古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大宝令」と「浄御原令」

2025年02月08日 | 古代史
 以前「釈奠」について書きました。そのとき「その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われる」と書きました。
 改めて言うと「釈奠」とは儒教の祭祀儀式の一つであり、その祭祀を行う対象として「先聖先師」というものがありました。初代皇帝「李淵」(高祖)の時代にはこの「先聖先師」として「周公」と「孔子」が選ばれていました。「高祖」は「周王朝」を立てた「周公」を尊崇してたと思われ、自身を「周公」に見立てた結果「祭祀」の対象をそれまでの「孔子」から変更したものと思われます。しかし「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔回」(孔子の弟子)となりました。これは「隋代」以前の「北斉(後斉)」と同じであったので「旧に復した」こととなります。
 これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものです。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。(「隋代」に「文帝」(高祖)により「大学」が廃止されていたもの)
 それが「永徽令」になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなりました。いわば「唐」の「高祖」の時代への揺り戻しといえます。
 さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔子、先師を顔回」とすることが「長孫無忌」などにより奏上されたものであり、「高宗」はこれを受け入れて「顕慶令」を公布します。ここでもう一度「太宗」の時代の古制に復したこととなります。そして、これがそれ以降定着したものです。
 「日本令」は「唐令」に準拠したとされていますが「浄御原令」も「大宝令」も全く失われておりかなりの部分不明ではあるものの、「大宝令」は「浄御原朝廷の制」を準正としたとされており(『続日本紀』による)、復元作業が行われている現在「大宝令」も「浄御原令」も通常は「永徽令」がその根拠令とされているようです。しかし以前考察したように現存している「養老律令」の「学令」には「釈奠」の祭祀の対象として「孔子」と「顔回」が選ばれており、これは「永徽令」とは食い違っています。
 
学令 釈奠条 凡大学国学。毎年春秋二仲之月上丁。『釈奠於先聖孔宣父』。其饌酒明衣所須。並用官物。

また『令集解』の「古記」においても同様の記述があります。

【学令 釈奠条】
釈奠於先聖孔宣父
…古記云。孔宣父。哀公作誄。且諡曰尼父。至漢高祖之曰宣父。…」

 これによっても祭祀の対象として「先聖孔宣父」とあり、「古記」でも同様であるので(「古記」は「大宝令」の注釈書ですから)「大宝令」の「学令」でも同様に「祭祀」は「先聖孔宣父」つまり「孔子」に対し行われていたこととなります。つまり「大宝令」そのものが「貞観令」あるいは「顕慶令」に準拠していたと考えるべきこととなるわけです。では「浄御原律令」ではどうであったかと言うことが問題になるでしょう。
 以前は「大宝令」と「浄御原令」とはそれほど違いはないのではないかと言われていましたが、最近の研究では両者の間には差がかなりあることが指摘されています。
 「浄御原令」の時代には条文も簡素であったものであり、「大宝令」が条文に「式」部分を含むものであったものが「浄御原令」ではそれがなく、別途「式」様の「詔」を出しているのが確認できます。

以下持統の「詔」です。

(六九一年)五年…
冬十月戊戌朔。…
乙巳。詔曰。凡先皇陵戸者置五戸以上。自餘王等有功者置三戸。若陵戸不足。以百姓充。兔其徭役。三年一替。

この条文に良く似たものが『延喜式』にあります。

凡山陵者。置陵戸五烟令守之。有功臣墓者。置墓戸三烟。其非陵墓戸。差点令守者。先取近陵墓戸充之。

この文は「大宝令」の以下の部分に該当するものです。

喪葬令 先皇陵条 凡先皇陵。置陵戸令守。非陵戸令守者。十年一替。兆域内。不得葬埋及耕牧樵採。

「延喜式」は文字通り「式」であり、これは「令」の施行細則を意味するものですが、上の「持統」の「詔」は一見してわかるように「式」としての「詔」と理解できます。そうすると「詔」では「非陵戸」以降の部分が言及されていないこととなり、「浄御原令」の条文として復元されるものは「非陵戸」以降の部分を除いた部分ではないかと推察され、この部分の有無が「大宝令」と「浄御原令」の差になっていると思われることとなります。
 つまり「浄御原令」は「式」部分をその「令」の中に含んでいないとともに「大宝令」として復元されたものと文章が異なると言えるわけです。
『続日本紀』では「大宝」と「建元」する時点で「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。

『続日本紀』
「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。『始停賜冠。易以位記。語在年代暦。』」

 しかし、『書紀』を見ると「六八九年」という年次に筑紫に対して「給送位記」されており、その後「六九一年」には宮廷の人たちに「位記」を授けています。

「(持統)三年」(六八九年)九月庚辰朔己丑条」「遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。給送位記。且監新城。」

「(持統)五年(六九一年)二月壬寅朔条」「…是日。授宮人位記。」

 これらの記事は『続日本紀』の記事とは明らかに齟齬するものであり、しかも、この記事以前には「位記」を授けるような「冠位」改正等の記事が見あたらないこともあり、この「位記」がどのような経緯で施行されるようになったのか不明となっています。
 中国では元来「官爵」の授与は同時に授与される「印綬」によって証明していたものです。これは後に「文書」である「告身」によるようになります。その延長線上に「位記」が存在するものであり、「位記」は「隋・唐」においては日常的に使用されるようになっていたことを考えると、「大宝年間」まで「位記」が採用されていなかったという『続日本紀』の記事には疑いが発生することとなります。つまり「倭国」が「遣隋使」「遣唐使」を送って「隋・唐」の制度導入を図っていた時期になぜ「位記」が採用されていないのかが不明となるでしょう。その意味では『書紀』の記事にはリアリティがあるといえます。この時代には「位記」が「印綬」に代わって使用されていたとして不思議ではないと思われるからです。
 「位記」が存在していたとすれば当然その書式も定まっていたこととなるでしょう。つまり「公式令」に表されたものがほぼその当時の「位記」の書式を示しているとみられます。その「公式令」の「奏授位記式条」によれば「六位以下」に冠位を授与する場合の書式は以下の通りです。

「太政官謹奏/本位姓名〈年若干其国其郡人〉今授其位/年月日/太政大臣位姓〈大納言加名。〉/式部卿位姓名」

 以上のように定められており、これによれば「日付」は後方に来ます。
 ところで「那須直韋提碑」にはその碑文に以下のように書かれています。

 「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜」

 この文章については、私見ではそれが「朝廷」からの「任命文書」に沿って書かれたものと理解しています。この任命を「栄誉」と考えたがゆえに「碑文」が書かれたとするならそこから直接引用して当然だからです。当然この文書の書式は任命元である「浄御原朝廷の制」(浄御原令)としての「位記」の書式に則ったものであったはずですから、その記述順序はその時点の『公式令』によったものとみるべきでしょう。
 この文章を見ると「日付」が先頭にありその後に任命する側である「浄御原朝廷」と「本位姓名」から「今授其位」と続きますが、これは以下に見る「評制」下の木簡とよく似ており、その意味でもこの時点の(「浄御原令」の)『公式令』の「書式」を表現しているとみるべきでしょう。
 たとえば「評」木簡の中で日付を記したものは全て先頭に来ています。一例を挙げます。

「甲午(六九四年か)九月十二日知田評阿具比里五木部皮嶋養米六斗」 (031 荷札集成-32(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区)

(奈文研木簡データベースよりピックアップしたもの)

 「評制」施行時期はあきらかに「浄御原朝廷の制」施行下を含んでいますから、この木簡の書式が「浄御原令」の何らかの「定め」に拠っていたことは確かと思われます。つまり「公式令」において「大宝令」と「浄御原令」は異なる内容であったこととなるでしょう。それを示すようにその後の「郡」木簡には日付が後ろに書かれたものがみられるようになります。(以下一例)

「美濃国山県郡郷〈〉三斗十月廿二日〈〉 」( 033 平城宮7-12775(木研23 平城宮第一次大極殿院西面築地回)

この木簡の書式も何からの定めに拠ったと考えれば基本は上に見た『大宝令』の『公式令』がその候補として上がるでしょう。
同様のものとして「多胡碑」では「干支」が日付に使用されていますが、「公式令」にほぼ合致しています。この碑文も大部分が公式文書の丸写しと思われますので「公式令」に合致しているのは当然と言えます。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」
 また上に見た「那須直韋提碑」では日付を表す年次が「永昌元年」と「唐」の「武則天」時代の年号が使用されています。しかし『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」の「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

「儀制令 公文条 凡公文応記年者。皆用年号。」

「凡公文応記年者。皆用年号。
釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 つまり「大宝令」では「公文」(公的文書を言うか)には「年号」を使用するようにとしているもののそれ以前にはそのような規定がないというわけです。
 この「碑文」は「公式文書」から引用したものと推定しているわけであり、そこには日付として「年号」が使用されており、しかも「唐」の年号が使用されているわけです。その意味でも「浄御原令」は異質と言えます。つまり「古記」の念頭には「浄御原令」が存在していないこととなりますが、それは「他王朝」のことであったからではないでしょうか。自分たちの前身ではないというわけであり、そのため例として上がっていないということではないかと思われるのです。
 「弘仁格式」にその名が見えないということも言われています。確かに「弘仁格式」の「序」を見ると「国法」の変遷を見ると「十七条憲法」に始まり、「近江令」の次に『大宝律令』「養老律令」となっています。

「弘仁格式序」
「…乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇條、国家制法自■始焉。降至天智天皇元年、制令廿二巻。世人所謂近江朝廷之令也。爰逮文武天皇大寶元年、贈太政大臣藤原朝臣不比等奉勅撰律六巻、令十一巻。養老二年、復同臣不比等奉勅更撰律令各為十巻。今行於世律令是也。…」
 
 これで見る限り「浄御原令」は平安の時代においてすでに学者達からは全く無視されているようであり、あたかも存在していなかったかの扱いです。これも「他王朝」の「律令」という間隔が彼等の時代までに形成されていたことが窺えます。
 また「治天下」と「御宇」の使用の差にも「浄御原令」と「大宝令」の差が現れているように思われます。
 「持統」の時代に「新羅」から来た「弔使」に対する「勅」の中に「治天下」が現れます。

(六八九年)…
五月癸丑朔甲戌。命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級飡金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔『難波宮治天下天皇』崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。翳飡金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於『近江宮治天下天皇』崩時。遣一吉飡金薩儒等奉弔。而今以級飡奉弔。亦遣前事。又新羅元來奏云。我國自日本遠皇祖代並舳不干楫奉仕之國。而今一艘亦乖故典也。…。

 この「詔」の中では「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」というように「天皇の統治」を示すものとして「治天下」という「用語」が使用されています。
 「治天下」は「天皇の統治」を表す用語ですが、『書紀』を子細に眺めると「古い時代」にしか現れません。「神代」にあり、その後「雄略」「顯宗」「敏達」と現れ、(この『持統紀』を除けば)最後は『孝徳紀』です。ただし、『孝徳紀』の場合は「詔」の中ではなく、「地の文」に現れます。
 それに対し同様の意義として「御宇」も見られます。『書紀』の中にも明らかに「八世紀」時点における「注」と考えられる表記以外には「舒明前紀」「仁徳前紀」「仲哀紀」で「御宇」の使用例がありますが、最後は(「治天下」同様)『孝徳紀』です。(ただし「詔」の中に現れるものです) 
 この『孝徳紀』の「詔」については「八世紀」時点における多大な「潤色」と「改定」が為されたものであるとする見解が多数であり、このことからこの「孝徳」時点で「御宇」という「用語法」が行われていたとは考えにくく、「治天下」という「地の文」の用語法が正しく時代を反映していると考えられます。例えば『古事記』は「推古」の時代までしかありませんが全て「治天下」で統一されています。
 中国の史書の出現例も同様の傾向を示し「治天下」は古典的用法であるのに対して「御宇」は「隋」以降一般化した用法であると考えられます。
 『大宝令』以降に「御宇」の例が見られることとこの持統の詔において「治天下」が使用されているということは「浄御原律令」時点では「御宇」という使用法がまだ発生していないことを示すものであり、「大宝令」と「浄御原令」の差がここにも現れているといえます。
 つまり「浄御原令」は「大宝令」と異なり、「顕慶令」や「貞観令」に準拠していないことが推察されるわけです。しかし「永徽令」はその時点で新しくかなり整った形式を持っていたと考えられるため古典的と思われる「浄御原令」の準拠法令としてはふさわしくないように思われ、そうするとさらに時代的に遡上した「武徳令」がその準拠法令として考えられることとなるでしょう。この「武徳令」はそれ以前の「開皇令(律令)」を範としたとされていますから、かなり古典的である可能性があるでしょう。
 既に『日本書紀』の「日本」と『日本書紀』編纂段階の「日本」とは別の国であると指摘しました。後者は「日本」と書いて「やまと」と読むものであり、前者は「日本」と書いて少なくとも「やまと」とは読まず、推測によれば「ちくし」と呼んだかあるいは「ひのもと」と呼んだかです。当然そこで造られた「律令」は「継受関係」にはないということになります。
 「難波日本国」の律令は「難波日本国」の設立時点以降の産物であり、その内容構成が相当程度新しいものであったであろうと考えられるのに対して、「筑紫日本国」の律令は遙かそれ以前から作られていたと推察されます。
 「筑紫日本国」は「倭国王朝」であり、東方統治のため難波に進出する以前から「律令」が造られ運用されていたと考えられますから必然的にその律令は古典的であるはずであり、その構成はかなりシンプルなものであったと思われます。これらを念頭において考えてみると「近江令」はその内容が新しいと思われるのに対して「浄御原令」は「持統」の王朝が「筑紫日本国」であったと思われることを含んで考えるとかなり「古い」内容構成ではなかったかと思われることになります。そして上に見た数々の徴証はまさにそのことを明証するものであり、天智という「難波日本国」の王が作成公布したという「近江令」は「大宝律令」に直結する性格があるのに対して「浄御原令」はそれらとは関係なく存在していたとみられることとなります。これらはそもそも「別の王朝」の律令なのです。

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