以前「古田史学会報」に「無文銀銭」について投稿し採用されましたが、その後若干見解の修正をするべき部分があり、ホームページに引き続きこのブログでもそれを明らかにします。
「無文銀銭」については各種の議論がありますが、少なくとも「最古の貨幣」という定評は確立しつつあるようです。しかしその「発行者」については「近畿王権」であるというのが定説のようですが、その使用された時代についての解析などからは「九州倭国王権」によって製造されたものという考え方もあるようです。しかし私見ではこの「銀銭」は当初国外(多分「新羅」から)流入したものであり、当初はあくまでも「銀」の地金としての価値により取引されたものであり、流通と使用上の便宜から「一定重量」ごとに製造されていたものと考えています。(その意味では「通貨」として「国家」が発行したものではないと考えています)
その製造法についても従来は銀の塊を「叩いて延ばして」裁断加工して作られたと思われていました。しかしそうではないことが近年判明しています。実際に「無文銀銭」の表面状況の顕微鏡等による拡大観察から、それが「叩いて」整形したものではないことが推定されています。(※)仮に「一部」鍛造されたものであったとしても周縁等の「バリ」をとる程度の作業に関する事だけと考えられているようです。
また発見された「無文銀銭」のほとんどに「小片」が付着しています。通説では、この状態が「無文銀銭」の「本来」の姿とされますが、「小片」がついた状態が「ノーマル」な形とはとても思えません。たとえばこの「小片」が付いている状態でもその重量にはかなり「ばらつき」が確認できます。
「小片」が付いた状態の重量としては8.2-11.2グラム程度の範囲と確認されており、これは「揃っている」とは言い難いものです。「小片」がない状態であれば「ばらつき」はあるが、「小片」を付加することにより「均一化」がなされているということであれば、当初製造過程の一環とも考えられますが、そうではないわけですから「当初」から「小片」がついていたとは考えられないこととなります。つまり、「小片」は「後」から付加されたものであり、「当初」の基準重量から「別の」基準重量への「概数的移行」という機能のためのものであったと思料されるものです。
この点についてはその後の調査、解析により「無文銀銭」が「鋳型」による「鋳造」であることが推定される事となっています。そもそも「サイズ」(直径と周辺厚)が揃っている(共通している)と言うことは、「統一的基準」があり、それにより製造されたことを示唆するものです。
「無文銀銭」はその寸法の平均値として、直径30.60(29.60~31.60)㎜、周縁厚1.85(1.70~2.00)㎜、重量9.51g程度とされています。また、銀の含有率は94.9%とかなり純度は高いとされます。
「銀」の比重は10.51ですが、他の不純物の種類としては、「銅」ならぱ8.82、他に「鉛」が11.43、「錫」なら7.42、「ニッケル」なら8.69などとなりますが、ここでは「銀」と「銅」が共出されやすいことを踏まえて「銅」と仮定して「銀銭」の純度から逆算すると比重として「10.42」が得られます。この値は現在「950銀」と呼ばれる「銀合金」と全く同じ成分比であり、この「950銀」は「強度」「色」光沢」「耐久性」等において「銀合金」として最も理想的なものと言われていることに留意すべきです。
また「無文銀銭」の平均サイズ(直径30.60mm、周辺厚1.70mm、中心部部の穴の径として3mm程度)から計算すると、その体積としては約5000×10の-12乗立方メートル程度となり、比重を掛けて重量を算出すると「5.15g」程度となります。さらに実際には周辺厚より中心部にかけてやや厚みが増していたものと考えると(2mmを超える程度か)、「6g」程度の値がその平均的重量ではなかったかと思われることとなります。この重量は「崇福寺」から出土した、「小片」が脱落していた「無文銀銭」の重量である「6.7g」と大きくは異ならず、実際にはほぼ同重量となると思われます。つまり、「小片」がない状態の「銀銭」はその重量として「6g」前後の値が措定され、「小片」がない場合「揃っていない」とは言い切れないこととなります。
つまり「小片」が付加されているのが「本来」であるというような考え方はナンセンスであり、論理的な思考ではないこととなります。たとえば、後世の「豆板銀」では、周縁部の端面処理をしておらず、やや多辺形の歪んだ円形であり、また中央には小孔があるなど(その「小孔」の周囲は穴を貫通させた時点の力により凹んでいる)の特徴がありますが、これらはそのまま「無文銀銭」にも共通しているように見られます。この「豆板銀」の製作方法は「片面」だけの「鋳型」を使用したものとみられており、この製作方法も「無文銀銭」に共通していると推定されます。
「鋳型」があって、それによって製造していたとすると「小片」を「当初」から付着させる意味が不明となります。当然この「小片」は後付けされたものとならざるを得ないものとなるでしょう。
また推定される「小片」の付着方法として「銀鑞」などの溶融材を用いず、「無鑞熔接」とも云ふべき方法(銀小片そのものを溶融点(910℃)近くまで加熱して直接的に熔着させる方法)に拠ったとされるなどの点からも、一旦完成した「銀銭」に後付けで「小片」を付着させたのは明らかであると思われます。
(そのような熔着方法をとっていること、また全体の造り替えをせず「小片」の付加という方法を用いていることなどは、「銀」精錬や加工の技術がこの当時倭国にはなかったことを示しており、それは「銀」(無文銀銭)そのものも外来のものであったことを示していると思われます)