古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「倭京」とは「難波京」か

2024年12月30日 | 古代史
 『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか、という文を先日書きました。そこでは八世紀に入ってから新日本王権が「日本」について「やまと」と読むという、これはいわば宣言とも言えるものですが、逆に言うとそれ以前は「日本」は「やまと」ではなかったこととなると指摘しました。そしてそれと同様の理由で「倭」には「やまと」という読みの指定がないのだと書きました。つまり「倭」や「やまと」ではないというわけですが、そうなれば「倭京」は「やまとの京」ではなくなるわけであり、「倭姫」は「やまと姫」ではないこととなります。それらはいずれも歴代中国から見て「倭」と認定されていた国に冠せられる語であり、国内的には「筑紫」を中心とした領域であることもまた既に指摘しています。これらから「倭京」が本来「筑紫の京」であることは明確ですし、「倭姫」が「筑紫の姫」であることもまた明確と言えるでしょう。
 しかし「倭国」つまり「筑紫」に中心を持っていた権力が東方に進出し難波に副都として「京」を作った際に「日本」と国号を定めたと考えていますが、そうであれば「倭京」も移動したという可能性もあるように思います。つまり「難波」が新しい「倭京」となっていたという可能性です。
 「倭」が対外的に使用される国名であってまだ日本が国名として「唐」の承認を得ていないとすれば「難波京」が対外的に「倭京」という名称になったとして不自然とは言えないこととなります。国内的にも「倭京」の方が通用していたとも言えるでしょう。そうであれば「壬申の乱」において「難波京」が全く姿を見せない理由も明らかと言えます。
 「難波京」には「兵庫」つまり「武器庫」があったはずであり、それを誰も利用しようとしていないのはなぜかという疑問があったものですが、それは「倭京」という呼称で姿を現していたということであれば了解できます。
 この「倭京」についていうと、『書紀』では『孝徳紀』に「難波京」への遷都後に初出します。また『二中歴』の「都督歴」には「蘇我日向」が「筑紫本宮」で「大宰帥」として任命されたという記事があります。この記事は『書紀』では「筑紫本宮」という語が脱落した状態で現れますが、基本的には『二中歴』の記載が真実と見るべきであり、「筑紫」に「本宮」があったとみるべきこととなります。さらにこの記事は「倭京」初出時点に近接しており、「倭京」という呼称が使用されるようになる事情と「筑紫本宮」とが強く関連した事象であることを推察させるものです。これらから「倭京」とは「筑紫京」(筑紫本宮)ではないことが言えるでしょう。そして「難波遷都」後に「倭京」が出現することからも「難波京」がこの時点付近で新たに「倭京」となったということが言えそうです。
 以前「倭京」と「古京」が同一というのは不自然だという指摘をしました。(「大伴吹負」が「倭京将軍」と呼称されているが彼が守っているのは実際には「古京」であるという点など)
 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平安京」と対比して使用されているものであり、「古京」とは「遷都」する前の「京」を意味する用語であることが判ります。これは「倭京」と「古京」が別の「京」を指すと考えればその疑問は氷解します。つまり「倭京」が「難波京」で「古京」が「筑紫京」とみれば理解が可能なのです。
「古京」に関しては以下のように記事中に表されています。

「…壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。『古京是本營處也。』宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。…」

 「倭京」には「留守司」が置かれていたのは明らかですが(「高坂王」と「坂上直熊毛」)、上に見る「古京」にはそのようなものが置かれていたようには見えず、この点でも「倭京」と「古京」は異なる存在であったと考えられるものです。また「古京」について「本營處」と称されていることにも注目です。「本営」とは「本陣」と同じく通常「総大将」や「総司令官」の「軍営」を意味するとされますから、通常では「大伴吹負」の拠点という意味で使用されていると考えられているわけですが、それであればさらに「倭京」と「古京」が同一となってしまうこととなります。しかしそれは「矛盾」といえるものです。
 一般に「留守司」とは「倭国王」が行幸等で「京師」を離れる際に文字通り「留守役」として任命されるものです。この用語がここで使用されていることから判ることは、ここでいう「倭京」が「倭国王」の「京師」(首都)であること、「倭国王」はこの時点で存在(生存)しているものの、何らかの理由により「京師」を不在にしているらしいことです。
 「王」「皇帝」などが死去して後、次代の王などが即位しない間に「京」を預かる人間を「留守司」あるいは「留守官」「監国」などと呼称した例はありません。このことから、この時点において「倭国王」が生存している事を示しますが、その「倭国王」とは「天武」(大海人)ではあり得ないと思われると共に、「大友皇子」でもないと思われます。それはまだ「大友皇子」の即位が行われていなかった可能性が高い事と、もし留守司を任命したのが彼であるなら「近江京」という存在の意義がどこにあるか不明となることもあります。
 彼が「近江京」にいるにもかかわらず「倭京」があり、そこに「留守司」がいるということになります。「遷都」した結果「近江京」という存在になるわけですから、「近江京」はいわば「倭京」のはずです。しかし記事からは「近江京」は「倭京」とも「古京」とも違う位置にあったものであり、そう考えるとこの時の「倭国王」は誰でどこにいるかということとなります。「大海人」でも「大友」でもないとすれば(天智がすでに死去しているという前提ならば)可能性があるのは「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたという場合でしょう。
 「大海人」は「吉野」に下る際に「天智」に対して「倭姫」を「倭国王」とし、「大友」に補佐させるという案を提示しています。

「(六七一年)十年…冬十月甲子朔…庚辰。天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。踞坐胡床剃除鬢髮。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。」

 これが実現していたとするなら、彼女が「倭国王」として「高坂王」を「留守司」として任命したと理解できます。ただしその場合でも「明日香」に「留守司」を配置する理由が不明です。なぜなら「明日香」は「倭京」とは思われないからです。すると冒頭に説明したように「倭京」が「難波」であり「古京」が「筑紫」であったというケースが最も考えやすいと思われます。
 「難波」は私見では「難波日本国」の拠点とも言うべき場所であり、ここが「当時」倭京とされていたとみれば「倭姫」は「倭京」にいるからこそ「倭姫」であると言えるわけです。そして「天地」死去後「殯」のために「古京」たる「筑紫」に戻るという決断をしたものとすれば「倭姫」が「殯宮」に隠っていたという「新宮」は「古京」つまり「筑紫」の至近に存在したことが考えられるでしょう。
 「天智」の「殯」に関する記事は以下のものしかありません。

「(六七一年)十年十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
(同月)癸酉。殯于新宮。…」

 その後「山陵」の造営記事らしきものがそのおよそ「半年後」の「六七二年五月」に出てきます。

「(六七二年)元年夏五月是月条」「朴井連雄君奏天皇曰。臣以有私事獨至美濃。時朝庭宣美濃。尾張兩國司曰。爲造山陵。豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲。非爲山陵。必有事矣。若不早避。當有危歟。或有人奏曰。自近江京至于倭京。處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。天皇惡之。因令問察。以知事已實。…」

 上の『書紀』の記事では「新宮」という呼称がみられます。これは「殯」のために新たに(仮に)あつらえた「宮」であったと思われますが、それは「古京」つまり「筑紫」のどこかではなかったでしょうか。この記事では「新宮での殯宮」記事の日付は天智死去後「八日目」の出来事ですが、既に指摘したように「山陽道」を馬で行けば「筑紫」まで容易に到着できる日数です。
 「八世紀」段階の史料を見ると「山陽道」には(「筑紫」周辺の十一駅を加え)六十二駅あったとされます。『養老令』では「緊急」の場合(これは「海外から邦人が帰国した場合など」も含むとされています)「早馬」の使用が認められていたものであり、その場合は「一日十駅」の移動を認めていますが、これであれば「筑紫」~「難波」の移動に必要な日数は「一週間」程度ではなかったかと考えられます。(また実距離としても一日40km程度の行程を考慮すると「馬」に乗れば問題なく移動可能と推量できます。)
 「皇后」である「倭姫」は「殯宮」に籠もっていたものであり、それは「古京」たる「筑紫」のことであったと考えられることとなります。
 『書紀』の「殯宮」記事を見ると「宮」の「南庭」で行う事が非常に多く「殯宮」のために「新宮」をこしらえたとすると、「推古」の時代「敏達」の「殯宮」が前皇后の出身地である「廣瀬」に設けられた例がある位で基本的に珍しいといえるでしょう。つまりここで「新宮」を造ったとすればそれはそれまでの宮殿とは全く別の場所に造ったことを示唆するものであり、「倭姫」の場合も自らの出身地である「筑紫」の至近に「新宮」を作ったとすると、そこで「殯」の儀式を行っていたと考えられるのです。こう考えると「倭京」に「留守司」がいても不思議ではないこととなります。
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