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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「鞠智城」について ―「難波京」の「山城的性格」との関連において―(一)

2017年06月27日 | 古代史

 以下は数年前に書いたものですが、その内容は現在でも有効と考えていますので、ここに改めて記し「難波京」と「鞠智城」の関係にスポットライトを当てようと思います。

 「倭国王権」は「複都制」の「詔」を発し、その中で「凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。」というように「二ないし三箇所」を「都城宮室」の場所として選定することとしたものであり、「先ず」第一番目に「難波」に「副都(京)」が形成されたわけです。
 この「詔」では「両参」とされているように、「副都」として想定しているのは最大二箇所程度と考えられ、『書紀』にも「難波」の他「信濃」にも造る動きがあったとされます。「難波」や「信濃」がその場所として想定されていたのは「山陽道」と「東山道」の整備拡幅事業の進捗との兼ね合いであったと思われます。
 「副都」と「離宮」などが決定的に違うのは、「副都」から「統治行為」の全てが可能であることです。当然官人なども「首都」から引き連れていく訳ではなく最低限の「統治体制」が常時整った状態となっていたものと思料されます。そのことから「副都」制の前提条件というのは、「副都」と「首都」を結び、且つ主要な地域へ早期に「軍事展開」ができるような「幹線道路」の整備が完了していることであり、「副都」から素早く軍事行動ができるようになっているということであると思われます。それが完備されて初めて「副都」として機能するものであり、「首都」が「筑紫」であった時点において、「難波」に「副都」を設けることができるようになったのも、「古代山陽道」の整備がかなり進捗するという条件があって初めて可能であったと思われます。この詔により「難波副都」がまず定められたというわけですが、その「難波副都」が「上町台地」の突端の「海」に突き出たような、とても「平坦」とは言えないような場所をあえて選んでいるように見えるのは、ある意味不思議です。
 「難波京」は「飛鳥京」や「藤原京」、また後の「平城京」など、元々「平地」であった場所に造られたそれらの「京」とは明らかに「趣」を異にするものです。(ただし「近江京」とは近似した性格が認められます)そこでは「宮」の位置として「上町台地」の標高の高い地点を選んでいることや(一番高い場所には「生国魂神社」があったため、そのすぐ直下に造られている)、谷の入り組んだ土地をわざわざ選んでいるように見えることなど、ある意味古代の「宮」としては「空前絶後」とも言える場所に造られたものであると思えます。
 「上町台地」にしても、もう少し「南側」をみるとそれほど「高低差」のない土地が存在するわけですから、そちらを選ぶという選択肢もあったはずですが、あえて「標高」の一番高い、数多くの谷に囲まれ、その谷を埋めたとしてもさほどの広さにならないところに「宮」を構築しているのです。(そのため朝庭の「東西幅」が狭くなり、「閉塞する印象を与える」と評されています。)(註1)
 このような立地をあえて選んでいる理由としては、各種考えられますが、本来の設計の基本的スタンスが「山城」にあったと見ることも可能ではないでしょうか。 つまり、「軍事的」な理由が大きなウェイトを占めていたと考えることもできそうです。そのことは「至近」の場所に後代になって「大阪城」が造られていることからも推測できると思われます。つまり「戦術」的なことを考えると、この「台地上」に「軍事拠点」を設けることがこの「難波」、と言うより「大阪平野」の全体を押さえるのに必要であったことを示すものです。(この場所は元々「石山本願寺」があった場所ですが、そこを「信長」が攻め落とすのに「長年月」掛かったことを踏まえて「秀吉」はここに「大阪城」を築いたとされています。それだけ「要衝」の地でもあるわけです)
 「難波京」では「複雑に入り組んだ谷」を埋めながら整地層を構成しており、その点は「大野城」や「基肄城」などの通常の「山城」とは明らかに異なっている点ですが、ただ「肥後」の「鞠智城」とは少なからず「共通」するものを感じます。

 「鞠智城」は現在の「熊本県菊池川上流地域」に存在していた「山城」ですが『書紀』には現れません。『続日本紀』には「繕治」記事があります。
「(文武)二年(六九八)五月甲申廿五。令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」
 しかし、関係する記事はこれだけであり、その「築城」の時期などは不明となっていますが、ここに「大野城」「基肄城」と並べられていることから、これらの「二城」の築城時期と同じであるという可能性はあり得ます。
 その「大野城」については近年「出土」した「柱材」についての「年輪年代測定」により「白村江の戦い」の年を遡る年次である「六四八年」以降伐採されたものという鑑定が出されているようです。(註2)この事から「鞠智城」の築造もこの年次付近ではないかと考えられるわけです。
 この「鞠智城」については、『書紀』に記述がないこともあり、長い間その場所さえ明確にはなっていませんでした。しかし近年詳細な調査が施され、新事実が次々と明らかになってきています。(註3)
 そこでは、その築造時期においても、形式としても「筑紫」の「大野城」や「高良山神籠石」などのいわゆる「朝鮮式山城」と共通する性格もあるとはされますが、他方それらに比べると大きな違いがあることも指摘されています。たとえば、他の「山城」と違い急峻な山腹に「城」を築く「山上抱谷式」というタイプではなく、より「平坦」な「台地」上の場所に「城」を築く「平地丘陵式」であることや、「城域」に「谷」が含まれていない点が異なっており、またそれに伴い「水門」が見られない、などの相違点が確認されています。
 また、これら「山城」は「百済」に基本的に源流があるとされ、その意味で「朝鮮式山城」と称されるわけですが、「百済」では「泗沘城」と「青馬山城」というように「都城」と「山城」という組み合わせが「普遍的」であり、その意味では「筑紫都城」と「大野城」等の山城という組み合わせは多分に「百済的」であると考えられますが、「鞠智城」の場合はそれらとは「一線を画する」ものです。それは「鞠智城」それ自体が「山城」と「都城」を両面備えた形式となっていると考えられるからです。それは「城域」に「政庁的」建物と考えられる大型建物群が存在しており、「官衙的中枢管理区域」の存在が指摘されていることからもいえることです。そして、これらの点は「難波京」に通じるものではないでしょうか。つまり、「難波京」は「鞠智城」と同様「都城」と「山城」という二つの特性を有していると言えると思われるわけです。
             
 従来「難波京」はその後の「藤原京」との比較・研究が盛んであり、その淵源としては「中国」(唐)などに求めるのが通常のようですが、国内の「山城」などとの関連を考える事も必要と考えます。
 一般に古代の中国の「都市」(特に北方地域)は「城郭」(羅城)を巡らし、その中に「街」や「宮城」など「中枢域」が包括されていました。これは「北魏」以降盛んになったものであり、その周辺で活発であった「遊牧民」の行動に備えたものとされています。(註4)これが「朝鮮半島」に渡ると「山城」という形態に変化し、より「守備能力」が向上したものとなったものです。ただ、「山中」では「水利」も含め「不便」であり、「生活」や「統治」行為そのものの執行は困難と考えられ、「都城」は至近に「別途」構築し、「山城」は「守備」に特化するという「分化」が生じたものと推察されます。
 このような「城郭」に関する情報が「倭国」にもたらされ、その結果「朝鮮式山城」が国内に見られることとなったと思われます。(これが「筑紫京」と「大野」「基肄」などの至近の諸城の形態につながっているものと推察されます)
 「難波京」の場合、一見「中国」的要素もありながら、その「立地」などを見てみると、その実国内の「都城」や「山城」からの「発展」「進化」という流れと不可分であることが明確です。
 一般に「山城」は「守りの要」としての利点がいくつか挙げられますが、たとえば「急峻」な山腹に築かれるため、攻められにくいこと(これが一番のポイントでしょう)、「城内」に「糧食」を蓄えておけば「長期戦」にも耐えられること、「見通し」が利くため、敵の行動の先手が打てること、さらに「谷」が入り組んでいるため、敵から見ると攻める際に大量の人員を投下しにくいなどの点が優れていると考えられるわけですが、他方「権力者」が常駐することは困難であり、恒常的な「統治」の場とはなりにくい点があります。
 これに対し、「鞠智城」においては、「城内」には「谷」がなく、また、急な山腹に築かれているわけでもなく、ある程度の広さの「平面空間」が確保されているようであり、それほど「長期間」でなければここで「統治」の実務も可能と思われます。そして、その「利点」を大きく拡大したのが「難波京」ではないかと考えられます。
 「難波京」においても「標高」の高い土地を選択しており、また「整地」し「埋め立てて」はいるものの、「谷の入り組んだ地形」を利用しているわけですから、それは「山城的要素」を意識した場所選定であったと考えられます。さらに「南側」に「門」があり、「北側」に急峻な「崖」を持つという点や、「土塁」はあっても「石垣」が存在しないという点も「鞠智城」と共通していると言え、設計思想において共通であることが強く示唆されます。ただし、「難波京」には「条坊制」が施行されていたように見受けられます。(註5)その点が「鞠智城」とは大きく異なっている部分であるわけです。(註6)

「註」
1.植木久「難波宮跡 大阪に甦る古代の宮殿」同成社二〇〇九年六月
2.九州国立博物館報告によります。それによれば「大野城太宰府口城門跡出土の城門の建築部材」についての「年輪年代測定」の結果「伐採年代」は「六四八年」とされています。この至近の時期に建てられたとすると「六九八年」の繕治は五十年後のこととなりますが、これは後の「国府」建替えの平均的間隔と一致しています。(「建替え」も「繕治」の一種です)たとえば、「下野国府」の場合でいうと、「一期」として「八世紀前半代」、「二期」として「八世紀後半頃から同末」、「三期」として「九世紀はじめから後期」、「四期」は「九世紀後半」から「十世紀」はじめ、という具合にほぼ「五十年間隔」で「建替え」がされています。これは他の国府に見てもほぼ同様であり、かなり多数の国府で同程度の時間間隔による建替えが確認されています。これらのことは「国府」については「繕治」の間隔が決められていたという可能性もあると考えられ、この「繕治期間」との「山城」の「繕治」の期間とが関連していると言う事もまた考えられるものです。
3.甲元真之「鞠智城についての一考察」熊本大学学術リポジトリ二〇〇六年十一月及び堤克彦「『江田船山古墳』の被葬者と『鞠智城』築城の背景を探る」熊本大学学術リポジトリ二〇一〇年五月
4.妹尾達彦「中国都城の方格状街割の沿革 都城制研究(三)」奈良女子大学二十一世紀COEプログラム報告集巻二十七)二〇〇九年三月
5.古市晃「難波における京の形成 都城制研究(三)」奈良女子大学二十一世紀COEプログラム報告集巻二十七)二〇〇九年三月
6.秀島哲雄「大友皇子と鞠智城 『壬申の乱は九州』より」には「鞠智城」前面の「山鹿」市付近には「条里」がある、とされていますが詳細が不明であり、それがどのような「淵源」を持つものか「未確認」のため一旦保留しています。

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「卑弥呼」の死と張政の帰国

2017年06月03日 | 古代史

 『倭人伝』の「張政」の来倭記事の中では「卑弥呼以死」と書かれています。それが「戦死」(あるいは「戦中死」)なのか病死なのか死因としては一切不明です。

「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者百餘人。」

 ここで使用されている「以」の語義については従来から「諸説」があり、「已に」という過去完了的用法として考えるものや「理由」の意義として考える場合、さらに「とにかく」という「軽い」状況の説明としての使用法であるという考え方もあるようです。(この場合は「なくても通じる」ていどのもの)しかし、『三国志』というより『東夷伝』に限って考えても「已」と「以」とは完全に区別されて使用されており、「以」で「已」の意で(つまり「すでに」という意味で)使用されている例は皆無といえます。
 たとえば『東夷伝』中に「已」という字は十三箇所確認できます。それらの例では(名詞に使用されている例を除き)「すでに」という過去あるいは現在完了の意味として使用されています。それに対し「以」の例は「東夷伝中」及び参考とされている「毋丘儉伝」の三例を足して百二十六例数えられ、多数に上ります。しかしこの中で「すでに」という「已」と同義で使用されている例が一例も確認できません。(もちろん「卑弥呼」の例を除きます)
 「以」の用例はすべて動詞の前について調子を整える程度の用法しか見られません。これについては例外といえるものがないようです。そう考えると、「卑弥呼以死」という文は「単純」に「卑弥呼が死んだ」という意味以上のものはないこととなります。その前後の状況を考えると、魏使が到着する以前に卑弥呼が死んでいたであろうことは推測できるものの、この「以」に過去形の意味はないと思われるわけです。
 ただし、これはその時点以前に不測の事態が発生したことを示すものであることは確かであり、使者を派遣しそれを受けた魏から使者が到着するまでの期間に何らかの問題が発生し、卑弥呼が死去する事態となっていたことを示唆します。それはこの「卑弥呼以死」という記事に「死因」が書いてないということからもいえることです。
 考えてみれば「病死」なのか「戦死」なのか、「張政」が来てからであれば何か「死因」らしき事を書いても良さそうなものですが、それらは一切書かれておらず、それも不審といえるでしょう。それは「張政」が来倭する前の出来事であったために書いてはいない(書けなかった)と考えるのが妥当なのではないでしょうか。そう考えると「殯」と「葬儀」の記事もないことに気がつきます。『倭人伝』ではいきなり「墓」(冢)を築造する記事となっているのです。

 『倭人伝』の中にも「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。」とあり、「喪」(これは「殯」にあたるものか)が十日以上続いた後で「葬儀」となりその場では「喪主」は「哭泣」し「他人」は「歌舞飲食する」とされています。この記事は「俗」に対するものと思われますから、「卑弥呼」のように「王」という高貴な地位にあったものがこの程度の簡素な葬儀で終わったはずがないと思われますから、「殯」の期間も「葬儀」ももっと大々的に行われたとみるべきでしょう。しかし、そのことを示唆するどのような記事もみられないわけですから、「張政」が「来倭」した時点ではそれらは全て終了していて、後は「冢」に埋葬するだけであったということが考えられるわけです。

 また、そのようなことは「皇帝」からの詔書及び「檄」が「卑弥呼」ではなく当初「難升米」に渡されていることからも推測できることであり、彼が来倭した時点で「卑弥呼」が既に死去していたことを示すものと思われます。
 そもそも「詔書」「黄幢」「檄」などは全て本来「倭王」へ授与され、また告諭されるものであったと考えられます。この記事の最終では「壹與」に対して「檄」を告諭していますが、そのことから考えても、当初「難升米」に告諭したように書かれているのは、あくまでも「倭王」の代理としてのものであったと思われ、その時点(「張政来倭」という時点)でもし「卑弥呼」が存命中であったなら、後に「壹與」に告諭したように「卑弥呼」に告諭するべきものでしょう。
 つまり「張政」等「告諭使節団」が「来倭」した時点以前に「卑弥呼」は死去していたものと思われ、そのため「張政」はやむを得ず「代理人」に対し「詔」して「檄」を告諭したものと思われますが、それが「難升米」であったわけです。しかし本当に彼が適任であったかは疑問です。なぜなら「卑弥呼」には「男弟」がおり、彼が「佐治國」つまり「卑弥呼」に代わって国政全般をみていたとされており、実務の全ては彼によって行われていたとみられるからです。それが正しければ「詔」や「檄」は「男弟」に対して行われるべきものではなかったでしょうか。これは「疑問」とするところです。(これについては別途述べます)

 また、「卑弥呼」の死に際しては、「大作冢」(大いに冢(ちょう)を造る)と書かれており、多くの人手を要したものと推察されますが、さらに「殉葬者」が「百餘人」であったと書かれています。この時点で「殉葬」の風習があったことが知られるわけですが、これは明らかにその前代までの風習が遺存したものと思われます。
 これに若干先立つと考えられる「吉野ヶ里遺跡」の場合は「歴代」の王のため(つまり何代にも渡る遺跡と言うこと)、「殉葬」と思われる「甕棺」の数が非常に多いのと、「濠」の内側の甕棺と外側の甕棺とで「身分差」のある「複数」の階層の人たちによる「殉葬」があったようにも思われ、「卑弥呼」のように「」だけではなかったことが考えられます。
 このことは「卑弥呼」の墓を造った際には「倭王」としてはかなり「少人数」の「殉葬者」であったこととなるわけであり、それは「狗奴国」との戦闘の中という時点の死去といういわば「非常時」であることを反映しているようです。
 つまり、「周」や「殷」王朝の場合などの場合は「殉葬者」は生前に側近くで仕えていた人々も含まれるものであり、通常であればこのような階層の人たちは主君である「王」の近くに葬られるものと考えられ、「吉野ヶ里」遺跡はそのような「平時」の「墓」の状態を示していると考えられますが、「卑弥呼」の死に際してはそのような側近達も共に葬られるというわけにはいかなかったと見られます。なぜならば「狗奴国」との戦闘はまだ継続していたか、停止していたとしても直後であったと見られ、「卑弥呼」の後継者選びもままならない中では「主君」と共に死んでるわけにも行かなかったものと思われるものです。(「薄葬令」の影響もあったという可能性も考えられるところです。)

 ところで上の『倭人伝』の文章からは「卑弥呼」が死去した後、「男王」が即位したものの、「国中不服」とされ、かなり激しい争いとなったとされています。この時点で「張政」が既に「来倭」していたかどうかですが、「卑弥呼」の死に際しては、「大作冢」(「大いに」冢(ちょう)を造る)と「リアル」に表現されているところを見ると、その時点で「張政」はその場にいたように思えます。「径」が「歩」で表記されていることも、「張政」が自ら「歩測」したという可能性も考えられます。
 すると「當時殺千餘人」という時点においても国内にいたこととなりますが、その争いについては彼は介入せず「傍観」していたものではないでしょうか。「後継者」を誰にするかと言うことについてまで「魏」が口を出すことはなかったとみられ(「告諭使」の範囲、権限を超えるため)、「属国」の国内政治については基本的に「不干渉」であったと思われます。(「狗奴国」のような対外勢力の話とは別の次元のことと考えられるわけです)このため「張政」はその結論、帰趨を待ち、「壹與」が王として立てられ、「国中遂に定まる」という事態を見定めた上で、改めて「新邪馬壹国王」となった「壹與」に対して「檄」を告諭したということとなるでしょう。
 またすでにみたようにこの国内の混乱が何年も続いたとは考えられませんから、「その年の内に」収束したものと見られることとなります。そして「張政」の任務はそこまでであったのでしょう。「檄」に対して「邪馬壹国」「狗奴国」双方がこれを「受諾」したことを確認した上で「帰還」と言うこととなったと考えるべきと思われます。
 この時点で「張政」が「帯方郡治」に帰還したのかそのまま「郡治」を経由して「洛陽」に向かったのかははっきりしませんが、「還」という表現の直後に「因詣臺」とありますから、これは「洛陽」の皇帝の元へ向かったと理解すべきでしょう。その時点で「壹與」は「張政」に添えて「皇帝」に対する「使者」(掖邪狗等)を派遣し「生口」や「白珠」を献上すると共に「感謝」とさらなる「支援」を求めたと考えるべきでしょう。それはまた「卑弥呼」に代わって「新倭王」となったことのについて説明と理解を要請するものであったと思われることとなります。

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「持衰」について(その後)

2017年06月03日 | 古代史

以前『倭人伝』に出てくる「持衰」について考察したことがあります。それを再掲します。

http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/fc072a5cb2322893fb87567a37279274

ところで「倭人伝」には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。
 
「魏志東夷伝 倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去〓蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其『生口』財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」

 ここには「生口」が関連して書かれています。ここに書かれた「生口」については以前から解釈が複数あり、この船の中に「皇帝」に献上すべき「生口」がいるという前提で、それを指すというような解釈がありましたが、それは大きな読み違えと思われます。
 「生口」は確かに「持参」することもありましたが、それも必ずというわけでもなかったわけです。しかしこの文章からは「いつもそうしている」というニュアンスを感じます。つまりここでいう「生口」は、「皇帝」に献上すべく乗船していたというようなものではなく「持衰」が母国に残して来たものであり、「其」という指示代名詞からもわかるように彼の所有に関わるものであったと考えられます。
 ここでは「恆使一人…爲持衰」とされていますがその「一人」とは「船」に乗り組んでいる人員のうちの「一人」と解釈すべきです。この「持衰」についての理解の中には、彼は航海の間陸上(出発地)にいるもので、乗船していなかったとするものもあるようですが、それでは「疾病や「暴害」などに遭遇したかは帰国しなければ判らないわけですから、「持衰」に対する対応としては後手に回るでしょう。当然彼は同乗していると考えざるを得ないものです。つまり、「持衰」そのものは「生口」などではなく「使者」のうちの一人であると判断できます。
 また「航海」がうまくいく、ということは「母国」に帰るまで確定しない事項ですから、「共顧其生口財物」というのは「帰国後」のことであるとわかります。
 またそこに「其」という指示代名詞があるところから考えると、「生口」と「財物」の双方とも本来「持衰」となっていた「使者」の所有するものであるということが推定できるでしょう。つまり「持衰」となる人物は乗船前から決まっていたと思われるわけであり、その意味で彼の所有となっていた「生口」と「財物」は出発前に当局に「預託」されていたものであったと思われるわけです。
 また上の記事の中では「如喪人」と表現されていますが、このような「航海」の「無事」を祈願するために選ばれた人物は「誰でもよい」ということではなかったと思われ、特に選ばれた存在であったと思われます。つまり普段から「祈祷」のようなことを生業としている人物が推定されるわけであり、またいつも彼が「持衰」をすると「安全」に航海できるというようなある意味「幸運」な人物ならば彼に乗ってほしいという要求も多かったと思われ、ある程度「固定」していたという可能性もあるでしょう。(これは後の「忌部氏」や「中臣氏」のような、神事に関わるようなことをその職掌としていた氏族につながることも考えられるところでしょう)
 
 そして、「共顧」するとは、無事に航海が全うできたならそれらについては「安堵する」つまり「返却」される(ただしその場合は褒賞付となり、増加していると思われますが)ということではないでしょうか。
 ここで用語として使用されている「顧」には「考慮する」あるいは「気を遣う」という意味があり、彼の「生口」「財物」については不当に扱われることのないよう「考慮」されるという意味で使用されているのではないかと思われます。
 また「荒天」に遭ったりしたなら使者は殺されるというわけですが、船には航海中の船内の治安を維持するために「解部」が乗船していたと思われ(「卑弥呼」の時代に既に「部」という制度があったものと見られます)、彼により判決が下され、また刑が執行されたものと思われます。また当然「母国」に残してきた「生口」と「財物」も(もし帰国できたならその後)没収されるということになると思われます。
 このように本人が「死刑」になった後に「生口」「財物」が「没収」されるというのは、後の「物部守屋」の死後にも同様のことが行われているとともに、「蘇我倉山田麻呂」の処刑後にも同じような措置が行われています。これらは「律令」の中にも同様の規定があるものであり、「倭」では古代より普遍的に行われた措置であったと考えられるでしょう。後にそれが律令に取り込まれたものと考えられるわけです。

 またこの「持衰」となった使者が「生口」を保有していたと見られるわけですが、当然「生口」を保有していたのは彼だけではなかったはずですから、他の使者やその他多くの「倭」の人々は「」として「生口」を保有していたものと思われ、その起源として最も考えられるのは「戦争捕虜」であり、この当時「戦争」が多くあり、多数の人々が「捕虜」となり「生口」という扱いを受けていたことを示すものと思われます。それが「」という存在ではなかったかと考えられます。
 すでに見たように「」には「犯罪者」やそれが「重罪」の場合「没」とされたその家族や宗族などがあったという場合と、「戦争」によって獲得された「捕虜」という二種あったと思われます。これらはいずれもその所有が「国家」に所属すると思われ、いわゆる「官」と思われます。ただしそれら「」の中で「犯罪」を犯したという場合その「被害者」にその「」が「国家」から「下賜される」という場合があったと思われ、そのような場合「」として存在したとも思われます。さらに「戦争」で獲得したという場合も、その戦闘で主体的に活躍した武将などにその「捕虜」が「下賜された」という可能性もあり、これも同様に「」となったと考えられます。
 この「持衰」記事において見える「生口」は「」であったと思われ、「持衰」が所有するところの「」を意味すると考えられるわけです。

 このように考察したわけですが、特に「持衰」が当の船に乗っていたかどうかと言う点において「乗船」していたと見たわけですが、これに関しては古田氏が示した『海賦』の一節が傍証となることを確認しましたので追加します。

「…若其負穢臨深,虛誓愆祈。則有海童邀路,馬銜當蹊。天吳乍見而髣彿,蝄像暫曉而閃屍。群妖遘迕,眇冶夷。…」(木華作『海賦』より)

 この冒頭に出てくる「若其負穢臨深」という部分が古田氏により「持衰」のこととされているわけであり、それは卓見と思われますが、ここでは「穢」を「負う」ものすなわち「持衰」が「深き」に「臨む」とされていますが、この「深き」とは「海」を表象するものと思われますから、「持衰」が船に乗っていることを示す文章であるのは間違いないと思われます。

 この『海賦』を著した「木華」という人物は『三國志』の著者である「陳寿」と同時代人であり、情報の共有があったと見るべきこととなります。つまり「魏」の「倭国」への使者がもたらした情報は一人「陳寿」だけが保有したものではなく、それはその後の「西晋」の朝庭において重要な情報(特に狗奴国関係の軍事情報という側面も含み)として共有されていたものと思われるわけであり、そのことがこの『海賦』に反映されていると考えられるわけです。

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『倭人伝』における「張政」の滞在期間について(二)(改)

2017年06月03日 | 古代史

 前投稿に続き「張政」の派遣と帰国について検討します。
 彼(彼ら)が派遣された目的(趣旨)は「倭王」であるところの「卑弥呼」からの「支援要請」に応えることですが、より重要なことは「魏」の大義名分を「狗奴国」を含む「倭」の諸国に認めさせることであり、「檄」を告諭し、それを「狗奴国」が受け入れるか否か択一をせまったものと推量します。それに対し「狗奴国」としても「魏」と全面的な対決姿勢を取ることまでは考えていなかったと見られ、(「魏」が本格的に介入してしまうと「韓国」が「楽浪」「帯方」という「魏」の勢力に全面的に分治されたように「倭」も同様のこととなる可能性を危惧したものとも考えられます)「檄」の意味するところを受け入れ、戦闘」はその時点において停止し、「和議」が交わされたものと思料します。
 事態がこのように推移したとすれば、その時点において彼(彼ら)は「職責」を果たしたものであり、その時点で速やかに帰国することとなったはずです。その彼(彼ら)の帰国に、「壹與」の貢献のための使者が同行したものですが、従来はこの「壹與貢献」記事部分だけを「西晋の泰始二年」(二六六年)の貢献記事(※)と同一記事と見て、それまでの間(二十年)「張政」が「邪馬壹国」に滞在していたとする説が多いようですが、すでに見たようにこの部分は記事として連続しており、一体のものであると理解せざるを得ません。さらに、そのような長期間の滞在ということそのものが考えられないことと思われます。なぜならそのようなことは「朝命」に反しているといえるからです。
 彼(張政)には「帯方太守」から与えられた(それはつまり「皇帝」から与えられたものでもあるわけですが)「任務」を速やかに終え帰国して報告する「義務」があったはずです。なぜなら「勅使」など「皇帝」の命を受けている場合、「速やかな復命」は絶対であり、可及的速やかに帰朝して報告することは彼に課せられた「義務」でもあったはずだからです。しかも「倭女王」の交替という重大事案が起きたわけですから、その結果と過程は逐一報告するべきものであったはずであり、その性格上「速やかに」行う必要があったとみられます。そう考えると、「壹與」即位を見定めた後それほど長く「倭王」の元に滞在したとは思われず、速やかに帰国したと考えるべきでしょう。もし仮にそのような長期間使者として外地へ赴いていたとすると、この場合がそうですが、「皇帝」が代わってしまうというようなことも考えられます。そのことは場合によっては自らが属する官僚機構全体に変革が行われるという可能性も出てくるわけですから、それらを考慮しても早急な帰国が求められたものと思われるわけです。

 この「西晋」の場合「景初」年間の「明帝」が死去後「斉王」「曹芳」が即位し「正始」と改元されました。この「曹芳」から「張政」は「帯方太守」を通じ「朝命」を下されたと考えられますが、その新皇帝「曹芳」の代は「二五四年」まで続き、その後「曹髦」が即位しています。この時点で「張政」(というより新帯方太守王頎)に「詔書」を与え、「朝命」を下した「皇帝」は変わってしまっています。もし「張政」が「邪馬壹国」に長期間滞在していたとしたら、遅くともこの時点で「帯方郡治」から偵察(伝令)が追加で送られることとなったのではないでしょうか。少なくとも「新皇帝」の即位という事態に立ち至れば、彼等がこの時点以降速やかに「帰国」し、「帯方太守」と共に「新皇帝」に拝謁し、「前皇帝」から受けた「朝命」に対する帰朝報告を行い、また新任務を拝命されるのを待つこととなるべきではないかと思われますが、それが「西晋」成立まで遅れたとすると、彼はほとんど「浦島」状態であったと思われます。
 皇帝の代変わりがあったり、新王朝が始まると「冠位」や「制度」が変更になることがあるのは当然であり(当然彼の「位階」も変更になっているはずでしょう)、そのような中で長期間に亘って「夷蛮の地」に滞在し続けたということを措定することは全く不可能であると思われます。
 この事については古田氏は『「海賦」と壁画古墳』(『邪馬壹国の論理』所収)において、『海賦』で述べられている以下の部分について「倭国が狗奴国との交戦によって陥った危急を急告、それに対する中国の天子のすばやい反応によって危難が鎮静された事件」があった事を示すとされ、この「正始八年記事」が該当することを述べておられます。

「若乃偏荒速告,王命急宣。飛駿鼓楫,汎海淩山。於是候勁風,揭百尺。維長綃,挂帆席。望濤遠決,冏然鳥逝。鷸如驚鳧之失侶,倏如六龍之所掣一越三千,不終朝而濟所屆。」(『海賦』より)

 ここでは「不終朝而濟所屆。」と書かれ、この「不終朝」が古田氏により「朝飯前の意」とされたように、事件の解決に時間がかからなかったことの比喩として書かれていると思われますが、そうであれば「帰国」まで二十年というように年月がかかる道理がないこととなります。当然「帰国」は速やかに行われたものと考えるべきであり、「西晋朝」の成立まで帰還しなかったとは甚だ考えにくいこととなるでしょう。
 また、この文章が書かれたのが「魏志」の中であることも重要であり、そもそも「晋朝」への「貢献」はここに書くべき事ではないと考えられます。そう考えれば、この部分についても「正始年間」の記事として書かれたと理解するのが正しいと考えられるわけです。

 また彼は「張政等」という表現にも現れているように「単独」で来倭したわけではありません。彼の他にサポートメンバーとでも言うべき人員が随行したと見られます。後の時代の例から考えても、彼のように「戦地」へ赴いて「告諭」するという使命を帯びた派遣の場合は彼の他十名前後の「告諭使節団」が形成されていたと思われます。たとえば(ずっと後代ですが)「隋」から派遣された「裴世清」は「宣諭使」であったわけですが(これは「告諭使」とほぼ同様の職務があったと思われます)、彼の場合『書紀』では「大唐使人裴世清 下客十二人」とあり、「裴世清」以外に「十二人」が同行したように書かれています。
 そもそも「詔書」「黄幢」という最重要物件を運ぶわけですし、さらに平定されたとはいえ一触即発何があるかわからないような「韓国」の内部を一部陸行するわけですから、護衛が厳重であったのはいうまでもないことでしょう。
 (ところで、ここに書いたように彼等魏使は「韓国内」はその一部について「陸行」したとみられるわけですが、その明証がこの記事そのものと思われるわけです。なぜなら「韓国内」が「全水行」であったなら韓国内の動乱が治まらないうちに「詔書」「黄幢」を倭国に運ぶことができたことになるからです。皇帝からの命令ですから最優先に実行すべきなのに「帯方郡治」に何年も「詔書」「黄幢」が留め置かれていたのは取りも直さず「韓国内」に動乱があったため安全に「陸行」する事が叶わなかったからに他なりません。あくまでも「帯方郡」など「魏」の軍勢による鎮圧が功を奏した結果ようやく「倭国」までのルートが開かれたものであり、それによって「皇帝」の命を実行することができたというわけです。)
 また彼らの「告諭」に「狗奴国」など関係者が応じず、逆に攻撃に晒されるという可能性さえ考えられるわけですから、その意味でも兵士たり得る「軍関係者」をその中に当然含んでいて不思議ではありません。もし「泰始年間」まで滞在したとすると彼ら全員がそうであったという事にならざるを得ません。(この場合一部の人だけ帰国したという想定は困難でしょう。そのような機会があったなら全員が帰国したと見る方がよほど自然です。)
 それらのことを考えると、彼らが一斉に長年月「邪馬壹国」に留まったという想定は現実的ではないと思われます。(後の「宣諭使」や「会盟使」などにも長期滞在した例がありません。)
 長くいればそれだけ現地の政治に無関係ではいられなくなってしまいますが、それは「告諭使」という限定的権能しか与えられていない使節団には避けるべき事であったと思われます。当然彼等の権限を超えた判断や行動をしなければならなくなる事態も考えられ、「越権行為」を冒す可能性が出てくるからです。本来それを避けるために「判官」など「監察御史」などに相当する人員をその「団」の中に抱えていたものと思われますが、彼等が存在していたならますます無用の長期間の滞在はこれを「否」とされ、早急の帰国勧告がされたものと思われます。(これら「判官」などの官吏は「使節団」の言動を「律令」等に照らし合わせ最善の措置を講じたかを判定し助言あるいは勧告を行うことを職掌としていたものです。)
 そうであれば「二十年」の長きに亘って滞在し、その間に自らを派遣した皇帝が交代してしまうなどの状況の変化を看過したとは考えられないこととなります。
 つまり「張政」は「停戦」と「卑弥呼」の死及び新しい「邪馬壹国王」の即位という一連の事象を見届け、「その年」つまり「正始八年」の内に帰国したものであり、「壹與」はその「張政」の帰国に併せ「感謝の意」とさらなる支持を求めて貢献したものでしょう。それが記事中にみられる物品であると思われるわけです。(またこの事は上に見たように「詔書」「黄幢」が「皇帝」から「倭国」へ運ぶ命令が出てから数年「郡治」に留め置かれていたこととつながります。つまり命令が出てから実施まですでに数年経過しているわけであり、その意味でも復命が急がれていたとみるべきであるわけです。もちろん報告により韓国内の実情は皇帝としても承知していたとは思われるものの、だからといっていつまでも実施しない或いはしても復命しないということが許されるはずがなかったでしょう。その意味でも「倭国」の内部状況がある程度治まり「告諭」の意義が達成されたと判断した時点で速やかに帰国の途についたであろうと思われるわけです。)
 そのように「正始八年中」に「壹與」の即位まで進行したというのは、「卑弥呼」の後継者を巡る記事の中に「歴年」というような複数年にわたる表現がみられないことや「当時」というような「点」としての表現しかみられないこともあります。これらのことは「後継者争い」が長期化しなかったということを示すものであり、「正始八年」のうちに「後継者」としての「壹與」が即位することとなったことを示すと思われます。
 そして、その後「西晋」朝廷の成立に合わせ(二六六年)に再度「倭女王」である「壹與」は「貢献」を行ったと理解すべきなのではないでしょうか。つまり「西晋」への貢献というものは、「張政帰国」に合わせて行ったものとは別の時点の話と考えられるわけです。(中国側の「王朝」交替に併せ、祝賀の意も込めて使者が別途遣わされたと考えるのが正しいと思われます。)

(※)以下は「晋書」の「倭(人)」貢献記事です。
「晉書/帝紀 帝紀第三/世祖武帝 炎/泰始二年
「二年十一月己卯,倭人來獻方物。…」

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『倭人伝』における「張政」の滞在期間について(一)

2017年06月03日 | 古代史

 ここでは「卑弥呼」の要請に応え来倭した「張政」について考察し、その帰国が「正始八年」のことではなかったかということを推定します。
 『倭人伝』の「其八年」以降の記事については「一連」のものと考えられていないようであり、「張政」の帰国とそれに伴う「壹與」の貢献は「西晋」時代の事として理解されているようです。(※)

正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、𤝔、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。『其八年』,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,狥葬者百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

「私見」では「一連」のものであり、全て「其八年」の年次の出来事と理解すべきではないでしょうか。そもそもこれ以降「年次」の表示はなく、それはそれまでの記事を書く際のルールらしきものから見て同一年次のことであったからと理解するのがもっとも穏当といえます。
 一般に中国史書の書き方として(編年体の場合)「年次」付き記事というのは、基本としてその「年次」の出来事がその後に書かれているものであり、その年次のことではない場合をその中に表記する場合は、「~の時」あるいは「後」というような「年次」から「切り離す」文言が付加されるのが通例です。
 例を挙げると以下の「武帝紀」の例では、「初平十年春正月」という年次の記事の中で別の時点の事を述べるときには『初討譚時』、『後竟捕得』というような表現をしています。

「初平十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。下令曰 其與袁氏同惡者,與之更始。令民不得復私讎,禁厚葬,皆一之于法。是月,袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚,熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降,封為列侯。『初討譚時』,民亡椎冰,令不得降。頃之,亡民有詣門首者,公謂曰 聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無為吏所獲。民垂泣而去 『後竟捕得』。」『三國志/魏書 武帝紀 曹操』
 
 ここでは「初平十年春正月」という年次の記事として確かに「攻譚,破之,斬譚」とありますが、『初討譚時』というのは「初平五年」のことですから、この「初平十年」とは異なる年次のことです。それを明確にするためにここでは『初討譚時』という言い方をしています。
 しかし、上の『倭人伝』の文章にはそのような「年次」と切り離す「文言」が確認されませんから、「其の八年」以降に書かれている「太守王斤」から「異文雜錦二十匹」までの文章が全てその前の「其八年」という年次にかかっていると理解すべき事となります。

 また「張政」は「詔書」を携えており、このことは「帯方郡」単独ではなく「洛陽」つまり「皇帝」からの使者という形で派遣されてきたと考えられることとなります。
 この「正始八年」記事の直前に「正始六年」記事があり、そこでは「郡治」に付するという形で「難升米」に「詔書」「黄幢」がもたらされたことが書かれています。この「詔書」「黄幢」がどのようないきさつで「郡治」へ運ばれたかは不明ですが、当然のこととして「倭女王」から何らかの請願があり、それに応じたものであったと考えざるを得ません。それはまたその後に書かれた「狗奴国」との戦闘に関連していることもまた確かであると思われます。つまり「卑弥呼」は「難升米」を「帯方郡治」へ派遣し「狗奴国」との戦闘について「太守」(当時は「弓遵」)に説明、報告させ、援助を要請させたものと考えられるわけです。それに対し当時「太守」であった「弓遵」はこれを「都」へ報告し「皇帝」の裁可を仰がざるを得なかったと推量します。なぜなら「卑弥呼」は「親魏倭王」の金印を授与された存在であり、「魏」から正式に「倭王」として認められた存在であるからです。そのような「封国」が他国(しかも域外諸国)から攻撃を受けた場合には「宗主国」たる「魏」には防衛の義務があったものです。そうであればそれに対する対応については「郡太守」の裁量の範疇を超えていたとみられ、「皇帝」自らが裁可する必要があったものと推量されます。
 このような事情により「皇帝」は「郡太守」に命じ「黄幢」「詔書」などを「倭王」の元へもたらすこととなったわけですが、あいにく「韓国内」に争乱が起きてしまい、その混乱の中で「弓遵」本人が「戦死」するなどしたため、代わりの「太守」が派遣されるまで「倭王」の元へ「詔書」等がもたらされることはできなかったものであり、「帯方郡治」に留め置かれていたものかと推測されます。そして、その後「卑弥呼」からの再度の要請に従い(これはしびれを切らしたものか)「新任」の「帯方太守」である「王頎」は必要な人員を「詔書」と共に派遣させることとなったものであり、「張政」がその派遣団の団長として選ばれたということではなかったでしょうか。(続く)

(※)「白樺シンポジウム」(東方史学会主催、昭和薬科大学諏訪校舎にて)中、木佐敬久氏による以下の提言。
 第一、倭人伝に、帯方郡の塞曹掾史(軍司令官)張政が倭国に派遣されてきたことが記されている(正始八年、二四七)。
 第二、彼の帰国は泰始二年(二六六)である(晋書倭国伝、日本書紀神功紀)から、倭国滞在は「二十年間」に及ぶ。
 第三、従って倭人伝の行路里程記事は、彼の軍事報告書をもとに、軍事用の実用にたえうるものとして、記載されたもの、と考えざるをえない。
 第四、それ故、次の三点が帰結される。
  〈その一〉「南」を「東」のあやまり、とは見なしえない。
  〈その二〉「里程」を「五~六倍の誇張」とは見なしえない。
  〈その三〉他の何物より、重要にして不可欠な記事、それは「帯方郡治から倭国の首都までの総日程」である。なぜなら、それなしに、食糧補給や兵力増派は不可能だからである。
 以上の提言を特に古田史学関係者は信憑しているようです。

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