古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「古京」と「倭京」(一)

2018年06月10日 | 古代史

 「壬申の乱」の記述によると「東宮大皇弟入東国」という事態を承けて、「近江朝廷」からは「東国」「筑紫」「吉備」「倭京」という四箇所へ使者を派遣しており、そこでは「…並悉令興兵。」とされ、「軍を出動」するように指示を出したとされます。
 但し「筑紫」と「吉備」についてはその指示に従わない可能性を考慮しています。

「(六七二年)元年…六月辛酉朔…丙戌…則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣百足。及弟百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國授苻之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。」(天武紀)

 そこでは「吉備國守」として「当摩広島」の名が出されていますが、この時点では「吉備」には「惣領」ないしは「大宰」として「石川王」がいたはずですが、彼はこの時「近江朝廷」に出向いていたらしいことが「壬申の乱」記事から窺えます。そこには「六月辛酉朔壬午。…爰國司守三宅連石床。介三輪君子首。及湯沐令田中臣足麻呂。高田首新家等參遇于鈴鹿郡。則且發五百軍塞鈴鹿山道。到川曲坂下而日暮也。以皇后疲之暫留輿而息。然夜■欲雨。不得淹息而進行。於是。寒之雷雨已甚。從駕者衣裳濕以不堪寒。乃到三重郡家。焚屋一間而令温寒者。是夜半。鈴鹿關司遣使奏言。山部王。石川王並來歸之。故置關焉。天皇便使路直益人徴。…」とあり、軍に合流した人物について当初「山部王」「石川王」と誤解したことが書かれています。後に彼らは「大津皇子」の勢力であったことが判明しますが、当初誤解した理由として「石川王」が総領としての「吉備」に赴任していなかったことを大海人達も知っていたためであることが推測できます。そのため「近江朝廷」側は「石川王」の留守を預かっていたと思われる「国守当摩広島」にターゲットを絞っていたものでしょう。(この時「石川王」は「殯宮」で行われるはずの葬儀に参加するために「近江朝廷」に出向いていたものでしょうか)但し「吉備」に「石川王」がいたとしてもやはり「命令」に随わなかった可能性があるでしょう。彼はその後「死去記事」で「天武」から手厚い惜別の辞を受けていますから「天武」とは深い関係があったことが推定出来るからです。

 「筑紫」と「吉備」の両国に派遣された「近江朝廷」の使者にはいざとなったら彼等(「栗隈王」と「當摩公廣嶋」)について「殺せ」という指令が出されていました。それに対し、「東国」と「倭京」にはそのような強硬な態度を示していません。このことからこの「筑紫」と「吉備」の両地域と「大海人」との関係が高いことを当初から想定していたものと思われるわけです。逆に言えば「東国」と「倭京」にはそれほど「大海人」と関係が深い人物がいなかったか、意に従わないからといって殺すわけにはいかない勢力がいたと言うことかもしれません。それだけに「近江朝廷」としてはどうしても「筑紫」と「吉備」の軍勢を必要としていたという部分もあるでしょう。そうすれば全国の軍事力がその手に入る事になりますから。

 この時「倭京」には「留守司」として「高坂王」(及び「稚狭王」)(いずれも「難波皇子」の子供とされる)がおり、彼は「近江朝廷」からの指示に応え(使者である「穂積臣百足」と共に)「軍」を出動させ「飛鳥寺」の「西の槻の下」で「営」(屯営)していたとされます。つまり、彼は兄弟(多分「兄」)である「筑紫大宰」である「栗隈王」とは異なる対応をしており、指示により「軍」を出動させ「倭京」防衛体制を築いたように見られます。ただし、これは「倭京」が戦場になることを恐れたことがその理由ではなかったかと思われ、あくまでも「倭京」について「混乱」と「戦火」を助長することを避ける意義であったものとみられます。またそれは「大海人軍」からも想定の範囲のことであったもののようであり、特に敵視されているというわけではありません。
 
 ところで、「高坂王」は「倭京」の「留守司」であったわけですが、この「留守司」という呼称は重要な意味を持っていると思われます。
 一般に「留守司」とは「倭国王」が行幸等で「京師」を離れる際に文字通り「留守役」として任命されるものです。この用語がここで使用されていることから判ることは、ここでいう「倭京」が「倭国王」の「京師」(首都)であること、「倭国王」はこの時点で存在(生存)しているものの、何らかの理由により「京師」を不在にしているらしいことです。
 しかし「王」「皇帝」などが死去して後、次代の王などが即位しない間に「京」を預かる人間を「留守司」あるいは「留守官」「監国」などと呼称した例はありません。このことから、この時点において「倭国王」が存在している事を示しますが、その「倭国王」とは「天武」(大海人)ではあり得ないと思われると共に、「大友皇子」でもないと思われます。それはまだ「大友皇子」の即位が行われていなかった可能性が高い事と、もし留守司を任命したのが彼であるなら「近江京」という存在の意義がどこにあるか不明となることもあります。そうなると可能性があるのは「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたという場合と、もうひとつ、まだ「天智」が存命していたという場合が考えられるでしょう。

 「大海人」は「吉野」に下る際に「天智」に対して「倭姫」を「倭国王」とし、「大友」に補佐させるという案を提示しています。

「(六七一年)十年…冬十月甲子朔…庚辰。天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。踞坐胡床剃除鬢髮。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。」

 これが実現していたとするなら、彼女が「倭国王」として「高坂王」を「留守司」として任命したと理解できます。ただしその場合でも「飛鳥」に「留守司」を配置する理由が不明です。もし考えられるとした場合「倭姫」が「古京」たる「飛鳥」に戻るという決断をした場合です。その場合「倭姫」が「殯宮」に隠っていたという「新宮」は「倭京」の至近に存在したことが考えられるでしょう。
 そもそも「天智」の「殯」に関する記事は以下のものしかありません。

「(六七一年)十年十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
(同月)癸酉。殯于新宮。…」

 その後「山陵」の造営記事らしきものがそのおよそ「半年後」の「六七二年五月」に出てきます。

「(六七二年)元年夏五月是月条」「朴井連雄君奏天皇曰。臣以有私事獨至美濃。時朝庭宣美濃。尾張兩國司曰。爲造山陵。豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲。非爲山陵。必有事矣。若不早避。當有危歟。或有人奏曰。自近江京至于倭京。處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。天皇惡之。因令問察。以知事已實。…」

 上の『書紀』の記事では「新宮」という呼称がみられます。これは「殯」のために新たに(仮に)あつらえた「宮」であったと思われますが、それは「倭京」つまり「飛鳥」のどこかではなかったでしょうか。
 通常「殯の期間」は「陵墓造営期間」とするとされていたようですから、この時点ではまだ「殯」の期間内であったと思われ、「皇后」である「倭姫」は「殯宮」に籠もっていたという推測が可能でしょう。
 『書紀』の「殯宮」記事を見ると「宮」の「南庭」で行う事が非常に多く「殯宮」のために「新宮」をこしらえたとすると、「推古」の時代「敏達」の「殯宮」が前皇后の出身地である「廣瀬」に設けられた例がある位で基本的に珍しいといえるでしょう。つまり「倭姫」に皇位が(つなぎとして)継承されていたとして、彼女は「近江京」ではなく「飛鳥」に戻りそこ(倭京)の至近で「殯」の儀式を行っていたと考えられるのです。こう考えると「倭京」に「留守司」がいても不思議ではないこととなります。


(この項の作成日 2013/06/20、最終更新 2017/08/25)

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『法華義疏』と「提婆達多品」について

2018年06月10日 | 古代史

 すでにみたように「聖徳太子」が表わしたと云う『法華義疏』は「中国」に渡り、その「聖徳太子」という人物像と共に「伝説化」したものと推定されるわけですが、その『法華義疏』とは「法華経」に対する解釈書であり、従来「聖徳太子」の著作であるとされてきました。しかし、古田氏もその著書(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)で言われるように、その『法華義疏』の分析からはその文中に「南朝仏教」の師である「天台大師」(智顗)も「嘉祥大師」(吉蔵)もその存在がほぼ確認できないとされます。確認できるのは「南朝」(「梁」)の「法雲法師」です。というより「古田氏」が指摘したように『人名(注釈学僧)はすべて、「法雲」の「法華義記」中に現われるものに限られる』のです。
 この事はこの『法華義疏』の著者が「南朝」に深く関係した人物であることを推定させるものですが、それはやはり古田氏が言うように、この『法華義疏』という書そのものが「天台大師」が登場する以前の段階の「法華経」についての注釈書であることを示すものです。

 またその中では、いわゆる「変格漢文」が見いだされるとされており、それはこの著者が正確には「漢文」を理解していなかった可能性が考えられるものであり、少なくとも「中国側」の人間ではなく、半島諸国あるいは「倭国」の人物の誰かがそれに該当すると思われています(※1)。いずれにしても『法華義疏』の著者に関する議論としては「古田氏」の主張が正しいと考えられます。その論旨の中では「聖徳太子」の時代に「遣隋使」が持ち帰った経典やその「疏」を題材にしているなら「天台大師」や「嘉祥大師」の著作が引用されて然るべきであるのにそれがないのは不審とされていますが、これは重要な指摘であり、その場合最も説明として矛盾がないのは、「天台大師」や「嘉祥大師」の時代よりも「以前」の教学が参考とされていると考えることです。そう考えると『法華義疏』は「聖徳太子」の時代の成立ではないこととなるのは間違いなく、著者についても当然「聖徳太子」ではないこととなります。(このことは『書紀』の記述、特にその「年次」に深い疑念を呼ぶものでもあります。)

 「倭国」と「南朝」との関係は「梁」からの「授号」が「梁書」に書かれた以降は記録上確認できず、「南朝仏教」が「直接」「隋」以前に「倭国」へ伝来していたとは考えにくいものの、他方「百済」から伝来したという可能性は十分考えられます。
 確かに「百済」の仏教は元々「高句麗」を通じて得た「北朝系」のものであったことは知られていますが、「北朝」が勢力を増してきて「高句麗」が「北朝」と接近するようになると「百済」は対抗上「南朝」に足繁く遣使するようになり、少なくとも「梁」の「武帝」の以降「百済」において「南朝」の仏教文化が大量に流入したらしいことが推察されています。(※2)それは寺院の建築に関わることや「瓦」など多方面に及んでいます。そのような中で「経論」だけが「北朝」的なものであったとは考えにくいこととなるでしょう。そう考えると、「百済」からの経論が「南朝的」であったとするのは当然であり、『法華義疏』の内容が「南朝」に偏っているのはその根本経典や義記などの解釈書が「百済」から伝来したということを示すものといえるでしょう。
 また、これが「初期型」法華経に基づく「疏」であるのは、その中に「提婆達多品」が欠落していることからも分かります。
 「法華経」は「鳩摩羅什」により「四〇六年」に「漢訳」されており(『妙法蓮華経』)その時点では「提婆達多品」は脱落していたと考えられます。そしてそれが「南朝」にも伝搬したものであり、さらに「百済」から「倭国」に伝来したものと見られます。これに関係しているのは「百済」から「法華経」が伝来したという『扶桑略記』の記事でしょう。

「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻二經論二百餘卷一。此論中。法華同來。」

 この「敏達天皇六年丁酉」とは「五七七年」と見られますが、このように「百済」から「法華経」が伝来しそれにより『法華義疏』が書かれたものと見ると、この年代は明らかに「聖徳太子」の時代ではありませんから、彼によって『三経義疏』が書かれたとは考えられないこととなるでしょう。

 その後「五八八年」になり、「天台大師」が「光宅寺」で講説した「法華経文句」には「提婆達多品」への言及がありますから、この時点以降「法華経」に「提婆達多品」(及び「普門品偈頌」)が加えられ、「八巻二十八品」となったとされています。それが「隋」に渡ったのは「平陳」(五八九年)以降と思われ、その後派遣された「遣隋使」に対して、この「提婆達多品」が補綴された「法華経」を「隋皇帝」(文帝)が「下賜」したという想定は、「文帝」が仏教の発展に意欲を燃やしていた時点において「夷蛮」の国に対して「経典」を下賜したとした場合大変自然な行為であると思われます。それを示すのが『二中歴』の以下の記事でしょう。

「端政五己酉(自唐法華経始渡)」

 これによれば「唐」(これは「隋」を指す)から「法華経」が「始めて」渡ったとされ、これが「天台大師」により「提婆達多品」が補綴された「法華経」であると見られます。この「元年」である「己酉」は「五八九年」と思われ、「端正年間」としてはそこから「五九四年」までを指すものですが、「法華経」の伝来がそのいずれの年であるかは不明ではあるものの、この年次付近に「遣隋使」が送られていたらしいことが推察されるものです。
 そして、この時「遣隋使」を派遣したのは「阿毎多利思北孤」であったものであり、彼は「文帝」から「倭国」の統治体制を変更するようにと云う「訓令」を受け、仏教を「国教」とすべしとされたことに「積極的」に対応したものと思われます。
 彼は倭国の統治の強化策としてそれが有効であると考えたものと思われ、仏教(法華経)を積極的に導入したものと思われますが、さらに統治に必要なものとして「建国神話」を作ったものと思われ、「法華経」がその「建国神話」の創成に重要な意味を占めることとなったものと思料します。

 こう考えると先に述べたように『書紀』やその影響を受けて成立したと思われる「聖徳太子」に関わる伝記などの記述に疑念が発生します。
 「聖徳太子」に関わる伝承では「七世紀」に入ってから『法華義疏』を初めとして『三経義疏』が書かれたようになっています。たとえば『法華義疏』は「六一五年」、『勝鬘経義疏』はその翌年の「六一六年」、『維摩経義疏』はそれらに先立つ「六一三年」と伝えられているのです。
 これらの「義疏」はいずれも「七世紀初め」の「六一〇年代」に書かれたとされているわけですが、それでは『堤婆達多品』が添付された『法華経』が伝来して以降のこととなりますから、「義疏」の中で『堤婆達多品』について触れられていない理由が不明となります。
 このことから各種の「伝承」はその本来の年次から移動されて伝えられていたと考えられることとなりますが、それは『書紀』の記述にそもそも「年次移動」があるからであり、他の伝承はその影響を受けていると考えられるでしょう。これは「聖徳太子」という人物が誰であったかということにつながります。


(※1)石井公成「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」 (『駒澤大学仏教学部論集』第四十一号、二〇一〇年十月)
(※2)李炳鎬『百済仏教寺院の特性形成と周辺国家に与えた影響 ―瓦当・塑像伽藍配置を中心に-』(早稲田大学学術リポジトリ二〇一三年より)


(この項の作成日 2014/03/24、最終更新 2017/01/03)

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南朝仏教の伝搬と「生まれ変わり説話」

2018年06月10日 | 古代史

 「淡海三船」が著した『唐大和上東征伝』によれば、「鑑真」が何度も遭難し失明した後もなお執拗に倭国に来ようとした理由は、南朝の「恵思禅師」が倭国王子に生まれ変わった、という言伝えを信じたからである、といいます。

「大和上答曰。昔聞南嶽思禅師遷化之後。託生倭國王子。興隆佛法。濟度衆生。又聞日本國長屋王崇敬佛法。」(『群書類従』による)

 この言伝えでは「王子」であって「王」でないことに注目すべきです。これは「利歌彌多仏利」についての伝説が「唐大和上東征伝」に語り伝えられていると考えられます。言伝えは何らかの事実を下敷きにしていることが多いと考えられ、この場合は「生れ変り」というのですから、「恵思禅師」の死去した年「五七七年」と倭国王子の生まれた年が同一である、という可能性が高いものと考えられます。本来はこの点からも「聖徳太子」ではないといえるものです。

 この言伝えは南朝「陳」の国で著名であったものですが、その後の『七代記』にも「恵思禅師」の生れ変りに関する記述があり、 その記述の中には「天台山」近くの「杭州銭唐館」にこの「生まれ変わり」説話が記された碑があるとされ、八世紀初頭の「唐」の国でも有名であったことがわかります。(この「碑」は「隋代」の設置ではないでしょうか)

(『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』より以下その部分の抜粋)
「所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝、碑下題云、倭州天皇彼所聖化、(中略)李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州銭唐館写竟」

 ところで、この「言い伝え」(伝承)が作られた経緯はどのようなものだったのでしょう。また、それはいつ中国に伝えられたのでしょうか。
 それは当然「南嶽禅師」の死後のことであり、また「碑」が建てられていたという「開元六年」(七一八年)以前でなければなりません。
 この「七一八年」以前に「遣唐使」「遣隋使」合わせると十回以上の派遣が数えられますが、伝承の内容から考えて「七世紀後半」以降の「遣唐使」が伝えたとは考えにくいものです。明らかに「初唐」以前の「遣隋使」との情報交換の中で作り上げられることとなったものと考えられ、そう考えると、「南嶽禅師」生まれ変わり説話というものは「天子」の対等性を主張した事と関係があると考えられないでしょうか。

 この「天子」の対等性主張は「隋」とそれに続く「唐」の皇帝にとってみると許し難い言動であったかも知れませんが、「隋」「唐」により征服された「南朝」の関係者にとって見るとある意味「痛快」であったとも言えると思われます。
 「漢」から続く「正統王朝」は「南朝」であったとする立場からは「倭国王」の発言はまさに「正鵠を射る」ものであったかも知れません。彼らから見ると「北朝」は「匈奴」であり、異民族そのものでした。「南朝」はそれまでも「北朝」を「索虜」(弁髪を意味する差別語)と呼び「蔑視」していました。そのような彼らが「皇帝」の位を「簒奪」したと考えた人達にとって見ると、「倭国王」の放った「対等性」の主張は非常に印象的であり、そのような発言をした「倭国王」が何か特別な人物として映ったことがあってそれが「偶像化」したということが考えられます。
 元々「倭国」は「南朝」の歴代王朝と友好的であり、また「臣下」として存在していたものですが、それが「北朝」の「皇帝」に対して「対等」の主張をしたことが一種快哉を呼ぶものであったと言うことは充分考えられます。これらのことが少なくとも下地としてあって、「生まれ変わり」というような幻想的な伝承の発生につながったのではないでしょうか。
 この伝承と直接関連しているのが「南朝仏教」の「倭国」への伝搬です。
 「杜牧」(「杜甫」に対して「小杜」と言われた)の詩に「江南の春」というものがあります。(九世紀の中頃)

「千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風 南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中」

 有名な詩ですが、この歌が示すように「南朝」には「寺院」が多数ありました。この詩の中では「四百八十」と書かれていますが、今の南京付近には七百余りの寺院があったと言われており、「南朝」では仏教が非常に盛んであったことがわかります。
 そもそも「南嶽禅師」の生まれ変わりとするからには「倭国王」の唱えた仏教に対する解釈が「南朝」的であったという事情がなければなりません。それを示すのが『法華義疏』(あるいはそれを含む『三経義疏』)でしょう。
 『法華義疏』の解析からそこには「南朝仏教」の影響が如実に出ていることが明らかとなっていますが(南朝「梁」の「光雲法師」の説を「本義」としている)、この『法華義疏』については「聖徳太子」の書であると信じられており、古田氏も言うように(※)それは『書紀』に書かれた「聖徳太子」の仏教の「師」が主として「高麗」の僧である「惠慈」とされていることとは明らかに齟齬するものです。

 『書紀』には「百済」からの僧である「慧聰」も太子の師として存在していたように書かれていますが、彼については来倭の日時さえ明らかではなく、また『書紀』ではその名が現れるのは来倭時点以外にはなく、その存在は限りなく希薄です。
 その後の数々の伝承等には「惠慈」の存在が強調されており、彼の学んだ仏教が「高麗」からのものであり、それはまた「北朝系」のものであったことを示しています。それに対し『三経義疏』の内容は明らかに「南朝系」のものですから、その食い違いは従来から問題となっていました。
 このことは「聖徳太子」ではない「倭国王」あるいは「倭国王子」が存在していたことを示すものであり、また彼の元には「南朝」の「経論」があったことが推測できます。その様なものはどのようにして入手されたものでしょう。
 最も考えられるのは「百済」からです。「百済」はその仏教を「高句麗」を通じて「北朝」から受容したものですが、その後その「高句麗」が拡張政策により南下してくると、「百済」はその圧力に耐えかねて「首都」である「漢城」を奪われ、「王」を殺されるなど辛酸をなめることとなります。これ以降「百済」は「南朝」への傾倒を深めることとなった模様です。
 「倭の五王」時代には「倭国」とともに「南朝」から「将軍号」を授与されるなどしているのがその現れですが、特に「梁」の「武帝」が深く仏教に傾倒するようになると「百済」もそれに対応するように「梁」から仏教に関する諸々のものを受容するようになったものです。
 「百済」の「泗沘城」の遺跡発掘などからは建築技術なども「南朝」(特に「梁」)からの影響が濃密であったことが判明しており、そのことは「経論」についても同様であったのではないかと考えられることとなります。
 (いわゆる)「飛鳥寺」は「百済」の影響が顕著に見られ、その建築に関わる様式や「瓦」などの部材などに亘るほか、『書紀』に記されるように「工人」なども「百済」から招来した人々であるとされます。また『扶桑略記』などによれば「飛鳥寺」の「佛舎利」を「刹柱礎中」に置く儀式に「蘇我」一門が「百済服」で参加していたと書かれています。

「(推古)元年正月。蘇我大臣馬子宿禰依合戦願。於飛鳥地建法興寺。立刹柱日。嶋大臣并百餘人皆着百済服。観者悉悦。…」(『扶桑略記第三』による)

 このように「飛鳥寺」についての全てが「百済」と関連づけられています。このことはこの「飛鳥寺」創建に関して「隋」は関与しておらず、「百済」から直接流入したことを示しますが、それは以下の資料が示すように「百済」からの『法華経』の伝来が「遣隋使」以前であったことからも推定されます。

「藥恒法花驗記云。敏達天皇六年丁酉。百濟國獻二經論二百餘卷一。此論中。法華同來。」(『扶桑略記』による)

 これはその「敏達天皇六年」という記述から「五七七年」という年次が想定され、その年に「百済」から「経論二百巻」が招来されたものであり、その中に『法華経』の経典があった、という事のようです。これに関しては『書紀』にも「大別王」に関することとして記事があります。(但し「大別王」という人物については全く不明とされます)

「(敏達)六年(五七七年)夏五月癸酉朔丁丑条」「遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。」
「同年冬十一月庚午朔条」「百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。」

 これらに書かれた「五七七年」という年次は「隋」成立以前ですから、「遣隋使」に先行する時期のものであるのは当然です。
 この時点で「南嶽禅師」による経論(『法華義記』など)が倭国王の手に入ったものと見られ、それを元にして『法華義疏』が書かれたものと見ることができるでしょう。しかしそうであるとすると『法華義疏』を初めとする『三経義疏』の成立年代が「六一〇年代」とされていることは一種矛盾であるといえます。なぜなら「遣隋使」がもたらしたと思われる『法華経』にはすでに『堤婆達多品』が補綴されていたと思われるからであり、その『堤婆達多品』についての言及が『法華義疏』に全くみられないことは不審といえるからです。そのことは『三経義疏』の成立年次が本来もっと早かったのではないかという疑いにつながるものであり、想定年代としては「遣隋使」以前であると考えるべきですから、「開皇年間」の前半、つまり「五九〇年代」の前半よりも古いことが推定されます。
 そして、その『法華義疏』が「遣隋使」によって「逆」に「隋」や「唐」にもたらされ、それを見た「関係者」によって、その書きぶりがあたかも「南嶽禅師」の「再来」であるかのように思われたというのが、この伝承の成り立ちのきっかけではないでしょうか。

 『法華義疏』が「唐」に渡っていたというのは「聖徳太子」について書かれた『聖徳太子伝暦』などから窺えます。それによれば、推古十五年(六〇七年)に遣隋使として派遣された「小野妹子」は中国衡山(南嶽)の地に到着し、「聖徳太子」が『法華経』を元にして『法華義疏』を書いたことを述べたとされています。(このルートは「倭の五王」の時代に利用されたものと思われ、同一航路を利用したと思われます。)

「…我本朝倭國也 在東海中 相去三年行矣 今有聖德太子 無念禪法師者 崇尊佛道 流通妙義 自説諸經 兼製義疏 承其令旨 取昔身所持複法華經一卷 餘無異事…」

 この時実際に『法華義疏』を持参したとも考えられ、そうであればこの時のエピソードから考えても『法華義疏』の内容を見た「衡山」の僧侶たちにより「恵思禅師」と重ねられて考えられたという事が推定できるでしょう。


(※)古田武彦「「法華義疏」の史料批判」(『古代は沈黙せず』駸々堂一九八八年)


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2017/01/03)

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「聖徳太子」の非実在性

2018年06月10日 | 古代史

 『書紀』その他各種の資料に「聖徳太子」という人物が実際にいたように書かれ、また現在でも多くの人がその実在を信じているようです。しかし、この人物についての伝説や『書紀』の記述は、残された遺跡などとは食い違う点が多く、最近では「実在ではない」という意見が多くなってきました。しかしこれは、正確にいうと「近畿王権」の内部には該当する人物が見あたらない、ということのようです。
 
 よく言われるように「聖徳太子」という名称は同時代資料あるいはそれに程近い資料などには現れません。ところで「聖徳太子」と考えられる人物が登場する遺物(金石文など)は三つほどあります。その一つは『隋書俀国伝』です。ここには「隋」に国書を送り、返答使としてやって来た「輩清世」に面会した倭国王のことが書かれています。二つめは「道後温泉」の碑文です。伊豫の国(今の愛媛県)の松山市近郊にある「道後温泉」には「聖徳太子」が訪れたという碑文があったと『伊予風土記逸文』(『釈日本紀』に引用されたもの)に書かれています。三つめは「法隆寺」の「釈迦三尊像」の「光背」に書かれた文章です。
 
 『隋書』では「倭国王」「阿毎多利思北孤」と書かれ、また「菩薩天子」と誦したとされています。また「道後温泉碑文」では「我法王大王」と書かれ、さらに「釈迦三尊像光背銘」には「上宮法王」と書かれています。
 これらの名前などに共通しているのは「菩薩」や「法王」という「出家した王」を意味すると思われる名称です。『隋書』には直接そうは書かれていませんが、記事の中では「阿毎多利思北孤」は「結跏趺坐」していると書かれ、正式な作法で瞑想に入っている姿勢が描かれており、これは「出家した王」の姿を示していると考えられます。彼は「菩薩」と称しているようですが、明らかに「菩薩戒」を受けたことを表すと見られ、彼が「法王大王」と呼ばれていたとしても不思議ではありません。

 また、『隋書』では自らを「天子」と称しています。そのため隋皇帝(これは「煬帝」とされていますが、実際には「文帝」であったとみられます)の不興を買うこととなったわけです。「道後温泉碑文」でも随行した人間が「葛城臣」と書かれており、「天子」-「臣」という位取り構造が存在している事が看取されます。
 また、「釈迦三尊像」の光背銘にはさらに「王后」「太后」「諸臣」など「天子」の配下の階層(ヒエラルヒー)が書かれており、これらのことから「天子」でもなく、「倭国王」でもなかった「聖徳太子」とは「位」が違うと言うことを意味しています。

(参考)「釈迦三尊像」の「光背」銘文
(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)
「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗悆/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果?干食王后仍以勞疾並二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐癸未年三月中/如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳/具竟乗斯微福信道知識現在安穏/出生入死随奉三主紹隆三寶遂共/彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁/同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造」

 この銘文の中に書かれている「上宮法皇」の死亡年月日と『書紀』に書かれている「聖徳太子」の死亡年月日は食い違っており、 さらに銘文中に出てくる「鬼前太后」「干食王后」などが「聖徳太子」の母であり后の名前とすると、知られている名前と異なっているために、この「銘文」と『書紀』のどちらが正しいかなどで議論がありました。
 ちなみに「鬼前」とは筑前の地名であるという説もあります。(※1)また「干食」は「王后」の名前のようでもあるもののそう考えるには字面にやや違和感があり、「食事が取れなくなった」というように病気に伏せっている状態を表すという説もありますが(※2)、私見では「旰食」の簡略表記ではなかったかと思われます。
「旰食」とは「旰」が「晩」を意味することから、通常の時間ではない時間に食事をとる意であり、「政務」などに熱心であるという比喩とされます。(例えば以下の例)

「曲赦涼甘等九州詔」
「朕恭膺寶命,綏靜氓黎,思俾宇內,躋於仁壽。而河湟之表,比罹寇賊,勾連凶醜,壅隔朝風。元元之民,匪遑寧宴,夙興軫慮,『旰食忘疲』。重勞師旅,不令討擊,馭以遐算,且事招懷。而慕化之徒,乘機立效,兵不血刃,費無遺鏃。今凶狡即夷,西垂克定,遠人悅附,政道惟新,宜播惠澤,與之更始。可曲赦涼、甘、瓜、鄯、肅、會、蘭、河、廓九州,自武德二年五月十六日以前,罪無輕重,已發係囚見徒,悉從原免。桀犬吠堯,非無前喻,棄瑕蕩穢,列聖通規。有惡言不順,及邪謀惑計者,並從洗滌,一無所問。…」(『全唐文』より「唐高祖」)

 ここでは疲れも忘れ仕事に打ち込んでいるという喩えで使用されています。他にも多数の使用例が確認でき、かなりポピュラーな熟語であるようです。
 『釈迦三尊像光背銘文』でも「鬼前太后」が崩じ、すぐに「上宮法皇」が病に倒れるという状況が書かれており、その中で「皇后」は看病と共に公務も行う必要があったものであり、まさに「旰食」という比喩が適切であるように思われるわけです。
 「偏」を取り去って代用するというのは(取り去っても支障がないと判断できれば)よくある方法とも言えます。「倭」と「委」、「倒」と「至」、「俾」と「卑」などの例もあり(ただしこれらは人編ですが)、「旰」という少々なじみの薄い字ではなく「干」で代用したという可能性も考えられるところです。

 また、この銘文は「法興元卅(三十)一年…」という書き出しになっており、この「法興元」の「法興」については年号と考えられ、(「元」という字が付いているのは「元号」である、という一種の宣言と思われます)、「太后」、「王后」、「諸臣」など天子(皇帝)に直接関連する用語が書かれていることと併せ、この「上宮法皇」という人物が「元号」を発布する権能を有していたことを示唆するものであり、自らを「天子」の位置に置く権力構造を構築していたと考えられるものです。
 しかし、「聖徳太子」は推古天皇の「摂政」ではありましたが、「天皇」ではなかったのであり、自らを「天子」に擬したというようなことは、『書紀』や「聖徳太子」に関するどんな記録などを見ても書いてありません。そうすると結局、この文章の「上宮法皇」は「聖徳太子」とは別の人物であると考えざるを得ないと思われます。

 さらに、この「光背銘」と同様「道後温泉碑文」にも「法興」という年号が出て来ます。

『伊豫風土記』より
「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王 與惠慈法師及葛城臣 道遙夷與村 正観神井 歎世妙験 欲敍意 聊作碑文一首/惟夫 日月照於上 而不私 神井出於下 無不給 萬機所以妙應 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干壽国随華台 而開合 沐神井而(癒)疹 (言+巨)舛于落花池而化弱 窺望山岳之《山+巌》《山+愕》 反冀子平之能往 椿樹相《(蔭)》而穹窿 実想五百之張蓋 臨朝啼鳥而戯(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓彌葩以垂井 経過其下 可優遊 豈悟洪灌霄霄庭意與 才拙実慚七歩 後定(出か)君子 幸無蚩咲也」

 この「法興」年号はいわゆる「九州年号」の「別系統」年号とされていますが、全く別の場所の資料に同じ年号が使用されている、ということの意味は、これらが「同じ政治圏」の中に属していることを意味しており、しかもそれが「近畿王権」のものではないことが重大な意味を持っています。 
 つまり、これらの碑文などには「聖徳太子」ならぬ「X(エックス)」氏が描かれていると考えられます。この人物は『隋書』「道後温泉碑文」「釈迦三尊像光背銘」という性格も場所もその所以も全く違う三種の資料が一致して指し示している人物であるわけですから、実在の人物であることは間違いありません。これが『隋書』に言う「倭国王」であり、「阿毎多利思北孤」という人物であるわけですが、そのような人物が、『書紀』編纂時の「列島代表王権」である「新日本国王権」の系譜の中に存在していなかったという事は重大であり、いわゆる「聖徳太子」はこの期間に重なる人物として「作り上げられた」ものであり、「虚像」であると考えることができるのではないでしょうか。
 しかし、実際には「倭国王」「阿毎多利思北孤」が存在していたのであり、またその業績も不朽のものとして存在しているのです。


(この項の作成日 2011/01/24、最終更新 2017/01/03)

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「軍王」の歌と「万葉仮名」の成立

2018年06月02日 | 古代史

 以前『万葉集』に出てくる「軍王」が「雄略紀」に出てくる「昆支君」と同じであるという「思いつき」を書きましたが、このことは「雄略」の時代に「万葉歌」が歌われていた(つまり「万葉仮名」が使用されていた)こととなります。しかし、そもそも『万葉集』の冒頭は「雄略天皇」の歌ですから、その意味で不自然ではないでしょう。さらに、この解釈は「万葉仮名」の成立時期との関連で興味深いといえます。

 別稿ですでに「九州年号」(倭国年号)の「明要」年間に「万葉仮名」が公定されたと見たわけですが、この「明要」を初めとする「年号群」の内いくつかは「六十年遡上」すべきものと推察したものであり、この仮説による真の「明要年間」は五世紀後半(四八〇年代)と見たものですが、これらのことは「軍王」を「雄略朝期」つまり「五世紀後半」から「六世紀前半」と見て矛盾がないことを意味するものであり、やはり「軍王」と「昆支君」は同一人物とみる余地があるということと考えます。

 この「万葉仮名」が生み出されるようになる動機としては、当然一般民衆における情報・意志の伝達に対する要求の高まりであったと思われると同時にその基底として「漢文」に対する理解の上昇があったものと推量されます。「万葉仮名」は「漢字」で構成されており、「万葉仮名」の使いこなしのためには、漢字の「読み」とその持つ「意味」とが浸透することが必要です。
 漢字そのものはそれ以前からの中国や半島との交渉において多く流入していたものであり、「漢文」について読み書きが出来る層は一定数あったものと推量されますが、「倭の五王」時代の南朝との交渉や、その勢威を借りた形での国内征服行動などにおいて「漢字」「漢文」に対する理解や、理解に対する欲求も広がっていったものと思われます。
 このような中で「仏教」が「百済」から流入したわけであり、仏教に対する信仰が広まるにつれ、更に「漢字」に接する機会が増えた結果、「結縄刻木」という旧態依然の情報伝達法がそのような時代の趨勢と齟齬するようになっていったのは当然と思われます。このため大衆にも漢字を使用した意思の表示、伝達が可能となるような表記法が求められていたわけであり、「万葉仮名」は歴史的必然の結果としてこの時代に生まれたと見られるわけです。

 このようにして、日本語を表記する手段が模索されたわけですが、漢字の発音である「音」を利用して「表音文字」として利用することを考えついたものと思われ、そして「倭国王」の「勅」により、「発音表」と「漢和辞典」の製作が始まり、それが完成したのを記念して「明要」と改元したものと思われるわけです。
 「年次移動」の結果「四八一年」という年に「明要元年」は移動すると見たわけですが、この年次付近で「漢和辞典」(漢字の読みと意味が書かれているもの)が完成し、もう「結縄刻木」などする必要がなくなったものであり、そのことを記念して「明要」と改元したものと考えるわけですが、この「発音表」を作るとき編み出されたのが「万葉仮名」だったと思われるわけです。(「明要」という字義は「大事なことを明らかにする」という意味であり、「辞書」などに使われる形容詞に「明解」とか「要解」とかありますが、同義と思われます。)
 そのことを端的に示すのが現行『万葉集』であり、その冒頭の「雄略天皇」の詩であり、また「軍王」つまり「昆支君」の歌であったと思われるわけです。『万葉集』の歌の中に「雄略」の時代を遡上するものがないのは、「万葉仮名」の使用開始時期との関連からみると当然であり、それ以前には公定されたものとしては「なかった」ことを示すものと見られます。

 以前も述べましたが、『万葉集』など「万葉仮名」を使用した史料を見るとかなり難しい字が使用されていて、このような「万葉仮名」を一個人で完成させるのは非常に困難と考えられ、「倭国王」(「武」)が朝廷のインテリを集結させて作成させたものと思われます。
 この時出来た「漢和辞典」には後の「五十音表」のような「発音表」(万葉仮名によるもの)と共に、主要な漢字・漢語(特に仏教経典中に出てくる漢字・単語など)の読みと意味が書いてあるような形ではなかったかと思われ、これが完成し、人々にも示されたことにより、一般民衆でも自分の意志を示すのに「漢字」(万葉仮名)を使用することが可能となり、各種の文献が作成されていくこととなったものと思われます。(学校のようなものができた可能性もあります)

 この「万葉仮名」により、人々は「通信」(手紙など)をするようになり、その結果「結縄刻木」はもうする必要がなくなったのです。そして、文字成立以前から「口伝」して伝えられていた「歌謡」あるいは「神話」「伝承」の類を「仮名」(万葉仮名)を使って書き記すことが始められ、さらに「創始」されるものなども現れるなど、発展していったものと思われます。(日本神話の多くがこのとき書き留められたと思われるのは、そこに示された服装などが中国南北朝期のものであることからもいえると思われます)

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