める考え方が提出されています。しかしいずれもこの「熟田津」を「発進地」として理解しているように見えます。しかしこの「熟田津」は「目的地」として書かれているのではないかと思われるのです。
 この歌の最大の問題は「熟田津尓」の「尓」(に)という助詞ではないでしょうか。この助詞の意味するところがこの問題を解く鍵ではないかと考えます。

 「怒り心頭に発する」でも触れたように、「に」は色々意味がありますが、ここでは目的地や到着地(方向)を表すものとして使用されていると考えます。
 「船乗りせむ」という言葉からは、「陸」あるいは「浜」から「海」へという「方向」が内蔵あるいは暗示されていると思われ、これは『万葉集』に確認できる他の例からも「to」の意義で使用されていると思われます。
 この「熟田津」の歌に使用されている「に」とほぼ同義の「に」が万葉集の中にいくつか確認できます。

03/0323(山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首[并短歌])反歌
「百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為  年之不知久/ももしきの大宮人の熟田津『に』船乗りしけむ年の知らなく」

03/0327或娘子等<贈>L乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
「海若之  奥尓持行而  雖放  宇礼牟曽此之  将死還生/海神の沖『に』持ち行きて放つともうれむぞこれがよみがへりなむ」

03/0359(山部宿祢赤人歌六首)
「阿倍乃嶋  宇乃住石尓  依浪  間無比来  日本師所念/阿倍の島鵜の住む磯『に』寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ」

 上の例のうち「三二三番歌」は「熟田津」の歌を踏まえた「本歌取り」ですから、これは別としても、「三二七番歌」は「海人の沖まで」という意味であり、また「鵜の住む磯に向かって」という意であると思われ、いずれも「持ち行く」であるとか「寄する」というような方向性を内蔵した動詞が述語として選ばれています。
 つまりここでは「尓」は「方向」や「目的地」を表す意の助詞として使用されており、これは「熟田津尓」と同様の使用法と思われます。
 それに対し異なる用法の「に」も確認できます。

(万葉集四十番歌)「幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌」
「鳴呼見乃浦尓  船乗為良武  嬬等之  珠裳乃須十二  四寳三都良武香/嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか」

 この「尓」は場所を示す「で」の意味であり、「at」の意と思われます。「熟田津」の歌についてもこれと同義であるというのが通常の理解のようです。つまり「熟田津尓」と「月待てば」が対応しているとみて、この「尓」をその「場所」を表す「で」の意味で理解しているわけです。しかし、月を待っているのは船出するためであり、どこから船出するのかと言えば(彼らの解釈では)「熟田津」しかないわけですから、この「尓」には「から」の意として使用されていると考えるのが正しいはずです。しかも他の例では「熟田津」の場合と違い「方向等」を内蔵した語が使用されていません。このようなものとは明らかに異なるものといえるでしょう。

 元々「に」という助詞は「方向」や「着点」を示すのがその本義と思われ、それ以外の意味はそこからの派生であると理解されています。それに対し従来の全ての説はこの「熟田津」を「出発地」として「から」の意で理解していることとなるわけであり、本義からはずれた解釈と言えるでしょう。
 「出発地」として歌うならば本来もっと適切な助詞があります。

02/0234 ((霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王<薨>時作歌一首[并短歌])或本歌曰)
「三笠山  野邊従遊久道  己伎<太>久母  荒尓計類鴨  久尓有名國/御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに」

03/0318 (山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌])反歌
「田兒之浦従  打出而見者  真白衣  不盡能高嶺尓  雪波零家留/田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」

03/0366 角鹿津乗船時笠朝臣金村作歌一首[并短歌]
「越海之  角鹿乃濱従  大舟尓  真梶貫下  勇魚取  海路尓出而  阿倍寸管  我榜行者  大夫乃  手結我浦尓  海未通女  塩焼炎  草枕  客之有者  獨為而  見知師無美  綿津海乃  手二巻四而有  珠手次  懸而之努櫃  日本嶋根乎/越の海の  角鹿の浜ゆ  大船に  真楫貫き下ろし  鯨魚取り  海道に出でて  喘きつつ  我が漕ぎ行けば  ますらをの  手結が浦に  海女娘子  塩焼く煙  草枕  旅にしあれば  ひとりして  見る験なみ  海神の  手に巻かしたる  玉たすき  懸けて偲ひつ  大和島根を」

 「出発地」(発進地)を示す助詞としては上の例にみるようにこの当時は「従」(ゆ)を使用していたと思われます。
 これらの例における「ゆ」という語には「従」という漢字が使用されており、これは「漢語」において「起点」「基点」を表す「語」であり、「より」「から」という方向性の意味を表す語として使用されています。
 「熟田津」の場合も出発地を表すなら「従」を使用するはずですが、そうはなっていないのですから、ここで使用されている「に」は「着点」などを示す「に」の本義としての用法と考えられることとなります。

 この時の「斉明」達の行動に関しては『書紀』に記事があります。

「(六六一年)七年春正月丁酉朔壬寅。御船西征。始就于海路。」

 この歌には「左注」が付いており、そこには以下のように書かれています。

「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰  飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁<酉>十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮  後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔<壬>寅御船西征  始就于海路  庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮  天皇御覧『昔日猶存之物』  當時忽起感愛之情  所以因製歌詠為之哀傷也  即此歌者天皇御製焉  但額田王歌者別有四首」

 問題はこの「左注」の内容と歌とが全く合っていないことです。
 「昔のもの」というのが何かが不明であることや、それに対する「哀傷」というものとは全く異なるトーンでこの歌は作られています。
 ところで、ここにいう『昔日猶存之物』とは「斉明」以前に「伊豫」を訪れた人物の残したものであろうと推定されますから、「聖徳太子」が残したという「碑文」(湯の岡碑文)が最も該当すると思われます。

(以下『伊豫風土記逸文』より)
「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王 與恵慈法師及葛城臣 逍遙夷與村 正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首/惟夫 日月照於上 而不私 神井出於下 無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異于寿国随華台而開合 沐神井而癒疹 [言巨なに]舛于落花池而化弱 窺望山岳之[山嚴][山咢](やまざし) 反冀子平之能往 椿樹相[广/陰](おほひて)而穹窿 実想五百之張盖 臨朝啼鳥而戯吐下 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓彌く[さかんむり/白+巴](はなびら)以垂井 経過其下 可優遊 豈悟洪灌霄庭意與 才拙実慚七歩 後出君子 幸無蚩咲也」

 合田氏も言うように(※1)その碑文が建てられていたのは「伊豫」でも「西条」付近と思われますが、ここで書かれた「我法王大王」という表現は「天子」を自称したとされる「阿毎多利思北孤」その人である可能性が強く、彼の類縁であると思われる「斉明」が彼の書いたという碑文に接して「感愛の情」を起こしたとして不思議はありません。

 いずれにせよ、この「左注」はこの歌に関しては接点がないと想われ、この歌はこの時「百済」から援軍を請う使者が来て、それに対し「斉明」が「難波宮」から在筑紫の将軍達に対して「百道」(これは筑紫の地名)からの発進指令を出し、自分も押っつけ駆けつけるという形となったものであり、その際に読まれた歌と考えるのが正しいと思われます。
 つまり当初の出発地は「近畿」であると思われ、またこのような軍事船団の出発を言祝ぐために歌うなら、出発地である「近畿」で歌われたと考えるのが妥当と思われることとなります。
 『書紀』の記事の「御船西征。始就于海路」という言葉の調子と「船乗りせむと~今は漕ぎ出でな」という言葉の調子は互いに響き合っていると言え、この段階で全軍に対しての士気を鼓舞する意味も込め船出する際に歌が詠まれたとする方がよほど首肯できるものです。

 また『書紀』によれば「御船還至于娜大津」、つまり「筑紫」の「那大津」に「還り至る」とあります。この「筑紫」に「還り至る」という表現については従来から解釈に苦しんでいたわけですが、素直に解すれば「斉明」の本拠が「筑紫」にあることを示す言葉であると思われ、当初の発進地が「那大津」であったことを如実に示すものといえるでしょう。
 そもそもここは当時も「主船司」があったと思われる地であり、又「大津城」があったと考えられる場所です。(※2)
 ここが出発地としてふさわしいのは言うまでもありません。それは筑紫」に「本宮」があったという『二中歴』の記述からも言えることです。
 この時「斉明」がその「筑紫本宮」から「近畿」に出向いていたのは「近畿」の「別宮」(これは「難波宮」かあるいは離宮としての「明日香岡本宮」かいずれかと思われるものの現段階では不明です)への「行幸」を行っていたものであり、それはまさに「湯治」のためであったという可能性が高いでしょう。

(※1)合田洋一「「温湯碑」建立の地はいずこに」(『古田史学会報』九十号二〇〇九年二月)
(※2)佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園研究紀要』第二十六号一九九四年)


(この項の作成日 2014/09/03、最終更新 2014/11/29)(ホームページ記載記事を転記)


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