古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「無文銀銭」について(一)

2017年06月28日 | 古代史

以前「古田史学会報」に「無文銀銭」について投稿し採用されましたが、その後若干見解の修正をするべき部分があり、ホームページに引き続きこのブログでもそれを明らかにします。

「無文銀銭」については各種の議論がありますが、少なくとも「最古の貨幣」という定評は確立しつつあるようです。しかしその「発行者」については「近畿王権」であるというのが定説のようですが、その使用された時代についての解析などからは「九州倭国王権」によって製造されたものという考え方もあるようです。しかし私見ではこの「銀銭」は当初国外(多分「新羅」から)流入したものであり、当初はあくまでも「銀」の地金としての価値により取引されたものであり、流通と使用上の便宜から「一定重量」ごとに製造されていたものと考えています。(その意味では「通貨」として「国家」が発行したものではないと考えています)

 その製造法についても従来は銀の塊を「叩いて延ばして」裁断加工して作られたと思われていました。しかしそうではないことが近年判明しています。実際に「無文銀銭」の表面状況の顕微鏡等による拡大観察から、それが「叩いて」整形したものではないことが推定されています。(※)仮に「一部」鍛造されたものであったとしても周縁等の「バリ」をとる程度の作業に関する事だけと考えられているようです。

 また発見された「無文銀銭」のほとんどに「小片」が付着しています。通説では、この状態が「無文銀銭」の「本来」の姿とされますが、「小片」がついた状態が「ノーマル」な形とはとても思えません。たとえばこの「小片」が付いている状態でもその重量にはかなり「ばらつき」が確認できます。
 「小片」が付いた状態の重量としては8.2-11.2グラム程度の範囲と確認されており、これは「揃っている」とは言い難いものです。「小片」がない状態であれば「ばらつき」はあるが、「小片」を付加することにより「均一化」がなされているということであれば、当初製造過程の一環とも考えられますが、そうではないわけですから「当初」から「小片」がついていたとは考えられないこととなります。つまり、「小片」は「後」から付加されたものであり、「当初」の基準重量から「別の」基準重量への「概数的移行」という機能のためのものであったと思料されるものです。
 この点についてはその後の調査、解析により「無文銀銭」が「鋳型」による「鋳造」であることが推定される事となっています。そもそも「サイズ」(直径と周辺厚)が揃っている(共通している)と言うことは、「統一的基準」があり、それにより製造されたことを示唆するものです。
 「無文銀銭」はその寸法の平均値として、直径30.60(29.60~31.60)㎜、周縁厚1.85(1.70~2.00)㎜、重量9.51g程度とされています。また、銀の含有率は94.9%とかなり純度は高いとされます。
 「銀」の比重は10.51ですが、他の不純物の種類としては、「銅」ならぱ8.82、他に「鉛」が11.43、「錫」なら7.42、「ニッケル」なら8.69などとなりますが、ここでは「銀」と「銅」が共出されやすいことを踏まえて「銅」と仮定して「銀銭」の純度から逆算すると比重として「10.42」が得られます。この値は現在「950銀」と呼ばれる「銀合金」と全く同じ成分比であり、この「950銀」は「強度」「色」光沢」「耐久性」等において「銀合金」として最も理想的なものと言われていることに留意すべきです。

 また「無文銀銭」の平均サイズ(直径30.60mm、周辺厚1.70mm、中心部部の穴の径として3mm程度)から計算すると、その体積としては約5000×10の-12乗立方メートル程度となり、比重を掛けて重量を算出すると「5.15g」程度となります。さらに実際には周辺厚より中心部にかけてやや厚みが増していたものと考えると(2mmを超える程度か)、「6g」程度の値がその平均的重量ではなかったかと思われることとなります。この重量は「崇福寺」から出土した、「小片」が脱落していた「無文銀銭」の重量である「6.7g」と大きくは異ならず、実際にはほぼ同重量となると思われます。つまり、「小片」がない状態の「銀銭」はその重量として「6g」前後の値が措定され、「小片」がない場合「揃っていない」とは言い切れないこととなります。
 つまり「小片」が付加されているのが「本来」であるというような考え方はナンセンスであり、論理的な思考ではないこととなります。たとえば、後世の「豆板銀」では、周縁部の端面処理をしておらず、やや多辺形の歪んだ円形であり、また中央には小孔があるなど(その「小孔」の周囲は穴を貫通させた時点の力により凹んでいる)の特徴がありますが、これらはそのまま「無文銀銭」にも共通しているように見られます。この「豆板銀」の製作方法は「片面」だけの「鋳型」を使用したものとみられており、この製作方法も「無文銀銭」に共通していると推定されます。
 「鋳型」があって、それによって製造していたとすると「小片」を「当初」から付着させる意味が不明となります。当然この「小片」は後付けされたものとならざるを得ないものとなるでしょう。
 また推定される「小片」の付着方法として「銀鑞」などの溶融材を用いず、「無鑞熔接」とも云ふべき方法(銀小片そのものを溶融点(910℃)近くまで加熱して直接的に熔着させる方法)に拠ったとされるなどの点からも、一旦完成した「銀銭」に後付けで「小片」を付着させたのは明らかであると思われます。
 (そのような熔着方法をとっていること、また全体の造り替えをせず「小片」の付加という方法を用いていることなどは、「銀」精錬や加工の技術がこの当時倭国にはなかったことを示しており、それは「銀」(無文銀銭)そのものも外来のものであったことを示していると思われます)

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「鞠智城」について ―「難波京」の「山城的性格」との関連において―(二)

2017年06月28日 | 古代史

 引き続き「鞠智城」と「難波京」を比較します。

 「都城」(京師)の特徴として「条坊制」が挙げられますが、「鞠智城」や「筑紫」(太宰府周辺)の「山城」では、その所在する場所を起点として「条坊制」が布かれてはいません。(「山城」という構造自体が、「条坊制」とは異質であり、相容れなかったものでしょう) それに対し「難波京」では「難波宮」を起点として「条坊制」が施行されていた痕跡が確認されつつあります。
 つまり、「難波京」は「鞠智城」の形態をより「進化」させ、「筑紫都城」のもつ「条坊制」とその周辺の防衛施設である「大野城」などの「山城」の防衛機能を「合体」させた形態を有するものとして造られたと推定されるわけです。その意味でこの「副都」「難波京」は「鞠智城」という「新型」山城の発展・拡大の延長線上にあったという点で「本邦初」であったと思われるわけです。
 「筑紫」においては「山城」そのものは首都の周辺施設として存在しているのであり、「条坊制」はあくまでも「宮殿」を中心としたものであったのに対して(註1)、「難波京」においては「周辺施設」であったはずの「山城」を中心とした形で「京」が形成されたこととなるわけです(ただし、広範囲ではなく、地形の制約から「朱雀大路」周辺に限定されるものと考えられています。またこの点は「大宰府」とも共通するものであり、「大宰府」においても「当初」から「条坊」が広範囲に整っていたわけではないことが判明しています)

 中国「北朝」に例を取ると「条坊制」(方格地割制)が成立するためにはある「条件」ないし「要素」というものが必要という研究もあります。(註2)それらは「人的移動」を伴うこと(それも「軍人」が主体であること)、「新しい街」であること、「平地」であること等が挙げられています。これらが揃っていて初めて「条坊制」が成立可能となると言うわけです。
 これらの条件と「難波京」を比べてみると、この場所が「新しい街」であり、外部から人的移動があったことも確実と思われますし、その「山城的」という軍事的性格の帰結として構成主体が「軍人」であったこともまた確かであると見られます。さらに三番目の「平地条件」についても、明らかに「平地」ではないこの場所を「谷」を埋めて「整地」して「条坊」が施行できる条件を形作る工夫が見えるものです。
 このように「難波京」は「百済」に淵源を持つ「山城」と「北朝」に淵源を持つ「条坊制」の双方を融合させた「発展型山城」とでも言うべき形態を有しており、「鞠智城」のもつ特徴(割と平坦な場所に「山城」を築き内部に政庁的建物を保有する)をより「進化」させ、「筑紫都城」の持つ「条坊制」と「大野城」などの「山城」としての防衛機能を「合体」させた形態を有するものとして造られたと推定されます。そのことは「鞠智城」の建物群の中に「サイズ」は異なるものの「難波宮」と同様「八角円堂」(楼)が存在していることでも推定出来ます。
 「難波宮」の「八角円堂」の方がかなり大型の建物であり、内部空間も確保されていますが、用途としては共に「鼓楼」(あるいは「鐘楼」)ではなかったかと推定されています。『書紀』には「難波京」の内部に「鐘楼」があったらしいことが書かれていますから、少なくとも「難波京」では「鼓楼」ではなく「鐘楼」ではなかったかと推定されます。いずれにしろその機能は「時刻」の報知という性格があったと思われ、それは「漏刻」やそれを使用した「天文観測」の有無に強く関連してきます。しかし、そのような行為は本来、その時点の「為政者」(王)の統治行為の一部を成すものであると考えられ、このようなことがここで行われていたとすると、この「鞠智城」が「地方」の「山城」に過ぎないという従来の推定そのものに強い「違和感」を感じさせるものです。この事は即座に「鞠智城」という存在がより「高度」の政治性を持った存在であった事を推定させるものであり、その点も「副都」であった「難波京」との関連を感じます。


1.
井上信正「大宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナル二〇〇九年七月号ニュー・サイエンス社所収。それによれば「条坊」の基準尺と「政庁Ⅱ期」などの施設に使用された基準尺に違いがあることが示唆されています。つまり、本来の「宮域」は「通古賀地区」であったと推定されていますが、その後「京域」の北辺に移動したものであり、「条坊」とはその時点で基準尺の違いにより「整合」しなくなったとされます。
2.妹尾達彦「中国都城の方格状街割の沿革 都城制研究(三)」奈良女子大学二十一世紀COEプログラム報告集Vol.二十七)二〇〇九年三月

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