以下は数年前に書いたものですが、その内容は現在でも有効と考えていますので、ここに改めて記し「難波京」と「鞠智城」の関係にスポットライトを当てようと思います。
「倭国王権」は「複都制」の「詔」を発し、その中で「凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。」というように「二ないし三箇所」を「都城宮室」の場所として選定することとしたものであり、「先ず」第一番目に「難波」に「副都(京)」が形成されたわけです。
この「詔」では「両参」とされているように、「副都」として想定しているのは最大二箇所程度と考えられ、『書紀』にも「難波」の他「信濃」にも造る動きがあったとされます。「難波」や「信濃」がその場所として想定されていたのは「山陽道」と「東山道」の整備拡幅事業の進捗との兼ね合いであったと思われます。
「副都」と「離宮」などが決定的に違うのは、「副都」から「統治行為」の全てが可能であることです。当然官人なども「首都」から引き連れていく訳ではなく最低限の「統治体制」が常時整った状態となっていたものと思料されます。そのことから「副都」制の前提条件というのは、「副都」と「首都」を結び、且つ主要な地域へ早期に「軍事展開」ができるような「幹線道路」の整備が完了していることであり、「副都」から素早く軍事行動ができるようになっているということであると思われます。それが完備されて初めて「副都」として機能するものであり、「首都」が「筑紫」であった時点において、「難波」に「副都」を設けることができるようになったのも、「古代山陽道」の整備がかなり進捗するという条件があって初めて可能であったと思われます。この詔により「難波副都」がまず定められたというわけですが、その「難波副都」が「上町台地」の突端の「海」に突き出たような、とても「平坦」とは言えないような場所をあえて選んでいるように見えるのは、ある意味不思議です。
「難波京」は「飛鳥京」や「藤原京」、また後の「平城京」など、元々「平地」であった場所に造られたそれらの「京」とは明らかに「趣」を異にするものです。(ただし「近江京」とは近似した性格が認められます)そこでは「宮」の位置として「上町台地」の標高の高い地点を選んでいることや(一番高い場所には「生国魂神社」があったため、そのすぐ直下に造られている)、谷の入り組んだ土地をわざわざ選んでいるように見えることなど、ある意味古代の「宮」としては「空前絶後」とも言える場所に造られたものであると思えます。
「上町台地」にしても、もう少し「南側」をみるとそれほど「高低差」のない土地が存在するわけですから、そちらを選ぶという選択肢もあったはずですが、あえて「標高」の一番高い、数多くの谷に囲まれ、その谷を埋めたとしてもさほどの広さにならないところに「宮」を構築しているのです。(そのため朝庭の「東西幅」が狭くなり、「閉塞する印象を与える」と評されています。)(註1)
このような立地をあえて選んでいる理由としては、各種考えられますが、本来の設計の基本的スタンスが「山城」にあったと見ることも可能ではないでしょうか。 つまり、「軍事的」な理由が大きなウェイトを占めていたと考えることもできそうです。そのことは「至近」の場所に後代になって「大阪城」が造られていることからも推測できると思われます。つまり「戦術」的なことを考えると、この「台地上」に「軍事拠点」を設けることがこの「難波」、と言うより「大阪平野」の全体を押さえるのに必要であったことを示すものです。(この場所は元々「石山本願寺」があった場所ですが、そこを「信長」が攻め落とすのに「長年月」掛かったことを踏まえて「秀吉」はここに「大阪城」を築いたとされています。それだけ「要衝」の地でもあるわけです)
「難波京」では「複雑に入り組んだ谷」を埋めながら整地層を構成しており、その点は「大野城」や「基肄城」などの通常の「山城」とは明らかに異なっている点ですが、ただ「肥後」の「鞠智城」とは少なからず「共通」するものを感じます。
「鞠智城」は現在の「熊本県菊池川上流地域」に存在していた「山城」ですが『書紀』には現れません。『続日本紀』には「繕治」記事があります。
「(文武)二年(六九八)五月甲申廿五。令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。」
しかし、関係する記事はこれだけであり、その「築城」の時期などは不明となっていますが、ここに「大野城」「基肄城」と並べられていることから、これらの「二城」の築城時期と同じであるという可能性はあり得ます。
その「大野城」については近年「出土」した「柱材」についての「年輪年代測定」により「白村江の戦い」の年を遡る年次である「六四八年」以降伐採されたものという鑑定が出されているようです。(註2)この事から「鞠智城」の築造もこの年次付近ではないかと考えられるわけです。
この「鞠智城」については、『書紀』に記述がないこともあり、長い間その場所さえ明確にはなっていませんでした。しかし近年詳細な調査が施され、新事実が次々と明らかになってきています。(註3)
そこでは、その築造時期においても、形式としても「筑紫」の「大野城」や「高良山神籠石」などのいわゆる「朝鮮式山城」と共通する性格もあるとはされますが、他方それらに比べると大きな違いがあることも指摘されています。たとえば、他の「山城」と違い急峻な山腹に「城」を築く「山上抱谷式」というタイプではなく、より「平坦」な「台地」上の場所に「城」を築く「平地丘陵式」であることや、「城域」に「谷」が含まれていない点が異なっており、またそれに伴い「水門」が見られない、などの相違点が確認されています。
また、これら「山城」は「百済」に基本的に源流があるとされ、その意味で「朝鮮式山城」と称されるわけですが、「百済」では「泗沘城」と「青馬山城」というように「都城」と「山城」という組み合わせが「普遍的」であり、その意味では「筑紫都城」と「大野城」等の山城という組み合わせは多分に「百済的」であると考えられますが、「鞠智城」の場合はそれらとは「一線を画する」ものです。それは「鞠智城」それ自体が「山城」と「都城」を両面備えた形式となっていると考えられるからです。それは「城域」に「政庁的」建物と考えられる大型建物群が存在しており、「官衙的中枢管理区域」の存在が指摘されていることからもいえることです。そして、これらの点は「難波京」に通じるものではないでしょうか。つまり、「難波京」は「鞠智城」と同様「都城」と「山城」という二つの特性を有していると言えると思われるわけです。
従来「難波京」はその後の「藤原京」との比較・研究が盛んであり、その淵源としては「中国」(唐)などに求めるのが通常のようですが、国内の「山城」などとの関連を考える事も必要と考えます。
一般に古代の中国の「都市」(特に北方地域)は「城郭」(羅城)を巡らし、その中に「街」や「宮城」など「中枢域」が包括されていました。これは「北魏」以降盛んになったものであり、その周辺で活発であった「遊牧民」の行動に備えたものとされています。(註4)これが「朝鮮半島」に渡ると「山城」という形態に変化し、より「守備能力」が向上したものとなったものです。ただ、「山中」では「水利」も含め「不便」であり、「生活」や「統治」行為そのものの執行は困難と考えられ、「都城」は至近に「別途」構築し、「山城」は「守備」に特化するという「分化」が生じたものと推察されます。
このような「城郭」に関する情報が「倭国」にもたらされ、その結果「朝鮮式山城」が国内に見られることとなったと思われます。(これが「筑紫京」と「大野」「基肄」などの至近の諸城の形態につながっているものと推察されます)
「難波京」の場合、一見「中国」的要素もありながら、その「立地」などを見てみると、その実国内の「都城」や「山城」からの「発展」「進化」という流れと不可分であることが明確です。
一般に「山城」は「守りの要」としての利点がいくつか挙げられますが、たとえば「急峻」な山腹に築かれるため、攻められにくいこと(これが一番のポイントでしょう)、「城内」に「糧食」を蓄えておけば「長期戦」にも耐えられること、「見通し」が利くため、敵の行動の先手が打てること、さらに「谷」が入り組んでいるため、敵から見ると攻める際に大量の人員を投下しにくいなどの点が優れていると考えられるわけですが、他方「権力者」が常駐することは困難であり、恒常的な「統治」の場とはなりにくい点があります。
これに対し、「鞠智城」においては、「城内」には「谷」がなく、また、急な山腹に築かれているわけでもなく、ある程度の広さの「平面空間」が確保されているようであり、それほど「長期間」でなければここで「統治」の実務も可能と思われます。そして、その「利点」を大きく拡大したのが「難波京」ではないかと考えられます。
「難波京」においても「標高」の高い土地を選択しており、また「整地」し「埋め立てて」はいるものの、「谷の入り組んだ地形」を利用しているわけですから、それは「山城的要素」を意識した場所選定であったと考えられます。さらに「南側」に「門」があり、「北側」に急峻な「崖」を持つという点や、「土塁」はあっても「石垣」が存在しないという点も「鞠智城」と共通していると言え、設計思想において共通であることが強く示唆されます。ただし、「難波京」には「条坊制」が施行されていたように見受けられます。(註5)その点が「鞠智城」とは大きく異なっている部分であるわけです。(註6)
「註」
1.植木久「難波宮跡 大阪に甦る古代の宮殿」同成社二〇〇九年六月
2.九州国立博物館報告によります。それによれば「大野城太宰府口城門跡出土の城門の建築部材」についての「年輪年代測定」の結果「伐採年代」は「六四八年」とされています。この至近の時期に建てられたとすると「六九八年」の繕治は五十年後のこととなりますが、これは後の「国府」建替えの平均的間隔と一致しています。(「建替え」も「繕治」の一種です)たとえば、「下野国府」の場合でいうと、「一期」として「八世紀前半代」、「二期」として「八世紀後半頃から同末」、「三期」として「九世紀はじめから後期」、「四期」は「九世紀後半」から「十世紀」はじめ、という具合にほぼ「五十年間隔」で「建替え」がされています。これは他の国府に見てもほぼ同様であり、かなり多数の国府で同程度の時間間隔による建替えが確認されています。これらのことは「国府」については「繕治」の間隔が決められていたという可能性もあると考えられ、この「繕治期間」との「山城」の「繕治」の期間とが関連していると言う事もまた考えられるものです。
3.甲元真之「鞠智城についての一考察」熊本大学学術リポジトリ二〇〇六年十一月及び堤克彦「『江田船山古墳』の被葬者と『鞠智城』築城の背景を探る」熊本大学学術リポジトリ二〇一〇年五月
4.妹尾達彦「中国都城の方格状街割の沿革 都城制研究(三)」奈良女子大学二十一世紀COEプログラム報告集巻二十七)二〇〇九年三月
5.古市晃「難波における京の形成 都城制研究(三)」奈良女子大学二十一世紀COEプログラム報告集巻二十七)二〇〇九年三月
6.秀島哲雄「大友皇子と鞠智城 『壬申の乱は九州』より」には「鞠智城」前面の「山鹿」市付近には「条里」がある、とされていますが詳細が不明であり、それがどのような「淵源」を持つものか「未確認」のため一旦保留しています。